33話から大分飛んでました。お久しぶりです。
第3部になってからあまりまともに見られていないと言う寂しさ。
1・2部と3部とでは随分毛色が変わってきましたが、受ける感じとしてはうーん…視聴者離れが進みそう…^^;
面白いと思うんだけどなー
今までの清盛のスタンスからすると、ドラマの中での清盛の人物像がちょっとあれれれ…な感じに。
都に残した一族のしていることを「平氏は一蓮托生だから」で容認、政権の座についてやりたい事があるからで黙認。
…でいいのかな?
西行が「清盛は変わった」というような事を言っていたけど、それは見ている方も同じ感想を持つよなー。
ドラマの中の登場人物にそうした事を言わせるという事は、脚本も意図してそう描いているということだろう。
やり方が多少強引でも、自分が思う国造りにかける執念を表そうとしているのだろうと思いながら見ていますが、それでいいんかな?
福原と都の同時進行で政権の光になる面と陰になる面が並立して、ドラマとしては描くのが難しそうだなとは思う。
●千僧供養、万灯会
清盛が福原に拠点を置いていた時期、1年に2度千僧供養が行われていたようです。
神戸で行っていない時は広島の厳島神社で行ったりもしていたみたい。
千人の僧を集め、宿泊所といった施設や食事なんかも全て準備してイベントを行える財力って相当なものだと思いますなあ…
確か開く事ができるのが皇族や摂関家とか、そういう感じだったので。うろ覚えでスマソ。
そう言えば平泉の藤原清衡も中国で千僧供養を行ったという記録もありますな。
神戸では海の方、現在の和田神社の辺りで千僧供養が行われたのではないかと考えられているようです。
お久しぶり西行法師が出ていましたが、彼は実際にこの千僧供養の際に神戸に来ていたようで、その情景を歌に詠んでいたことが知られています。
消えぬべき法の光の灯火をかゝぐる和田の泊なりけり (山家集)
ドラマでも詠まれていました。
●禿(かむろ)
これは前回から出て来たんでしたっけ?
元々子供のおかっぱの髪型のことを禿(かむろ)と言っていて、それが平氏の密偵になった少年たちの固有名詞になっている。
おかっぱで赤い直垂を来た14~16歳の少年たちとされていますが、リアルに見ると気持ち悪いな!
とはいえ禿は史料からは確認されておらず『平家物語』の創作だと考えられています。
ただ、これが元になっているのでは?というモデル的なものはある。
平時忠が2・3度検非違使の役職についています。
今の段階では別当(長官)になっているか、なる直前かどちらかか。
検非違使は都の治安維持と民政にあたる役職で、別当なので前者に関して言えば時忠は京都府警のトップを務めたということになる。
ちなみに清盛も務めた事があります。
その検非違使の最下部に放免というのがいまして、これが釈放された罪人になります。
釈放した元罪人を使って犯罪の探索をさせていた。
江戸時代の岡っ引きみたいなもんかと思いますが、これが結構乱暴であったようです。
そういうものの長官に平氏の人間が何度か務めているという所から禿の話が出て来たのでは?と言う…
●大輪田泊
宋との繋がりに関してはドラマの時代考証をされている高橋昌明さんの本そのままでした。
早春に聞きに行った講演会のレジュメを見ると、清盛に使いを送ってきていたのは趙伯圭という人物で、明州刺史と沿海制置使を兼ねていたようです。
確か後者の立場で日本に使いを送ってきていたという事だったと思う。
前者は今風に言えば県知事、後者は水軍を統括して海上貿易に害をなす海賊を取り締まる役目。
ドラマで清盛が言っていましたが、この人物は南宋の第2代皇帝孝宗の兄だそうで。
高橋さん曰くそうした人物の立場や役職の内容から考えて、日本への使いが一地方官の判断から出たものとは考えにくいという事だった。
宋の国の意思として日本との交易を始めたという事ですか。
ただこれまた春先に聞きに行ったシンポジウム(清盛縦横無尽@神戸)では、この日宋貿易については過大評価大禁物という結論に至ったので(笑)
まー…ドラマの主人公たちが実現したいと願う「国を富ませる」という所まではまだとてもとても。
ただ大輪田泊には何度か宋の船が入っていたようです。
ドラマでも後白河上皇が実際に宋人と会う場面があったり、羊等の日本にはいない動物を献上されたりしていましたが史実です。
遣唐使廃止以降に「どうしても外国人に会わないといけない時は御簾越しで」と決められていたのですが、後白河はそれを無視して宋人に会っており、九条兼実がそれに驚いて「天魔の所為か」だなんて言葉を日記に書き残しています。
兼実はドラマでもそういう台詞を吐いていました。ちょくちょく史料の言葉を引っ張ってきてますね。
●兎丸無念
初期から出ていたメンバーがこの段階でいなくなると言うのは寂しいですなあ。
しかも政権の手に罹ってと言うのも。都でのやり方のしっぺ返しが清盛に来たという感じですか。
兎丸が清盛に「どこに向かってるの?」といったような事を言っていたように思いますが、それは見ている人の感想でもあるような^^;
前回書いたエントリで松王丸伝説の話に触れました。
もしかして兎丸の妻子がその松王丸の扱いになるのかなーと思っていたのですが、それは流石になかったな。
●平時忠
そして平時忠が微妙な感じになってまいりました。以前からちょっと微妙だったけど。
確かに他の平氏一門の人々とは少し毛色が違います。
ドラマではそれでもそれなりに「清盛と共に、清盛を支えて」という感じがあるかと思いますが、多分そんな綺麗な話じゃなかったと思う。
元々堂上平氏(堂上=殿上の間に昇殿できる家柄)の出で武家平氏とは違うという違いがあるかと思いますが、時忠は清盛に助けてもらえず2度ほど配流になっているので普通に考えたら思う処があるのじゃないかなーと。
1度目は少し古い話になりますが、二条天皇の時代に妹滋子(建春門院)が産んだ皇子(高倉天皇)を擁立しようとして解官され、出雲に配流となっています。
2度目は最近の話で嘉応の強訴の際。
重盛の義兄である藤原成親が後白河により一旦配流になったものの呼び戻され、その後「嘘の報告してんじゃねーよ」という八つ当たりのような理由で時忠が配流になった。
うーん。2度目の時は清盛は神戸だし助けてもらえなかったというのはちょっと違うかもだけど。
清盛にも後白河にもギリギリの段階では捨てられるという感触を持っていたんじゃなかろうか。
壇ノ浦までついて行っているけれど助命されたり、自分の娘を敵方であった源義経に嫁がせたりと不思議な感じのする人ではあります。
結局最後まで生き残ってるしね。
●京の五条の橋の上
大の男の弁慶は♪
丑年に作ったゴム版スタンプ。
五条大橋にはすごくかわいいころんころんした牛若と弁慶の石像が立ってますが、当時の五条大橋は現在の松原通りにありました。
松原通りは四条と五条の間にあります。
四条五条のメインストリート並みの道幅と比べると大変狭いですが、清水寺に続く門前町、あそこの道が松原通り。
豊臣秀吉の時代に五条の橋の場所が変わったのね。
現在では四条通りがメインストリートですが、明治末頃までは三条通りがそうでした。
三条通り、鴨川より西側にはかつて銀行だったりした古い西洋建築が結構残っていますが、それがメインストリートであった名残になります。
河原町の道幅が広がってメインじゃなくなった。
江戸時代、東海道五十三次の最終地点は京都の三条大橋で、橋の東側には現在高山彦九郎の銅像が土下座してます。
ほれ写真。
土下座してるから通称『土下座前』若しくは『三条土下座前』(京阪三条駅の目の前)で、絶好の待ち合わせスポット。
いや、本当は土下座ではなくって望拝とか拝望なんとか、なんかそんなのです。
エキセントリックで知られる勤王家高山彦九郎ですが、入京前は御所に向かい伏し拝んでいたといい、それがあの像になります。
そして橋の西側には弥二喜多道中の弥二さん喜多さんの銅像がある。
…でっていう感じですが、歴史が長い都市だけに変わっている所も結構あるなーと思いまして^^;
*****
今日でサイトを開設して8年になります。
始めた当初はどーせ1年か2年で辞めるだろうという感じだったのですが、豈図らんやまだ続いてる。
自分が一番びっくりしてます。わはは。
相変わらずゆるーい感じでの更新ですが、遊びに来て頂いている方、いつもありがとうございます。
最近ではブログを含め常連さんも増えているようで、拍手や感想を頂く機会も増え、本当に励みになることが多いです。
開設して1・2年ほどはカウンターもつけずサーチにも登録してなかったので、本当に見ている人いるのか状態でした。
その頃の事を考えると今との違いは一体何なのかと。
私のサイト・ブログは歴史ジャンルの中でもそんなにリピーターさんを掴める力がある場所ではないと思いますが、過分な人数の方に御覧頂いていると感じています。ありがたいです。
無駄に年数重ねて来た甲斐がありました。
広瀬武夫メインと銘打ちつつ現在「広瀬どこ行った」状態になっていてすいません。
偶に自分で突っ込む。お前は南国アイスホッケー部か(※最初はアイスホッケーしてた)。
申し訳ないけど気分乗らないとできない。笑。
ただ、長い期間やっていると広瀬だけでは絶対にネタがもちません。
正真正銘広瀬武夫中心のサイトであったならとっくの昔に消滅していました。これは確実に言えます。
広瀬を含めた近代、江戸時代中期~幕末、平安時代と気分によりあっちへ行き、こっちへ行きという感じでいるから続けて来れたと思います。
近代と江戸ならまだしも、近代と平安は流石に並立が難しかろうと思いきや(読む人は少なかろうということ)、平泉の世界遺産登録や今年の大河ドラマで近代目的だったのに平安もついでにとか、その逆とか、それで「興味が出て来た」と感想下さる方もいて。
歴史ってちょっとおもしろいんじゃね?と感じる人が増えたらいいな~と思いながら書いている所もあるので(特にレビュー系はそんな感じ)、歴史好きの端くれとしてはこれ以上にない褒め言葉です。
更新の都度内容の濃いものを上げたり深みのある専門的な事を書くというのは私の能力ではちょっと無理ですが、まあゆるゆる続けて行きたいと思っています。頑張り過ぎると燃え尽きるので(笑)
これからもよろしくおつきあい頂ければ幸いです^^
最新の画像[もっと見る]