その古風な建物は東京の墨田区の横網町
(よこあみちょう)公園の一角にあった。
清澄通りと蔵前通りの交差点の近くに、
ひっそりと佇むその二階建ての建物は、
公益財団法人の東京都慰霊協会が運営
する復興記念館という名前だった。
大正12年(1923年)9月1日に発生
した関東大震災の惨禍を後世に伝える
ために作られたもので、無料で展示物
を見ることができます。
震災関係の展示に加えて、東京大空襲
による戦災関連の展示もあるが、大半
が関東大震災のもの。
関東大震災では、東京だけで5万8千
人の命が奪われた。主な原因は火災。
昼直前に地震が発生したことと、風が
吹いていたことで、火が一気に市部を
焼き付くし、東京の戸数の約7割が消失
したと言われています。
中でも被害が多かったのが本所区(今
の墨田区)、中でも本所横網町の
陸軍被服省跡の空き地(現在の横網町
公園)だったのだそうです。この空き
地に非難してきた人たちの約3万8千
人の人々が一度に火に飲まれたのだそ
うです。
この上のグラフは区別の被害者数なの
ですが、本所区が圧倒的に多いです。
この復興記念館には、被害の痛ましさ
を示す展示物も多いのですが、私が
注目したのは、海外からの救援活動と
政府の復興対策に関する展示でした。
今年の東日本大震災も海外からかなり
の義援金や救援活動の手が指しのべら
れたのですが、今から88年前の1923
年も同じような状況だったようです。
やがて間もなく太平洋戦争でアメリカ
は敵国になるのですが、この当時、
アメリカはかなりの義援金を日本に
送ってきたようです。
こちらは、日本を助けようと訴える
ポスター。
日本を助けるために義援金を募る文章。
そしてこちらは義援金となる切手のようです。
またこちらはフランスから日本に送ら
れた医療器具。
時代は変わっても、国を超えて助け合うという
姿勢はこの時代からあったのですね。
そしてこちらの展示は、東京の復興計画。
財源と予算がかなりしっかりと計画されていました。
ここで学ぶべきは、政府の行動の迅速さです。
9月1日に地震が起こるや、翌二日には
山本権兵衛氏を首相とし、後藤新平氏を
内務大臣とする内閣が組閣され、応急の
救護費1000万円の臨時支出を決め、着々と
復興を進めていきます。そして9年後の
昭和7年5月には帝都復興事業が完成し、
東京が完全に新しい近代都市として蘇った
という歴史が、パンフレットに記されて
いました。
これを見ると、今の内閣の頼りなさに
憤りさえ感じざるをえません。技術的に
も遅れていた昔の政府がこれほどまでに
迅速に復興に対応していて、技術が進化
した現代の内閣がこんなにも緩慢な対応
をしているのです。科学技術は進化して
も、政治というものは進化することは
ないのでありましょうか。
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