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癒さぬ傷口が 栄光への入口

新月の彼女 ~1~立ち待ち月の彼女

2011-11-08 | オリジナル。
 わたくしは待っていとうございます。よろしゅうございますか。


 琴絵は栞の細いリボンをページに挟むと静かに本を閉じた。まだ読み始めて20ページも進んでいない。
 母の本棚から借りた古いハードカバーの本。作品名も作家名も初めて見た。きっとたいして売れなかった作家なのだろう。読み始めから引き込まれることもなくなかなか読み進まない。面白くないのだ。
 時代もよくわからない。主人公は貧乏な作家で、ヒロインは看護婦。俗に言う『サナトリウム文学』というやつの一種だろうか。まだ先まで読み進めなければわからないが、そのジャンルの有名な作品に触発されて手を出してしまったような紛い物感が漂っている。

 これじゃあ売れないよね。

 飛びぬけて読書家なわけでも批評家気取りでもないが、素人の目に最初の20ページがつまらない物語が一般の読者に受けるとはとても思えない。
 琴絵は読書家と言うほどではないと自分で思っているが、本は好きで常になにかの本を携帯している。しかし母は読書は好まなかったのか家にあった蔵書は殆ど父のものだった。母のものは大半が実用書で、小説など数えるほどしか持っていない。
 そんな母が大切に保管していた本である。
 それだけで少し興味を引かれた。琴絵がこの本を借りたのはそのためだ。母がきちんとカバーをかけて保管していた本は、琴絵が生まれる10年も前の作品だったがまるで新刊のように色褪せることなく瑞々しかった。
 もしかして読んですらいないのかしら、と思ったがよく見ると何度も捲ったらしいほんの少しの汚れがページの端に見られた。
 母はこれを大切に大切に、それでも何度も読んだのだ。
 母が愛した本。
 つい3週間ほど前に突然亡くなった母の遺した、小さな謎。
 汚さないようにビニールのカバーに包み直し、琴絵はそれを自分の本棚の端に置いた。

 時計を見ると、すでに日付が変わる時刻を過ぎている。
 コーヒーが冷めてしまっていることに気付いた琴絵はマグカップを持って立ち上がり、お世辞にも広いとはいえないキッチンに足を運んだ。残ったひと口のコーヒーを流しに捨て、そこへインスタントコーヒーの粉末を無造作に放り込む。ポットのお湯を半分ほど注ぎ、残りの半分は牛乳を入れた。
 マグカップを手に部屋へ戻ると窓を開けて50センチほどしか奥行きのないベランダに出る。
 琴絵の部屋は小さなコーポの2階だが、1階はベランダの代わりに部屋ごとの小さな庭になっている。と言っても敷地は狭いので、ごく小さな花壇でも作れれば御の字だ。シェイドでも貼らない限り2階のベランダからは丸見えである。
 丸見えだからといって意識的に覗くような気持ちになるわけではないが、ベランダから見下ろすと必然的に他家の庭を見ることになる。だから、
 彼女の姿を見たのも偶然だった。
 琴絵の部屋の右斜め下の庭は、空家だったかしらと思うほど手入れされておらず雑草がぼうぼうと生えていた。その雑草の中にぽつんと小さな木のベンチが忘れられたように置かれているのが何故か気にはなっていた。
 そこに、人が座っている。髪の長い女性だ。

 あ、人、住んでたんだ。

 琴絵は自分以外の住民のことを殆ど知らない。すれ違えば挨拶くらいはするが、それがどの部屋の住人だとか確認したこともなかった。だから、空室があるのか無いのか、空室があるとすればどこがそうなのか、など意識していなかった。この部屋で長く暮らす気もないので積極的に近所の人間関係を広げる必要も感じなかった。
 自分の住む集合住宅の他の住人に興味を持ったのはこれが初めてかもしれない。
 斜め上の琴絵の気配に気付いたのか、叢のベンチに腰掛けた女性はふと振り返った。見上げる彼女と見下ろす琴絵の視線がぶつかる。突然後ろめたさを感じて琴絵は視線を逸らした。
「こんばんは」
 細いけれどよく通る声が耳に届く。
 慌てて視線を彼女に戻すと琴絵は少しばつが悪そうに微笑んでこんばんわ、と返した。
「あの、いい満月ですね」
 気まずさを誤魔化すように咄嗟に口に出す。月明かりが明るく彼女を浮かび上がらせている。
「あれは立待ち月。ほんの少し欠けているんです」
 満月じゃないのよ、と指摘されたことで気まずさが増幅してしまった。そこは触れずにスルーしてくれたっていいじゃないの、と内心思う。
「わたし、満月は嫌いです」
「……」
 彼女は上空に輝く立待ち月を見上げると少し微笑んでいるようだった。
「これから新月まで、どんどん欠けてゆくと思うと寂しくて」
 へえ、素面でこんなことを言える人がいるんだ。もし男の人だったらドン引きするとこだわ──琴絵は彼女のロマンティックな言葉に気の効いた返事を用意することが出来ない。
「大事なひとがどんどん遠くへ行ってしまうみたいでしょう?」
「……でも新月過ぎたらまた戻ってきますよね」
 たかが月の満ち欠けにネガティブすぎやしないか、と少々反感を持ったのかもしれない。そう反論した。
 すると彼女は琴絵の方を振り返り、にっこりと微笑んだ。肌が、月のように青白い。
「そうですね。わたしはただそれを待っているしかないのだけど」
 どきん。
 何故かはわからない。ただ、琴絵の胸が小さく跳ねた。
 なんだろう。
 こういうの、知ってる気がする。

 彼女が立ち上がる。体ごと琴絵に向き直り、小さく会釈をした。月の光を受けて、彼女自身が光を放っているかのように見えた。
「ありがとう。おやすみなさい」
 そのまま、部屋の中へと姿を消した彼女を目で追う。
 まだ胸がどきどきしている。

 どうしよう、あのひと──幽霊だったりして。

 そう思えるほど、彼女はどこか浮世離れしていた。
 それ以上に、琴絵は『彼女の物語』を知っているような気がした。
 せっかく淹れ直したコーヒーも冷えた外気によってすでに冷め始めている。部屋に入りマグカップを置くと琴絵はぱちんと音がしたように答えを見つけた。
 あの本。
 母の本。
 たった20ページほどしか読んでいないあの本。

 ヒロインの看護婦が言っていたのだ。

『わたくしは満月から新月まで欠け続けてゆくのが寂しくてなりませんの。大事なひとがどんどん遠くへ行ってしまうみたいでしょう』
 そして主人公がこう返したのだ。
『月は新月を過ぎればまた満ちてゆく。必ず戻ってくるじゃあないか』

 そうか。あの一節を読んでいたからとっさにあんな言葉が出たんだ。

『わたくしは待っていとうございます。よろしゅうございますか』 
 その一行まで読んで、栞を挟んだ。
 まだ物語の冒頭だというのに主人公とヒロインはもうすでに恋仲で、遠くへ行こうとしている主人公をヒロインが待っていると宣言したのだ。
 そういえば、行くの帰るの言っていたはいいがまだ主人公がどこへ行こうとしているのかも語られていない。

 琴絵は本棚に置いた母の形見の本を手に取り、大事にカバーを外した。
 彼はどこへ行こうとしているのだろう。待っていると宣言した彼女には何が起こるというのだろう。
 つまらないと思った物語が、突然気になり始めた。
 本を開いて、もう一度冒頭から読み始める。
 母が愛した物語を。

 ヒロインの顔が、さっきの彼女の顔に思えた。




禁無断複製・転載 (c)Senka.Yamashina

ちょうど1年ほど前、Twitter診断の一種「恋愛お題ったー」からお題を引いて即興で短編を書くというシリーズを20話書いたのですが、その第二弾を開始します。
去年のように1日1題をほぼ毎日続けるというのは少し難しいかもしれませんが、まあやってみましょう。
さらに今年は、お題ったーで引いたお題の他に、別の括りを設置して書いてみます。

テーマ:ヤマシナセンカさんは、「深夜の庭」で登場人物が「待つ」、「本」という単語を使ったお話を考えて下さい。

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2 Comments(10/1 コメント投稿終了予定)

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妹こんばんわ (雷庵博人)
2011-11-09 21:40:30
「立ち待ち月の彼女」
世界観に引き込まれました。ちょっとこれは、続きがあるような気がする。

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>お兄ちゃん! (さいん(センカ))
2011-11-10 00:03:30
いらっしゃいませ~♪
感想どうもありがとう!
一応一話完結だけど…みたいな感じで進めていきます。
お気に召したら続きもお楽しみ下さい♪
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