吾が見る先に(agamirusakini)

自分が見る先には何があるのだろうと思う事が多くなってきた。振り返りながら、自分の道を探しながら歩いていきたいと思う。

中洲村の戦時

2015年08月25日 | Weblog

写真を整理しながら、戦後を考えていた。

ブログやホームページでも掲載しているが、

僕の父は昭和20年5月25日渋谷で空襲を経験し、

8月5日にあの湯の花トンネル列車銃撃事件にも遭遇している。

湯の花トンネルでは寸でのところで、生き残る事が出来たという。

写真は慰問袋づくりをしている祖母をはじめとした、

中洲村の愛国婦人会の人たちの様子を写したものである。

皆どんな思いでいたのであろう・・・。何かの資料になればいいと思っている。

僕の叔父も特攻隊に志願し、訓練を受けたが特攻当日に終戦となり

  中洲に帰ったそうである。帰ってくるときは、恥ずかしくて

隠れるようにしてきたという話を聞いている。

         そして軍隊での無理がたたったのか、25歳でこの世を去った。

なかなか素敵な叔父だったそうである。会ってみたかったと思う。

  人生は時として残酷である・・・。


峠入口バス停脇

2015年08月18日 | Weblog

茅野から前宮前・高部を通り・守矢資料館を過ぎて

西沢川を渡ると、峠入口のバス停がある。

余談ではあるが、僕の小さい頃西沢川は《天井川》と呼ばれていた。

今は工事をして低くしてしまったが、昔は道路の上を川が流れていたのだ。

残念ながらその写真を探したが無いので、何とも歯がゆい。

御柱の時の写真に、その橋の上から見物する人たちが見えるものがあったような・・。

県道であるこの道は年々交通量が増え、大型のトラックなどが通るのに

ぎりぎりになったので壊されて、改修されたとか・・。

よくこの土手に登って、イタドリやグミ(桑の実)・土筆や芹・よもぎ等を

取りにいったものだ。そんな懐かしいものは今はほとんどない。

          そろそろ本題に戻ろう。

そのバス停の脇に、新しい塀と土留めの石が積まれている。

そこに、道路に向かって碑が建っている。

これは先日高祖父彌平治に関係するもので、《守矢翁頌徳碑》という。

           彌平治は鹿乙として鹿肉納入最後の人であったという。

  浄瑠璃曲をよくやって、門人も300人余りいたそうである。

その彌平治が七十歳の時、門人たちがこの碑を建てその徳をたたえたそうである。

末尾にあるように、撰文は小川平吉(政治家で曽祖父がこの人の秘書をしていた)。

書は中村不折(洋画家であり書家である。そして祖母の叔父にあたる)が書いている。

よく拓本を取りに来る人が絶えなかったようだ。

親父たちが夏帰ると、学生らしき人が拓本をとらせてほしいと来たという。

しばらく敷地の中にあったが、これも一里塚と同様修復していただけてある。

不折氏の字を使って彫られたものは、我が家にはいくつもあるが。

  ぼくの大好きな文字は《天壌無窮》。これは僕の祖父が彫ったものだが、

 ー 天地とともに永遠に極まりなく続く様 ーなんとも雄大な言葉だと思う。

なんとも、その道の凄い人たちがこの場所で生きていたと思うと、

             感動を覚えざるを得ない。

来年は御柱祭がある。前宮から上社本社への道にあるので、機会があればご覧ください。

 


我が家の屋敷神

2015年08月13日 | Weblog

古い文献に、などというと「おっ!」と思うが

僕の手元にあるのは、大正六年の信陽新聞の切り抜きである。

ここに特集が組まれ、僕の家の歴史が書かれている。

僕の高祖父『彌平治』という人の事が書いてある。

その中に我が家の屋敷神についての記述がある。

【又 守矢氏の屋敷(やしき)神(かみ)を鹿(しか)乙(おと)明神(みょうじん)と呼べるが

 其(その)祭神(さいじん)を詳(つまびら)かにせざれどそのみ贄(にえ)の鹿(しか)に関係あるは

 推考(すいこう)するに難(かた)からず。

 鎌倉時代の上社の諷物(もの)『諸神(しょしん)勧(かん)請段(だん)』ちうにも

 所載(しょさい)あれば其(その)由緒(ゆいしょ)の古きを證(しょう)すべし。】

     韻を踏んだ唱がその後に続いている。

古い写真を整理しているときに、それらしい祠の写真を見つけた。

この手の事で世話になっている方に知らせると、早速ホームページに掲載されていた。

http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo/sikaoto.htm (ご覧ください)

昇り旗は(初午)となっているので、どうも稲荷を祀っているような感じ?

商売をやっていたこともあり、そういった風習があったのだろうと漠然と思った。

ただこの土地には〇〇牧といって、同じ系譜を持つ苗字の集まりがあったと記憶している。

   それの牧の集まりが、初午だったように覚えている。

上社には神馬の対の像もある。それがどう繋がるのかはわからないが、興味のあることではある。

いずれにしろ、我が家の屋敷神が祀られているのは天狗山。

僕はその場所に行ったこともないのだが、行ってみたいと思う。

 


鹿食免

2015年08月08日 | Weblog

諏訪大社上社の近くに、諏訪市博物館がある。

ここに父の名前で寄託しているものがある。

上社のお札などを売っているところで目にすることもある物の版木だ。

昔々我が家の先祖が上社の大政所という職についていた時に、使っていた物らしい。

それを「鹿食免」という。

      

蔵を片付けているときに発見したという事だ。

これ以外に何枚かの版木があったという事だが、燃やしてしまったらしい。

まあ何という事だろうというしかない!!

昔仏教が伝来した時、肉を食べるのは禁止という事になった。

しかしそうは言っても、上社の神事に欠かせないのが鹿である。

しかも肉食という文化は連綿と続いてきたものなので、逃げ場を作ったのである。

このお札を持つことで肉を食べるのを許されるという、口実である。

箸袋に刷り、その箸袋に入れた箸で肉を食べれば許されたのである。

その後甲州一帯の鹿肉・上社の神事で使う鹿肉の全てが我が家を経由したのである。

それと同時にこの鹿食免を全国にいる肉を食べたい人たちを救済するかのように、

津々浦々まで諏訪神社が出来ていく事になったのである・・・・と、僕は思っている。

 


きもちの問題

2015年08月07日 | Weblog

気持ちを改めてみるために、レイアウトを変えました。

カバー写真は以前我が家のあった所に、倒されておいてあった石柱(一里塚?)を

市にお願いして、新たにできた歩道に建てていただいた時の写真です。

      

     

旧杖突街道の入り口になります。バス停は《峠入口》となっています。

  

 この上に行くと、藤森輝信氏の建てた高過庵と泥船があります。

  あまり上手に撮れていません・・。

http://matome.naver.jp/odai/2139015961027337701

藤森氏は守矢資料館を建てたことでも知られています。

守矢神長官の現当主守矢早苗さんと同級生という事で頼まれたとか・・・聞いてます。

郷里に帰り、友人たちと飲み喋り。昔を思い出しました。

自分のルーツはここにあるのだと。家は無くなろうと、僕はここに居たんだと!

ここで育って、泣いて笑って怒って遊んだんだよ。

        強くそう思った次第 

     緑なすふるさとは 離れてこそなお 我がふるさと。  翔  

 

 

 

 


最近の事

2015年08月03日 | Weblog

八月一日に51年ぶりに小学校の同級会に参加した。

その席で、東村山に住む友達に「もうブログはやめたのか?」と

聞かれてしまった。

ホームページを二つ・ブログを二つ・Facebookを三つ抱えて

アップアップしている自分がいたので、自分のブログを

ストップしていたのだが・・・・。

これを楽しみにしてくれている読者がいたことを痛感させられた。

Facebookは個人情報を公開しているがために、不都合もある。

これとFacebookの記事をうまく使い分けるのが、

いいのかなと思った。

もう一つ、ブログは写真のサイズを加工してフォルダーに取り込む手間がある。

Facebookはそのまま加工もせずに、画像を添付することが出来るのも

最近は面倒くさがり屋になった僕にマッチしたとも言えるのだ・・!

いずれにしろ、やはりこちらはこちらで何とかしなくてはと思う。

写真は上社の大欅。昔はよくこの周りを瘤を伝いながら回った。

そんな記憶を思い出させてくれる一日を過ごせた故郷。

草いきれ 遊びし友と 語る古里。  翔