吾が見る先に(agamirusakini)

自分が見る先には何があるのだろうと思う事が多くなってきた。振り返りながら、自分の道を探しながら歩いていきたいと思う。

家紋の事

2016年07月28日 | Weblog

2016.6.26NHKスペシャルにて、古代史ミステリー「“御柱”~最後の“縄文王国」が放送された。

それからしばらくは知人からいろいろ聞かれることが多くなった。

これを機会に少し諏訪の事など調べてみようかという気になったので、

手始めに「何故神長官は左に十の字の紋なのか?」を考えてみた。

よく考えたら、これだって難しいじゃないか・・・・。

ただ昔から少し思うところもあったので、薩摩守忠度・島津・忍者(甲賀三郎)などの

手元にあるものとネット辞書を使ってみた。

これが正しいかは誰にもわからないが、何となく昔思っていた事がスッと入ってきたので

良しとすることにした。下が我が家の蔵の写真で、家紋が見える。

これは守矢神長官の紋と一緒である。

 

で、この〇に左十字の紋の僕の推理はこうなっている。

 昔から家紋について思っていたことがある。それは我が家の紋はキリシタンに関係あるのではないかという事である。何故ならキリシタンが十字を切るとき、それを前から見たら左にはねるだろうと思った事が頭から離れなかったからだ。しかし我が家がキリシタンであったとは考えづらい。神棚があり仏壇もある家だが、キリストにつながる様なものは思いつかない。では丸に十の字の家紋に関係するものはないかと調べてみると、十字紋に関しての記述は一つあった。

「建久三年(1197)将軍家(頼朝)執権大江広元より祭典下知状を賜った。頼朝が平氏を討った時、薩摩守忠度の季子が信濃国州羽・守屋山山中の蕨萱というところに草庵をむすんで隠れていた。頼眞はこれを迎えて子とし、自分の娘をその妻とした。これから、十文字の下に庵を描き幕の紋とした。』ここから丸に十字の紋が現れたと考えてみたが、もともと忠度は平氏であるから紋は十字ではないはずである。薩摩守という言葉に惑わされていることに気づいた。なのに幕の紋に十文字+庵をつかったのだから、すでにこの時神長は十字紋を使っていたという事が考えられないだろうか。しかも筆勢の左にはねる十字をである。

そもそも十字紋はどういった性格のものであろうかと調べてみた。どうも十字紋は世界的に呪符となっており、こうしたことから十文字は災厄をはらい福を招くものと僑 じられて家紋とされていたようである。中国では蒸餅(むしもち)を食べる前に、その上で十字を切るという風習があった。それが日本に伝わって、鎌倉時代には狩りの収穫に山の神・狩猟神を祭る矢口餅などの折に盛んに行われていたという。『吾妻鏡』にも「十字」と書いて「むしもち」と読む例があり、各地で食物・音物に十字を切ることが 習慣となっていたらしい。ちなみに、忍者が九字を切ったり、安倍清明判や籠目などが魔除けに用いられるのも十字と同様の呪符だといえる。

つまり呪符説が正しいものであろうとするのが定説となっていることから考えると、家紋を決める時に神長がシャーマン的な存在であり、呪術を得意とする所からこの紋を用いたのではないかと思うのだ。また洩矢神が山の神・狩猟の神として祀られていることにも、共通点を見出したのではないか。何故左にはねているかという事については、見当違いではあったもののやはり冒頭でも書いたように、人が十字を切るときのしぐさを前から見ると左にはねるからでないだろうか。つまり十字を切られている方から見ると、その十字は左にはねて切られているという事になる。正面から家紋を見ると、それは自分にむかって切られている十字を見ているようになるのだ。シャーマンであった神長がみんなにむかって、常に災厄をはらい福を招く縁起のいい呪符を放っている行為に他ならないのだと結論付けたのだが・・いかがなものだろうか。