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2013/12/31 ヒジハラ

平泉の黄金

2011-07-14 | ヒストリ:平安の風

平泉の話まだ続く。…んですが…
ちょっと更新すべきリスト(^^ゞ
 ・高杉晋作関係(桜山招魂社他、未消化:療養地、終焉地、東行庵)
 ・高橋景保捕縛、高野長英、渡辺崋山の話(要確認事項有)
 ・広瀬武夫関係(加藤、森山)
 ・平清盛、海軍、陸奥宗光、桐野利秋、秋山真之
ちょっとストック貯め過ぎて何がなんだか。笑。ちょこちょこ放出していきたいと思います…



平泉の経済基盤のひとつが金であったことはよく知られています。
古代から中世末期までは東北が産金の中心地であったようですね。というか東北でしか取れなかったようです。
東北地方の金については有名な話が残っていまして、それが奈良、聖武天皇の時代。
聖武天皇と言えば天平、東大寺を作った帝ですが、その建立途中で仏像に鍍金する金が不足したんですね。
どうしようかとなった時、宮城県(陸奥国)で黄金が見つかり、これが利用されています。
(ちなみに、それを縁として今回の大震災では東大寺が銀行より1億円を借り入れて寄付してました。驚きました。)

この陸奥国での黄金の発見以降、この土地は中央にとってはいい搾取対象というか。
これ以降、税を布ではなく金で納めよというようになった。
これは現地にやって来るお役人にとってはラッキーだっただろうなあ…
何故かというと、朝廷に決められた税を払ってしまえば、後は国司なり受領なりの自由なんです。
正規の税以上を徴税して、あとはポッケないない。
西洋史の徴税請負人みたいだよね。
なので下向して来た国司が私腹を肥やして中央への賄賂にしたり、なんて事も普通にある。
 
2年ほど前に『歌枕みてまひれ』の話を書いた時、陸奥国への下向は左遷と言えるかどうか微妙と書きましたが、その理由はここにあるんです。
確かに当時陸奥国は京都から遥かに離れた”辺境の地”でしたが、国司を務めたらその経済的旨味は計り知れない。
しかも陸奥で採れるのは金ですし。

まあ、そんな感じで初めは国家権力主導で金を産出していたようですが、時代が下って来るとその産金地も段々北上し、
またその管理も安倍や清原といった実質的な現地支配者の手に移っていたようです。
で、それを引き継いだのが藤原氏。
 
藤原氏が持っていた金山としてよく知られているのが陸前高田の玉山金山、湯田の鷲の巣金山。
平泉周辺は当時我が国有数の産金地帯だったようで、中でも代表的なのが上記の玉山金山と言われています。
ここから産出した金が中尊寺の金色堂に使われたと言われている。

藤原清衡から秀衡に至る迄、莫大な量の黄金が消費されていますが、それがどれほどであったかというのはよく分かりません。
ただ清衡は中尊寺建立の際、中尊寺経の手本として宋版一切経を輸入したことが知られていますが、
その時の対価が砂金10万5000両と言われている。
当時の度量衡を調べたら1両=16.5gと37.5gの2パターンがあって、私にはどちらを当て嵌めたらいいのか分からないのですが、
これで計算したら大体1.7トン~3.9トンに上る。

これ、ものすごい量ですね。
1トンの金鉱石から採れる金の量って、大体2~5gなんですよ。
是銀さんが見つけた大鉱脈菱刈鉱山(鹿児島)でも平均50g。
で、今日の金の価格を見てみたら大体1g=4245円位です。
えっと、幾ら?
現在の価値に単純にスライドさせると、73.5億~167億円相当。あはははは。よく分からん単位だ。
そしてこれ、宋版一切経の購入だけに費やされた金ですからねえ。
 
平泉には多くの仏教伽藍が作られていますし、中央工作として貴族に付け届けたり、また寺院にも大量の黄金を寄付しています。
『宋版一切経』ということからも分かるように、中国の王朝は当時宋でしたが、こちらとの貿易の主要品目も金でして、宋史にも奥州は金の産地といった記述があります。
技術が未熟であっただろう当時でもこれだけの産出量があったことを思うと、平泉の約100年でどれだけの黄金が費やされたのか、ちょっと想像できないですねえ。

短いですが今日はここまで。
  
ママンがぷりぷり怒っていた。
どうしたのかと聞くと、県民ニュースか何かで県知事が節電のお願いか何かを載せていたそうで。
その節電対策が、消費電力の少ない冷蔵庫に買い替えるとか、家じゅうの電気をLEDに買い替えるとか。
は?と思ったんですが。(※母もは?と思った)
冷蔵庫いくらするか知ってるのか…
LEDの電球1個いくらするか知ってるのか…(LEDを選ぶ積りでもあの価格見たら普通の電球を買ってしまう)
それは方向が違うんじゃないの?
県から補助が出るとか、そういう事もない全くの自腹だし。
夜中3~4時のテレビ放送止めるとか、テレビショッピングの放送時間減らすとかでよくない?
なんでそうお金を使わせる方に向かわせるのか…

地デジもそうじゃないですか?そう思うの私だけ?
私、今年の冬までテレビ換えたら(若しくはチューナー付けるかだけで)地デジ見られると思ってたんですが(笑)
住んでる所によって色々違いがあるみたいだし。というか家庭ごとに違うみたいだし。
未対応ならDVDレコーダーも買替え必要とか、ビル陰だとアンテナ工事必要な場合があるとか。
ここ2・3ヶ月くらいじゃないですか?テレビで言いだしたの。
今更何言ってるの?何年前から地デジの広報やってるの?と思う訳ですよ…
単なる私の認識不足かもしれませんが、多分世間のじーちゃんばーちゃんは私と同じようなもんだろう。
これ、ちゃんとした事を放送したら、自腹での費用負担が大きくて反対が出るから、あまり大きな声で言ってなかったんじゃないだろうか。
テレビは今でこそ地震やなんやかやで値崩れして3万円台とかですけど、それ以前に購入してたらかなりいい値段ですよね。
テレビだけでもそうなのに。
しかも地デジ移行率9?%とか言っておいて、そのアンケート対象に80歳以上の人入ってないんですってね。
いや、一番テレビ見てるのその年代以降じゃないのか…
うーん。ちょっと酷くない?

Comments (2)
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残心、平泉へ19

2011-07-13 | ヒストリ:平安の風

平泉の話、まだ続いています ^^ゞ
思いつくまま書いているので時代が前後したり話があちこちに飛んだり、少々読み辛いかと思いますがよろしくお付き合いください。
そして昨日、ドラマを見ながらファイルを捲っていたら迷子だった『吾妻鏡』が出てきました。

で。
昨日藤原秀衡が作らせた仏像が素晴らしくて云々と書きましたが、勘違いで違う事を書いていましたので(……)訂正します。
  
時代は父基衡の代。
毛越寺建立の際、基衡は本尊造立を仏師雲慶に依頼します。
その際に基衡は、金100両、鷲羽根100尻、アザラシの皮60数枚、安達絹1000疋、細布2000端、駿馬50匹、白布3000端、信夫毛地摺1000端、それに加え山海の珍味を送ったと言います。
この時点で既にどういう規模かよくわかりません。笑。
雲慶が本尊の作成に掛っている間、陸海道に基衡の使いが絶える事はなかったとも言います。
 
約3年の後に本尊制作が終了し、基衡が生美(すずし)の絹を船3艘に積んで送った所、雲慶は喜びながらも冗談で、
「練絹ならよかったのに」
そう零した。
そうしたら練絹船3艘分が送られてきた。
そういう話を聞いたのが鳥羽法皇で、どんな感じ?と本尊を拝見した所、それが比類ないほどの素晴らしい出来。
よつて洛外に出すべからざるの由宣下せらる」(『吾妻鏡』)
平泉に持って行っちゃだめ、と。
これを聞いた基衡は驚いて持仏堂に籠り祈祷、関白九条忠通からのルートを使って、勅許を得、そして漸く毛越寺に安置される事になったと。

いやー 間 違 い 過 ぎ。主人公が違っていた…orz
申し訳無いです。でも早めに訂正出来て良かった。
 
この記述と併せて書きたいのが、共に『吾妻鏡』、平泉が陥落した後の話です。
4代御館(みたち)藤原泰衡は平泉から落ちる際、平泉館(政庁。恐らく柳の御所)に火をかけます。
平泉に関する文書史料は現地には残っていないに等しいのですが、それはここに原因がある。
まあそれでも火に捲かれなかった蔵などもあったようで、頼朝が平泉入りした後、それを人を遣って確かめさせている。

沈香、紫檀といった唐木の厨子数脚、牛玉、犀角、象牙の笛、水牛の角、紺瑠璃などの笏、
金の沓、玉の幡、金の華鬘(けまん。玉で飾ってある)、蜀工錦の直垂、帷、金造の鶴、銀造の猫、瑠璃の燈爐…

こういったものがあった。
サイの角、象牙の笛、水牛の角、蜀錦なんて明らかに日本のものではありません。
犀角なんてさー…当時滅茶苦茶貴重なわけですよ。
漢方薬としての用途が多かったようですが、中国でも皇帝とか皇太子が簪として身に着けるとか、その程度で。
日本の皇族や上級貴族にとっても恐らく非常に貴重なものだったかと思われます。
これは3代秀衡の時代のものですが、2代基衡の時代でもアザラシの皮、なんていうものがある。
付けくわえると柳の御所跡からは中国の白磁や青白磁なんかが沢山出ている。
中国産の陶磁器は、その多くが博多に運ばれた後、日本各地に運ばれたのだそうです。
質はピンキリだったようですが、平泉から出て来る中国製陶磁器は優良品が多く、厳選品が送られていた事が分かっている。
 
また初代清衡の時代に遡れば、中尊寺金色堂にも海外よりの輸入品があしらわれています。
例えば螺鈿細工には屋久島や沖縄など南方でしか取れなかった夜光貝が利用され、象嵌に利用されていたのはこれまた象牙。
象牙と言えばインド象が一般的だったそうですが、金色堂のものは調査の結果アフリカ象のものであると分かっています。

どういうルートであったかは分かりませんが、大陸との交易をしていたのはまず間違いありません。
それに加え、北方交易。
これは清衡以前安倍氏の時代から行われていました。
第2話で書きましたが、北方交易でアシカやアザラシの皮などを得、それを更に交易していた。
中尊寺に使われている舶来品を見ると、清衡の時代には海外との交易もある程度整備されていたのだと思いますが、それは、それまでの歴史や経緯があってのことだったと思われます。
しかし平泉の交易ネットワークというのはかなりグローバルですね。

平泉が大宰府と違う所は、平泉が地方都市の一氏族が行ったというところでしょうか。
大宰府は国家機関ですから、言わばお上の肝煎りなんですよね。
いや、肝煎りじゃなくて、お上がやってるので…
そう考えるとすごいよなあ。
またそうした交易との元手、平泉の経済を支えたのは恐らく砂金であったと思われます。 


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残心、平泉へ18

2011-07-12 | ヒストリ:平安の風

■サイト更新 平安:残心 1-3

昨日ですが、この平泉前史の#1-15迄を纏めてサイトに格納しました。 
いつもと比べて滅茶苦茶早いですが、この連載、御覧頂いている方が意外と多くて、少しでも読みやすい方がいいかと思いまして。
実は連載始めた当初から楽をしようと思って、ブログを書いてはサイトの方にコピーし、という作業を続けていました。
一辺にやろうと思うと編集作業が大変なんですよ…
今回はちまちま時間を見つけてやっていたのでそれほど大変ではなかったんです。えへ。
内容に大した変化はないですが、一部修正したり、改訂したりしている部分もあります。
そしてサイト格納に伴い題を「残心」に変更しました。
 
いつもは3ヶ月~半年ほど置いて、再度見直してからUPするのですが、今回はその間を飛ばしています。
時間を置いて見直すと、間違いだったり気に入らない所なりが出て来るのでドキドキですが…
そういうことで、暫く時間が経ったら更に追記改訂修正する可能性があります。その辺りはご容赦を。
まあ、こちらの方が格段に読みやすいかと思いますので、よろしかったらご利用ください。

**  

平泉は世界遺産にも登録された事ですし、非常に観光客も増えているようです。
元々観光地ですのでいつ行っても人は多いのですが、今年の夏はまた増えるだろうなあと。
夏休みに出掛けられる方も多いかと思いまして、出来たらこの連載は7月半ばまでには終わらせたいと思っていたんです。
な、なかなか終わらないな!(笑) 
まあ無計画に書いているので仕方ない^^ゞ

私は基本的にふらーっとひとりで行って、気に入った場所で何時間も過ごすという旅行をしているのですが、
こういう所に行くとツアーの人々を見て、あー勿体ない旅行してるな、と思うんですよねえ。
仕方ないっちゃ仕方ないですが。金色堂の前まで来て説明テープ聞くか聞かないかでさーっと出て行ってしまう。
金色堂見て讃衡蔵見学して、関山正面でご飯食べてお土産買って、バスに乗ってあとは夏油温泉行ったり角館行ったりかな?
行って毛越寺と夢館(お勧めの蝋人形館である!)くらいですか。
ツアーバスは便利だけど僅かな時間でポイントしか見られないからなー。
折角行ったのに黄金文化とミイラしか知らない、というのでは勿体なさ過ぎる。行ったというだけだよねえ。
東北のほぼ全土を治めた平泉がどれだけ小さいまちであったか。
そしてどれだけの歴史を抱えて来た土地であるのか。
少しでも知っていたら、旅行する時の認識も全然違うと思うんですよね…
  
先日『義経になった男』という小説を読み終えたんですが、まあ個人的にはん?という感じだったのですが、おお、と思った点が幾つかありまして。
その内のひとつが、平泉は自分達の手の回る範囲でしかまちを作っていない、というくだり。
まさにこれなんですよ。
小さい!
平泉の駅前すぐには毛越寺がありますが、ここが今も昔も変わらない平泉への入り口。
そこから30分程歩いたらもう衣川なんです。
つまり、まちを出てしまう。
大して広くない土地に、毛越寺、観自在王院、無量光院といった寺院の伽藍が続き、伽羅御所、柳の御所といった藤原氏の居住区、政庁が続く。
その一番奥、北側にあったのが中尊寺。

 毛越寺入り口
 
もうほぼ全てが兵どもが夢の跡で、今現在、実際に見学できるのは中尊寺と毛越寺しかないんですが。
平泉駅前にレンタサイクルがあるのですが、本当に自転車で回るに丁度いいくらいの広さなんです。

中尊寺は清衡が建立した寺ですが、毛越寺はその息子基衡が、観自在王院は基衡の妻(安倍宗任の娘)が。
無量光院、伽羅御所はさらにその息子秀衡が作った。
柳の御所は平泉の政庁があった所だろうと言われていて、恐らく清衡基衡はそこで居住していたと思われますが、秀衡泰衡は伽羅御所で生活していたようです。政治の場と生活の場を分けていたのかな?

 観自在王院跡。たんぼ!
 
寺院群は都にも劣らない質で、3代秀衡の時だったか、都で作らせていた仏像の出来がよく、それを聞きつけた後白河法皇が見学して、そのあまりの見事さに奥州に持ち出す事は罷りならんと主張した、とか、そんな話も伝わっている。

奥州合戦の際、源頼朝が平泉にまでやってきます。
奥州藤原氏が滅亡した後に平泉を巡り感銘を受けて帰った事はよく知られています。
当時平泉以上に栄えていた地方都市を探すのは難しい。大宰府くらいではないでしょうか。
頼朝は平治の乱まで京都で暮らしていましたので、都の賑やかさは知っている筈ですが、それでも平泉のレベルの高さには驚いたようです。

へえと思うのは、鎌倉の都市作りや仏教伽藍などは平泉を参考とされているというところですか。
都市造営は京都をモデルとしたとも言われますが、金沢文庫が平泉だと言っているので、そうなんでしょう。(おい…)
よく知られるのは永福寺(ようふくじ)。
これは中尊寺の二階大堂を模して作られたという事が知られています。
しかもこれは藤原泰衡や弟源義経といった奥州合戦時に亡くなった人々の霊を慰めるために作られたと言います。
ただ、やはり平泉の規模には及ばなかったようですね。
 
  
…スイマセン。アリアドネの弾丸見させて下さい…^^ゞ
このシリーズ好きなんだ。まだアリアドネは読んでないんだけど。


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残心、平泉へ17

2011-07-11 | ヒストリ:平安の風

黄金文化が花開いた平泉。
先日見たようにその代表のひとつとされるのが中尊寺金色堂だと思います。
それを支えたのは偏に平泉の経済力でした。
 
まあ昔から豊かなんですよ、この土地。
豊かな土地であるというのは中央も随分古くから知っていまして、それは「撃ちてとるべし」という武内宿禰の発言からも見てとれる。
要するに、蝦夷が住んでいる日高見国(奥六郡の辺り)は土地が肥えて豊かであるから、力で奪い取れ、ということ。

安倍が治めていた奥六郡、北上川沿いは扇状地が広がり、土地が豊かで米は取れるし、黄金が取れる。
名馬や鷹羽の産地でもあり、また鉄の産地でもある。
安倍の時代には北方交易にも手を伸ばしており、朝廷の体制下にいながら、随分自由というか、随分毛色が違うというか。
平泉もそれを受け継いでいます。  
 
それまでの歴史もあり、地理的な事もあり、当時奥六郡は朝廷から見て独特の地域であった事は間違いないと思います。
陸奥、みちのおく、道の奥にあると言われた国であるだけに、流石に遠くて朝廷の目も手も中々届かない(笑)
それに中尊寺のすぐ北を流れる衣川は元々大和と蝦夷を分ける境界線だった。
安倍氏があからさまにそれを侵して南下したため、前九年の役が起きたというのは、この連載の第1話でも書きました。 

藤原清衡は後三年役の後、安倍氏伝領の奥六郡と清原氏伝領の出羽仙北を受け継いで、平泉を作り上げます。
なのですが、平泉にまちを作る迄、後三年役終結後から10年程の空白期間がある。
その間何処にいたかというと江刺の豊田館です。
 
 

豊田館は今まで何度か出てきましたが、清衡のホームグラウンドでした。そこに戻っている。
そこでどういう事をしていたかというのは、断片的にしか分かりません。
年表的に見るとこうなります。  

 1087年 32歳 後三年の役終結
 1091年 36歳 関白藤原師実に貢馬
 1092年 37歳 国司を振り切って合戦を企てる
 1099~1104年又は1094~6年 40代前半~半ば 平泉に本拠地を移す
 1105年 50歳 中尊寺造営に着手 

後付けのような書き方かもしれませんが、平泉開府の準備期間と見れなくもない。
衣川以南に本拠地を移すというのは、安倍氏の事を考えるとやはり慎重になったと思うのですよ…
それに幾ら力があったとはいえ、清衡の意向だけでそんな事ができたとも思えませんし。
下向して来た陸奥守と、また陸奥守を通して中央と上手く折り合いをつけていたかとも思われます。
 
関白と繋ぎを付けるというのは、ひとつは藤原師実が氏の長者であるからという事もあるでしょう。
藤原への復姓はこの頃だったのかもしれません。
また清衡は東北にある摂関家や貴族の荘園管理を請け負っていたようなんですよね…
馬や金を贈ったりと中央工作も適宜行っていたようですし。
平泉と言えば独立不羈の国といったような響きを持ちますが、中央の権力者とのパイプは持ち続けています。
そういう繋がりがあってなのか、清衡は陸奥国の押領使(警察権、軍事権を持つ)に任命されている。
そんな大した職ではないのですが、これが清衡がほぼ白河以北を掌握するようになった公的な拠り所になっていたようです。
  
また1092年に合戦を企てるとありますが、これは詳細が一切分かりません。orz
清原一族は後三年で完全に滅びた訳ではないので(例えば吉彦秀武のように)、それとの主導権争いじゃないかとか、
権力の及ぶ範囲を拡大する過程で起きた、アンチ清衡派との争いじゃないかとか、
企てるとあるけれども、実際に戦になったのか…?^^ゞ
 
とはいえ、この頃には、実質的には陸奥守、鎮守府将軍と比肩、それ以上の力を持っていたと考えられる。
国司を振り切って合戦を、という辺りに力関係が表れています。
いつごろかは分からないものの、清衡の代に奥州藤原氏が事実上の現地の支配者になっていたのは間違いない。
 
ではその勢力が及ぶ範囲がどれ程のものであったかというと、白河から外ヶ浜まで、と言われます。
 
 白河は福島県白河市、外ヶ浜は青森県東津軽郡外ヶ浜

白河から外ヶ浜、平泉はその丁度中間にある。
南北大体500キロメートル程の距離、この間1町(約100m)ごとに、黄金の阿弥陀像を描いた笠卒塔婆を建てていたそうです。
また白河から外ヶ浜の中心に一基の塔を建てている。
それが中尊寺に初めに建てられた伽藍ではないかと考えられています。
また奥州藤原氏は各所に寺院を建てていますが、その中心とされたのも中尊寺でした。


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残心、平泉へ16

2011-07-10 | ヒストリ:平安の風

はい、本日4回目の更新orz

1087年、後三年の役が終結しました。
弟清原家衡、叔父武衡は討ち取られ、源義家は陸奥守を解任され(クビ!)都に帰って行った。
奥州に残ったのは藤原清衡ただひとりとなります。
この人が戦の成果全てをひとりで受け継いだ。
それが清衡32・3歳の頃。

清衡は長生きしていまして、亡くなったのが73歳。当時の平均寿命からすると超高齢だったと思われます。
後三年の役後の人生約40年を平泉の造営に注いでいる。
具体的に何をしたかというと、一番よく知られているのが関山中尊寺の建立になります。
これは清衡畢生の大事業で、50歳から亡くなる2・3年前までの実に20年が費やされている。
  


中尊寺の中でも有名であるのが金色堂で、マルコ・ポーロの『東方見聞録』で日本が「黄金の国ジパング」と書かれた原因となったとも言われています。
金色堂は悉皆金色で、3つの須弥壇に、初代清衡、2代基衡、3代秀衡と4代泰衡の首級のミイラがおさめられている事で知られています。
  

 
中、見えているのは中央にある清衡壇ですか。
正面から向かって右が秀衡壇、左が基衡壇になり、泰衡の首桶は秀衡壇に父と共におさめられています。
この金色堂、1枚目の写真の建物(覆堂)の中で、ガラス越しに見る事ができる。
鎌倉時代まで剥き出しで建てられていたそうで、それはどうかという事で鎌倉時代に覆堂(おおいどう、さやどう)が作られカバーされる事になった。
恐らくそれまでも修復はされていたと思うのですが、確かに覆った方がいいよね…^^ゞ
 
ちなみに秀衡壇は2年ほど前、そっくりそのまま世田谷区にやって来ていました。
流石に御館(みたち)は平泉だっただろうけど。あんなに近くで見る事はもうないだろうなあ…
 
なぜ彼らがこういう堂を建てたのかというのは、分かっていません。
墓所なのか廟堂なのか、それもはっきりしない。
また、何故彼らがミイラになったのか。
どうやってミイラとしたのか、人工なのか自然なのか、それも分かっていない。
体を切って内臓を取り出した形跡はないようなのですが、4人共がミイラとして残っているという事を考えると、何らかの人工的な措置をしていたと考える方が妥当な様な気がします。

昭和25年、金色堂に学術調査が入りまして、その時に彼等の身体も調査されています。
清衡はAB型、身長159㎝の痩身で、カリエスの疾患あり、脳溢血かそれに類似した病気で死亡。
左半身が不随だったようです。
ミイラから死亡年齢は70歳前後と推定され、史料から知れる73歳と合致する。
 
息子、孫は太っていたようで、これは平和な時代を豊かに過ごした証拠でしょうね。
ひ孫にあたる泰衡は首だけですので、体格までは分からない。ちなみにB型です。
 
泰衡は4代御館(”おやかた”ではなく”みたち”)として知られています。
まあ、平泉最後の御館、判官贔屓もあって色々と芳しくないですね…
秀衡壇に収められていた首桶は長い間泰衡の弟、忠衡の首だと言われていたのですが、
桶の蓋をあけると出て来たのは、眉間に八寸釘大の穴が空いている首でした。
頭蓋骨を貫通していた。
『吾妻鏡』には泰衡の首は八寸釘で打たれ晒されたと記されており、その史料と合致する。
そこからこれは泰衡の首だと確定されました。

確か泰衡は一番保存状態が良いんです。
恐らく梟首された後、すぐに引き上げたんでしょうね。それから保存された。
首桶からは蓮の種が出て来ていまして、秀衡の側に泰衡が収められた際、共に蓮の花が収められた事が分かっています。
首級の周りに蓮を敷き詰めたんじゃないかな…

その蓮、研究の結果、10何年か前に再度咲かせることに成功しています。
古代蓮、中尊寺蓮、泰衡が蓮、なんて言われていて、毎年咲いている。
今年は7月8日に開花したそうです。
8月頃迄丁度見ごろです。笑。 

終りかと思いきや、もう少しだけこの話は続きます。笑。
よろしくお付き合いください。
  

あー疲れた!
今日は1日PCの前にいた!(笑


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