吾が見る先に(agamirusakini)

自分が見る先には何があるのだろうと思う事が多くなってきた。振り返りながら、自分の道を探しながら歩いていきたいと思う。

大正15年の御柱祭

2015年09月18日 | Weblog

来年が御柱祭の年になるが、大正15年の御柱祭は、我が家にとっては大変だったらしい。

曽祖父である一太郎が秘書をやっていた政治家小川平吉が、

犬養毅(政友会総統になる前)を我が家の二階に招き、御柱祭を見物したのである。

父は当時3歳であったので、あまり記憶はなかったようだが写真には写っている。

小川射山は小川平吉の事である。犬飼木堂先生御席の左・子供を抱えているのが犬養毅である。

小川平吉はその隣、平吉の隣には奥さんも座っている。

小川射山先生御席と書いてある左に丸坊主頭の子供がいる。それが父・日出男である。

曽祖父・一太郎は写真下、烏帽子をかぶった子供の右にいる。その隣が祖父・自由也である。

この2階で、40年後位に明法学院の合宿で生徒たちが寝起きしたり勉強したりしている。

中庭にも騎馬行列が入り、騎馬行列恒例の草履取りの踊りが催されている。

この当時は、後ろに離れ(書院)があった。数年後には祖父のアイロンの不始末で焼けてしまう事になる。

今は見慣れている枯山水の庭を作り、様相が一変することとなっていく。

この当時の新聞が残っている。この新聞をネタに、父は一冊の本を作っている。

結構読むと当時の風俗がわかっておもしろい。そのうちに機会があったら掲載してみたい。

いまはもう家も壊してしまって無いが、壊す前の写真が残っているので載せておく。

 


中洲の記憶

2015年09月12日 | Weblog

エビス〇板店と読める写真。幟には祝 出征 三村順治君とある。

後列の左から4番目に祖母直江・6番目に祖父自由也(じゅうや)が写っている。

僕の記憶にあるエビス屋は、お菓子屋だったように思う。

  12月31日の夜中上社へ2年参りに行くときに、

            ここでフクトクというお菓子を買うのが楽しみだった。

丸いうす焼きせんべい(大社せんべい)のようなものを三角に折り、中に小さな玩具が入っていた記憶がある。

  僕の家の近くと北斗神社の下に1軒づつあったような・・・。定かではない。

下の写真には、後列右1番目に祖母が写っている。

 帝国在郷軍人会という看板が掲げてあるが、【僕の通っていた中洲小学校の様である。】と

見たときに思ったが、どうも右端に少し見える文字から《中洲村役場》ではないかと思う。

下の写真は、間違いなく中洲小学校だと思う。

校庭から教務室や図書室に入っていく入口の前だろう。

                      brass bandがあったようだ。

僕の祖母や祖父が写っているから、結構この写真で見る人が見れば

            顔のわかる人がいるのではないか?