日本で神様にお参りする作法として、二礼二拍手一礼とされています。
二回礼をして、二回手を叩いて、最後に深く礼をする(深い90度に体を曲げる礼を拝と言います)。
このお参りの仕方をしないとまるで、とても物を知らないようなバツの悪い思いを
したことはありませんか?
いつから、この形式的なことが重要視されるようになったのでしょう。
それは、戦後です。
日本は戦争に負けました。
神風特攻隊、回天、桜花など、機械では補えないがそれでも必勝すべく、人がその身を
使い機械の性能不備を補い、攻撃する武器となりました。
これは、戦争は、「武器」がするもので、「生身の人間」がするものではない、という
常識を覆し、アメリカを始め他国を震撼させたのです。
艦に突入する神風特攻隊の隊員の顔を見た米兵は、その顔が「あまりにも神々しかった」と
証言しています。
日本軍人の不屈の精神は、敵国にとって脅威でした。
そして、日本が二度と歯向かうことのないよう、戦後、あらゆる対策が講じられました。
日本人の精神性の高さは神道にあると踏んだGHQは神道指令を発令、神道は宗教へと
落とされてしまいました。
神道と宗教の違いがおわかりになりますか?
神道は神と共に生きる道(神人合一)、宗教は、宗主(生きていた人間)の教えです。
学校の教科書から日本の神話が消されました。
神道が宗教に落された時、やむを得ず、作ったのがお参りの作法です。
それまでは、お参りの仕方は自由だったのです。
宗教と神道は別物です。
神は気であり、波動であり、エネルギーです。
そこに作法を設けることに何の意味があるでしょうか。
これに反発する方にお聞きしたい。
自分の魂と会話をするのに、作法がありますか?
心に、魂に作法が無い様に、神様と話す時も作法は必要ないのです。
作法を重んじるばかりに、心と魂が軽んじられ、神道そのものが形骸化しています。
これでは、GHQの、アメリカの思う壺です。
神はエネルギーです。
神道は神人合一。
人は神と共に生き、神と共に働く。
お祓いは、悪い物を除けると思う方が多いかもしれませんが、穢れとは気が枯れる
気枯れともいい、生命エネルギーが弱まった状態を言います。
お祓いとは、悪い物を除けるのはもちろんですが、生命エネルギーを「蘇らせる」のが
お祓いです。
神様の気、エネルギーをいただき、具現化していくのが人なのです。
二礼二拍手一礼について、
なぜ、このように定められたのか明確に示している文献に出会っておりません。
しかし、この考えに辿り着きました。
そもそも、神に祈るとは、神の御魂(みたま)と自分の魂魄とを合わせることです。
祈って、実現する為に必要なエネルギーを神から授かる為に祈るのです。
二回礼をするのは、
一つの礼は神様に
もう一つの礼は自分の魂に
二回手を叩くのは、
まず、両手を合わせます。
左手が神、右手が人を表します。
神と人が同じでは畏れ多いので、人が指の一関節分下げて(人が一歩下がって)手を叩きます。
一音は、神の御魂にご降臨いただくため、
一音は、自分の魂を呼び出す為、
そして、神と御魂と自分の魂魄を合わせる為に手を重ね合わせます。
最後の礼はなぜ一回なのでしょうか。
神の御魂と自分の魂魄、それぞれ二つであったものが一つになったのです。
故に、その一つになった魂に対して一回の礼をするのです。
神を呼び、神にご降臨頂き、神人合一、神と人の力が合わさることが目的なのです。
神気も自分の魂も振動しています。
故に音霊(おとだま)の力を借りて、拍手の音で合わせた手の中に神様にご降臨いただき、
自分の魂もまた音霊によって手の平の中に呼び、合わせるのです。
神のエネルギーと一体となるのが神道だと、私はそう思うのです。
二礼二拍手一礼に込められた願いを感じます。
ただひたすらに民の幸せを願い、この作法が生まれたのだと。
神道には経典もなければ、教えも無いと仰る方がいらっしゃいますが、魂と神、心と神が
会話をするのに、経典が必要でしょうか。
経典が無いと嘆くのは、生きていくのに人生のマニュアルが無いというのと同じです。
人生にマニュアルが必要ですか?
他人のマニュアルは、自分には通用しません。
刻一刻と変化する自分の心と体に対応できるマニュアルがあるのでしょうか。
自分の力で、自分の思いで、自分で考えて切り開き、作っていくのが人生です。
この世界は人の思いで出来ています。
しかし、良い思いをする人もいれば、悪い思いをする人もいます。
常にその力は戦っているのです。
貴方は、神のエネルギーをいただいて、何を思い、何をするのでしょうか。
二回礼をして、二回手を叩いて、最後に深く礼をする(深い90度に体を曲げる礼を拝と言います)。
このお参りの仕方をしないとまるで、とても物を知らないようなバツの悪い思いを
したことはありませんか?
いつから、この形式的なことが重要視されるようになったのでしょう。
それは、戦後です。
日本は戦争に負けました。
神風特攻隊、回天、桜花など、機械では補えないがそれでも必勝すべく、人がその身を
使い機械の性能不備を補い、攻撃する武器となりました。
これは、戦争は、「武器」がするもので、「生身の人間」がするものではない、という
常識を覆し、アメリカを始め他国を震撼させたのです。
艦に突入する神風特攻隊の隊員の顔を見た米兵は、その顔が「あまりにも神々しかった」と
証言しています。
日本軍人の不屈の精神は、敵国にとって脅威でした。
そして、日本が二度と歯向かうことのないよう、戦後、あらゆる対策が講じられました。
日本人の精神性の高さは神道にあると踏んだGHQは神道指令を発令、神道は宗教へと
落とされてしまいました。
神道と宗教の違いがおわかりになりますか?
神道は神と共に生きる道(神人合一)、宗教は、宗主(生きていた人間)の教えです。
学校の教科書から日本の神話が消されました。
神道が宗教に落された時、やむを得ず、作ったのがお参りの作法です。
それまでは、お参りの仕方は自由だったのです。
宗教と神道は別物です。
神は気であり、波動であり、エネルギーです。
そこに作法を設けることに何の意味があるでしょうか。
これに反発する方にお聞きしたい。
自分の魂と会話をするのに、作法がありますか?
心に、魂に作法が無い様に、神様と話す時も作法は必要ないのです。
作法を重んじるばかりに、心と魂が軽んじられ、神道そのものが形骸化しています。
これでは、GHQの、アメリカの思う壺です。
神はエネルギーです。
神道は神人合一。
人は神と共に生き、神と共に働く。
お祓いは、悪い物を除けると思う方が多いかもしれませんが、穢れとは気が枯れる
気枯れともいい、生命エネルギーが弱まった状態を言います。
お祓いとは、悪い物を除けるのはもちろんですが、生命エネルギーを「蘇らせる」のが
お祓いです。
神様の気、エネルギーをいただき、具現化していくのが人なのです。
二礼二拍手一礼について、
なぜ、このように定められたのか明確に示している文献に出会っておりません。
しかし、この考えに辿り着きました。
そもそも、神に祈るとは、神の御魂(みたま)と自分の魂魄とを合わせることです。
祈って、実現する為に必要なエネルギーを神から授かる為に祈るのです。
二回礼をするのは、
一つの礼は神様に
もう一つの礼は自分の魂に
二回手を叩くのは、
まず、両手を合わせます。
左手が神、右手が人を表します。
神と人が同じでは畏れ多いので、人が指の一関節分下げて(人が一歩下がって)手を叩きます。
一音は、神の御魂にご降臨いただくため、
一音は、自分の魂を呼び出す為、
そして、神と御魂と自分の魂魄を合わせる為に手を重ね合わせます。
最後の礼はなぜ一回なのでしょうか。
神の御魂と自分の魂魄、それぞれ二つであったものが一つになったのです。
故に、その一つになった魂に対して一回の礼をするのです。
神を呼び、神にご降臨頂き、神人合一、神と人の力が合わさることが目的なのです。
神気も自分の魂も振動しています。
故に音霊(おとだま)の力を借りて、拍手の音で合わせた手の中に神様にご降臨いただき、
自分の魂もまた音霊によって手の平の中に呼び、合わせるのです。
神のエネルギーと一体となるのが神道だと、私はそう思うのです。
二礼二拍手一礼に込められた願いを感じます。
ただひたすらに民の幸せを願い、この作法が生まれたのだと。
神道には経典もなければ、教えも無いと仰る方がいらっしゃいますが、魂と神、心と神が
会話をするのに、経典が必要でしょうか。
経典が無いと嘆くのは、生きていくのに人生のマニュアルが無いというのと同じです。
人生にマニュアルが必要ですか?
他人のマニュアルは、自分には通用しません。
刻一刻と変化する自分の心と体に対応できるマニュアルがあるのでしょうか。
自分の力で、自分の思いで、自分で考えて切り開き、作っていくのが人生です。
この世界は人の思いで出来ています。
しかし、良い思いをする人もいれば、悪い思いをする人もいます。
常にその力は戦っているのです。
貴方は、神のエネルギーをいただいて、何を思い、何をするのでしょうか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます