olatissimo

この島で生まれた息子はなんと中学生。ほぼ育児日記です。

『ギリシア人の物語』 才能豊かな国際派古代人

2018-03-14 | 読書メモ
ちょっとギリシア人とローマ人のことが気になって
塩野さんの本を読んでみました。


・・・無知をさらけ出しちゃいますけど、
ギリシアの時代とローマの時代って、
 けっこう重なってたのねー!

知らんかったわー!(汗

だって。

ギリシアの次にローマを習うじゃない?
ギリシアが終わってからローマ
っていうイメージだった。
(年号見てない証拠)

しかもね、ローマの本読んでても、
ギリシアのことなんてほとんど出てこなかったよ?
けっこう近場なのに、こんなに接点無いって、あり得るの?!
カルタゴとはめっちゃドンパチやってんのに。

(鉄砲無い時代にドンパチて)


「ローマ人の物語」は以前読んだのだけど、
ギリシア関係で記憶に残っていることなんて
家庭教師にギリシア人奴隷を使ってたとか、
子弟をギリシアに留学させるとかいう話くらい。

そんなの、
ギリシアの時代はとうの昔に終わっていて、
栄華の残り香が少しある程度だと思ってた…

(時代が下ると、多分そんな感じだと思うんだけど、
 最初の200年くらいはギリシアも元気な時代)



その戸惑いは、「ギリシア人の物語」の
この一節が解決してくれました。


ローマの元老院議員三人による最盛期のギリシア視察という
紀元前453年当時の接触の後も、ギリシアとローマは
関係と呼ぶに値する関係は持たずに二世紀が過ぎる

地理的にも隣り合う...にもかかわらず。

なぜそうなったのかだが、簡単に言ってしまえば、
ギリシア人にとって当時のローマは
 相手にするに値する存在ではなかった
からである。

 ギリシア本土のポリスが興隆し衰退するまでの全ての歳月、
 ローマはギリシア人から無視され続けた
のである。

 卑俗な言い方をすれば鼻も引っかけられなかったのだが、
これはもうローマ人にしてみれば、
「ローマは一日にして成らず」とでも言わないことには
 立つ瀬は無いことになる。



やっぱりかーーー!!


ローマ人、なんかお気の毒・・・



それにしても、
ギリシア人とローマ人の性質の違い、面白い。
全然違うんだけど、どちらも個性が強い

そして、どちらも賢い
方向性も手腕も違うけど。
だから面白い。



ギリシア人は短距離走者であり、
 ローマ人は長距離走者であったのだ。

ギリシア人にはまったく相手にされなかったローマ人だが
元老院議員3人で成る視察団を送った後も
必要に迫られるたびに、先行しているギリシア人のやり方には
注意を払い続けていたように思う。
何を見習うべきか、何は見習わないほうがよいかと考えながら。

 そしてイノヴェーションの塊のようなギリシア民族にして
唯一イノヴェートできなかった「あること」
その一事の重要性に気付き、それを現実化していくことによって、
ローマはギリシアをも飲み込む広大な帝国の創造に成功する。




古代ギリシア人を形容する言葉が
「イノヴェーションの塊」だとか、
独立心には満ちていても協調の精神などは薬にしたくもない」だとか、
本当になんていうか、古代のイメージじゃない。

本国を追い出されても
海外資産があるから別に困らないだとか、
他国で数年を過ごし、
その間に新しいルートを開拓して商売繁盛させて
ほとぼりが冷めた頃に
前より良い状態で戻ってくるだとか、
現代のお金持ちの行動みたい。

能力のある人はたくましい・・・



(カエサル・ポンペイウスの会戦以降の20年、
 ローマの内戦の、主たる会戦の舞台となったギリシアは
 荒れ果て、人口の流出が続いた。)

人工の流出というよりは、
頭脳の流出としたほうが適切な人口減であった。
 ギリシア人がどこでも生活していける能力の持ち主
であったこともこの一因となった。

まず、ギリシア語自体が、地中海世界の国際語になっている。

加えて、ローマ人が教養科目と考えた
哲学、論理学、修辞学、歴史、数学、地理、天文学は、
もともとからしてギリシアの「学」である。
カエサルが、これらを教える教師には、
民族に関係なくローマ市民権を与えると決めていたので、
その特典を活用する者が増大したのだ。

また、ローマまで行かなくても、近くのロードス島で講座を開けば、
ローマからの留学生が押し寄せてくるのだった。

建築と造形美術に至っては、ギリシア人の独壇場と言って良かった。
需要はローマ人、供給はギリシア人の分業形式が
最も見事な果実を結ぶのはこの分野をおいて他に無い。
医学もまた、古代ではギリシア人の専業としてよい分野に入る。

商才に長じていれば、地中海世界の海港都市はすべて
彼らに活躍の舞台を提供する。
船乗りとしてもギリシア人は優れていたので、
地中海に限らず、紅海からインド洋にまで進出していた。

古代のギリシア人は、現代のイギリス人以上に
故国を離れても生活の手段に困る恐れの無い人々であったのだ。

しかし、これを放置しては、ギリシア本国の空洞化は避けられない。
そのようなことになっては、
 ギリシア文化を尊重するローマ指導者階級にとっては
 気分的にも耐えられない
ことであったろう。
(「ローマ人の物語Ⅵ」より)



・・・・。


ギリシア人、すごーーい!!


この「技」と「学」を武器に
 世界のどこででも生きていく、グローバル感覚


息子が憧れるのも、わかる。

ていうか、憧れて、真似して!
できることならそうなってほしい。



ギリシア人はやはり短距離走者だったのだ。
 ただし、今に至るまで破られていない世界記録の保持者ではあったが。


そういえば、数年前のギリシア経済危機のときも
「古代ギリシアへの憧憬から
心情的にギリシアを見捨てられないヨーロッパ」
という記事をよく見かけた気がする。

2000年経った今もなお、
祖先の栄光に助けられるギリシア。

古代ギリシア人、やっぱりすごーーーい!!




そしてローマ人。
最後までギリシア文化に片思いだったのね(笑)

ローマ指導者階級は、いくらギリシア文化が好きでも
そうでもない大衆に気を遣ったみたいで・・・


ローマ人は、ギリシア人の演劇趣向を、
 軟弱な性向として軽蔑
していたので、
ローマには上演ごとに組み立てられる木造の劇場しかなかった。

それを、ギリシアで見事な石造りの半円劇場を見たポンペイウスが、
ローマにも建造しようと考えた。
 ただし、軟弱と非難されるのを避けるために・・・
 女神ヴィーナスに捧げられた小ぶりな神殿を付け足すことにする。

(「ローマ人の物語Ⅳ」より)


軟弱、なんだ(笑)

奴隷を使った殺し合いの見世物を好む民族からしたら
そうなのかもね・・・。






おまけ。ちょっとした「へーー」。

ギリシア人は肉体を鍛えること自体が好きなのだ。

パレストラ(体育訓練場)は、
少年専用ではなく大人も通う人が多いので、
世代を超えた市民の接触の場にもなっていたのである。

パレストラでは全員が裸体か、
覆ったとしても半裸体の姿で
肉体の鍛錬に励むのがならいになっていた。
ギリシア彫刻は、芸術上の理由によって裸体で表現された
というのは結果論にすぎない。
「いつものまま」を映し出したら、「芸術」になったのである。

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