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2013/12/31 ヒジハラ
平泉の話はもう一区切りだと思ったのに、何となく続けてしまう。
これが本当のつれづれですね(笑)
平泉を作り上げたのは初代の藤原清衡ですが、隆盛期を齎したのは2代目の基衡でしょうか。
ただ清衡の治世が30数年ある事を考えると、どうなのだろう…さらなる安定期、という感じ?
基衡は初代清衡と3代目の秀衡に挟まれて影が薄いんですが(笑)、かなりの力を持った御館だと思われます。
以前多くの財を以て毛越寺の仏像を作らせた話を紹介しましたが、荘園の年貢を巡ってあの悪左府、源頼長と対等にやりとりをしているんですよね。
それだけでも結構やり手だったのではないかなーと思いますが、安定している=平和=取り立てて事件もない=記録もあまりない=よく分からない
oh…
ただその強気が陸奥守との争いでは裏目に出たか、腹心である信夫(福島県)の大庄司、佐藤季春(すえはる)の命を奪う羽目に陥っています。
この佐藤氏というのは祖先が藤原秀郷で奥州藤原氏と同じなんですよ。
奥州藤原氏も秀郷流。広い目で見れば同族になります。
また基衡の弟か叔父の子が佐藤氏に嫁いでいまして、その子が佐藤継信、忠信の、佐藤兄弟になります。
源義経が平泉を出て源頼朝の許に駆け付ける際、彼の家臣になった佐藤兄弟です。
御館の親戚だったんですな、このふたり。
下の系図ではそこまで細かい所は書いてないですが。
以前、源義経が平泉に向かったのは、親戚である藤原基成(血の繋がりはない)がいたからだろうという事を書きましたが、そう見ると義経の周りって、奥州藤原氏の血縁多いね。
基衡と言えば、奥さんが安倍宗任の娘なんですよね。
でもこれ、ちょっと「?」な感じでして。何故かというと、清衡の父、藤原経清って安倍貞任とか宗任と似たような世代だと思うんです。
彼等のその姉か妹を妻にしているんで。
宗任の娘が清衡の妻に、ならすんなりいくんですが、基衡か…
そう考えたら結構年の差があったのでは?と思いますが、宗任は北九州に配流されてますからねえ。
そこで若い子に手を付けたか宗任、とも思うのですが、衣川近辺に残っていた娘なのかもしれませんね。
既に平泉の御館であった清衡の、しかも宗任から見たら甥の、後継ぎになるかもしれない子供に嫁がせるという事を考えると、そうそう変な出自ではなかっただろうとは思いますが…
まあ、娘じゃなくて、孫娘じゃない?なんても言われています。
奥さんと言えば、平泉に進出した後なのか、後三年の役の最中なのか、清衡は再婚しています。
戦後かなと思いますが……
清衡も32・3才と若いですし、このままでは子孫が残らない。
清衡は何人かの妻を迎えていまして、その内のひとりが清衡の没後に上洛し、都の検非違使源義成と再婚している。
へーと思うのですが、平泉にいた方がよっぽど豊かに暮らせるのではないかなーと。
ごめん、下世話で(笑)
いや、意外だったんですよ…私だったら平泉の残るなあ(笑)
ただ、清衡の没後、平泉では家督争いがありまして。
それが長男、小館と呼ばれていた惟常と、次男、御曹子と呼ばれていた基衡の間で起こったもの。
呼ばれ方から、清衡存命中に基衡が跡継ぎとされていたのではないかと言われています。
戦になりまして、といっても随分一方的に終わったようですが、最終的に小館殿は首を刎ねられて終わる。(清衡の次代ですぐにこんな争いが起るなんて皮肉だ)
この平泉の話、早々に都に伝わっていまして、その話を伝えたのがこの清衡没後に上洛した妻なんです。
なので、この清衡妻、もしかしたら小館殿の母親だったのでは?とも言われている。
…平泉に居辛かったんじゃないかな。
分からないなりに、色んな話が残っていますね。
■サイト更新 平安創作 先日の話の続きです。
先日までこちらで連載していた平泉の話が思いの外と好評だったようです。
読んで頂いている方も多いようだな、というのは感じていたのですが、平泉に出掛ける前の参考になったというメールや感想等もちょこちょこ頂いていまして、本当に嬉しいです。
平泉の中尊寺は東北を代表する観光地のひとつだと思いますが、交通の便があまり良くないせいかツアーで出掛けられる方も多いようです。
私の地元でもよく広告?が入ってる。
○泊○日みちのくなんとかツアーみたいなの。
サクッと中尊寺とその周辺を見てサヨナラ平泉、のようです。うおおお勿体ない!
何を見るのかな…中尊寺、毛越寺、高館(義経堂)あたり?夢館も入ってそうだな…
個人的には平泉だけで1日~1日半かけて徒歩や自転車でゆっくり見て回るのがお勧めです。
平泉の駅を線路沿いに歩くと、伽羅御所跡、無量光院跡、更に歩くと高館。そこを更に歩くと中尊寺。
伽羅御所と無量光院跡の方向には平泉の政庁があったと言われている柳の御所跡があります。
こちらには柳の御所跡から発掘された遺物が展示されています。個人的にはお勧め。
平泉関係の展覧会があったり、平泉関連本に必ず写真が載るような遺物が展示されています。
夢館は中尊寺の近くにある蝋人形館ですが、これはかなりお勧めです。
平泉の歴史を蝋人形でリアルに再現しているのですが、中尊寺に行く前に立ちよれば理解が深まります(教科書的模範解答。笑)
分かりやすい。
中尊寺は月見坂という参道を登っていくのですが、これが結構距離があります。
金色堂まで10分ほど掛るのかな?急いでいる時にはこれが結構つらい。笑。
また金色堂の目の前には讃衡蔵という宝物館があるのですが、これは絶対に見た方がいいです。
金色堂の副葬品を初めとする中尊寺の宝物が展示されています。清衡棺から出て来た金の塊とか、凄いよ。
今の建物になったのは確か10年ほど前ですが、それ以前の方がより多くの宝物が展示されていました。
建物がきれいなのは嬉しいけど、これはちょっと残念だったな…
まあ私としては、全部どうぞ(笑顔)という感じなんですが(笑)、流石にそれは一般的ではないですよね…^^ゞ
でも、本当に全部どうぞ。衣川もどうぞ(笑顔)という感じなんですが、衣川は安倍氏を本当に好きじゃないと辛いな(笑)
ただアレですね。
高館、義経堂(ぎけいどう)とも言われて、義経最期の地という事になっています。
義経が亡くなったのは「衣川の合戦」においてなのですが、高館は平泉にある。
いやー…これ、昔から疑問だったんです。
衣川の合戦で亡くなったのになんで高館、平泉にあるんだよという…。弁慶のお墓だって中尊寺の入り口まん前にあるし(笑)
で、近年中尊寺の対岸、衣川沿いに柳の御所にも負けない規模の遺跡が出て来たんですよ。
接待館跡と言われていますが、今ではこちらで義経が住んでいたのではと考えられています。
まあ、義経の戦死地、こっちじゃない?という話で。
衣川で聞くと、平泉の義経戦死地は”自称”だそうです。笑。
まあ、とりあえず平泉の史跡案内を早く作れという話ですか。はは…
***
ぎいやああああああ!おじさああああん!!!辞表って辞表って!ヒーロー辞めちゃうのーー!?
…。いや、主人公だから辞めないと思うけど…
すいません。あまり書かないようにしているんですが、タイバニが面白くて困る。
第2クール入ってから凄く面白くなった。もの凄く続きが気になる。
毎週リアルタイムでUStreamを見ているんですが、日曜日がものっそ眠い。特に午前中は意識が朦朧としてる(何時に寝ても6時には起きる)。
先週は開始時間が1時間ずれて3時直前スタートとか…就寝4時前とか…流石に辛い…
放送時間を11時位にして欲しいです。
ていうか誰か見てませんか。ここのメイン歴史だからちょっとジャンル違うけど^^ゞ
先週のルナさんも衝撃展開だったけど、最近衝撃展開続くなー。
何が衝撃かって楓ちゃんの机の引き出しにバニの水着写真があった事だよ…10才…(笑)
あとバニの隣にいるおじさんの姿が全部カットされていたこと。ショ、ショック!お父さん泣いていいとおもうよ(TT
というかクリームが口を割らないと言ってたから独房かどこかにいるのかと思ってた。意識不明?
昨日ちょろっと書きましたが、googleのインスタント検索が本当に使い辛いです。
検索には主にgoogleツールバーを使っています。入力予測はとても便利でいいのですが、
私のPCではこの1・2週間ほど前から、勝手に予測した言葉で勝手に画面が切り替わって検索しだすようになりまして。
これが使い辛いったらありゃしない。
設定画面からインスタント検索の機能をオフにして、キャッシュ、クッキー、履歴、一時ファイルも全削除、パソコン立ち上げ直しまでしても設定が変更できません。これどうすればいいの?
調べてあれこれ試したのですが、うまくいきません。
といいますか、このインスタント検索、なんだか評判が悪いですね…(^^;
この機能をオフにしたい人が多いのか、予測変換にそういった意味の言葉が出てきている。
本当に使いづらいよ、グーグル先生…
テレビちゃんと映ってる。嘘じゃなかったんだ、プロバイダー(笑)
藤原清衡が平泉に進出したのは1099~1104年、若しくは1094~96年の間と言われていますが、前者1099~1104年というのが一般的に言われている事かと。
その約10~15年程の間、清衡は平泉に出て来るまでの準備をしていたのではないかという事を以前書きました。
1088年 後三年の役終結
1099~1104年、若しくは1094~96年 平泉へ進出
1105年 中尊寺造営に着手
1124年 金色堂上棟
1128年 藤原清衡死去
何をしていたかというと摂関家に接近したり(荘園の現地管理者に)、天台宗・比叡山延暦寺と繋ぎを取ったり。
政権の安定を図るために、現地でも動いていただろう事は容易に想像出来ますが、その他に中央の権門に接近するなど、地固めをしていたと言ってもいい期間だったのではないかと思います。
その他、清原から藤原姓への復帰、陸奥国押領使への補任など、着々と足元を固めているように見える。
その一方で京都に目を向けると、朝廷が北方政策を転換したりしていまして(軍事支配の放棄)、これは時代も良かったんでしょうね。
平泉には歴代の御館が寺院や館を構えた事が知られていますが、清衡の時代のものは平泉館と中尊寺のふたつ。
中でも中心になったのは中尊寺です。
中尊寺は平泉の色々な意味で中心なんです。
清衡が白河(福島県)から外ヶ浜(青森県)までの奥大道に1町おきに笠卒塔婆を建てたが、その中心が中尊寺であるという事も紹介しました。
距離的な事を言えば、奥州の中心が平泉の中尊寺。
奥大道は今でいう国道です。国道4号線とでも思って下さい。
それが中尊寺の境内を通っている。
奥大道を通って平泉以北に向かおうとすれば、誰もが中尊寺の境内を通る事になります。
笠卒塔婆に関して言えば領地を明確な形で示すという意味もあったでしょうし、
奥大道が通る境内に関して言えば、誰が支配者かをしらしめるという意味でこれ以上の政治的なパフォーマンスは中々なかったのではないかなあ…
また清衡は在世中に陸奥と出羽の1万余の村々それぞれに仏教伽藍を建立し、仏性燈油田を寄進したという話も残っています。
それら仏閣の中心も勿論中尊寺。
笠卒塔婆や仏教伽藍などは『吾妻鏡』の記載によるのみで疑問視する声もありますが、要するに中尊寺を頂点として、仏閣、仏教を通じて奥州を掌握しようとしていた。
そういう感じらしい。
これを見ていると随分と平和的な政権だなあと。
実際にはそんないい所ばかりではなかっただろうと思いますが、まあ、その中心になった中尊寺。
それを清衡がどういった思いで建立したのかというと、それが『中尊寺建立供養願文』になります。
ただ供養願文には問題がありまして、それはどういったものかというと「これ、中尊寺の願文なの?」という、めちゃめちゃ根本的な…^^ゞ
原本ではなく鎌倉後期、南北朝時代の写本(2本)であること、願文に中尊寺という名称がないこと、書かれている伽藍と当時の中尊寺の伽藍の遺構に相違点があること、と色々と「?」な点が。
特に伽藍の点から毛越寺のものではないかと言われているのですが、これはこれで問題がある。
正直な所良く分からない、というのが現在地なのかと思います。
ただ「大伽藍」とだけ記され中尊寺という名称がないのは当時の作法に則っただけで、別に怪しむようなことではない、ということも言われていて、もう少し発掘調査ができれば、という感じではあるようです。
うーん。
しかし供養願文に関して記載がある手元にある数冊が悉く10年ほど前の本なので、最新の考え方がどうなっているのかが分からない。笑。
供養願文
ただ疑問は残るものの供養願文に書かれている理念というか、想いは、どの学者も否定しえないようです。
平泉に関してはあれこれ読んできましたが、どうもそんな感じがする。
それにこれが平泉を世界遺産登録へと向かわせた根本にあるものだと思います。
どういう事が書かれていたかというと、これは以前紹介しました。
というか、このブログでは触れるのが何回目かになる筈です。
世界遺産登録の時にもあちこちのメディアが触れていましたが、その元になっているのがこれ。
供養願文にはどういったものを造立したかが書かれているのですが、その内のひとつ、『二階の鐘樓一宇』という項目に、以下のような説明がついている。
二十釣の洪鐘一口を懸ける
右、一音の及ぶ所、千界に限らず、苦しみを抜き、楽しみを与う
あまねく皆平等なり
官軍と夷虜の死すこと、古来幾多なり
毛羽鱗介の屠を受くること、過現量りなし
精魂、皆他方の界に去りて、朽骨なおこの土の塵となる
鐘声の地を動かすごとに、冤霊をして浄刹に導かしめんことを
二十釣の洪鐘一口を懸ける
この鐘の音は世界のあらゆる所に、生死するもの全ての上に平等に響き渡り、
苦しみを取り除き、喜びを与えるものである。
奥州では古来より数え切れぬほどの官軍と蝦夷が命を落とし、
また限りない毛羽鱗介(獣、鳥、魚等の動物)も犠牲となった。
その魂は今や他界へと逝ったものの、骨は朽ちて塵となりこの世に留まっている。
この鐘の音が大地を震わせる度に、彼等の、命を奪われしものの魂魄が
救われんことを、浄土に導かれんことを
これは清衡じゃないと言えなかったかもしれないなあ…
政治的にどうこうとか、そういう事を云々する前に、本当にそうだったのだろうなと思わせる力がある。
今迄見て来たように、清衡は前九年の役で父や伯父、従兄を喪い、母がその仇清原氏へと再嫁。
後三年の役では弟に家族を奪われ、もう一方の父の仇と手を組んだ挙句その弟も戦死させている。
清衡は戦争を指揮する立場にいた人ですが、
戦はもう沢山だという気持ちは持っていたでしょうし、争いごとの後の虚しさというのも、骨身にしみていたのではないかと思います。
ただ見ていて凄いなと思うのは、浄土に行って欲しいという想いは、亡くなった自分の家族に向けてだけの話ではないんですよね。
もう少し大乗的な感じ。
「官軍と夷虜の死すこと、古来幾多なり」という一文がありますが、これは本当にそうなんです。
東北は本当に古代から蝦夷と北上征服しようとする大和の争いが絶えなかった。
前九年の役以前で一番有名なのは平安、聖武天皇の時代の坂上田村麻呂とアテルイ、モレの争いでしょうか。
(7世紀頃 渟足柵・磐舟柵設置)
774~776年 海道蝦夷、宇漢迷公宇屈波宇(うかめのきみ・ウクハウ)が反乱
778年 出羽の蝦夷が朝廷軍を破る
780年 伊治公呰麻呂(これはるのきみ・あざまろ)の乱
788~802年 朝廷軍、大墓公阿弖流為(たものきみ・アテルイ)と磐具公母礼(いわぐのきみ・モレ)と事を構える
↓ この間、約30年ピッチで乱起こる
879年 元慶の乱
939年 天慶の乱(平将門の乱とは別もの)
これを見ているだけでも大小の反乱が何度も起こっている。
朝廷軍を破ったりもした一方で、長い戦の末に朝廷に謀られて殺されたり、奥州では沢山の命が犠牲になっています。
そうした戦で亡くなった蝦夷も、官軍側の人間も、獣も鳥も魚も、全部ひっくるめて「浄刹に導かしめんことを」、なんですよね。
仏の教えの前ではみな平等。
平泉は仏教都市とか、仏教王国と言われますがさもありなんと思います。
壮麗な仏教伽藍に囲まれた都市であったから、というだけの話ではないんですね…
斉藤利男『奥州藤原三代』を読んでいてへえと思ったんですが、
供養願文の最後には大伽藍一区(中尊寺という意味合いでいいと思います…)は鎮護国家を掲げるといった文言があります。
要するに鎮護国家のための伽藍だと。
このモデルは京都の法勝寺(六勝寺のひとつ)であったと見られていて、これも大きな鎮護国家の寺でした。(白河法皇が作った)
中心仏は毘盧遮那仏(大日如来。東大寺の大仏さんと同じ)、その周囲には五大明王が置かれます。
この五大明王(不動明王、降三世明王他)は、まあ大日如来の使者ですわ。
簡単に言えば、大日如来が言っても分からん奴には明王が憤怒の形相で命令する、みたいな…(大雑把過ぎ)
口で言っても分からん奴には鉄拳制裁か…と思ってしまうのですが(え?違う?^^ゞ)、
だから明王ってみんな怖い顔してる。
憤怒の形相で悪を断じたり、外敵を払ったり、煩悩の根本を降伏させたり、そういう事が役目になっている。
これが鎮護国家ということになると、怨霊の調伏だったり、”まつろわぬ民”といわれた蝦夷の調伏だったりになる訳です。
で、この法勝寺をモデルとした平泉の大伽藍一区、勿論安置する仏様も同じだったのかと思いきや、違った。
大日如来も、五大明王を安置する五大堂も作られなかった。
また中尊寺以外の平泉の寺院、全てにこのスタイルが受け継がれているようです。
斉藤氏によると、平泉仏教の特徴は
「夷賊調伏や王権擁護といったむきだしの国家の論理は徹底して退けられていた」点。
考えたらさ、そうだよなと思うんですが、藤原清衡って蝦夷ですよね。
父親は一応藤原氏に繋がりますが、母は現地豪族の蝦夷、安倍氏。
供養願文でも清衡は自分の事を「俘囚の上頭、東夷の遠酋」、要するに自分は蝦夷だと言っている。
平泉は都市づくりからして四神相応、京都文化の輸入だなんて昔は言われていましたが、これだけを見ても、精神面でも随分と独自色がありますよね…
それが、それまでの歴史の積み重ねの結果ですが。
四神相応にこだわりがなかったわけではないだろうけど、衣川以南という意識の方が強かったのではないかと思うし。
衣川
左に映る山が中尊寺のある関山。もうちょっと手前によれば中尊寺。ほんとすぐ傍でしょ
右の土手沿いには義経がいたと思われる接待館があった。
それまで軍事的、政治的な境界線であった衣川を南下して、こういった精神を中心に据えた中尊寺を奥州支配の中心に置くという辺りに、平泉の独自性があるような気がします。
色々あっただろうけど、平泉は総じて平和国家だよね。
清衡が亡くなったのは平泉に政庁を移して約30年後の1128年。73歳。
亡くなる4年前、1124年には逆善(自分の冥福を祈る。死ぬための準備でいいと思う)として金色堂を上棟します。
で、1126年に中尊寺落慶法要。
それ以前に、恐らくこの10年ほど前かと思いますが、清衡は脳溢血か何かで左半身が麻痺しており、奥さんが清衡の代わりに写経をしたりしています。カリエスも病んでいたようですし、晩年は病気で随分苦労したのではないでしょうか…
というか落慶法要で供養願文を読めたのだろうかという疑問もわくのですが。
ただ『吾妻鏡』には大往生だったと記されています。
秀衡や泰衡の時代にはそう伝承されていたんでしょうね。初代御館は大往生だったと。
科学の力のお陰でそうじゃなさそうだなあというのは分かるのですが、そうだったらいいなと思わずにはいられない。
あの前半生を見て、後半生で清衡が為した事を見ると、彼が希求したのは争いのない奥州、奥州の平和でしょうね。
中尊寺が落慶した際、それまでを振り返って、清衡はそれを一応は為し得たという思いがあったのではないでしょうか。
平泉の繁栄はその子基衡に、孫基衡に引き継がれ、更に発展していきます。
が、4代目のひ孫、泰衡の時に平泉は滅亡する。
わずか100年。
それでも色褪せずに青史や人の記憶に遺って平泉の歴史が受け継がれているのは、単なる豪華絢爛な黄金文化があった、というだけではなかったからだろうと思います。
こういう人がいてこういう文化があった事、地元にとってはね、本当に誇りだと思うよ。
あっちへこっちへと飛びましたが、とりあえず平泉の話はこれでおしまい。
もう少し触れたい話もあるのですが、きりがないので。笑。
はー がんばった。
ここまで読んで頂いてありがとうございました。
台風、酷いようで。皆さまもお気を付け下さい。
私が住んでいる所では風がすごいです。
>MVさん
誤植多いですか。そうですか(笑)
こちらの書籍はページ数の割にお高い本が多いのだからしっかりして欲しいですね…
しかし組み間違いは酷いです。
誤植ではないですが、下部が何十ページに渡って裁断されていない本を買った事があります。何で気付かなかったのか。笑。
忘れもしない宮城谷さんの「孟嘗君」。取り替えてくれと講○社に電話すると、(なぜか)ものすごく、けんもほろろに応対され(カスタマーなのに!)、10年以上前なのにいまだにめちゃくちゃ印象の悪い出版社…^^; 今ならそのままブログに書くのにな!(笑)(鬼か)
ご本人が近年の著作で17日と書いているのなら、もしかしたら勘違いとか、そういう事も充分考えられますよね。
重版が出るほど本出てるのか…^^ゞ一度書店で確かめてみます。
というか私『秋山真之』初版ですよorz(MVさん、流石です…)
藤原清衡の御命日です。
今日か明日が。
何故御命日が分かるかというと、清衡の妻平氏が清衡の死後21日目に追善の回向をしたという記録が高野山にある中尊寺経に残っている。
それが8月6日で、そこから逆算して計算すると7月17日が御命日という事になる。
…んですが、佐々木邦世『平泉中尊寺』や高橋富雄『平泉の世紀-藤原清衡』では16日になっている。
佐々木さんは中尊寺仏教文化研究所主任で、この肩書を見たら何か他に特別な数え方があるのかと思ってしまう。
どっちを採るべきなのか、よく分かりません。
えさし藤原の郷だと17日ですね。ここは毎年供養祭をしてるから。
というかカレンダーを見ながらそのまま日数を数えたら17日なので、それを採っているのだと思うんですが。
中尊寺だとどうなのかと思ったのですが、公式HPには何も記載がなかった。特に何もしてないのかな?
ついでにウィキペディアを見たら7月13日になっていた。
あー…これは京都の公家の聞いた伝聞です(中右記)。
これだからウィキの情報をそのまま丸呑みするのは怖いんだよな…
以前は広瀬武夫の項目でも間違った事が書かれていましたし、桐野利秋の項目でも、書かれた方が多分勘違いして違う資料名を出していると思われる個所がありましたし。今どうなってるのか知りませんが。
高橋景保の所でも高橋の語学スキルが小説から引っ張られていて、思わずひきました…
ウィキは本当に便利ですし、全体の流れを掴むのに短時間で済みますが、それが全部正しいかという事になると疑問がつきます。
自分が知っている分野なら間違っている事にも気付きますが、知らない分野だったら訂正しようがないよね。
別にウィキが悪いと言っているのではなく(だって本当に凄いし便利)、自分があれをどう使うか考えないと大間違いするというリスクがあるっちゅう話。
あれ?清衡命日?
…スイマセン。眠くてもう限界ですorz
平泉、奥州藤原氏の経済基盤を支えたのは黄金であったという話を前回しました。
その他、目玉となった交易品には馬があります。
軽く触れておくと、馬は糠部(青森県東部と岩手県北部)あたりの産が「糠部の駿馬」と言われ最高級だった。
源平合戦の頃で言うと、有名であるのは宇治川の先陣争いで有名な梶原景季の名馬、磨墨(するすみ)。
佐々木高綱の生喰(いけづき)。
そして一の谷で平敦盛を討った熊谷直実の権太栗毛など。
磨墨と生喰は源頼朝からの下賜ですが、熊谷などはわざわざ現地に郎党を派遣し、大枚をはたいて権太栗毛を購入している。
宇治川先陣之碑(筆跡は一戸兵衛大将)
陸奥国は平安時代初期から名馬の産地として知られていまして、品質としては最高。
今で言う最高級ブランドだったんですね。
その頃から富裕層が陸奥の馬を争って買い漁った為価格が高騰し、軍事用の馬が確保が難しくなり禁制になった、なんて話もあります。
武士ならともかく、富裕層が馬買ってどうするんだ…
と思ってしまいますが、持ってる事がステイタス、とか、そんなのだったんでしょうか。ブランドだし。
ポルシェに乗ってるような感じ?NUKANOBUエンブレム(笑)かっこいいよね!みたいな?(笑)
10世紀終り頃には中央も馬を税として徴するのではなく、買い上げていたようです。
この辺り、色々と研究があるようなのですが私の手元には資料がないので、詳しい事はなんとも言い難い。
まあでも、いい商売だっただろうなあとは思います。
もうひとつは鉄。
まあ、これはご存じの方も多いと思いますが、岩手、三陸海岸の地域は砂鉄と鉄鉱石が採れる事で有名です。
久慈とか久慈とか久慈とか。笑。
いや、冗談はさておき、釜石には新日鉄の工場がありますがそれも偶然ではなくて、この地域で鉄が採れたからなんですよ。
日本で初めて洋式高炉での製鉄に成功した地が釜石でした。
また南部鉄器と言いますが、それもこの辺りです。
嘗ての水沢市、現奥州市ですが、その水沢駅には南部鉄の風鈴が沢山つりさげられている。
大雑把です…
岩手には砂鉄製錬や鉄鉱石製錬の遺跡が非常に多いそうで、ある調査によると150は下らないといいます(『鉄の語る日本史』)。
また内陸でも一関や江刺(現奥州市。清衡の本拠地)にも遺跡があり、鉄山があり…
鉄の精錬というと、特に島根を代表とする山陰地方が上がりますが、そことは違う製錬技術、鍛冶技術が流入していたようです。
特に注目したいのが一関。
日本刀に興味のある方なら御存じかと思いますが、一関には舞草神社があります。
こちらに鍛冶集団が住んでいたらしく、鍛冶場の遺跡があるそうで。
その神社の由来になったのは舞草刀、もくさとう、と言われる刀です。
舞草刀というのは、諸説あるものの、日本刀のもとになったと言われる刀の事で、湾曲している、所謂湾刀なんです。
またここで鍛えられた刀は鋭利であった事も知られている。 →舞草刀
舞草刀以前には蕨手刀という刀がありました。
これは持ち手の部分が曲がっている。柄頭が早蕨の様に渦巻いているので、蕨手刀と言われるようになったんですな。
リンク貼っときますので、ぜひ見て下さい。グーグル画像です。口で上手く説明できない(笑)
→蕨手刀(わらびでとう)
で、これは出土が東北地方、それも北上川中流域に多く、丁度蝦夷と大和が戦争を繰り広げた辺りになります。
幾度かの戦を経て進化を遂げたのが舞草刀と言われています。
まあこれが湾刀な訳ですが、大和朝廷ではそれまでの刀は直刀。真直ぐ。
蕨手刀も刀身自体は真直ぐですが、馬上から振り下ろした時に斬り付けにくいという所から次第に湾曲したとも言われている。
直刀は斬りつけるのではなくて突き刺すんです。馬上からは中々殺傷能力に乏しい。
ただ思うに、当時の武器の主流は刀ではなくて弓矢なんですよね…
刀を使う程の接近戦がそれほどあったのだろうか。
これは誤解が多いように思うのですが、当時に限らず、日本の主流武器は弓なんです。
日本刀じゃないんです。
そもそも大鎧からして対弓矢戦の防具として作られている。
だから、武士への第一の賛辞が、
「弓馬達者」とか「海道一の弓取り」という表現になる。
まあそれはとにかく、『鉄の語る日本の歴史』では、精巧な鍛刀技術がこの地域に発達しているのを見た中央が、その蝦夷の戦闘力を弱めるために律令を以てこの地方に鍛刀場を作る事を禁止したという事が紹介されています。
技術的にもハイレベル、実用に飛んだ刀を作っていたようですね。
金、馬、鉄。
断片的な話ですが、これだけでも東北には大和とは全く違う国があったようにも思えるんですが…だって文化圏違うくない?
というかこれだけのポテンシャルがあってどうして平泉までの間虐げられ続けて来たんだ。
現地をひとつに纏める組織力に乏しかったんだろうと、私なんかは勝手に思っているのですが、実際の所はどうなんでしょうね。
ただそういったポテンシャルをじりじりと収斂して大きな勢力になってきたのが、11世紀の安倍氏。
それが朝廷も捨てておけない、容認できないほどのものになって、前九年の役に繋がったのかな、と思うんです。
結局安倍の支配は崩壊し、次いで清原のそれも崩壊し、最後に奥州藤原氏が引き継いだ。
藤原氏は一番良い状態でそれまでの”遺産”を受け継いだんではないでしょうかね。
ぽっと出の、いきなりの黄金文化なのではなくて、そこに辿り着く迄の間に、多くの種があちこちに捲かれていた。
ただ藤原氏の支配も終焉し鎌倉時代を迎えた時に、藤原氏が築いていた上記の特徴って忘れ去られたように言われなくなる…ような気が^^ゞ
あれれ、あの栄華は何処へ行った?といつも思うんですが(笑)
知らないだけかな