さて、連載第11回目……なんですけど、本文が長すぎて入りきらなかったため、今回もまた変なところで>>続く。っていうことになってるってことで、よろしくですm(_ _)m
そんで、今回はさらに、ここの前文についてもスペースがないので、↓の関連動画(?)でも貼って終わりにしたいと思います
(※18禁、というほどではない気がするのですが、一応その手の映像もちらと混ざってるっぽいので、一応ご視聴の際にはご注意を)
(このあたりの文章書いてる時には、まだ解散してなかったんですよ!!)
『ジュテーム・モワ・ノン・プリュ』のほうは、超有名曲ですが、動画の中の男性はゲイだったりします(^^;)
わたし、この映画見てないんですけど、ジェーン・バーキンさん演じるジョニーが男の子っぽいので、ゲイだけど、それで惹かれた……みたいなことらしいんですよね。そんな共通点(?)があると思わなかったので、ちょっとびっくりしましたww
それではまた~!!
ピアノと薔薇の日々。-【11】-
(いや、それよりも今はマキのことだ。俺はイズミのことからはもう立ち直ってるんだ。彼女が今では指折りのヴァイオリニストで、自分の夢を叶え、世界中でコンサートを開いてようと、学生時代からつきあってたあいつの旦那が、今はロンドン響で常任指揮者として短い棒を振ってようと関係ない……)
もしかしたら、妬み、という気持ちは今も多少残ってはいるかもしれない。君貴はピアノを諦めてからは、暫くクラシック音楽からは遠ざかっていた。とはいえその時、イズミは結局あのアンディ・ウォーカーというニヤケ野郎ともすぐ別れるに違いないと確信していたし――(あんなビッチ、どうせろくなヴァイオリニストになりやしない)と想像し、自分の惨めな心を慰めていた。
だが、そうした心の傷がある程度癒えたように感じた頃、初めて知ったのが、イズミがヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクールで一位に輝いたということであり、ウォーカーはといえば、新進気鋭の指揮者として注目されはじめた……ということだったのである。君貴はマサチューセッツ工科大に入学し、すでに卒業間近でもあったが、やはり自分を負け犬のように感じ、悔しい思いが胸の内を焦がすのを感じたものである。
『君貴はさ、なんでそんなにそのマキって子が処女だったってことに拘るのさ。聞いた話によると、女の処女性に拘る男っていうのは、自分の性の経験値が低くて恥をかきたくない場合が多いってよく言うじゃないか。じゃなかったらヴァージンっていうのは、本人にとってはただのコンプレックス、男にとってはただの厄介事だって、一般的にはそういう話みたいだけどね』
このあと、君貴は自分がレオンになんて答えたのだったか、はっきり覚えていない。ただその後の会話の流れで、『二十三歳でロスト・ヴァージンっていうのは、全世界的に見た場合、早いのかな。それとも遅いほうなのかな』とレオンに聞かれ、『さあな。だが、俺があの子の父親なら、二十三歳でも全然早いと思うだろうよ』と答えたことは覚えているのだが……。
(つまり、そういうことなのか?俺はイズミと寝たあと、彼女の口から処女を失ったのは十五の時だと聞かされ――正直、複雑な気持ちになった。しかも相手は、家に出入りしていた家庭教師。『なんだ、そいつは。ただの変態なんじゃないのか』と言ったら、イズミは怒ってたっけ。『素敵な人だったのよ!』とかなんとか言って。けど、俺はその『素敵な人』とやらと何故別れることになったのかまでは、彼女に聞かなかった。ようするに、その年上の大学生とやらは厄介事がイヤで、尻込みして逃げだしただけなんじゃないかと思ったが、そんなことはとても言える雰囲気じゃなかったからな……)
ここまで考えた時、君貴ば漠然と、問題の輪郭線が見えてきた気がした。失恋の傷を癒す夏休みの間、君貴のことをヨーロッパ旅行に連れだしたのは、二年上の声楽科の先輩で、名前をクリストフ・シュタイナーといった。彼は本物の金持ちで、家のほうは代々金融業を営んでいるドイツ人だった。金融業といっても金貸しではなく投資家ということであり、クリストフの父親自身はケルンの銀行家だった。だが、彼は二十一歳の時に祖父から一生食べていくのに困らないくらいの財産をすでに譲り受けていたのである。
『クリスの夢は、将来テノール歌手になることなんだよね?』
『さあ、どうなんだろうな』
ふたりは同じ寮に暮らしていたので、専攻している科のほうは違ったとはいえ――君貴はふたつ上のこの先輩から、随分よく面倒を見てもらっていた。ウィーンへ来て二週間後、君貴は早速とばかりホームシックにかかったが、泣いていた彼のことを慰めて、迷路のような旧市街など、あちこち観光案内してくれたのも彼だった。
『何分、僕には祖父の残してくれた遺産があるもんでね。全世界的に見ていいテノール歌手が少ない昨今、もしどこかの歌劇場からでもデビューできた場合……あちこちの演目に引っ張りダコで嬉しい反面、一生の間自分の喉の調子を神経質に気にしなきゃならなかったりなんだり、結構大変だよね。果たしてそれが、僕にとって本当に真実幸福なことだと言えるのかどうか……』
君貴はクリスのこの返答に、一瞬ぽかんとした。音楽院入学後、君貴はワーグナーのオペラ、『トリスタンとイゾルデ』で、彼がメーロト役を演じているところを見た。そしてクリスは――主人公のトリスタンを圧倒的力量によって完璧に食っていたのである。そんな彼が、テノール歌手になることが自分の幸福とは限らないと考えるだなんて……君貴は何か不思議な気がした。
『まあ、君貴の言いたいことはわかるよ。ここは世界中から超一流の音楽家になるべく、若い野心に燃えた連中がひしめいてるところだからね。だから、ガツガツ感というか、ギスギス感というのが物凄い。僕は今三年だけど、自分の水とか、食べるもののことは今からすごく注意してる。ほら、ミネラル・ウォーターに下剤が混ざってたとか、冗談ごとでなく、ほんとに起きるから。そういう人間の舞台裏の醜さのことを思うと……なんか、色々考えちゃうんだよ。そういう人間の醜さに、僕はこの先もずっと耐えていけるのかなとか、そういうことをね』
『だけど、クリスの才能はすごいよ。声楽について専門に学んだことがあるわけでない俺でも、あるいは普段オペラなんか聴かない素人が聴いても――クリスは別格だと思う。そのくらい抜きん出た才能を世の人々に与えないだなんて、世界的損失だと思うよ』
このあと、クリスは一瞬驚いた顔をすると、『ありがとう』と微笑んで言った。彼は本の虫でもあったので、音楽院の敷地内にある図書館へ行けば、時間のある時はいつでも大抵そこにいた。
君貴は同年代の人間にそうした感情をあまり抱いたことがないのだが、クリストフ・シュタイナーに対しては『心から尊敬できる、本当にすごい人だ』といったように感じていたものである。彼は本の虫だったので、君貴が何かわからないことがあったり、あるいは悩みを相談したりすると――『こういう本を読むといい』とか、『君貴の悩みの答えとして、ゲーテはこう言ってる』といったように、必ず彼が感心するような、具体的な言葉を与えてくれた。
また、クリストフは寮長の立場を担っていたが、寮生同士の喧嘩を仲裁したりと、誰もが彼に対し、一目置いているような人物でもあったのである。ゆえに、最初は「寮長の責任」ということもあって、クリストフは自分のことを何かと気にかけ、世話を焼いてくれるのだろうと思っていた。
そして、君貴が如月泉との恋愛で傷心していた時、「ふたりでヨーロッパを一周しないか?」と誘ってくれたのもクリスだった。君貴は一も二もなく彼の誘いに飛びついた。日本へは帰りたくなかったし、また帰ったところで、顔も見たくない姉がそこにおり、母はといえば、自分のピアノの成長具合を調べるのと同時、あれこれ小言を言い続けるに決まっているからだ。
この、クリストフとふたりで回ったヨーロッパ旅行の体験は、その後、君貴の一生を変えた。何より、ピアニストになることばかりが人生ではない、といったように彼の意識を少しずつ変えていったのだ。きっかけは、バルセロナでサグラダ・ファミリアを直に見たことだった。他の国の教会でも、君貴はそこから魂の耳を通して音楽を聴いたが、その音量のもっとも大きかったのが、サグラダ・ファミリアだったのである。
(俺は、この教会の奥から聴こえてくる音楽のためなら、死んでもいい。だが、それがもし無理なら、こうした建物の礎を造って、ただ無名のまま死にたい……)
ふたりは、ドイツ、オランダ、ベルギー、フランス、スペイン、ポルトガル……といったように、ユーレイルによって旅していたのだが、旅も終わりに近づいた頃、もう一度パリへ向かった。そして、君貴はセーヌ川をクルーズしていた時、クリスからゲイであること、また、自分のことをずっと好きだった――といったように告白されていたのである。
『たぶん、そういう下心があったから、こんなヨーロッパ旅行に連れだしたり、今までも何かと面倒を見てくれたのか……なんて、君貴はがっかりするかもしれない。でも、そうじゃないんだ。その部分は本当に、心からの友情によってだ。だけど、僕たちはこの一か月近くずっと一緒にいただろ?だから、僕はもうこれ以上自分を偽ることは出来ないって、そんなふうに思ったんだ』
『俺も、クリスのことが好きだよ』
『いや、僕が言ってるのは、そういう意味じゃなく……』
このあと、クルーズ船の甲板で、他のカップルがしているみたいに、君貴はクリスにキスした。そして、ふたりはその日の夜のうちに結ばれた。
――というのが、君貴が元は異性愛者だったのが、同性愛に変わった簡単な経緯といっていい。クリスは、君貴と恋人同士になった約七年後、エイズに倒れて亡くなり、彼個人の財産の多くを君貴に残した。クリスは結局、テノール歌手になることはなく音楽院を卒業し、ケルンへ戻ると父親と同じ職業に就いていた。君貴はアメリカのボストンにおり、そうしょっちゅう会える関係ではなかったが、ふたりはその後も長く恋人関係を続けた。
とはいえ、クリスが自分以外の男とも「遊び」で肉体交渉を持っていることは、君貴も承知していた。そのことで喧嘩したこともある。けれど、クリスは手紙で最後に、君貴のことをもっとも愛していたこと、また、ふたりでした最初のヨーロッパ旅行こそ、自分にとって人生最良の日々だったことを伝えてきたのである。そして、その想いが決して「嘘でない証しに」、君貴のことを指名して、彼の財産のほとんどを最愛の恋人に遺産として残したのだった。
(確かに、俺はクリスのことを愛していた。だが、今こうなってみると……もしかして俺は単に逃げたのか?おふくろ、姉の美夏、初めて本格的に交際したイズミと、女という生き物はとかく自分の思いどおりにならない。だがもちろん、俺はクリスが信頼に足る人物で、女が俺に示してくれたことのない、忠心の真心を自分に持ってくれていると思えばこそ――彼と愛しあうようになった。そこにはなんの疑問も後悔もない。だが、ようするに俺がこんなにもマキのことに拘るのは……マキと愛しあえば愛しあうほど、俺の中の歪んだ女に対するイメージ像が回復するからだとは、今まで考えてみたこともなかった)
こんな時、クリスならばそれこそ、自分に対し、適切なアドヴァイスをしてくれただろうに……そう思い、君貴は自嘲の笑みを浮かべた。君貴は、初めての性体験の相手である如月泉のことを、結構長い間しつこく恨んでいた記憶がある。それは彼女とよりを戻したいとか、そうした思いが無意識の内にも潜んでのことではない。ただ、自分を振って嫌な目に合わせた女が、それに見合う不幸に遭遇すればいいと思ってのことだった。たとえば、アンディ・ウォーカーにも他に誰か美人のソプラノ歌手かバレエダンサーといった恋人が出来、イズミが捨てられる――といったことでもあれば、君貴としてはウォーカーのほうに対してはなんの恨みもない。彼がロンドン響で、長い指揮棒で指揮してようが、短い指揮棒で指揮してようが、君貴の関知するところではないのである。
だが、イズミが学生時代からずっとウォーカーとの愛を温め続け、ヴァイオリニストとしても成功し、一流の指揮者である男と結婚した上、二児の子供にも恵まれたという事実を前にする時……陰湿なようだがやはり、如月泉のコンサートに人が五分の一も入っていないとか、あるいはコンサートの感想で、専門家に甚だしくこきおろされるとか――そうした記事がネットのどこかに転がっていたとすれば、間違いなく君貴は狂喜したことだろう。
(つまり、今度は俺がこれを、マキに対してやるってことだ。ゲイの恋人がいるのに、そのことについて何も知らされていなかったという意味で、彼女には一切非はない。それなのに突然ひどい現実を教えられ、俺のことを恨むだろうな。このパリ滞在の数日のことに関してもそうだ。『最初からそのつもりだったんなら、毎晩セックスしたりとか、あんた一体どういうつもりよ!?』って話だもんな……)
だが、君貴としては、最後の最後でもしかしたら、レオンが気を変えてくれるかもしれないと願っていたのだ。『そこまでのことはやっぱり可哀想だから、よしておくよ。だけど、それが嫌なら君貴が自分の口ではっきりそう言って、あの子と別れろよ』――まったくそのとおりではある。けれど、君貴はやはりマキのことを前にして、自分のことをすっかり信頼しきっている純粋な眼差しと出会うと、喉から何も言葉が出てこなくなってしまうのだった。
(『愛しているが、別れてくれ』とでも言うか?ようはこの場合、別れるにしても、マキがいかに傷つかないかってことが大切なんだ。この約半年の間の俺との交際を、美しい思い出という形で残すっていうのがたぶん、マキにとっては一番大切なことだと思うからな……)
だが結局、そんな言葉を自分が口に出して言う勇気のないのが問題だ――と、君貴がくよくよ苦悩し続けていた時のことだった。彼のスーツの内ポケットで、携帯が震えた。レオンからだった。
『君貴っ!今おまえ、一体どこにいるんだよ!?早くマキって子を連れて、エンディミオン・クラブまで来いよ。まさかおまえ、このままあの子を日本に強制帰国させるつもりじゃないだろうな!?ここまで来てそんなこと、僕は絶対許さないぞっ!!』
物凄い剣幕でそう怒鳴られ、君貴はレオンに気づかれないように、深い溜息を着いた。脳裏に、ヴェルディの『怒りの日』が微かに流れはじめる。
「わかったよ。これから、マキを連れてそっちへ行く。ああ、俺なら大丈夫だ。もうそっちにはカールも来てるんだろ?今の俺にとっては、あいつだけが救世主にも近いからな」
『何言ってんだよ。そりゃ一応僕も、カールから話を聞くことには聞いたよ。けど、それが一体なんだってのさ。むしろ僕は、ますますおまえのしたことが許し難くなってきたよ。僕と一緒にいった三つ星レストランに、あの娘のことも連れていくなんてさっ。それも、モリスのとこ連れていってドレスアップまでさせてからだなんてねっ。あーもうほんと、絶対絶対許せないっ!!』
ここで横から、『ほほほ。ごめんなさいねえ、キミタカ。お酒の力もあって、ついつるっと舌が滑っちゃったのよお』と、上機嫌なカールの声が聞こえる。
『わかったかい、君貴!?この裏切り者がおまえの救世主ってことだよ。メシアどころかただのユダだってことが、これでよくわかったろ?とにかくもう逃げらんないと思って、早くエンディミオンまでやって来なっ!!』
『おまえ、日本で言うところのヤンキーが焼き入れてやるって、息巻いてる時みたいだぞ』
『なんだってえ!?』
『なんでもないよ。キリストはこれから、ゴルゴタの処刑場まで十字架を背負って向かう予定だから、まあ、首を洗って待ってろ』
『それはこっちのセリフ……』
君貴は、レオンの言葉の途中で電話を切った。どうせモンマルトルのエンディミオン・クラブへ行けば、顔と顔を合わせることになるのだ。この場で長電話してやりあっても、ただの時間の無駄になるだけだ。
君貴が寝室を出ると、そこではマキがホテルのバスローブを着た格好で、会社の従業員や友達にと買ったお土産の品をベッドいっぱいに並べているところだった。そして彼女は今、ルーヴルで自分用に買った、何枚もの名画のポストカードを見ている……マキは何かの展覧会が美術館であるたび、そういったポストカードを買ってずっと集めているということだった。
「おまえ、人の土産物ばっかり買って、自分のものは大して買わないんだものな」
君貴はマキの隣に座ると、彼女の細い腰を抱いて、髪の毛の中にキスした。こんなことももう出来ないのだと思うと――君貴は何か無性に寂しかった。
「いいのよ、べつに。会社の人に買ったお菓子のいくつかは、自分も一緒に食べることになるってわかってるし……何より、これ以上荷物が増えても困るもの」
「そっか……マキ、なんか悪いんだけどさ、この服に着替えてもらえるか?」
そう言って、君貴はカールがモリスのサロンに持ってきた、紙袋のひとつをマキに手渡した。紙袋には『Vivienne Westwood』と名前が入っているが、中を見ると、上質な手触りのスーツが一揃い入っている。
「これ、もしかして……タキシード?」
「ああ。これから男だけのカウントダウン・パーティがあるんだ。マキは男装したって女だってはっきりわかるけど、一応礼儀上な」
「変な人」と、何も知らないマキは無邪気に笑っていた。「べつに、『モン・シェール・アムール』でピアノ弾いてた時は、これと大体似たような格好してたからいいけど……まあ、あの店の制服はこんな高級なブランド物と違って、ずっと安っぽい仕立てだったけどね」
「…………………」
――君貴は良心が痛んだ。実際のところ彼は今、キリストに罪はないと認めながらもイエスを十字架につけるべくユダヤ人に売った、ポンテオ・ピラトのような心持ちだったのである。
(いや、違うな。ピラトはカールの奴だ。『ジーザス・クライスト・スーパースター』でもし歌ったとしたら、あいつこそまさにハマリ役じゃないか)
なんにせよ、君貴は覚悟を決めた。そして、マキがバスルームで着替えて戻ってくると――彼は一瞬言葉を失いそうになった。
「綺麗だよ、マキ。いや、違うか。この場合は格好いいとか決まってるとか……とにかく、クールだ」
「そう?わたし、君貴さんのお友達に気に入ってもらえるかどうかっていうのが、すっごく不安なんだけど……だって他の人はみんな、英語とかフランス語なんかで話すんでしょう?本当に大丈夫なの?」
君貴の反応が、モリスのサロンでグッチのドレス姿を見た時以上に――マキの気のせいでなければ、熱っぽいものであるような気がして、なんだか彼女としては不思議な気がした。
そして実際のところ、君貴ははっきり欲情するものさえ感じて、頬を赤らめてすらいたのである。
「まあ、その……大丈夫だよ、たぶん。とにかく、そろそろ一緒に行こう」
君貴はタクシーの中で、何度もマキの髪の中にキスしたり、体に密着して離れなかった。一度など、太腿の間に手を入れようとしてきたので、マキは「ちょっと!」と、恋人の体を押しのけなくてはならないほどだった。
タクシーの運転手は、こんなイチャイチャを見慣れすぎているのだろうか。ただ、ガムをクチャクチャ噛んで、眼瞼下垂気味の目でバックミラーを時折ちらと見るだけだ。
モンマルトルにあるエンディミオン・クラブは、ゲイの男性だけが出入りできる、完全会員制クラブだった。また、会員規則が厳しく、ここで見聞きしたことを情報として外に流すなどすると、場合によっては会員資格を抹消され、二度と出入り禁止となる。
簡単にいえば、普段はゲイの男性が相手を見つけるためのバーが主体であり、男娼によるサービスも請け負っているため、時にはお忍びで有名モデルや俳優などもやって来るという、そのような場所であった。だが、この日は大晦日ということもあり、クラブのほうは全体として解放感に溢れているといった雰囲気だった。
また、今日は会員一名につき、ひとりであれば同伴者が許されるということで、クラブのほうは大勢のゲイ男性で溢れ、非常に賑わっていたといえる。
「マキは、お酒は飲まないんだもんな」
「え、ええ。でも、シャンパンくらいなら……」
シャンパン・グラスをのせて、ハンサムなボーイが歩いてくるのを見、マキは(こういう時、『シルヴ・プレ?』とでも言えばいいのかしら?)と、迷ってしまった。
「そうか。じゃ、今取ってくるから待ってろよ」
君貴が仕立てのいいスーツの男たちの群れをかき分けて、バーのほうへ向かう後ろ姿を見送り――壁際のほうまで後退すると、マキは彼を待つことにした。
男同士の集まり、といったように聞いていたとはいえ……マキは正直面食らっていた。何故といって、ロココ様式なのかバロック様式なのか、マキには見分けがつかなかったとはいえ、そうした椅子やソファに座っている男性同士が、明らかにディープキスとわかるやり方でキスしていたり、激しく抱きあっていたりと――目のやり場に困ったマキは、飛び交うフランス語の間に身を置くうち、落ち着かない気分になってきた。
(あ、これ、ダフト・パンクかしら……)
フランスの音楽といえば、マキはセルジュ・ゲンズブールやジェーン・バーキン、ダフト・パンクくらいしか知らない。それまでは、フランス語の歌詞であることはわかっても、誰の歌かまではわからなかった。ゆえに、『ワン・モア・タイム』がかかるのを聞いて、なんとなく少しだけ嬉しくなる。
そしてマキが、君貴が自分の元へ戻ってくるまでの間――頭の中でも『ワン・モア・タイム』のサビの部分を繰り返していた時のことだった。隣から突然、お尻のあたりを掴む男の手が現れて、ギョッとしたのである。
「ちょっ……!」
「デゾレ(失礼)」
マキが隣の人物を見上げると、彼――背の高い、金髪碧眼の、結構なハンサム――は、すぐ彼女の体から離れていった。もし自分のほうからも乗ってくるようだったら、フリーだと判断されていたということなのだろうか?
(えっ!?まさかとは思うけど、ここってそういう場所なの?)
マキはだんだん、頭が混乱してきた。この、クラブのようになっているあやしい空間から一歩外に出たとすれば――そこは、高級ホテルのロビーのようになっていて、中世の王侯貴族の城館内でもあるかのような豪奢な雰囲気である。
「あっ、僕たちの可愛い子羊が出てきたよ」
そう言ったのは、階段の上から階下の様子を眺めていたレオンである。彼は今日、自分がモデルになったこともある、エルメスの濃紺のスーツを着ていた。カールは彼に出会った瞬間、「あらまあ。また惚れ直しちゃったじゃないの」などと褒めていたものである。
「なんだか、ちょっと混乱してるみたいね。もしかして男と間違われて、ナンパされちゃったりしたのかしら」
「あ~あ。こんなこと、もうよそう、レオン。とにかく俺は、新年になり次第すぐに帰るぞ」
バーでシャンパン・グラスを貰ってくるでもなく、君貴はすぐクラブのほうから抜け出ていた。代わりにレオンがそちらへ向かう予定だったのだが、マキが何故かすぐ、ドアの外のほうへ出てきてしまったのである。
「ふう~ん。写真で見るより可愛いね。けどまあ、ああいう格好をしててもやっぱり女だなって思うのは、僕らが最初からそうとわかってるからなんだろうか?」
「そうねえ。でもあたしだったら、『ここにいるってことは絶対男ってことよねえ』と思って、ちょっと手を出そうとしちゃうと思うな」
ロビーに出ているソファや袖椅子などは、すべて気のおけるゲイ仲間同士のグループか、恋人同士で埋まっている。他の人々は一塊になって立ち話をし、談笑している様子だった。
マキは君貴の姿を探して、もう一度クラブ内に入ってみたり、また出てきたりといったことを繰り返し――ロビーのほうへ戻ってくると、そこでもやはりきょろきょろ首を左右に振っては、しきりと誰かを探しているのがわかる仕種をしていた。
「確かに、あれは忠実なメス犬の行動ってやつだね。訳がわからないなりに、自分の御主人さまを探してるんだろうな。健気な子だね」
君貴はマーブル大理石の柱の影に隠れて、それでも時折カールの横に立ち、マキの様子を観察した。おかしな話、確かに彼は今、一生懸命ご主人さまを探す愛犬の姿に胸を打たれ、一刻も早く彼女の前に姿を現したくて堪らないといった心境だったのである。
廊下の片隅にある柱時計に目をやると、現在、11時45分である。(あと十五分……)と、君貴は祈るような気持ちで、時計の秒針が音もさせず、過ぎていくのを見守っていた。
「けど、僕も優しいよね。あんな子、男に間違われてレイプされちゃえっていうふうにすることも出来たのに――こんな程度の生ぬるいやり方で手を打とうだなんてさ」
「あら。そんなことしたって、複数の男に襲われたにしても下のズボンやパンティを脱がされた段階で、みんな興醒めしてどっか行っちゃうんじゃない?」
「甘いよ。ゲイなんて一口に言っても、ペニスを取ってる奴だっているからね。いわゆるオカマっていうのとは違うんだ。そういう性のない状態であることを至上とする主義というのかな。自分が両性具有的であることが、自分の性の状態として一番しっくりくるって人もいるからね。あと、すっかりその気になってるケダモノが、イチモツがないくらいであっさり手を引くと思うかい?女にだってアナルはあるわけだから、やっぱりやることは同じだよ」
「そうねえ。あたしはいわゆるオカマだけど、アレはないよりはあったほうがいいわねえ。そういえば君貴は、あの子のあっちのほうは開発してるの?」
(あ~、もうやめてくれ!)と思い、君貴は呆れたように両手で顔を覆った。いつもなら君貴も、彼らとこうした下品な会話をしては酒を飲み、げらげら笑うといったところではあるのだが。
「してないよ、そんなこと。変態だと思われて、軽蔑されたくないからな」
君貴のこの言葉に、レオンの嫉妬メーターが、再び激しく震えだす。
「へえ、そうなんだ。確かにね、あの子はヴァージンで清らかなんだろうから、変なセックス・プレイなんかしたらびっくりしちゃうだろうね。おフェラもなし、アナル・セックスもなしってことは、おまえにとってあの子のヴァギナはそんなにもいいってことなわけ!?」
「あ~もう、こんなところでそんな破廉恥な話はやめろ!あと、俺は気づいたことがあるんだ。そのことは、おまえにもあとでゆっくり話すよ。それより、やっぱりこんなことはやめよう。このまま、マキにはいい思い出だけを持ってパリからは帰ってもらいたい。そしたら、俺はもう二度とマキには会わないよ。それでいいだろう?」
「何調子のいいこと言ってんだよ!ほんともう、アッタマに来るっ!!」
そう言ってレオンは、階段を急いで駆け下りていった。もう次期十二時であり、クラブのほうからDJが、「10(dix・ディス)、9(neuf・ヌフ)、8(huit・ユイットゥ)、7(sept・セットゥ)……」といったように、カウントダウンを開始する声が聞こえる。
ロビーのほうは十二時が近づくにつれ、さらに人で溢れ返るようになっていた。マキはてっきり君貴が誰か、友人とでも顔を合わせ、どこかで話でもしているのだろう――次第に、何かそんなふうに思いはじめ、ただ壁の花として、ロビーの一番端のほうで黙って待つことにしていたのである。
ところが、カウントダウンが最後、「3(trois・トロワ)、2(deux・ドゥ)、1(un・アン)……ボナネ(Bonne année・新年おめでとう)!!」といったように終わった瞬間のことだった。近くにいた背の高い男が、マキの肩に手をかけると、彼女のことを抱き竦めようとしたのだ。見ると、周りでは人々が全員二人組みになって、新年おめでとうのキスを交わしあっている。
(いっ、いやっ!!……)
マキが抵抗しようとした時のことだった。レオンがその男との間に割って入り――代わりに、彼女の唇にキスした。もうひとりの頭を刈り上げた男のほうでは、「なんだ、相手がいたのか」といったように、その場から去ってゆく。
その上、レオンはマキの体をなかなか離そうとしなかった。マキとしてはあまりに突然のことで驚いたというのと、相手が映画のスクリーンから抜けでてきたような美青年だったことで……彼が舌を入れようとしてきた時、ようやくのことでレオンの体を押し戻していたのだった。
「へえ。べつに男だったら誰でもいいってわけじゃないんだ?君貴は確か、君に対してそういうメス犬呼ばわりしてたことがあるけど」
金髪に、ノルウェーのフィヨルドを思わせるような、澄んだ青い瞳――そのような美青年を目の前にして、マキは戸惑っていた。しかも、彼は日本語が驚くほど上手だった。そのアンバランスさと、言われた言葉の内容とが、マキの中でなかなか合致しなかったためだろう。彼女は何を言い返すでもなく、ただ黙っていることしか出来なかった。
「今のは、ただの間接キスだよ。君だって君貴といつも、同じことを何回となくしてるんだろ?」
「えっ!?えっと……」
マキはやはり、事情がまるで飲み込めなかった。君貴が紹介したいと言っていた友人というのは、もしかして目の前にいるこの美青年のことだったのだろうか?
「わたし、君貴さんのこと探してるんですけど……誰か、仲のいいお友達と話し込んでたりするのかなと思って」
「あんたさ、今の僕の話聞いてた!?ようするにあんたが自分で恋人だと思ってる男はゲイなわけ!!それで、僕はもう君貴と五年以上……あ、もう六年になるのかな。とにかくそのくらい長くつきあってる。で、僕らはほとんど隠し事なしに、お互いのことをなんでも話す。だから、あんたのことも大体聞いた。僕はね、今の今まで、あいつが男と一夜限りの関係を結んだりするのはすべて許してきたよ。だけど、あんたは女だ。それで、君貴の奴は本当はゲイとも知らずに、のほほーんと今の今までつきあってきたわけだ。僕はもう、今度という今度こそは許せないとあいつに言った。でも君貴は、あんたにゲイだなんて自分の口から言うことは出来ないっていう。だから今日、あんたはここにいるんだ。これで僕の言ってる意味わかった!?」
「えっ!?でも、君貴さんは……」
レオンに言われた言葉自体、マキはやはり、十分意味が飲み込めていなかった。実は事はこういうことだった。レオン本人はこの時気づいてなかったにせよ、天使のように美しい美貌の青年に、君貴は自分の恋人だの、彼はゲイだのまくしたてられても――マキは何か冗談を言われているようにしか感じられなかったのである。
もちろん、君貴という名前は珍しいので、目の前の美青年が人違いをしているとは、流石にマキも思わない。かといって、レオンがあまりに美しいがゆえに……マキとしては彼がほんの少しでも傷ついたり、嫌な思いをするだろう質問はすることが出来なかったのだ。それこそ、本当に天使に悪いような気がして。
「君貴、言ってたよ。君がヴァージンだったから、自分には責任を取る必要があると思うって。だったら、一体この僕はどうなるんだよって問い詰めてやった。ここのところ、僕はあいつとあんたのことで喧嘩ばっかりしてる。一度は絶対別れるって約束したのに、あんたの顔を見たら可哀想になって切り出せなかったとかって言う。わかる!?あいつはあんたと僕を天秤にかけて、僕とは別れられないって判断してるんだよ。別れる、捨てるとした絶対あんたのほうだってね」
「…………………」
ここまで言われても、マキが黙ったままでいるため、レオンはさらに説明を試みた。完膚なきまでに自分とこの女の差をはっきりわからせてやる、とも思った。
「そもそもあんた、最初からおかしいと思わなかったわけ?君貴は酔ってて、あんたが燕尾服みたいなクラブの制服を着てたから男と間違えたんだって言ってたよ。で、ホテルに連れ込んだら、特に抵抗しなかったから、そのままベッドで事に及ぶことになったって。でも、途中であんたが女だってことに気づいた。そもそもあいつは男以外は受け付けないってタイプのゲイじゃないから、馬鹿なことにはそのままあんたと最後までやることになったわけだ。気づいたその翌朝、シーツに血がついてるだけじゃなく、バスルームに行ってみると自分のアレにも血がついてるってことに気づいたわけだ。あいつは、このとおり僕にはなんでも話す。だけど、そのうちだんだん雲ゆきがあやしくなってきた。他の一夜限りの男相手の時は、そいつとどんな話をしたかとか、セックス・プレイの細かいところまで君貴はなんでも話すのに――あんたとのことは、肝心なところを何もしゃべらない。そのことで、僕がどれだけ腹が立ったか……」
レオンは頭に血が上っていたため、自分の話したことを聞いて、マキがどう受け取るかまで、意識が向いていなかった。けれど、彼がマキの大きな黒曜石のような瞳にみるみる涙が盛り上がっているのに気づいた時には――初めてレオンも、自分の言いすぎを自覚したというわけだった。
もっとも、レオンはそのことを後悔しなかった。むしろ、相手が自分の言ったことの意味をこれで十分理解したろうと思うと、気分がすっきりしたくらいである。
マキは、ロビーに集っている同性愛の男たちの群れをかき分けると、走ってエンディミリオン・クラブの外へ出た。階段の上から、君貴がマキのことを追いかけてこようとしたが、隣のカールが止めていた。「ここはあんたが行っちゃ絶対ダメよ!失恋の達人であるあたしにまかせなさいっ!!」そう言って、カールは急いでマキのあとを追いかけた。
マキはちょうど、何台かタクシーが止まっているエントランスの前で、呆然としたまま立ち尽くしていた。ガンガンと、レオンの言葉が割れ鐘のように頭に響いている。何より、マキの中で何が一番ショックだったかといえば、君貴がゲイだったということよりも――彼が自分を<やはり>間違えたということだった。その次に君貴がゲイ……いや、マキは人の性的志向といったことには自由な考えを持っていたが、彼がゲイだという事実よりも、自分よりも遥かに美しい男性の愛人を持っている、こちらのほうにより深いショックを受けていた。
自分の身の上に起きたことが、いまだ整理しきれず、マキはただぼんやりタクシーを待つ人の列に並び、自分の番が来るのを待っていた。運転手には、なるべく正しい発音でホテルの名前を連呼すれば、おそらく通じるだろう。それからホテルに戻ったら荷物を整理して、明日の午前の便に間に合うようシャルル・ド・ゴール空港へ向かえばいい。(大丈夫よ)と、マキは震える自分の心に言い聞かせた。空港から出国する時の方法については、ネットで調べて手順のほうはよくわかっている。そして、日本へ無事帰り着くことさえ出来れば――今、フランスのパリという街で一体何が起きたのか、自分の心を整理することが出来るだろう。
「ほら、お嬢さん。しっかりなさいな」
ふわりと肩にコートをかけられて、マキは驚いた。そのあとカールはマキと一緒にタクシーへ乗り込み、それから自分のリュクサンブール公園近くにある住所を言った。
「心配しなくていいわ。明日になったらまた、ホテルのほうへ送っていってあげるし、空港にもついていってあげるから……可哀想にね。あの子ったら、まったく血も涙もなかったわ。まるで地獄の天使よ」
「ご存知だったんですね。何もかも全部……だから今日――あ、もうきのうかな。あんなに色々よくしてくださったんだなって、今になってよくわかります」
ここでカールは何故か、若干甘いところのある溜息を着いた。まるで彼自身がたった今失恋した、とでもいうように。
「わたしもね、最初はレオンの言い分だけを聞いて、君貴に対して『なんという奴だっ!』なんて決めつけてたわけよ。ところがところがよ。あんたときたら、とっても意地ましいいい子ちゃんなんですものね。で、だんだんにわかってきたわけよ……最初はアクシデントではじまった恋でも、君貴にとってあんたのことはあんたのことですごく大切なんだってことがね」
(アクシデント?)
君貴さんがそういうふうに話したっていうことなのかしら、そう思い、マキはあらためて心が傷ついた。
「あら、ごめんなさいね!ようするにあたしが言いたかったのはね、君貴にとってレオンとの関係がナンバーワンで、あんたがナンバーツーだとか、そういうことを言いたいんじゃないのよ。彼らはね、お互いにお互いのことを魂の半身みたいに信じあってるの。直接の肉親ではないけど、魂の双子の兄弟、みたいに君貴は言ってたわね。だから、あんたのことが今は良くて、一時的にしてもレオンと別れたとするわよね?でも、そんなこと無意味だって彼らの間ではわかってるのよ。どうせ、一月と経たないうちにお互いのことが欲しくなって、会わずにいられないってことが……まあ、だからといってレオンとあんたのことを天秤にのせたら、女であるあんたのほうが遥かに軽いとか、君貴の中ではそういうことではないと思うのよ」
「いいんです。気を遣ってくださらなくて……それに、あの人、レオンさんに一目会っただけで、正直言葉なんてほとんどいらないくらいでした。わたしとあの人じゃ……男とか女とかってことを越えて、まるきり話にならないってわかりますもの」
「そうよねえ……あっ、違うのよ。レオンがビョルン・アンドレセンばりの美青年だから、日本のプロポーションがよくて、ちょっと可愛いくらいの子じゃ、比べものにならないって言ってんじゃないのよ。とにかく、他のどんな可愛い美人ちゃんで、その子の性技が物凄かったとしても――あのふたりの間に入り込める人間なんか、男でも女でもいないってことをあたしは言いたかったわけ」
マキは、カールの言ったセイギの意味がわからず、首を傾げた。彼女があくまで真顔なので、カールは「こほんっ!」と小さく咳をついて続ける。
「自分が君貴と別れなきゃならないのは……ゲイの男に負けたからだなんて、思い込んだりしちゃ駄目よ。あんたはあんたで、とっても素敵なキューティー・ガールよ。たまたま出会った相手が悪かったってだけ。第一、あたしがもしあんたで女なら――まあ、君貴はあのとおりいい男だし、短い間でも素敵な恋愛をしたっていう思い出のほうをきっと大切にするわね。あいつ、事情を説明しようとして、あんたのことを追っていこうとしたけど、あたしが止めたのよ。それともあんた、『おまえのことはおまえのことで愛してる』なんていう言い訳のほうを聞きたかった?」
「いえ……感謝してます、本当に。もしそんなことをされてたら、諦めきれなくて、もっと余計に苦しんだと思うから」
マキの声の最後のほうは震えていた。突然涙がどっとこみ上げてきて、両手で顔を覆って泣いた。(そういうことだったんだ)と、突然にして彼らの事情のほうが飲み込めてきたのだ。たとえば、人間、あまりに聞きたくないショックなことを言われると、耳が一時的に聞こえなくなるということが本当にある。医者からガンの宣告を受けた時などがそうだろう。一応、自分がガンらしい、ということはわかっている。だが、そのことにショックを受けるあまり、そのあと医者が懇切丁寧に説明してくれた治療計画について一切覚えてないというのは、よくあることである。
この時のマキにも、大体似たようなことが起きていた。もっとも、マキはレオンの言い放った言葉自体は大体のところ覚えてはいた。けれど、シーツに血がついていたとか、君貴と彼女しか知らないことをレオンに指摘されたことで――恥かしさのあまり、言葉の意味を本当の意味で理解できるまで、一拍も二拍も遅れてしまったような状態だった。
やがてタクシーは、セーヌ川右岸から、橋を渡ってセーヌ左岸へと移っていった。涙でぼやけていたとしても、パリの街の夜景は美しかった。そして、マキは君貴と自分の間にあったことは、似たようなことだったのかもしれない……そんなふうに思うことにした。今は胸が潰れそうなくらい悲しくても――たとえば、彼は自分に何も説明せず、逃げることも出来たはずだと思った。携帯電話の番号を変える、あるいは着信を拒否し、二度とマキには会いに来ない……それなのに、こんなことのためにわざわざ自分をパリまで呼び寄せ、男装までさせてゲイの世界について知らせようとしただなんて――マキは最後、なんだか少しおかしくなってきて、泣きながら笑った。(君貴さんらしい……)そうも思った。
「あら、あんた笑ってるわね?もしかして、君貴とのおかしな思い出でも思い出したの?」
「いえ……ただ、彼にしては珍しく、随分まわりくどいことをしたんだなと思って。あの人、いつでも直球で、気になったことはズバッとこっちに聞いてくるのに、流石に自分が本当はゲイで、物凄い美貌の男の恋人がいて、とても別れられないだなんて――君貴さんもよっぽど言いにくかったんだなと思ったら、おかしくて」
「わかるわかる、わかるわ」
カールもまた、何度も頷いて言った。
「可愛いジャパニーズ・ガール。こんなことで落ち込んだり、気に病んだりしちゃ駄目なのよ。あたし、ハッキリ言ってこんなじゃない?だから、いつでも片想いばっかりよ。それで、たまーにうまくいったかと思えば、そもそもそいつには本命の恋人がいたりね……一度なんか、相手の男が出張から帰ってきて、ふたりで大喧嘩はじめたこともあるわ。で、そいつが『こんなブタ、本気なわけないじゃないかっ!オレが愛してるのはおまえだけだっ!!』とか喚いてくれたりしちゃうわけよ。傷つくじゃない?そうそう、こんなこともあったわ。同じように同棲相手が急に帰ってくることになって、ベランダに追い出されたのよ。しかもそれ、真冬の二月よ?凍死するかと思ったわ。よく映画なんかで似たシーンを見たことあるけど、実際はただの笑えないコメディよ。結局、同情した隣の人が『こっち来い』みたいに合図してくれて、それでようやっと帰れたの。しかも、パンツ一丁でよ?勝負下着のオラフベンツのブリーフが泣いてたわ。隣家のガキには、『あのおじさん何?』なんて軽蔑した目で見られるしね。あんた、日本へ帰ったら、このあたしの惨めな体験を繰り返し思いだしなさい。少なくとも、あんたは君貴に『あんな女、本気なわけがないじゃないかっ!』なんて言われたわけでもないし、レオンがあんなに怒って本気で相手にするくらいの魅力があればこそ……いつもは冷静なあの子が、見境なく喚き散らしたくらい、自分は魅惑的な女なんだと思っといたほうがいいわ。そのこと、むしろ誇りに思うべきよ」
「…………………」
このあと、マキは一界のメイクアップ・アーティストが住むにしては、随分豪華な屋敷のほうへ通されていた。まるで、昔絵本で見たことのある、中世の宮廷内のようだった。マキはいくつもある部屋のドアの前を通りすぎ、ピンクで内装の統一された、四柱式ベッドのある可愛らしい部屋へと通された。
>>続く。