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day by day

癒さぬ傷口が 栄光への入口

オールド・グランダッド【2】

2010-04-09 | オリジナル。
2.perdendosi


 目の前に運ばれたコーヒーにミルクを入れ、スプーンで掻き回す。その手が小刻みに震えてカップをかちかちと鳴らした。左手でそれを押さえようとしても止まらない。
 森平双葉は落ち着きなく喫茶店の店内を見回した。
 目深に被った帽子をさらに深く被り直す。煙草に火を点けたが味を感じない。
 いらっしゃいませ、というウェイトレスの声にびくり、として視線だけを店の入り口に巡らせると、双葉はほっと息を吐いた。
「悪い。待たせたな」
 背の高い男が双葉の向かいの席にどっかり座り、ブレンド、と簡潔に注文した。
 ツナギの作業服を着ている。
 双葉は火をつけたばかりの煙草を消した。それと入れ替わりに男がポケットから煙草を取り出す。
「ヒロくん、いつ出てきたの」
「あ?先月かな。急に連絡して悪かったな」
「あたしこそごめんね。電話だとなんかダンナが盗聴でもしてるんじゃないかと不安でさ」
 ひそひそ声。
 双葉は今ももし夫に見つかったらと怯えている。
 その様子を男──広樹は眉を顰めて不機嫌そうに観察した。
「今、よくあたしだってわかったね」
 帽子を目深にかぶっていることもあるが、昔は金髪だった髪も今は真っ黒だし服装も地味で野暮ったいのに。そう言うと広樹は短く当たり前だろ、と呟いた。
「で、今どっかで働いてんの?」
「ああ、章次先輩のクルマ工場で雇ってくれた」
 油汚れだらけのツナギ。仕事の途中で抜けてきたのだろう。章次先輩というのは昔の不良仲間だ。
 注文したブレンドコーヒーが運ばれる。ミルクも砂糖も入れずに口に運ぶと双葉はそれを見てあれ、ブラック飲むようになったんだと言った。
「昔は甘いのが好きだったくせに」
 疲れた暗い顔を無理矢理歪めるように双葉は笑った。広樹はそれには答えようとはせず、ただもうひと口コーヒーを啜る。

 広樹に会ったのは何年振りなんだろう──
 昨日、携帯電話に広樹から着信があったのは丁度テレビで昼のワイドショーをやっている時間帯だった。
 もう何年も前から互いに音信不通で、広樹が傷害事件で実刑判決を受け服役したことも後から知人を介して知ったことだ。だから何故広樹が現在の双葉の携帯電話番号を知っているのかと不思議に思った。どうやら双葉の幼馴染・有理に聞いたらしい。
 その時、双葉が夫に苦しめられているらしいということも遠まわしに聞いたのだという。
 だから、わざわざ真昼間の、夫が絶対に在宅しないであろう時間帯にかけてきたのだろう。
 双葉の夫は半年ごとに妻に携帯電話の番号やメールアドレスを変更させ、毎日着信や発信履歴、受信送信メールをチェックしている。そのうち携帯電話そのものを取り上げられるか、子供向け携帯のように通信できる相手を限定する機種に変えさせられそうな勢いだ。いや、それどころかもしかしたら家の中に盗聴器や隠しカメラでも仕掛けてずっと見張られているのではないかと気が気ではない。そのせいで双葉は友人からの電話でもかかってくればすぐにベランダに出る習慣が出来てしまった。
 広樹からの電話も、だから用件──今日ここで会う約束──をさっさと済ませ、切った後もすぐにその履歴は消去した。その電話番号を登録するなんて、とんでもないことだった。

「──子供は?」
 勢いよく吸ってあっと言う間に短くなった煙草を広樹は少し苛々した仕草でにじり消す。
 双葉はふう、と声が漏れるような勢いで溜息をついた。
 子供がいることも聞いているのか。昨日の電話ではそんな話をする余裕は無かった。
「みさきは今朝父ちゃんに預けてきた。二度と顔も見たくなかったけど、背に腹はかえられない。少なくともうちに置いとくよりはマシだと思う」
 広樹は小さく頷いた。
「ダンナって──そんな酷い男なのか」
 双葉は体内の悪いものを排出したいかのように深く息を吐いて俯く。細い肩が震えていた。
「あたしさあ、多分どうしようもない馬鹿なんだよね」
 双葉の現在の夫は、籍を入れた入れないをさておき一緒に暮らしたという基準でなら通算4人目である。今年9歳になる娘は前の夫の子供だ。
 どれもろくな男ではなかった。働かない男、ギャンブル狂いの男、そして暴力を振るう男。何度懲りても今度こそと思った男は結局同じようなろくでなし。
 現在の夫は今までの男と違ってちゃんとした会社員で、双葉でも知っているような有名な大学を出たインテリだ。だから今度こそ大丈夫、幸せになれると思ったのに──
「父ちゃんみたいな不良親父がマシに見えてくるよ。だって父ちゃんはあたしらや母ちゃんのこと、殴ったりはしなかったもん」
「……殴るのか、ダンナ」
 うん、と頷く。そろそろ薄着になってきたシャツの胸ボタンをひとつ外しこっそりと広げて見せると胸のあちこちに青あざが残っていた。双葉の顎に指を伸ばし少し顔を上げさせる。目深にかぶった帽子に大半隠された顔にも、微かにあざが見えた。
「普段は顔は殴らないんだ。外面だけはいい男だから。会社やご近所には家族思いのいい夫に見られたいみたい。でも、好き勝手な時間に帰ってきては食事の用意が遅いって蹴飛ばしたり、会社で何か嫌なことがあったら帰ってきてから八つ当たりで殴るし、スカート穿くとか化粧して外に出たりちょっと買い物先で男の店員と話しこんだだけですぐに男に色目をつかいやがって、中卒の低脳でヤることしか考えてないような女だとか罵倒するし──」
 ぽたり、と涙がひとつ落ちる。ひとつ落ちたら止め処なくぽたぽたと次の涙が落ちた。
「みさきがちょっと言う事きかなかったら、俺の子じゃないからって馬鹿にしやがってって、みさきのことも叩くんだ」
「───」
「あたしがみさきを庇うと、そんなに前の男がいいのかって言ってまた殴る」

 前の男もあんたと同じ、弱い者に力を振るって自分の地位を確認したい人間の屑だった。
 誰が父親だとかあたしには関係ないもん。みさきはあたしの子だから大事だってだけ。
 でも男にはそういうの、わかんないんだろうね。

「双葉」
 広樹は手を伸ばしてテーブルの上にこぶしを作って震えている双葉の両手を掴んだ。
「なんでもっと早く逃げねえんだよ。このままじゃみさきもお前も、殺されちまうぞ」

 殺されなきゃ──お前がその男を殺しちまう。

 片方の手を広樹の掌の下から引っこ抜いて双葉は涙を拭う。自嘲するような笑いを漏らした。
「……キレてない時はすごく優しいんだよね。すごくいいダンナなの」
 ドメスティック・バイオレンスの加害者になる男はよくそういった振る舞いを見せる、と双葉もテレビで見たことがある。我に帰ると暴力について必死に謝ったり、普段は並以上に優しかったり。妻はそれが忘れられなくて暴力を振るわれても我慢してしまうのだとか。夫の本質は優しい方で、突然怒り狂ったりするのは他に要因がある異常事態なのだと思い込もうとするとか。挙句、それは自分に問題があるからだと自分を責めてしまうだとか。
 双葉はこれまで男との暮らしに成功したことがない。だから現在に至っているわけで、やはりそれは自分に原因があるのだろうと思ってしまう。
 男を怒らせてしまうようなことを、自分はきっとしてしまっているのだ──
「だとしても、もう限界かも。たとえあたしが悪いんでも、みさきだけでも守らないと」
「わかった」
 広樹は何かを決意したように、唇をぎりっと噛み締める。
「お前はみさきと一緒に親父んとこに隠れてろ。俺がなんとかしてやるよ」
「ちょ、ヒロくん何する気」
 立ち上がろうとする広樹を双葉は慌てて押し留める。
「心配すんな。悪いようにはしねえから。話つけてきてやるよ。ダンナの居場所教えろ」
「やめて、ヒロくん出てきたばっかじゃん。何かあったらまた塀の中に逆戻りだよ」

 縋りつくように広樹の腕を掴んで顔を見上げる。広樹は笑っていた。
 その顔をじいっと見つめると、双葉はごくり、と唾を飲み込んだ。



「紺野くーん、ちょっとちょっと」
 生活安全課の女刑事・柊がにっこり微笑んで手招きしている。

 梓条警察署、午後8時。

 刑事課の紺野祐二は帰宅しようと背広に手を伸ばしたところだった。
「うわあ、嫌だなあその笑顔。俺別に暇なわけじゃないですよ」
「って帰るとこだった癖に。いいじゃん、独身で彼女もいないんでしょ。いたいけな少女が行方不明で捜索願が出たの。これから誘拐に備えて鑑識連れて行くんだけど一緒に行って欲しいんだ。誘拐じゃなくても事件に巻き込まれてるかもしれないじゃない」
「そりゃそうですけど……何で俺なんすか」
 それは紺野くんだからよ!と柊は胸を張って断言した。紺野には意味不明である。

 柊奏子は紺野が交番勤務の制服警察官だった頃、その周辺担当の交通課のやはり制服警官だった。年は紺野より3歳上。私服刑事として生活安全課に転属になったのは紺野が刑事課に転属になる1年前である。さくさく試験を受けて、今の階級は巡査部長。がっしりした体格だと思ったら、中学高校と柔道で県大会のベスト4に入るくらいの実力者だったらしい。おそらく、組めば紺野が投げ飛ばされるだろう。性格もさばさばしていて親分気質、そのうえ酒豪だときている。しかしそのくせ、実は可愛らしいキャラクターグッズなどが大好きな女の子っぽいところがあることも紺野は知っている。
「あれ、高山さんはいないのね、今日は」
「あのオジさんはとっとと帰って今頃どっかで飲んでますよ」
 高山というのは普段、紺野がコンビを組んでいる先輩刑事である。
 何か事件の捜査にかかっている時には帰宅することもせず署に泊まりっきりになるが、自分の担当の捜査が無い時には終業時驚くべき速さでいなくなる。今日も紺野があっちを向いてこっちを向いた間にいなくなっていた。
「なーんだ。紺野くんを餌に高山さんも連れて行こうと思ったのに」
「餌ってなんすか。俺があのヒトの餌になるわけないでしょ。むしろ俺を囮にして逃げますよ」
 刑事課の3分の2は二十代の若手で順にベテランとコンビを組まされるのだが、紺野は刑事課に配属になってからずっと高山と組んでいることになる。組んで半年ほどで高山のキャラクターに耐え切れず課長に内々にコンビ替えを頼み込んだのだが、心配するなすぐ慣れる、とワケのわからない説得をされて今に至っている。結局、課長の言葉通り慣れはした。今では紺野は高山のお目付け役扱いだ。
 紺野本人に声を掛ける前に柊はちゃっかり刑事課長に紺野の応援を要請して受理されていたらしく、渋々ながら柊に付き合って車に乗るしかなかった。後部座席には逆探知の装置一式を持った鑑識捜査員が乗り込む。

 柊は実は高山に気があるんじゃないか、と紺野は密かに思っている。いくら逞しい親分肌の男前でも、中身はアラサーとはいえ独身女だ。そりゃあ恋のひとつやふたつ、するだろう。もっとも、それが本当に高山なら物好きだなあとしか思えないのだが。
「たまに高山さんの『面倒くせえ』を聞かないと張り合いないんだよね。あれ聞くとこっちがしっかりしなきゃ!って思うし」
「そういうもんですかねえ…。俺なんか、段々自分も毒されてきてる気がしてたまにヤバイと思いますけど」
 高山の口癖は『面倒くせえ』である。実際にはやらねばならないことは最低限でもちゃんとやるのだが、とりあえず『面倒くせえ』と文句を垂れるのが癖なのだ。実際、紺野はたまに『面倒くさいなあ』などと言ってしまって青くなることがある。なるほど、柊のように考えればいいのか。

「さて、つまらないお喋りはこれくらいにして、予習しましょう」
 助手席で柊はごそごそと小さなリングノートを出して開いた。表紙に描かれたクマのぬいぐるみのイラストがちらりと視線を掠める。その表紙にはそぐわない内容の項目を柊は朗々と音読し始めた。

 行方不明になったのは加地美咲ちゃん、8歳。市立梓条第二小学校2年生。4月から3年生。
 本日午後4時30分から、三つ池町2丁目14-3鶴見藍子さん34歳宅のピアノ教室で個人レッスンを受講。5時3分に終了。その後、同宅にて母親・加地美摘さん36歳の迎えを待っていたが午後5時48分に美摘さんが迎えに行った時には美咲ちゃんの姿は無かった。
 同宅にて同様に親の迎えを待っていた他の子供の証言によれば、5時20分ごろまでは庭で飼い犬・リリーと遊んでいたことが確認されている。ただし、時計は見ていないので正確な時間は不明。
 美咲ちゃんの姿が見えないことに気づいた美摘さんと、他の子供を迎えに来た親に留守宅を預けた鶴見さん、隣家の木本さん夫妻が協力して周辺を探したものの見つからず。加地さん宅に帰宅していた長男の勝美くん11歳にも連絡は無く、午後6時15分、三つ池町交番に届出。その後三つ池町交番の警察官及び勤務先から駆けつけた美摘さんの夫・久典さん40歳も含めてさらに捜索したが発見されなかった。
 美咲ちゃんはピアノ教本などを入れたレッスンバッグを持ち上着も着て鶴見さん宅を出たとみられる。なお、携帯電話は普段から所持していない。自らの意思で出た可能性があることから、顔見知りによる連れ去りの可能性もある──

「現在のところ、身代金要求など脅迫を匂わすような不審者からの連絡はなく、他の目的による誘拐だとかもっと悪質な事件に巻き込まれているとか、事故に遭っているとか、逆にどこかで遊んでいて時間を忘れてるとか迷子になってるとか、何も見えてないってことね。少なくともこれまでの捜索の際には美咲ちゃんに繋がるモノ、持っていたバッグや衣類などね、それも発見されてない。とにかく今夜美咲ちゃんが戻らなければ明日の朝には公開捜査になるでしょうね」
 子供が狙われる犯罪は少なくない。あらゆるケースを頭に想定して、紺野は気分が重くなった。
「──俺らが到着したらひょっこり帰ってきてました、ってのが一番いいんですよね」
 呟いた紺野の言葉に柊はうん、と大きく頷く。

「その子が後でこっぴどく叱られたって、あたしらの出動が無駄になったっていいのよ。無事であってくれれば」

 ちらりと柊の横顔を垣間見る。やっぱり、高山さんよりよっぽど男前だなあと紺野は思った。

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