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2013/12/31 ヒジハラ

点描@衣川

2008-06-28 | 歴史の小旅
今日2度目の登場です(笑)
いやー本当は昨日更新する積りの旅行記だったんですが、書いてる途中に記事が消えちまいまして。マトリックス途中まで見て不貞寝しました(笑)

衣川を見て回るのに、一番便利なのが自転車です。
小回りが利かない車はきつい。
更に上衣川下衣川を回る場合、歩きでは無理です。
先日、平泉駅から衣川は自転車で20分くらいと書きましたが、その平泉駅の前にレンタサイクルがあります。
言えばここで衣川の史跡マップがもらえますし、隣接の平泉観光案内所でももらえますなー。

まあそうなのですが、衣川でじっくり腰を据えて周辺を見ようと思うと、一番いいと思われる宿泊所が、サンホテル衣川荘です。国民宿舎。
ここねーご飯がおいしいんだわ、マジで(笑)(しかもそこそこ安い)
サイクリングターミナルにもなっているため、こちらで自転車を借りることも可能です。
サンホテル衣川荘は高台の上にあるだけに、遠くから見ても一目で分かるのですが、その隣にお城があるため余計に目立つ(笑)
そのお城というのは懐徳館という郷土資料?か何かの施設らしい(行ったことない)のですが、その隣に、さらに歴史ふれあい館という郷土資料館があります。

 歴史ふれあい館

衣川の(主に古代の)歴史や街の位置付けを、出土品やジオラマを使って解説している、こじんまりとした資料館です。
大雑把な歴史を知るのにはいいかも。
説明員の方がおられるので、尋ねれば色んな事を教えて頂けます。
今回はこちらで話し込んでしまいました(笑)
平日の朝一で人がいなかったのもあったのですが、居られた掛かりの方と清衡について熱く語ってきました。
貞任好きで、衣川ゆっくりまわるの10年振り位という話をし始めてから火がついた(笑)
藤原経清(清衡の父)や八幡太郎義家が好きで来る人は多いけど、貞任が好きでというのは初めてよ!っていわれちゃった…切ないな~…衣川は安倍の本拠地なのにな~…
あれこれと中尊寺の話をしたり、発掘された遺跡のお話を聞いたり。
大変面白かったです。
あ、あとこちらで見られる大物がありまして。
先日来よく出てきている「衣のたてはほころびにけり」のやりとりの場面が人形で再現されてます。…蝋人形かな?実寸よりもやや大きめなのか。



んで、中に掛かっていた幟の写真を撮らせてもらった(笑われた)。



ふれあい館から山を下ります。辺り一面田んぼ。
秋は本当にきれいなんですよ~。正面に見える緑の連なりの中に中尊寺があります。
ぼちぼち下ると、「瀬原古戦場跡」といった碑が立っています。
最寄りのバス停が瀬原(せわら)という所なのですが、



こんな看板があったり。歴史の村とありますが、本当に衣川は歴史のある村です。
安倍氏の話だけではなく、それ以前の所謂「蝦夷征伐」の朝廷軍の前哨地になったりしている。
紀古佐美(きのこさみ)や坂上田村麻呂が軍を置いた地でもあります。
んで坂を降り切った所にある看板が…



!?

いや、ビビりました(笑)
何でかというと、私が初めて衣川に来た時から全然変わってないから!
まさかまだあるとは思わなかった!貞任くん!!(笑)
(私この看板のせいで貞任の事を貞任君と呼ぶようになった)

んでもって、坂をズドーンと下り、平泉と衣川の境目辺りにあるのが、安倍一族鎮魂碑です。



これができたの…20年前とかじゃないかなあ…
嘗て平泉から水沢までのバスが通っており、それが瀬原を経由していました。
そのバスが丁度この慰霊碑の前を通るのですよ。
7年ほど前にバスの車窓から見たのが私にとっては最後だったのですが、その時にあった大看板(甲冑に身を包んだ騎乗の貞任像)が無くなってました(涙)
年月経てるからなあ…変わっちゃうんだなあ…
ちょっと切ないですね。

この慰霊碑のすぐ裏手には、九輪塔跡があります。
今は立て看板しかないんですが、清衡が戦争で命を落とした祖父頼時や貞任、経清をはじめとする父祖の供養を願って建立した九輪の塔があったそうです。
因みにこの周辺には以前紹介した接待館(「義経@衣川」)や、市の跡があります。
九輪塔なら結構な高さがあったでしょうから、人々が行きかう賑やかな中でさぞ目立ったでしょうね。

さてさて、次はちょっと衣川から離れてみましょうか(笑)



思い立ってマカロンを作ったのですが。
これがまあ…(大失敗)←小声
此処迄のは久々やな~(苦笑)
ホント久々に「この責任は俺が…!」みたいな感じでした。あはははぁ
写真?
…撮ったけど…ホントに酷いから勘弁して…(見た感じ笑える)
最近はトートバックでも作ろうかな~と考え中です。
でもなかなかコレという型紙が見つからにゃい。

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衣川関@衣川

2008-06-24 | 歴史の小旅
※サイトの史跡ページに改訂版を載せました※
 
「頼時が長男貞任、先年光貞が妹を娉(へい)せんと欲するに、其の家族を賤むるを以て之を許さず。貞任深く恥となす。之を推すに貞任がする所ならん。此の外に他の仇無し」と。
ここに将軍怒つて貞任を召して、これを罪せんと欲す。

頼時その子姪に語りて曰く、
「人倫の世に在るは、皆妻子の為なり。貞任愚かなりと雖も、父子の愛棄て忘るゝ事能はず。一旦誅に伏せば、吾れ何ぞ忍びんや。
如かじ関を閉ぢて聴かずして、来攻を甘んぜんには。況んや吾が衆も亦拒ぎ戦ふに足れり。未だ以て憂となさじ。縦ひ戦に利あらずとも、吾儕(わなみ)等く死すること、また可ならずや」と。
其の左右の皆曰く、
「公の言ふこと是なり。請う、一丸泥を以て衣川の関を封ぜば、誰か敢へて破る者有らんや」と。
遂に道を閉ぢて通さず。
 (『陸奥話記』)

とある騒動を受けて朝廷方(源氏)が安倍貞任を罰するために、父・頼時に貞任を引き渡せと言い寄る訳です。
N○K風に言えば以下が、その時歴史は動いた、な場面なわけです(笑)
貞任を引き渡せと言われた時の、頼時の決断が「人倫の世に在るは、皆妻子の為なり」云々。
ここが前九年の役の顛末を記した『陸奥話記』でも屈指の名場面と言われているシーンです。
陸奥話記は、前九年の役のほぼ同時代史と言っても過言ではない戦記ものです。
著者は不明ですが、書かれている内容に、国解の内容や実際に戦に参加した人物の体験談が混じっていることから、それなりに学があり身分がある朝廷内の人物とされています。
安倍氏側の人間ではないのですな。勿論。
そうした性格のある軍記物語にも拘わらず、朝廷の人間が書かざるを得ないと思うほど心を動かされた場面として有名な所なのです。

頼時は家族や郎党を前に言います。

人みな妻子を始めとする家族を、大切に育むために生きている。
貞任は愚かであるとは言え我が子。
その子への愛をどうして捨て去ることができようか。
今陸奥守(源頼義)の言を容れ貞任を差出し、処刑でもされてしまえば、私は後悔してもしきれぬ。
衣川関を封鎖した上で、要求は撥ねつける。
それで攻められることになっても、甘んじて受けて立とう。
抗戦すればよい。何ら案ずるには及ばぬ。
戦況に利無くば、みなで共に討ち死にを遂げるのもまたよいではないか。

うーん、こんな感じかな。
ここだけ読むと何だか貞任がエラく不出来な悪者のように聞こえますが、前段階で色々あるのです。
長くなるので切ってます。
お願いします勘違いしないで下さいね(←必死)。
もうひとつ付け加えるとここで起きていた問題は貞任1人の問題では無く、その後ろにある安倍氏と奥六郡全体の問題になりつつあったということです。

恐らく大広間かどこかに主だった者が集まって話を聞いていたのでしょう。
ひとりが頼時の決断に答えて言います。

その通りです。
衣川の関を一丸の泥で封鎖してしまえば、誰に破られることがあるでしょう。

*

そして衣川の関が封鎖され、(源氏にとっては)泥沼戦争が始まることになります。

その衣川の関ですが、ちゃんと史跡として残っています。

 

…この写真で見てもなんのこっちゃ…っつー感じかと思いますが(笑)
古代から険しい事で有名だった衣川の関。
同じく陸奥話記には「件の関は素より隘路にして険阻なり。崤函の固めは一人嶮を拒めば万夫も進むあたわず」という表記がある。
言ってみれば、守るに易く攻めるに難しという感じだったようですな。



実際に行ってみると、なるほどなーと思うようなところです。
ここからひとつの歴史が始まったんだな、と。
因みにすぐ隣を東北自動車道が通ってます。

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長者ヶ原廃寺跡@衣川

2008-06-23 | 歴史の小旅
※サイトの史跡ページに改訂版を載せました※

先日は上衣川の史跡「一首坂」のご紹介でした。
今日は下衣川の史跡に。

レンタサイクルで見て回るという意味では、下衣川の方が回りやすいです。
距離は有ってもアップダウンが殆どないので。
史跡も広くない所に点在している感じなので…基本的に衣川に添って存在していたというのを知っておけばかなり楽に回れます。

中でも規模の大きなものは 長者ヶ原廃寺跡。

 

国指定史跡。
現在平泉を世界遺産にという動きがありますが、その平泉が候補地遺跡群のひとつとして推す史跡でもあります。
長者ヶ原廃寺、一般的にはというか…通常は金売り吉次が建立したとか住んでいたとかそう言う話で有名です。ぶっちゃけ地元伝承かな?
金売り吉次というのは、歴史好きの方でなくても耳にしたことがあるかと思われますが、源義経に関係する人物です。
奥州藤原氏、三代目の御館・秀衡の意を受けて、京にいる義経を奥州まで連れてきたとされていますが、さて。

しかしながらこの長者ヶ原廃寺は、発掘調査から金売り吉次が生きていたよりももっと前、奥州藤原氏以前の安倍氏の時代に建立されたのではないかと考えられています。
また格式の高い寺院にしか許されなかった遺構も出土しており、化外の地、まつろわぬ民の住む地として蔑視されてきた奥州にも、高い文化が根付いていた事が分かります。

不思議だなあと思うのですよ。安倍氏って。
まあ私はあのう…一応八幡太郎から入った人間ですので。
安倍氏と言われてもピンとこなかった事は認めます(笑)
というか前九年の役後三年の役関連で、出版されている本って、殆ど八幡太郎側、ひいては朝廷目線で書かれたものです。
そこで描かれている安倍氏の扱いって、酷いです。本当に。
貞任なんて特にひどいです。愚か者の野獣扱いですよ。マジで。

実際に初めて岩手に行った時に感じたのですが…
あれは、違うよなあ…と。
なんというか「炎立つ」という作品との出会いは、私にとっては物凄いショックでした。
自分の歴史というものの見方が、偏り過ぎてるんじゃないかという。
私が知ってる”歴史”は、その時々の勝者が編んだものに過ぎなくて、読んでいるようで読まされているんじゃないかと、強く思いました。
歴史は、数学のような明確な答えの出ない学問です。
…というか、答えのない学問?
白か黒かと分けるのではなく、正邪を問うものでもない。
何が正しくて、何が悪かったかという事を分けるものではない。
戦争一つにとってもそうです。
例えば太平洋戦争に関しては、アメリカにはアメリカの正義と言い分があったでしょうが、日本には日本の正義と言い分があったはず。
良い悪いの問題じゃない。
前九年の役でも同じだと思うのですよ。
朝廷には朝廷の正義と言い分が、安倍氏には安倍氏の正義と言い分があったはず。
それがあまりにも朝廷側に寄り過ぎてるんではないかと、そう思うのです。
「反乱」っていうけどさあ、…本当に、反乱なの…?
どういう経緯と理由があったにせよ、朝廷側から見たら反対派の武力蜂起はなんだって反乱だろうよ。

はは。話逸れちゃいましたが、「あれは、違う」と思ったのは、岩手で感じた古代の文化レベルの高さにふれて、です。
古代東北の文化レベルが最高点に達したのは、藤原清衡以降といって間違いないと思います。
何度も出てきますが(笑)、藤原清衡は安倍貞任の甥っ子。
中尊寺を建て、金色堂を建立した人物です。
じゃあ藤原氏以前に何もなかったかというと、その種になる様なものが、やはり存在している。
それが長者ヶ原廃寺跡であったり、国見山極楽寺(北上市)であったり。
安倍氏の文化を担う力って、今から思うよりも相当高かったんじゃないかと思うのです。

義家は12歳の時に父源頼義に従い奥州に下向、その後前九年の役が終結するまでの十数年間を東北で過ごします。
戦争が始まるまでの数年間、表面上は安倍氏と頼義は友好関係を築いていましたから、当然交流があり、その息子たち、安倍貞任・宗任、義家は顔見知りであったと考える方が自然です。
互いにどういうレベルの人間か、知っていたと考える方が、自然です。

衣川を棄てて敗走する貞任に、「衣のたてはほころびにけり」と叫んだ義家。
咄嗟に上の句を返すだけの力を、貞任が持っていると知っている上で問いかけたのではないでしょうかね。

なーんて、色々つらつらと考えてしまう訳です(笑)
長者ヶ原廃寺跡とあんましかんけーねーなー(笑)


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衣のたては綻びにけり@衣川

2008-06-20 | 歴史の小旅
※サイトの史跡ページに改訂版を載せました※

先日は東北の雄・安倍氏の本拠地は衣川以北の衣川にあったのよという話を書きました。

 業近柵(泉が城)から見た衣川。

これが西から東に流れて衣川に注ぎます。

 平泉の高館から眺めた北上川

ピンクの矢印の所、緑が連なってますが、これが衣川。
上流に近い方を上衣川、下流域を下衣川といい、安倍氏が最も力を持っていた頼時貞任父子の時代は、下衣川に本拠地・衣川館が置かれていました。
元々上衣川に本拠があったそうですが、それが頼時の時代に下衣川に移り、前九年の戦が始まって貞任の代になった時に、再度上衣川に移ったといいます。
下衣川では国境が近すぎるということなのでしょう。
その為、衣川地区にある安倍氏関連の史蹟は大きく二分できます。

平泉から近い下衣川には、政庁が置かれていたと考えられている並木屋敷跡、市場跡、長者が原廃寺跡(世界遺産候補地の一つ)、衣川関跡など他多数。
前九年役時の古戦場や、清衡が建立したと言われる九輪の塔跡もあります。

下衣川から西へ自転車で約20分ほど走ると着くのが上衣川、古戸地区。
こちらには頼時以前の安倍館の跡があるのと、駒場や馬場跡といった割と日常風景を偲べる場所があります。
とはいっても、有るのは遺跡表示の立て看板だけですけど(笑)
その中で一番の大物が、一首坂。

貞任等、たへずして、つゐに城の後よりのがれおちけるを、一男八幡太郎義家、衣河においたてせめふせて
「きたなくも後ろをば見する物哉。しばし引きかへせ、ものいはん」
といはれたりければ、貞任見帰りたりけるに、
 衣のたてはほころびにけり
といへりけり。
貞任、くつばみをやすらへ、しころをふりむけて、
 年をへし糸のみだれのくるしさに
と付けたりけり。
その時義家はげたる箭を、さしはづして帰にけり。
さばかりのたゝかひの中に、やさしかりけること哉。


これは「古今著聞集(武勇第十二)」に所収されている話です。
前九年の役の中でも屈指の見せ場になっているシーン。
私この話、物凄く好きで。
貞任も八幡太郎も好きなので貞任の事を考えると泣きそうになるのですが、やっぱり好きで、初めて衣川に行く時に暗記しました。(←あと自分で陸奥話記の朗読テープ作った(笑))

義家は「衣のたては」と言っています。
安倍の本拠地「衣川館(ころもがわのたて/ころもたわのたち)」に、「衣の縦(糸)」を掛けた、掛け言葉になっています。
とはいえ、このエピソードは好事家によって作られた話じゃないかといわれてるんですが(笑)、上衣川にはこの逸話にちなんだ場所があります。
それが一首坂。

 

もうねー…ホントに山の方なんですよ…坂を登って来て、入口からまた坂を登る(笑)
ちょっとすると、地面に2匹分の馬蹄が。此処まで来ると、すぐそこです。

 

整備されたちょっとした広場みたいな感じになってます。
上の写真はその中程からとったもの。
左写真の左側に丸い大石がありますが、これが貞任石。
右写真が、貞任石になります。
写って無いですが、もう一つ大石がありまして、それが義家石になります。
擬定してます(笑)



そして一番奥に見えるのが、歌碑?です。
衣のたてはほころびにけり 義家
年をへし糸のみだれのくるしさに 貞任
…え?私ですか?
勿論してきました。前九年の役ごっこ(スマイル)
いや。ホントに周辺に人いないのよ。山の中だから。
「衣のたてはほころびにけりー!」って大きめに言ってみても平気
しっかし私…この時期に一首坂に行くの初めてだったんですが…
…蚊が凄い…!ヒイイイ!!
物凄い勢いでたかられて(?)流石にドン引きしました orz

衣川に行くと、本当に貞任や安倍のなごりがあちこちにあります。
なんか懐かしくて胸がきゅーんとする。
平泉に来た松尾芭蕉が、

夏草や兵どもが夢の跡

と藤原氏や義経を偲んでいますが、私はこの句を目にすると衣川に合うなと思って、貞任や義家を思い出してしまいます。
つか

ああもうすっげえ「ほたるび」の続き書きてえ!



余りの三国志フィーバーにみさわたんから「何があってん」コール入りました(爆笑)
いや、私が知りたい。それは(笑)

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義経@衣川

2008-06-18 | 歴史の小旅
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1日目は平泉に、2日目は衣川に。
衣川は中尊寺のすぐ北側。中尊寺のある関山の麓を流れている衣川を渡ると、そこが衣川です(なんのこっちゃ)。

 
下のが中尊寺本堂。上のが金色堂。
上下に流れている水色の線が衣川。川の右側(北)が、衣川。

昨日、安倍氏は平泉北の衣川~岩手県北部に勢力を持っていた大豪族と書きましたが、この川以北がその範囲になる。
古代では「化外の地」といって、言ってみればここから北は外国だったわけです。

衣川を自転車でうろうろしたのは本当に久しぶりで。
んー…10年ぶりくらい?
川の周辺がだいぶ変わってましてね、それが悲しかった…
バイパス工事で昔懐かしの鄙びた様子が一変してました。
部外者が言うのはおこがましいと分かっているのですが、ちょっとさみしかったな。

それはそうと、いい話も結構ありました。
いい、というか。今回ばかりは月日のたつのを感じましたよ(笑)
この10年の間で発掘調査がかなり進んでいたようで、衣川では結構な遺構が見つかっていたようです。
接待館とか、市場跡とか。特に接待館の遺構がかなり大規模だったようで、平泉の柳之御所や伽羅之御所に匹敵する大きさだったようです。
私が行った時は埋め戻されていましたが。新しく資料館なんかが出来たらいいなと思います。

源義経は衣川の戦いで死んだとされます。衣川の戦い、高館で死んだと。
今のところ高館は平泉駅と中尊寺の真ん中にある現「義経堂」とされています。

  義経堂

いや…しかしここ、近くとはいえ平泉です。衣川ではない。
なのになーんで衣川の戦いというのかと思っていたんですが、どうやら「義経が死んだ高館はここ」というのは、平泉の自称?みたいです(笑)
そもそも義経は高館で死んだと書かれていますが、どこの高館かは分からない状態です。

そこで出てくるのが、衣川で発掘された接待館。
もしかしたら義経に与えられていた館は、ここだったんじゃないかという説が出ているようです。

 

発掘現場。埋め戻されてました…
しっかしこのあたり、市のあとや関所跡など。かなり色んなものが…
安倍氏の時代はこの辺りが朝廷とのいわば”国境”ですからかなりものものしかったと思いますが、藤原氏の時代は相当賑わっていた町だったでしょうね。
でもそれを偲ぶよすがが本当にな~んにも残ってないのですよ。
地名に残っている位じゃなかなあ…辺り一面田んぼで。
だからこそ余計に好きです、衣川。

しっかし私…
わざわざ岩手まで行って歩きながら妄想することが三国志。
ホテル帰って考える事が「Life」の続きって…
いや、三国志の妄想が佳境に入ってきました(?)
…私今ならドリーム小説書ける自信がある…(笑)相手は郭嘉(笑)
いや~荀(大好)狙いで、将を射んとすればまず馬を射よと郭嘉に近付いたら郭嘉に落ちたみたいな?(聞くな)
いやいやいや(笑)
つか誰かこんな話書いて読ませて~…荀大好き~…

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