前述したように千曲川の水位上昇に伴って皿川の水が千曲川へ流れ出さなくなりました。その理由として流出が人為的に遮断されたのか、それとも自然に遮断されたのか、2つの可能性がありますが今はその真偽を問わずに話を進めます。
いずれにせよ流出できなくなった皿川の水は樋門の前に溜まりはじめ、皿川ダム湖を作りはじめます。そうしてついには満水に至り、左岸M建設側の道路へと越水し始めました。その時に皿川水位を確認しに来ていた楽農家さんが越水を確認して市役所に一報を入れました。これが皿川越水の第一報でした。
しかし後日明らかになった事はこの左岸側への越水よりも早く実は右岸堤防のある部分から越水が始まっていたのでした。その部分とは右岸堤防とJR飯山線の線路が交差する部分、その部分の堤防高さはほかの部分に比べて70センチほど低くなっており、この部分が皿川堤防の一番低い場所でした。
堤防決壊場所の修復は現在終わっており、現状でもJR線路との接続部が一番低く、標高は317.12mである、と長野県は言っています。そうしてここが低くなっている理由はJR線路に降った雨水の排水の為であり、したがって決壊前も修復が終わった現在でもその部分はJRが持っている基準に合わせて作られているものと思われます。(注1)
従って決壊前にその部分の標高がいくつであったのか、実測値は公表されてはいませんが、現状の値から大体の推測は出来る事になります。
それで左岸越水場所の標高は地図読みでは317.5mですので、その場所よりはここは40センチほどひくくなっていたと思われ、従って左岸越水よりもこの場所、右岸堤防とJR線路接続部の方が先に越水していたものと思われます。
それに加えてこの場所の皿川の水に接触する堤防の部分は耐水化されておらず、土で固めただけの構造でした。(注1)
従って越水を始めた皿川の水によって堤防のその場所の上端部は簡単に洗掘され、右岸越水開始後2時間程で決壊に至ったのでした。
1、決壊現場の状況
・皿川決壊現場(10/13 午前 6 時) : https://archive.md/KCeME
・皿川決壊現場(10/13 午前 6 時) : https://archive.fo/SWNru
・皿川決壊現場(10/13 午前 6 時) : https://archive.fo/Hjg28
・皿川決壊現場(10/13 午前 6 時) : https://archive.fo/gIso6 : 流れ出す泥水が決壊場所でJR線路側に流れ出し、線路下の土台を削り込んでいる写真。泥水はその反動で反時計回りに渦を巻きながら線路の反対側にあたる堤防の土を丸く削り取っている。
・その場所で少し左側を見る : https://archive.fo/mWE0a :左側から線路方向に向かって泥水が勢いよく流れ込んでいるのがよく分かる。
・皿川決壊現場(10/13 午前 6 時) : https://archive.fo/uIwKu :同上シーンのより決壊場所に近づいた写真
・同上シーンの左上部の写真 写真の奥方向は皿川の下流になるのだがまるでそちらが上流の様に見える。つまり「泥水はそちら側(下流側)から決壊場所に流れ込んでいる様に見える。それはつまり「皿川の下流側の水面の水位が決壊場所の水位より高い」という事である。それで「どーしてそんな事が可能になっているのか」と言うのが大問題なのである。: https://archive.fo/D1brr
2、なぜ皿川堤防は決壊したのか
一言でいうならば皿川右岸堤防はJR線路を堤防の一部として組み込んでいた、不完全堤防であった、という事になる。線路と言うものは堤防の代替えにはならず、堤防の上を線路は走る、と言うのが基本であるからである。(注1)
これは今回水害の前の皿川堤防かさ上げ、それから法面の耐水化や幅の拡充などの対応がとられてきてはいるが、それでもその弱点は残ったままであった。ちなみに残念な事には今回の決壊した場所の法面の耐水化は行われてはいなかった。その事が2時間と言う越水から決壊までの時間が相当に短いという印象を与える原因の一つになっている。(注2)
この点は堤防を管理・メンテナンスする責任をもつ長野県のミスであろう。この事については長野県は責任を免れない。
それから、当方の見解では「樋門が開いており、そこから千曲川の泥水の無尽蔵の供給があった」という事も、越水から堤防決壊までの時間が短い事に寄与していると推定している。
もしこの千曲川からの泥水の供給がなければ、たとえば決壊までの時間が2時間ではなく4時間に延びていたかもしれない。あるいは越水は起こったが決壊そのものは免れたかもしれない。
そうであれば「皿川樋門を開けっ放しで台風19号を迎える」と計画し実行に移した飯山市と河川事務所もまたこの皿川堤防決壊の責任を免れる事はできないのである。
3、右岸堤防決壊の飯山水害に与えた影響
皿川樋門が閉まっていたら、堤防が決壊しても市内にあふれる水の量は皿川ダム湖のおよそ3分の2~4分の3ほどの水量が、決壊しない場合に対して増えるだけであった。
だが皿川樋門が開いていた場合は、千曲川の水位上昇に伴ってほぼ無尽蔵に千曲川の泥水が皿川ダム湖をバイパスして右岸堤防決壊場所から市内に流れ出すことになる。
そうして市内に流れ出した水量、それからあとに残された膨大な量の泥の量を見るならば、千曲川の泥水が皿川を経由して市内に流れ出した、という事は明らかなのである。
つまり「皿川樋門が開いていた」という事と、「右岸堤防が決壊した」という事の相乗効果によって飯山の市街地は致命的な被害をこうむったのである。
注1:皿川堤防にあった2つの弱点に関しての内容詳細は以下の記事を参照ねがいます。
・その16・皿川堤防にあった二つの弱点
そうしてそのような重要な事実を知ろうともしない飯山市と河川事務所。
その為に「左岸から水があふれた」という住民からの重要な情報は全く生かされなかった。
注2:今回の堤防決壊を受けて長野県が行った決壊場所の修復完了の姿を示す。:・現状完成形 <--2020年3月25日現在
今回の災害が発生する前までにこの姿まで堤防の完成度を上げていなかったのは、長野県の怠慢、落ち度である。(=北信建設事務所の怠慢)
決壊場所にコンクリートブロックを投入した状況を示す: https://archive.md/93ysb :
この画像から分かる様に、決壊場所の左側までは堤防の法面がコンクリートで耐水化されていた。
だが決壊場所は単に土を入れて固めただけで、法面の耐水化は行われてはいなかった。
北信建設事務所はそのような状態で皿川堤防を放置していたのである。
ちなみに前の北信建設事務所の所長は副市長のにいのみ氏その人である。
それから、飯山市議会答弁での関連する部分を以下に引用する。
『飯山市議会議事録より:令和元年12月12日(木曜日)
◆6番(松本淳一)
・・・ 千曲川が国、皿川が長野県の管理であっても、住民の生命財産を守る責務は飯山市にあります。
そのため、市長には避難勧告、避難指示を出す強い権限があるというふうに理解しています。
皿川堤防が本堤防より1.7メートル以上低い、そういう状態が57年、58年の水害の後、堤防が整備されたと思っていますので、30年以上そのままになっていたということについて、飯山市に責任はないのかお尋ねをします。
◎建設水道部長(坪根富士夫)
皿川につきましては、昭和60年度から平成8年度にかけ、築堤及び護岸工、橋梁工の工事を県が実施しております。
その後、平成18年(2006年)に、同年7月の千曲川洪水を受け、皿川のかさ上げを含む堤防強化等について県へ要望しております。
当時、堤防のかさ上げについて要望しましたが、かさ上げについては、計画降水にプラスされる余裕高は確保されているという理由で実施されませんでしたが、平成20年度から平成23年度にかけ(2008~2011年)、護岸工を174メートル、堤防腹づけ工を150メートルについて実施をしていただいております。
このように、これまでも長野県において改修整備が実施されてきております。
なお、内水排水対策につきましても、飯山市千曲川等災害対策連絡協議会を通じまして、県へ内水排水施設設置の要望を継続しているところでございます。』
そうして、残念な事にこの時の改修では今回決壊場所の法面の耐水化は行われず、皿川堤防は未完成のまま放置されたのです。
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