[試訳]
十数冊のあなたの本がたった一巻にまとめられたら、妙な気持ちになるでしょう。今まで、一冊一冊の本が、それを書く時には前作のことを消し去っていました。私自身がその存在を忘れ去ってしまっていたような感じを持っていました。つまり自分の後に残して来たこれらの「物語」を振り返ること、読み返すことを避けて来ました。まるで綱渡りをする人のように。綱渡りは何がなんでも前進しなければなりません。ためらったり、後ろを振り返ったりでもすれば、落下しかねないのですから。
モーリス・ブランショがいみじくも言ったように、作家は、綴り字や文章の誤りを訂正するときを除けば、自身の作品の読者にはどうしてもなれないのです。書物がひとたび完成すれば、それは作家の手を逃れ、真の読者のために書き手のことなど顧みないものです。読者とは、書き手よりも書物をよりよく理解し、ある化学反応によって、作家自身に書物の真の姿を明かす者のことです。
それでは、はじめてこうしてまとめられた「物語たち」について、私に何か言うことがあるでしょうか。ほとんど何もありません。これらの物語は唯一の作品を形作っていて、ここに収められなかった他の作品の脊柱となるものです。私はそれらを断続的に、書いたはしから忘れて来たつもりでいましたが、まさしく同じ相貌が、同じ名前が、同じ場所が、同じフレーズが、それぞれの作品に帰って来ています。まるで半ば眠りながら織ったタピストリーの模様のように。
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l'epine dorsal ですが、こういうときはgoogle でimage 検索すれば手がかりが得られます。ぼくも授業中に時々お世話になっています。ただし、猥雑な物も時に混じっているので注意は必要ですが…。
今回は、特に付け加えることもなく、試訳のみご覧にいれます。
なお先日7日にストックホルムで開かれた受賞記念講演の模様が下記で見られないでしょうか。長いものですが、この「序文」の内容と通じる箇所をいくつも含んでいます。講演の閉じ方が、なんともモディアーノらしく、微笑みを禁じえませんでした。
http://abonnes.lemonde.fr/livres/video/2014/12/07/suivez-en-direct-le-discours-du-prix-nobel-de-patrick-modiano_4536151_3260.html
ウィルさん、本当にお久しぶりです。こうやって再会すると、この教室も長い間続けているなぁ、としみじみ実感しました。またお時間の許す限りでおつきあい下さい。
それでは、次回は24日に残りの部分の試訳をお目にかけます。
Bonne lecture, mes amis ! Shuhei
こんにちは、みさよです。今回は最後のリルケやネルバルの引用が良く分からなかったです。
今年も本当に先生にはお世話になりました。ありがとうございます。皆様が良いお年をお迎えになられることを心よりお祈り申し上げます。
この選集の冒頭に掲載された写真や書類のいくつかは、これらの「小説」がすべて一種の自叙伝であることを暗示している。しかしそれは夢に現れたか、想像上の自叙伝である。私の両親の写真ですら、想像上の写真となってしまった。私の兄(弟)と妻と娘たちだけが現実のものだ。そしてアルバムに現れる白黒写真の何人かの端役と亡霊たちのことは何と言ったら良いのだろう。私は彼らの人影を、特に彼らの名前を、その抑揚のゆえに利用した。彼らは私にとって音符でしかなかった。
結局のところ、小説家は観察できたあらゆる人物や風景、街路をひとつの楽譜に運び込むことが必要なのだ。その楽譜の中には、同じ音楽の一節が本から本へと見出されるが、彼にとっては不完全な音楽の一節なのだ。小説家にあっては純粋な音楽家でなかったという悔恨、そしてショパンのノックターンを作曲しなかったという後悔があるかもしれない。
しかしながら、青春時代に私をして文学を愛するようにさせた何人かの作家は、本当の音楽家であったと思う。今になってリルケやネルバルのことを思い出す。私はリルケの「オルフォイスへのソネット」の胸を刺すような命令を忘れようにも忘れなれない。「エウリュディケにとっては、いつも死んでいなければならない。」ネルバルが自らに言う謙虚と高貴さ。「詩人を作るのに必要なものはそこにある。そして私は散文の夢想家でしかない。」
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この文集のはじめに再び収められた幾つかの写真や文書を見ると全てのこれらの「物語」が一種の自叙伝であり、けれど夢想とも空想ともつかない自叙伝なのだと思えるのです。両親の写真自体がまるで想像上の人物であるかのようです。ただ私の兄弟と妻、娘たちだけが現実だと思えます。アルバム上に漂っているかのようないくつかの白黒の端役や亡霊は何と言ったらいいのでしょうか?私は彼らの影を、特に名前を使いました。その音の響きが私にとってもはや音符の音でしかなかったからです。
つまり、小説家は、自分が見ることのできる全ての人物、風景、通りを譜面の上に置き換えて読者はその旋律の欠片を本の間に見出すのですが、楽譜は満足のいくものではありません。小説家のなかには自分が真の音楽家ではなくショパンの「ノクチューン」を作曲できなかったという悔いあるのです。
それでも私が子供の頃、文学を好きにさせてくれた幾人かの作家は本物の音楽家でした。今思うに「リルケ」や「ネルバル」などです。私はリルケの「オルフェスに捧げるソネット」の「いつまでもエウリュディケと死んでいなさい」という胸を刺すような命令を忘れることができません。ネルバルの謙虚さと優しさは彼自身をして「そこには詩人となるものがあるのですが私は散文のなかで夢見るだけです」と言わしめたのです。
構文上は、Et dire que が良くわかりませんでした。
この内容とは直接関係ありませんが、音楽と小説の関係ということから、以前読んだことがある文章を思い出しました。芸術の中で、文学と音楽は最後まで到達しないと内容が理解できないが、絵画は一見して理解できるという観点から、文学と音楽の共通性を述べている文章です。どこで読んだ文章か全く覚えていませんが。もしかしたら、数十年前に受験勉強していた時に英語のテキストで読んだのかもしれません。
この読解教室に参加していない間も、全くフランス語から遠ざかっていたわけではなく、白水社の「ふらんす」は毎月、斜め読みはしていました。この2年ほど仕事で英語を使う機会がしばしばあったのですが、「私はフランス留学組だから…」と適当にごまかしていたものの、そのフランス語も、ちょっとこのありさまじゃなぁともう少し頑張ろうと思いました。どれだけ、続くか分かりませんが(笑)。年明けは早速、仕事がバタバタしそうですし。
先生、そして皆様、よいお年をお迎えください。
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この選集に転載されている写真や文書のいくつかは、こうした小説が全て、一種の自伝であるが、夢の中のものや想像上の自伝であるということを想起させるであろう。私の両親の写真でさえ、想像上の人物の写真になっていしまっている。兄、妻、娘たちだけが、現実である。アルバムに白黒で現れている端役や幽霊たちのことをどういうのか?私は、それらの影、特に、それらの音の響き故の名前を使い、それらは、私にとってもはや音符でしかなかった。
結局、小説家にとって重要なことは、小説家が、ある本から別の本になってもメロディーの同じ断片がある楽曲の中に見出した全ての人、風景、通りを連れ出すことであるが、その楽曲は、不完全に見えるような楽曲である。小説家には、純粋な音楽家ではなかった、ショパンのノクターンを作曲できなかったという後悔があるであろう。
しかし、私の青年時代に、私を文学好きにした何人かの作家は、純粋な音楽家であったことを覚えている。私は、今日、リルケとネルバルを考えている。「オルペウスへのソネット」でのリルケの悲痛な命令を私は決して忘れたことはなかった。「エウリュディケの中でずっと死んでいよ」そして、自分自身について言うネルバルの謙虚さと優しさを。「そこには詩人を作るのに必要なものがあった。私は、散文においての夢想家でしかないけれども」
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この選集のはじめに載せられたたいくつかの写真や記録は、すべての「小説」が自伝的なものであるあかのように思わせるかもしれない。しかし、空想的、あるいは想像上の自伝なのである。両親の写真でさえ架空の人物の写真になった。兄弟、妻と娘たちだけが現実である。ならば、モノクロのアルバムに現れる脇役たちや幻たちは何を表すのだろうか。私は彼らの幻影、そしてとりわけその人たちの名前をその音色のために用いた。その名前は、私には音符でしかなかったのだ。
つまり、小説家にとって、自分が目にとめたあらゆる人物、風景、道をひとつの楽譜の中に導き入れることが肝心なのだ。この作品にもあの作品にも同じ旋律が見出されるような楽譜の中に。作家にはその楽譜は不完全に思われるにちがいない。作家には真の音楽家ではなかったこと、ショパンのノクターンを作曲できなかったじくじたる思いがあるだろう。
しかしながら、若い時、私に文学を好きにさせた作家たちは、純然たる音楽家だったと記憶する。今日それはリルケとネルヴァルだと思う。私はけっして忘れたことはなかった。リルケの『オルフェウスへのソネット』にある「つねにオイリュディケのうちに死してあれ」という悲痛な命令を。そしてネルヴァルが「詩人を生み出すに必要なものはそろっていたが、私は散文の夢想家にすぎない」と自分自身について語ったう慎ましさと優しさを。