※サイトの史跡ページに改訂版を載せました※
先日は上衣川の史跡「一首坂」のご紹介でした。
今日は下衣川の史跡に。
レンタサイクルで見て回るという意味では、下衣川の方が回りやすいです。
距離は有ってもアップダウンが殆どないので。
史跡も広くない所に点在している感じなので…基本的に衣川に添って存在していたというのを知っておけばかなり楽に回れます。
中でも規模の大きなものは 長者ヶ原廃寺跡。
国指定史跡。
現在平泉を世界遺産にという動きがありますが、その平泉が候補地遺跡群のひとつとして推す史跡でもあります。
長者ヶ原廃寺、一般的にはというか…通常は金売り吉次が建立したとか住んでいたとかそう言う話で有名です。ぶっちゃけ地元伝承かな?
金売り吉次というのは、歴史好きの方でなくても耳にしたことがあるかと思われますが、源義経に関係する人物です。
奥州藤原氏、三代目の御館・秀衡の意を受けて、京にいる義経を奥州まで連れてきたとされていますが、さて。
しかしながらこの長者ヶ原廃寺は、発掘調査から金売り吉次が生きていたよりももっと前、奥州藤原氏以前の安倍氏の時代に建立されたのではないかと考えられています。
また格式の高い寺院にしか許されなかった遺構も出土しており、化外の地、まつろわぬ民の住む地として蔑視されてきた奥州にも、高い文化が根付いていた事が分かります。
不思議だなあと思うのですよ。安倍氏って。
まあ私はあのう…一応八幡太郎から入った人間ですので。
安倍氏と言われてもピンとこなかった事は認めます(笑)
というか前九年の役後三年の役関連で、出版されている本って、殆ど八幡太郎側、ひいては朝廷目線で書かれたものです。
そこで描かれている安倍氏の扱いって、酷いです。本当に。
貞任なんて特にひどいです。愚か者の野獣扱いですよ。マジで。
実際に初めて岩手に行った時に感じたのですが…
あれは、違うよなあ…と。
なんというか「炎立つ」という作品との出会いは、私にとっては物凄いショックでした。
自分の歴史というものの見方が、偏り過ぎてるんじゃないかという。
私が知ってる”歴史”は、その時々の勝者が編んだものに過ぎなくて、読んでいるようで読まされているんじゃないかと、強く思いました。
歴史は、数学のような明確な答えの出ない学問です。
…というか、答えのない学問?
白か黒かと分けるのではなく、正邪を問うものでもない。
何が正しくて、何が悪かったかという事を分けるものではない。
戦争一つにとってもそうです。
例えば太平洋戦争に関しては、アメリカにはアメリカの正義と言い分があったでしょうが、日本には日本の正義と言い分があったはず。
良い悪いの問題じゃない。
前九年の役でも同じだと思うのですよ。
朝廷には朝廷の正義と言い分が、安倍氏には安倍氏の正義と言い分があったはず。
それがあまりにも朝廷側に寄り過ぎてるんではないかと、そう思うのです。
「反乱」っていうけどさあ、…本当に、反乱なの…?
どういう経緯と理由があったにせよ、朝廷側から見たら反対派の武力蜂起はなんだって反乱だろうよ。
はは。話逸れちゃいましたが、「あれは、違う」と思ったのは、岩手で感じた古代の文化レベルの高さにふれて、です。
古代東北の文化レベルが最高点に達したのは、藤原清衡以降といって間違いないと思います。
何度も出てきますが(笑)、藤原清衡は安倍貞任の甥っ子。
中尊寺を建て、金色堂を建立した人物です。
じゃあ藤原氏以前に何もなかったかというと、その種になる様なものが、やはり存在している。
それが長者ヶ原廃寺跡であったり、国見山極楽寺(北上市)であったり。
安倍氏の文化を担う力って、今から思うよりも相当高かったんじゃないかと思うのです。
義家は12歳の時に父源頼義に従い奥州に下向、その後前九年の役が終結するまでの十数年間を東北で過ごします。
戦争が始まるまでの数年間、表面上は安倍氏と頼義は友好関係を築いていましたから、当然交流があり、その息子たち、安倍貞任・宗任、義家は顔見知りであったと考える方が自然です。
互いにどういうレベルの人間か、知っていたと考える方が、自然です。
衣川を棄てて敗走する貞任に、「衣のたてはほころびにけり」と叫んだ義家。
咄嗟に上の句を返すだけの力を、貞任が持っていると知っている上で問いかけたのではないでしょうかね。
なーんて、色々つらつらと考えてしまう訳です(笑)
長者ヶ原廃寺跡とあんましかんけーねーなー(笑)
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