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!morning thunder=朝の神鳴り!

 思いつきを書きながら、思いもかけない場所に行き着つきたい それだけが望みです

拘束時間3

2006-03-20 09:07:27 | 悪について
 オセロのように、相互に駒を置き合うというルールだけでは、最後に逆転のチャンスが担保できるとは限らない ゲームの途中で実はゲームは実質的に終わっているということも十分ある
 現実には、最初から相互に対等に駒を置きあうというルールも怪しい
 逆に、相互性とゲームの勝負の不確定を維持することが極めて重要だということだろう
 希望を確保するということだ
 
 
 
 
 

拘束時間2

2006-03-19 10:10:47 | 悪について
 拘束時間と自由時間の関係を考えていた
 時間の質が問題なのだ
 差し当たり、お金とは関係なくいやいや仕方なく言われてやるのが拘束時間ということにした 無理やり流行を追ったり、人に話を合わせたりすることも当然拘束時間だろう
 突然だが、時間をオセロゲームのようなものとみなす すると、ゲームを降りなければ、最後の一手で一発逆転の可能性がある つまり、ゲームの途中経過はまだとりあえずのものでしかないということだ
 拘束時間と自由時間の関係を全体のゲームの帰趨と関係付けることにする方が、現実的だろう
 仕方なくやり始めたが、途中で何となく面白くなり、次第に愉しくて仕方がなくなる あるいは、最初は面白いと思っていたが、徐々に嫌になり最後は耐え難いというような拘束時間と自由時間の逆転現象をこのオセロ理論はよくとらえている  関係が腐っていくか熟していくかは、常に流動的だ
 生きている限り、次の一手を打つチャンスは巡ってくる さらに、ゲームの相手つまり敵だと思っていたものが、実は味方、味方だと思っていたものが敵というように流動的な相で、時間をとられることも重要だ
 労働時間や時短について考えていたことが、オセロ理論を通してみると、悪人正機と繋がっている事に気がつく
 一発逆転は常にあるというのが、悪人正機の本質ではないか?
 最後の一手まで勝負は決まらない つまり、最後に勝利する可能性がある 逆に、勝利とはとりあえずの途中経過でしかなく、実は危ういともいえる
 優勢にゲームを進めている人間は、途中でゲームを降り、勝利を確定したがるだろう
 劣勢にゲームを進めている人間は、一発逆転の可能性を求めてゲームを続けたがるだろう 祈るように 
 私は一発逆転を信じている
 そういう意味で、私は「奇跡」を信じているといえる
 
 
 
 
 

マルクス以後

2006-03-17 10:35:58 | 悪について
 TBをいただいた「赤い彗星の3倍早い人事労務論」さんのところにいきました コメントを書いているうちに、長くなったので、備忘に自分のところにコピーしました
 TBありがとうございます。
 同じ事を思う人はいるのだなと心強く思いました
 時間は、時給で測られる それ以外の時間は、時間の過ごし方によって測ればいいのだと思います
 それには、法的に労働時間の上限を決めて、それ以上は働かないという合意の形成が必要でしょう 残業の撤廃が前提でしょう 勿論、サービス残業などまったく問題にもなりません
 しかし、労組がこうした闘争目標を掲げ、経営者に対して、交渉力を持てるようになるのか疑問です。
 現実として首切りや社内評価(人事部がその中核)は脅迫そのものです しかも、それを避けたい労組に経営能力、人事権あるいはそのノウハウはありません
 労働市場の逼迫だけが、追い風になっているのが現状だと思います
 そこで数々の妥協と欺瞞が考案されているように思います
 マルクス以後とはそういうことだと理解しています
 
  
 

腐れ縁

2006-03-13 10:22:46 | 悪について
 腐れ縁という 切っても切れない縁のことだが、なぜそれほど強い縁のことを、「腐れ」と表現したのだろう
 引き摺られて自分自身もその腐れを受け入れざるを得ない できることなら避けたいし、巻き込まれたくない 自分にとっていいこととは思えないし相手にとってもいいとは思えない が、断れない 切り捨てられないのだ 
 普通縁を切ることはできる 非情といわれることを覚悟すればいいのだ 地縁をきる 血縁を切る 少し勇気を出せば可能だろう 縁とはその程度もののハズなのだ ところが腐れ縁は、そうはいかない 
 もし腐れ縁を切るとする それは、自分自身を切ることよりも過酷な体験となる何のために生きているのかを見失うだけではなく、自分自身の基盤、足元を失う この独特の崩壊からよみがえることは不可能だろう 自分自身よりも自分自身であるものを失う 耐え難いのではなく、耐えられない
 腐れ縁は「縁」が相転移し、液状化し遍在するようになる状況を示している 個人がその殻を溶解させ、より大きな関係と一体化するということだろう
 こうした関係との連続性を立ち切ることは、ちょうど空に舞う凧の糸を切るようなものだ
 個人を破滅させる腐れ縁などないほうがいいといってるわけではない
 むしろ逆に、それほどの強さの縁に恵まれたことを幸運と思うべきだ
 いずれにしろ腐れ縁の中で、生きて行くしかないのだろう
 
 
 
   

悪人正機再論

2006-03-11 09:33:02 | 悪について
 悪いことをする 通常、地獄に落ちるとされる ところが、極楽往生できる なぜか? 
 そうした悪に極楽往生で報いることは、悪の上にさらなる悪をなすことではないか?悪を赦すことは、最悪をなすことではないのか?
 悪はこれにより赦される しかし同時に、助長され、はびこり、蔓延するばかりではないか? さらに増長し徹底化すれば、悪をなすことが正義や義務となる これこそこの世の地獄そのものではないか?
 麻原や悪魔崇拝は、ここからさほど遠くない
 小さな悪を、絶対悪により救済する これが南無阿弥陀佛の本質なのだろうか?
 法律的な論理では、我々には、悪を選ばない自由があることが前提されている この自由な選択として悪を選んだ以上、悪はその償いをするべきなのだ この自由がなければ、悪そのものが存在しない 罪などあり得ない 避けがたかったのだ 運命として受け入れるしかない 
 悪人正機という教説は、宗教的天才の発明だ 
 悪は自然で必然である それは端的に悪ではあり得ない 赦される 極楽往生間違いなしだ 
 悪の避けがたさ、必然を認める すると 何をやってもお咎めなし 自由だ ここに忽然と絶対的自由が出現する 
 これこそが、南無阿弥陀佛の本質 この世がそのまま極楽浄土となる
 

     
 
   

ホリエモンと日銀総裁

2006-03-07 11:07:57 | 悪について
 ホリエモンは、言ってみれば日銀総裁の子分の子分の子分ぐらいの悪である 親分と同じ事をやったに過ぎないのだが、いかんせん小物なのでつかまった
 どちらも紙・パルプ関係である 
 もっぱら「紙」を売る 表裏印刷してるので、絵を描くのには適さない
 しかし、やっていることは同じなのだ まったく
 この紙自体には、価値はない 1万円で原価は20円と聞いた事があるが、本当のところは知らない
 私もマネして、紙を売ってみたいが、なぜか誰も買ってくれないだろう 紙の品質としては変わらない むしろいいのを使ってもいいとまで思っている  思いつめたものである
 この違いはどこから来るのか?
 ホリエモンの株券には夢が書いてある 日銀の紙幣にも夢が書いてある 私の紙には夢がないというのがその答えだろう
 豊かさの約束か? 未来の約束を現在に閉じ込めたと人が信じている限り、この紙は、特別なものでありえるらしい
 しかし、ある日突然、使用済みの紙でしかないとわかる
 それを永遠に先延ばしできるかどうかが、腕のみせどころなのだろう
 明日死ぬとわかっていれば、お金はたちどころに紙になる 
 死を先延ばしすること、延命措置としての金融政策だ
 ホリエモンが悪党なら、日銀総裁はその1000倍の悪党であるが、これが絶対つかまらないだな 
 頼むよ、特捜!!
 
  
  
 
 

なぜ一度でいいのか?

2006-02-27 20:47:43 | 悪について
 悪人正機の続きです
 なぜ、一度でいいのか?
 これに対するもっとも簡潔な答えは、南無阿弥陀佛と心から念じることが「絶対」だからだ
 人がこころから南無阿弥陀佛と念じる時、比較を絶した絶対として阿弥陀佛が永遠に存在する
 即身成仏も極楽往生も問題ではないのは明白だろう
 高々有限なもの、比較優位でしかないものは、この絶対で無限なものの前で消える
 
 

悪人正機(一度でいいから、心から)

2006-02-26 10:12:06 | 悪について
 悪人正機では、悪いことをしていない善男善女が積善により極楽往生できるというのなら、良いことが出来ない悪人は、なおさら極楽往生できるという教説のことだ
 これでは、昨日書いたように悪をなすことが極楽往生を保障してくれるかのよう思われ、殺せば殺すほど、盗めば盗むほど、悪を積み重ねれば積み重ねるほど極楽往生まちがいなしになってしまう このように解釈して、悪を実践した人、集団が確かにいたのだ
 何も地獄を恐れて、無理して善男善女のふりをすることはないとなる
 ハイリスクノーリターンである
 やればやるほど損をするといってもいい 純粋な浪費であり、無駄であり、根拠を持たない 悪によって貶められた行為になる
 積善は、無駄でありやらなくてもかわないことなのだ それでもヤリタイなら、勿論禁止はされてはいない 積善には何の見返りもない 積善は正当化できない 積善は、無根拠を根拠とするしかなくなる スゴイ!!
 親鸞の教説の徹底性と過激さが伝わってくる
 多くの注釈者が、この教説のこうした解釈に抵抗してきた
 当然だろう
 悪をなすことが、積善に根拠において勝るなど認めがたい
 しかし、これでいいのではないかと思う
 親鸞は悪をなせとは言っていない 悪は自然に根拠を持っている現実だといっているだけだろう
 親鸞が悪人正機によって、悪党を擁護したわけではない
 むしろ悪だろうが善だろうが行為の極楽往生による正当化それ自体をくだらないといっているのだろう
 むしろ、積善を無根拠化することにこの教説の眼目がある
 極楽往生を悪に対して保障することにより、極楽往生を無価値化しているといってもいい
 こうして液状化し、流動化した人々に祈れと説くのだ
 南無阿弥陀佛と
 一度でいいから心から
  
 

石川五右衛門と悪人正機

2006-02-25 12:11:58 | 悪について
 昨日の悪の存在論の続きです
 既にそこに先在する無分別な母を、悪と呼ぶのは勿論適切ではない 
盲目の愛によって、受容され見守られ育まれたことを悪と呼ぶのは、間違っている
親不孝というものだろう 
 悪魔がそうであるように、それは先住民族の神々に征服民族がお仕着せたレッテルでしかない ついでに罪の意識やら後ろめたさもおまけにつけてくれたわけだ
 母なる自然というほうが適切だ
 この自然に悪というレッテルを貼る
 先住民族の側が、失地回復に征服民族の犠牲を求めるのはまた自然なことだ
 先に仕掛けてきたのは、どっちだ!
 日本は単一民族だという人もいるだろうが、それは事実として違うし、先住民族
 を文字通り解釈しなくてもいい
 そう思ってみていると、納得がいくことが多いだけのことだ
 あらゆる現象の背後にこうした力学が働いている
 世に盗人の種は尽きまじといった石川五右衛門は彼が思っている以上に正しい
 世が盗人の天下なら、盗み返すのは悪いことではないのではなく、当然の権利であり、正しい
 義賊などと媚びることはない 賊とは義なのだから
 親鸞の悪人正機みたいになってきたぞ!!
 こんなことを書くと誰も信じないとは思うが、私は善人です!!
 
 

 
 
  

悪の存在論

2006-02-24 09:48:50 | 悪について
 悪いやつが集まって悪党になるわけではない むしろ党とは、そもそも悪なのだ
 悪いというのを良くないと読みかえるだけでは、悪の本質はわからないままだ  もう一歩踏み込む必要がある つまり良くなくていい 良くても良くなくてもどうでもいい
 劣悪も読みかえる必要がある 劣っていることつまり優れていないことではなく、優れていようが劣っていようがどうでもいい 醜悪もそうだ 醜かろうが美しかろうがどうでもいい 
 つまり素でいいということ
 人工的で不自然な努力しなくていいということ
 飾らなくていいということ
 悪は自足している
 何かを達成したり完成する必要はない
 言葉は要らない
 不完全なままで、完全なのだ
 ありのまま、裸のままで受け入れられる
 何も要求されない
 存在していればいい
 悪は、何かに似ていないだろうか?
 母だ
 母は悪である
 無分別な母!
 悪が己を維持しようとする そのとき、回りのものは悪を維持するための手段でしかなくなる 悪はそれにより、目的となる
 悪党は、目的のためには、手段を選ばない
 手段は合理的で理性的でありえる
 しかし、目的となると悪以外ではありえない
 だんだん異端の宗教に近づいてきた
 桑原 桑原
 
 
 

悪友と正義の味方

2006-02-23 10:04:47 | 悪について
 悪友という言葉に、「悪」というものの本質が現れている
 悪友というものを持っている人、持ったことのある人ならわかるだろう それは、身内、家族以上のものになりうる つまり内部の内部だ 超法規的な規則に従っている
 悪友のもつ親密性、一体感なしには、愉しみが愉しみとして完成しない 
 この内部が危機を迎えれば、それを守るためには、外部は犠牲にされる 外部は敵か利用すべき資源でしかなくなる
 この個人や自我を溶解させる力こそ悪の本質だ
 悪は誘惑する
 正義はこの悪の後に、この悪の誘惑に対する反作用として成立する
 正義の味方が、遅ればせにやってくるのはそのせいだ
 
 
 

あってはならないこと

2006-02-22 15:09:43 | 悪について
 戦争、殺人、談合あってはならないことなのだが、途絶えることはない
 こうしたことが起こってしまうと、それはどうしようもない、取り返しのつかない厳然たる過酷な事実となる
 やられ損である 
 さらに戦争当事国となれば、戦争はあってはならないものではなく、やらなくてはならない、協力しなくてならない、戦い抜かなければならない義務となる それが嫌なら非国民という次第 
 失業したくないなら、兵器産業に就職することを薦める
 戦争がなくならない以上、兵器産業もつぶれない
 これは、悪というものが、安定した現実を作り出す条件だということを証明している
 悪はほとんど客観的なモノとして存在する
 目をつむってもそこにある 消えない 
 
 
 
 
 

矛盾の隠蔽と偽の対立

2006-02-21 10:09:05 | 悪について
 耐震偽造マンションがある 
 全てのマンションが、この耐震偽造疑惑に巻き込まれる
 そこで、マンションの中古市場での適正価格による取引が不可能になる 不当に、安いか高くなる 特に中古マンション所有者が不作為で偽造をチェックしないで、大丈夫だといって、売った場合、犯罪だろう
 このような中古マンション市場で買い手と売り手は明白に利害が対立しているように見える これは偽の対立ではなく、ホンモノの対立ではないか?
 結果的には、中古マンション市場は冷え込み、新築マンションへの買い替えにもブレーキがかかることになる
 このように市場で売り方と買い方がガチンコで勝負するというのは、裁判がそうであるように、問題の決着ではあるのかもしれないが解決ではない
 問題は、このように市場で決着をつけるよりも市場の手前、市場外で相対で解決する方が、はるかに傷は少なくてすむのではないか?
 問題は、市場で適切に解決できる場合もある 裁判で適切に解決できる場合もある しかし、それだけが唯一の解決法であるわけではない 問題をどこで解決するか?と どこで決着するか?は、区別すべきだろう
 問題には、それに相応しい効率的な解決場所がある その場所に移動して解決すべきだ
 例えば、戦争は偽の対立だ
 唐突ではあるが、そう思う
 
 
 

時間の共有

2006-02-19 14:38:59 | 悪について
 時間の共有が可能だということは、実はスゴイことだ 
 人は時間を買ったり売ったりせざるをえない だから、時間を共有するというのは、ありえないと考えるのが普通だろう
 ただの比喩であって、結局どちらかが、売っていたり買っていたりする だから、私の時間を返してくれなどと後からクレームがきて往生する
 私的所有の否定という共産主義の理想は、裏目にでた 
 しかし、時間の私的所有の否定というのは、それほど困難な気がしない
 そもそも、時間は私的所有によりも、共有される傾向がある
 例え生産的でなくても、時間は共有されることをやめない
 お金や物から時間に視点を移すと所有の移転の問題が変容してくる
 共有された時間とは、何だろう?
 リスクか?問題か?