神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.206 藪の中

2024-06-19 23:46:30 | 余録

(1)「羅生門」は芥川龍之介の作品ですが、これを読んだのは高校1年生の頃だったでしょうか。まだ古典に慣れていなかったのと、人間のキビについての理解が遅れていたためもあって、何を言っているのかよくわかりませんでした。
 その後、黒澤明監督の同名の映画を見たからでしょうか、意味が分かりました。すると、なんだ、でそんなことがどんな意味があるんだと、少し腹立たしく思った記憶があります。
 それもあってか、芥川賞は、相変わらず話題性で読ませようとして、売らんかな式のところがあるので、まずまあ読みません。新聞を読んでいれば時代遅れにはならないと思うので、時間の節約をしています。
 読んだのは、石川達三の『蒼氓〔そうぼう〕』くらい・・・、という印象です。
 
(2)それから半世紀を経て、事態をリアルにとらえる人が増えましたね。
 下の写真、藪の中で、みな精一杯に自分の存在を主張してます。虚栄・虚飾・脚色なんてありません。
弱ければ淘汰されるだけです。
 ・・・でも、相互依存もあるでしょうね。
 いつか、戸倉城山からスカイ・ツリーを見たとき、肉眼では見えませんでしたけど、カメラは捉えてました。主観〔自分の目で見たものや意識したこと〕は重要、でも、客観性〔自分の目で見えないもの、意識の外にあるもの〕を忘れた主観はダメ。
 きっとこの写真で見えないだけです。見えなくてもあるものはあります。大事なことは、「問題意識」です。問題意識をもたずに漠然と見れば、「藪」があるだけ。 
 
    人間はなぜこれらの草を食べるようにならなかったのか?

(3)芥川の作品では、「鼻」も印象的です。
 これは、ある坊さんが、鼻がソーセージのようだと笑われるので、あれこれして普通の人の鼻のようになってよかったと思ったら、こんどはそれで笑われる。それが気になり、かえって元の状態に戻ったら安心したというようなことでした。

(4)考えてみると、自分の身のまわりに似たことがいくつもあります。
 若いころ、友人が何人も自動車の運転免許を取るようになりました。それで、自分もなんとか免許を取りました。
 その結果、車で贈答品を配送するといういくらか割が良いアルバイトを見つけました。じつは、それが新宿の歌舞伎町で、混み入っていて住所がよくわからない。看板と社名が違うので、看板があてになりません。一個配送していくらで、配送し終わるまで帰ってくるなといわれていたので、昼間いなければ、夕方以降に行くしかありません。そこで、ほかを先に配送して、開くのを待っていくと、ネオンが点灯していて、実はラブホ。それでも見つかればいい方で、おまけに受け取りの判子をもらっている間に客が入って来る・・・。
 ということで、一冬で止めました。

(5)しかし、友人はみな貧乏。転居するとなると、免許もっているなら手伝えと頼まれ、自分の車も持っていなければ、ふだんロクロク運転もしないのに、にわかにドライバーにさせられます。田舎の田んぼ道を走るのならともかく、東京の23区で。それを、万一の保険のことなど頓着なしにやる羽目になります。
 それよりも、忘れたころになると、3年に一度だったか、免許の書き換えになり、手続きに行くと、ペーパー・ドライバーなのに、わかり切った講習を聴かされ、この間どのくらい運転したか、などなど書かねばなりません。もううんざり。

(6)結局、事故を起こしたと思って、放棄することにしました。つまり、必要なら、免許を取り直す方が安い、ということです。
 免許がないと不便と思いましたが、車もない、ふだん乗る機会もない東京では、必要なら、新宿から自宅までタクシーに乗っても2~3万円で済みます。
 みなさん、これがいかに安いかよく考えてみてください。おまけに、いまは車が大型化して、ムダばかりです。しかも、車のためにムダな大規模公共事業一辺倒に陥り、日本の農業を破壊して、いま将にその問題が日本を襲ってきています。
 山歩きするようになったのもあり、5~10kmなら1~2時間ですから平気です。
 免許を持ってよかったのは、アノ素晴らしかったガールフレンド〔のちの「愚妻」、今の「ば~ば」〕を乗せて、友人のところを回ったこととか、群馬の妙義神社の方まで行ったことでしょうか。良かったのはほんのわずかです。
 ということで、もはや、車に引かれても、引くことはありません。
 もともと山育ち、そんなセンスないです。歩く方が「楽」です。

(7)芥川の「地獄変」もよく知られています。
 自分が描きたい炎熱の様のために娘が焼かれる様を見るなど、まさに地獄です。「芸術のための芸術」〔芸術至上主義〕は芥川の理智主義をよく示していて興味深いところで、若いころには憧れましたが、彼の目は現実を見るにおいて時代性があるといわざるを得ません。
 では、どうすればよいでしょうか。
 課題は、私の専門とする経済学でも、文学でも同じでしょう。人間が、どこをどう辿ってきて、今どこにいるのか、その図面を描くことだと思います。上條武『孤高の道しるべ』になぞらえれば、『人間の道しるべ』を書くことでしょう。もっと言えば「残るもの」です。たいがいのものは、負の意味で残るかもしれませんが、それでは情けないと思います。
 
では。

    



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