吾が見る先に(agamirusakini)

自分が見る先には何があるのだろうと思う事が多くなってきた。振り返りながら、自分の道を探しながら歩いていきたいと思う。

我が家の花果達

2014年04月26日 | Weblog

今年のテラスのイチゴの苗の力強さは

       いままでで一番

茎も伸びて、生気に満ちあふれている感じ

                         苺の粒も大きいですよ

            これは、期待できます

薔薇たちもギーサボアのつぼみは大きくなってきました

          トレジャートローブもつぼみが目立ってきました   が

  ニュードンはいまいちです

       今年もあまり期待できそうにありません

                   でもその分クレマチスが頑張っていますから・・・・・・

テラスはやっとこさっとこ、こでまりが花開きました。

これは何の花かわかりませんが、クランベリーの鉢に咲いてました。

暖かくなって、やっとのびのびしてきたようです。

       玄関には仲間が増えました

ネズミと兎です

            鉢植えは初めて僕がしてみました。

   マリーゴールドやペチュニアを植え込んであります  が

                 入れ過ぎだとダメ出しされましたけど

     咲いて・増えてくるとそうだなと思いますが、植える時は

 これも勉強です・・・・と、慰めながら    自分をほめてるんですが・・。

                    次   頑張りますよ

    兎が抱えているのは、ソーラーライトです。

          まだ完全充電できていないので、暗くなっても光りません

  早く光ったところを見たいものです

      花でいっぱいの玄関で、アトリエ ラパンに来る人たちを迎えたいので

   

 

 


なかなか難しい

2014年04月23日 | Weblog

甲府湯村温泉 旅館明治。

なぜなのか

  ネットで調べればすぐにわかったはずなのに

                            漏れていたようでした

      先日館主さんから連絡をいただきました。

残念ながら、先代の館主さんには聞けない状態で

         現館主さんにはこのラベルの記憶が無いそうです。

  《私が、湯村に帰ってきたとき(30年前)のマッチは、
          
             青地に白ぬきの旅館明治の文字が入ったものでした。
 
   たぶん別館を建てたとき(50年前)に変わったか、それ以前のものと思われます。》
 
                         というお返事でした。
  
               時代が過ぎての事は、なかなか難しいものです。
 
  やはり、50~60年前というのが時期ではないでしょうか
 

山中温泉聴泉閣

2014年04月22日 | Weblog

やはりネットでいろいろ調べているうちに

         見つけたのが《聴泉閣》さんの情報でした。

  結構古い絵葉書や写真などを販売しているサイトはありましたが

     やっと、それらしきものを見つけました。

どうも2004年に高齢者専用マンションとして、オープンしている。

          という情報を見つけ、そこにメールしようと思いましたが、

実は諏訪にも同様のケースがあり、連絡をまだいただけない状態なので

                            躊躇したんです

     どこかに何か手掛かりはないかと思い、見ているうちに

山中温泉の昔を書いているブログ《BINBO MAGAZINE》でした。

 矢も盾もたまらず、問い合わせのメールをしてしまいました。

     今朝がた、丁寧なご連絡をいただきました。

                                              すこしピンボケですみません。

      以下がその内容になります。

《拝見致しましたマッチのラベルは、「聴泉閣」のものに間違いはありません。
 昭和24年刊行の電話帳には、この旅館が同じ電話番号で掲載されています。
 ちなみに、電話番号は5番、7番と調理場専用の電話が137番という意味です。
 設立時期はハッキリしませんが、終戦前後ではないかと推測されます。
 場所は拙宅のすぐ近くにあり、子ども心にもよく見慣れた旅館施設でした。

 母体は旧温泉旅館のオーナーたちと大同工業という企業の協同設立だったのが、
 その後はどうい経緯か、経営権は大同工業側に移管しました。

 山中温泉の繁栄時期には本館である河鹿荘とともに、隆盛を極めましたが、
 地元観光産業の斜陽化に伴い、平成初期には廃館。
 2004年には高齢者専用施設「はるる」としてリニューアル・オープン致しました。》

やはり昭和20年頃からの物なのでしょう。

  しかしいつも思うのですが、ラベルとはいえこうして今調べていると

      その当時の歴史の息使いを感じます。

衰退しながら、再生をするというパワーはすごいものです。

            《空青く力強く生きた時代をまた生かす》

 

 

 

 


花たちは

2014年04月21日 | Weblog

昨日も寒かったです

我が家の花たちは、やっと何とかなってきました。

今年のあの大雪の影響で、なかなかいい形にはなりませんが

キャロライン・ジャスミン。

     この花の前でしばらく立ち止まってみてください。 いい香りがします。

 玄関に立っても、薫りが流れて来ますよ

椿も大輪を咲かせました。

直径で15cmはしています。

遅咲きですかね?

いま一番楽しみは、やはり無花果。

ちょっとピンぼけ

    全部で15個の実が付いていますが、はたして大きくなるのでしょうか

  去年は一つも出来ませんでしたから・・・・・・。

育てているラズベリー・ブルーベリー・苺と、楽しみは続きそうですが、

                これからが正念場というところでしょう

       去年は苺だけでしたからね   と

   女房の目が、期待に膨れています    が   がむばらねば    

 


丸登カメラ店

2014年04月18日 | Weblog

今日もラベルの時代の連絡がありました

ラベルは丸登カメラ店さんの物です。

  本当に本業に関係ないところで、大変申し訳なく思っています。

丸登カメラ店さんから昭和35年頃というお返事をいただきました。

ホームページ《日出男百科》→《種々雑多》→《マッチのラベル》→《職》

                 の中でこの他にも掲載しています。

       父は写真の現像を自分でやっていましたから、

      薬品をこういったところから手に入れていたのかもしれません

僕の小さい頃は自宅の書斎を暗室にして、

  現像機を使い・現像液・定着液・水洗い・乾燥とやっていました。

         他にも色々とやっていたようで、多趣味だったんですね


丹後峯山・木津温泉

2014年04月16日 | Weblog

まずは木津の えびすや旅館さんです。

『マッチの時代でございますが
 当時の館主 大女将とも他界しており
 はっきりとした年代は分かりかねますが
 昭和30年後半~40年頃ではないかと推測いたします。

 昭和40年といいますと松本清張先生が当館で逗留され
 執筆活動をされた時代でもございます。

 小説「Dの複合」の中に
 当時の木津温泉の様子なども書かれており
 その中のいくつかは今も残っております。』

                          というお返事をいただきました

いや~父は推理小説大好きで、よく読んでいましたが

   まさか松本清張先生と同じ宿に泊まっていたなんて   ロマンです

もう一つは峯山の旅館和久傳さん。

  和久傳さんのホームページの『和久傳ものがたり』に

  明治3年、丹後峰山町で和久屋傳衛門が始めた旅館。

  それが、今日の和久傳のはじまりであり、名前の由来です。

  同地方は江戸時代から丹後縮緬(ちりめん)で栄え、和久傳は京都などから訪れる商人たちの宿や、

  会合などの場として用いられ、峰山が誇る老舗旅館として百年以上も続きました。

                                 とありました。

『弊社社長に尋ねましたところ、昭和35、6年あたりまで おくばりしていたようですが
 いつからなのかは分からないとのことでございました。
 (峰山31番というのがダイヤル式になる前の電話番号とのことでした)』

                               というお返事でした。

おなじ時期に行っていたのか、少しずれているのかははっきりしない

     ひょっとすると、祖父が行きそのあと父が行ったということも

                  考えられるかもしれないが・・・・そこは闇の中。

             祖父が行き父が行きしか丹後の地    季語なし

丹後ちりめんのお店のマッチなどもあるので、そちらの時代とも合わせて見たいと

                    頑張っているところです

 


昭和な風景

2014年04月15日 | Weblog

我が家の近くに

  菜の花畑がある。

なんともきれいな一面の黄色

後ろに3軒並んでいる茶色の外壁の家    なんとも昭和じゃないですか

        ちゃんと住んでらっしゃいます。

 のどかな田園風景でしょう

                懐かしき平屋に昭和の風吹く菜花畑

もう一つは

やはり我が家の近くにある

      明治学院中学校・明治学院東村山高等学校です。

  桜の時期にはこの通りは桜の古木が花を咲かせ、見事です

             その敷地内に建つこの建物が

     元駐日アメリカ大使であるエドウィン・О・ライシャワーの生家「ライシャワー館」です。

                    なかなか素敵な建物ですよ。

                古き時代良き時代生きここに居る

    身の回りに様々な時代の息吹が、生き生きとしています

   さて、明日からの一週間は忙しいので引き締めて行こうと思う今日は、

                     懐かしの昭和の風景をご覧いただきました


佐寿中商店

2014年04月14日 | Weblog

僕のホームページのマッチのラベルは、 《宿》・《職》・《食》・《その他》に分かれています。

      いま《宿》がやっと調べ終わるかな位のペースです

なかなか前に進まないのは、ちょっと横道に外れることが多いからです

 今日はその寄り道での事です。

  たまに《宿》を調べるのが止まっているとき

                《食》とか《職》とかをのぞき見しているのですが

        先週の10日に

この二枚のラベルの《佐寿中商店》をネットで調べていました。

     すると 信濃電材株式会社の会社沿革に《佐寿中商店》の文字を見つけました。

         明治34年  創始者 宮坂伝平翁が佐寿中商店自転車部として
                  平野村(現岡谷市)小井川にて開業大正中期より
                  電気機器卸業(主としてナショナル製品)を始める。

         昭和34年8月  電器部門を独立、信濃ナショナル製品販売(株)を
                    設立家庭電気及び電器工事材料を卸を行う。

    『やった』と思いで 後先考えずにいつものように、この会社のお問い合わせから

     ラベルの画像を添付して、教えてほしいとお願いしましたら

                    なんと、今日丁寧なお返事をいただきました

   そのお返事から、このラベルの会社は信濃電材株式会社の

          オーナー会社のサスナカではないことがわかりました。

     佐寿中商店の2代目の弟さんが創業者である諏訪市の喫茶店兼電器屋も

       同じ名前「佐寿中商店」としてあったそうで、このマッチラベルは、

       こちらの「佐寿中商店」のものだったようです。

             肝心の年代はというと、信濃電材株式会社の会長さんの話では、

    50~60年前との事で、昭和20年代末~30年代のものと思われるということでした。

  本当に皆さん真剣に調べて下さって、本当にありがとうとしか言いようがありません。

       思いもかけぬところで、収穫がありました

                         たまの道草もいいものだと思った、今日でした

 


霞山荘

2014年04月13日 | Weblog

まずスタートは、下のラベル。

このラベルからは、三城荘前というバス停があることがわかったが

   どうもそこには三城荘は無いようだったので、

ご連絡は霞山荘へという文字を頼りに

                 ネットで検索・検索・・・・・。

すると《じゅんちゃんおやじのぶろぐ》というものがヒット。諏訪市在住の方のブログでした。

  そこには、『戦後は皇室のご利用もあり、県内外に知られる旅館となったが

       平成9年に廃業し、平成16年9月18日に取り壊された』と

         書いてありました。ちょうど取り壊しの当日に偶然居合わせ

    霞山荘の写真を何枚か撮り、掲載されていました。

ですので残念ですが、このラベルのだいたいの年代を調べることはできませんでした。

  さらに、2005年の松本の公式ホームページには

《1988年 その4     霞山荘(入山辺・陛下のお宿)

昭和63年は、昭和天皇が病の床に就かれた年。テレビで陛下の血圧や脈拍などが定時にテロップで流れていました。陛下や皇族の方が松本を訪れる時の宿は、この霞山荘と東山観光ホテルでした。霞山荘は、カタクラが所有する温泉旅館ですが、現在は、閉鎖されています。(10月)》

         という記載を見つけただけで、あとは那須塩原の情報ばかり

           やはりどこに霞山荘の記事がありません

   三城荘の事も知りたかったのですが、あきらめるしかありません

                  これもお蔵入りってやつです・・・・。

でも霞山荘の写真が見れただけでも、ラッキーでした。

       父も同じものを見ていたと思うと、感傷的になります。

                    じゅんちゃんおやじさん、ありがとうございました。

 

 


金星館

2014年04月12日 | Weblog

今日の話題は

    南熱海網代の金星館。

          実際にはもうこの旅館は廃業していました。

     旅行案内所に電話をかけて見たところ

    電話に出た方が、昭和40年代まではやっていたと教えてくれました。

                僕の調べたものは

       十菱 麟が1961年1月5日に霞ヶ関書房から発行した、

       【AZの金銭征服】という雑誌にこの書いた次の文です。

汽車が網代についたのは六時ごろ。海が鳴っている。例によって、交通公社などの厄介にもならず、気まぐれの一人旅行だから、待ち人を探す手間もいらず、小用をすましてから、駅の前をぶらぶらしていると、声がかかる。
 「お客さま、宿はどこかにお決まりですか?」
 「いや別に予約はないが、名前がいいから金星館にでもしようと思っている」
 「キンセイ? キンボシですか?」
 「ああ、キンボシか」
 お金に関する本を書いているのだから、縁起よしと思ったのだが、キンボシという読みかたは私をいささかがっかりさせた。クロボシだのシロボシだの、相撲を連想させたからだ。
 その番頭さんは、網代も東にはずれた「白とり荘」の人であった。よろしかろうと案内をたのむと、愛想よく私の鞄を自転車の荷台にのせて、先に立った。
 海岸ぞいに、暗い岸壁の道を歩く。
 たたきつける波はなかなか烈しく、道の一部にはしぶきがかかっていた。私たちは、その潮しぶきを避けるようにして、波打ちぎわから少し離れた「白とり荘」についた。
 好い名まえである。海の青、空の藍に染まずただよう白鳥の、清らかなにこ毛に包まれて、ひと夜を明かすのもいいではないか。
 私はとにかく憩いたのである。

           結局この十菱氏は《金星館》ではなく 《白とり荘》に泊まるのだが、

    この雑誌の発行が昭和36年であることから、この年あたりは確実に営業していたのだ。

     これと旅行案内所の人が話してくれたことを合わせると

     やはり戦後から昭和40年頃までの間にラベルは作られているようである。