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!morning thunder=朝の神鳴り!

 思いつきを書きながら、思いもかけない場所に行き着つきたい それだけが望みです

贅沢としての共産主義

2006-02-18 17:43:46 | 悪について
 生産手段の国有化、私有財産の否定、一党独裁、暴力革命などという言葉が浮かぶ いくつかの有名な名前 多くの若者をひきつけた理念だ
 官僚組織の肥大、独裁による腐敗、政治犯の処刑、計画経済の破綻 全てが裏目に出ている 
 本来、公的な権力は、人々に平等を保障するはずだ 教育、医療、富の分配の平等が全体を底上げするハズだった しかし、官僚組織が硬直化し、自己目的化することにより肥大化と腐敗が起こる
 独裁は、革命を効率よく達成することを保障してくれるハズだった
 しかし、自分に反対するグループや政敵を闇から闇に葬ることしかしなくなる
 計画経済は欲望と消費を調和させた生産を保障するはずだった 
 ところが、単なるノルマかお役人の作文に堕した
 私有財産の否定は、悪の根源である不平等を一掃するはずだった
 一掃されたのは、やる気だったりする
 共産主義にその理想の実現を夢見た若者は、こうした事態を予見できなかった
 幻滅につぐ幻滅
 うまく行くはずの、絶対うまく行くはずの共産主義は、思い出の中にしかその居場所がなくなったようだ
 要するに手の込んだユートピア思想の一種でしかない
 どこが決定的にダメなのか?
 私的所有であれ共有であれ、何かを持っているということ、その持っているものを他の場所に移転させるということに不可解さがある
 所有しているものが、移転されるとその性質の一部を失うと同時に何か別の価値を生み出す こうした所有権の移転により、ものが別のものになる それは、より高い価値生み出すかもしれないし、何も生み出さないかもしれない
 人が所有に執着し、所有の移転に抵抗するのは、所有が彼には少ないと感じられると同時に、この移転が、彼に何ももたらさない恐れがあるからだ
 逆に十分あれば、所有の移転に伴う危険は、危険と意識されないだろう
 この理屈で言えば、自称億万長者こそ共産主義者に相応しい
 贅沢としての共産主義か?
  
  

 
 
  
 

 

帰属意識

2006-02-18 16:47:33 | 悪について
 自分が実際に何に帰属しているかはさておいて、当人は何に帰属していると思っているかがここでは問題だ
 何がホームで何がアウェイか問い直してもいい アウェイかと思っていたら、第二の故郷になったなどということもあるし、かってのホームももはや親しみを感じない熱の冷めた状態の場合もあるだろう 
 自分のホームの中では、人は、自分には何かができる、有力と感じることが出来るものだ
 日本で有名な帰属意識といえば、会社へのそれだろう
 「内の会社」という言い方に、それが良く現れている ホントウは取替え可能な歯車にしか過ぎないのかもしれないが、当人は、自分をかけがえのない者とみなしている 終身雇用への安心感がむき出しで表出されている 同類だが役人の談合組織への帰属意識には驚かされる なんか他にないの!!
 この会社への帰属意識も、このところの不況のせいで、正社員は減り、派遣社員が増えたことにより、薄らいではきた
 労働市場の流動性が増すことの当然の帰結だろう
 しかし、少子化による労働人口の逼迫により、企業の側も正社員への囲い込みを強めざるをえない そうなればまたぞろ「内の会社」とのたまう人々が増えるのかも知れない
 内の会社が嫌なら自分の専門性だけで生き残る手もある 専門に帰属するということだろう プロスポーツを現役でいつまでやれるかというようなもので、厳しい選択だ
 職業ならこの程度だろう 
 地域への帰属意識も薄らぐ方向だろう
 文化的な帰属意識になると、アキバ系、シブヤ系となるのだろうか?
 とりとめもなく帰属意識について考えていたら、私は何に帰属しているのかという所に帰ってきた 
 セブンイレブンだったりする
 妙な安心感と退屈が同居している
 新聞かもしれない 日々の退屈な反復でもあれば、驚きでもある
 日々組み替えられる品揃えと品定め
 微差に反応する意識だから、微分的なものへの帰属意識だろうか?
 
 
 
 
 
 
 
  
 

予定説

2005-04-07 18:01:27 | 悪について
 いきなりではあるが、予定説について思うことを書く
 私が理解している限り、予定説といわれる説は、凄まじい説だ これに比べれば、大抵の宗教は甘いか隙があると感じられる 
 予定説は途轍もなく単純な説だ つまり、「全てを神が予め決めている」これだけだ これだけのことをホントウに理解できれば、多様な宗教現象を予定説との関係で位置づけることができる だから予定説は、座標軸として有用だといえる
 さて、「全てを神が予め決めている」この世界で、さて人間はどうすればいいのだろう?
 悪行を控え、善行を積むべきなのか?
 免罪符を買うべきか?
 献金を弾むべきか?
 やりたければやればいい やりたくなければやらなくていい そんな人間の努力や思惑など神と何の関係があろう もう既に決まっている 決まっているように進んでいる いえることはそれだけだ 全ては神の意志だ この説の出現を歴史的に跡付けることも可能だ しかし、これだけいえばお分かりだろう あらゆる人間の行動、行為、意志、欲望など神にとって全てが予定通りなのだ
 このような教説は、人間の美徳、つまり勤勉、親切、献身、互助、宗教現象としてのお守り、お布施、儀礼すべてを否定しているようにさえ思うかもしれない 何をやっても予め神が決めていることを人間の行為の良し悪しごときで、変更されることはありえない 人間のごときが知りうることでもない 所詮人には到底、伺い得ないものなのだ 予定説に立つ限り、例えば殺人さえ神の意志だといえる 悪くもないし良くもない それは神によって予め決まっていたとだけいえる 異端の宗派が、殺人宗教としてこのように予定説を利用した例は多い
 この説のネガティブな側面ばかりに注目すると確かにそうなる しかし、一方でこの説は、あらゆる説の中でもっとも光り輝く説でもある つまり、この説を信奉するものは、道徳や義務感や倫理観から行動しない 彼は神の意志とともに自由に自発的に行動する やりたいことを好きなだけやる 我々は神とともにあり、神の意志を感じながら生きていく 神の祝福とともに生きる 予定説は、人をおそろしく活動的で勤勉にする 解放するのだ
 あらゆる絶望の中からでも、立ち上がることができる 絶望とは所詮人間の思い込みだ 神を人間の一種だと思い込むことから起こる錯誤だからだ 悪いことをしていないのになぜこんな目に遭うのか?などと悩むのは神と取引しようとしているからだ マッタクマチガッテイル
 ね、すごいでしょ予定説って