拘束時間と自由時間の関係を考えていた
時間の質が問題なのだ
差し当たり、お金とは関係なくいやいや仕方なく言われてやるのが拘束時間ということにした 無理やり流行を追ったり、人に話を合わせたりすることも当然拘束時間だろう
突然だが、時間をオセロゲームのようなものとみなす すると、ゲームを降りなければ、最後の一手で一発逆転の可能性がある つまり、ゲームの途中経過はまだとりあえずのものでしかないということだ
拘束時間と自由時間の関係を全体のゲームの帰趨と関係付けることにする方が、現実的だろう
仕方なくやり始めたが、途中で何となく面白くなり、次第に愉しくて仕方がなくなる あるいは、最初は面白いと思っていたが、徐々に嫌になり最後は耐え難いというような拘束時間と自由時間の逆転現象をこのオセロ理論はよくとらえている 関係が腐っていくか熟していくかは、常に流動的だ
生きている限り、次の一手を打つチャンスは巡ってくる さらに、ゲームの相手つまり敵だと思っていたものが、実は味方、味方だと思っていたものが敵というように流動的な相で、時間をとられることも重要だ
労働時間や時短について考えていたことが、オセロ理論を通してみると、悪人正機と繋がっている事に気がつく
一発逆転は常にあるというのが、悪人正機の本質ではないか?
最後の一手まで勝負は決まらない つまり、最後に勝利する可能性がある 逆に、勝利とはとりあえずの途中経過でしかなく、実は危ういともいえる
優勢にゲームを進めている人間は、途中でゲームを降り、勝利を確定したがるだろう
劣勢にゲームを進めている人間は、一発逆転の可能性を求めてゲームを続けたがるだろう 祈るように
私は一発逆転を信じている
そういう意味で、私は「奇跡」を信じているといえる