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2013/12/31 ヒジハラ
昨日の日記、もの凄く変な切れ方してますね。
もー本当に眠たくて書きながら船を漕ぎ、何度か机に突っ伏しました。
変な感じの文章ですが、そんな変な内容を書いてなくてほっとしました ^^A
昨日UPしたのは「平安ライフ」と「平安スタイル」の2ページです。
前者はほぼ全面書き変え……と言いますか、ほぼ元の形がありません…
元々1話であった貴族の生活、食生活の話とお風呂等衛生の話を、分量が多くなったという理由で2分割しました。
今回更新したのは食生活の方。
このページで生き残ったのはお酒の話と糖尿病の話くらいじゃないだろうか。
平安中期、藤原道長や紫式部といった「いかにも平安時代!」の人々がどういう食生活を送っていたのか。
興味がある方は是非覗いてやって下さい。
藤原氏の全盛期を築いた藤原道長が糖尿病で亡くなった事は有名ですが、あの最期を見ると本当に壮絶です。
絶対に糖尿病で死にたくない。(と思うような亡くなり方をしている)
亡くなる10年ほど前に糖尿病からくる白内障で目が殆ど見えなくなり(目の前にいる人の顔が判別できない)、手足には痺れが出、亡くなる少し前にはトイレにも自分で行けなくなって失禁を繰り返し、背中には女性の乳房程の腫れものが…
医者が溜まった毒気(膿かな?)を抜くために針をさすんですが、僅かに膿と血(と絶叫)が出たくらいで何の解決にもならず、その後すぐに亡くなっている。
その上心臓病だか狭心症だか、とにかく胸の病もあったようです。
今回の更新では削ったのですが、昔読んだ本には脚気を患ってもいたという記述もあってだな…
手足の痺れというのは脚気の症状でドンピシャですなあ。
糖尿病予備軍の人にこの辺りの話印刷するか何かして渡したらいいんじゃない?と私は思う訳です…
気持ち上の予防になりそう。
「平安スタイル」の方は髪型の話になります。
これは昨日も書いたようにイラスト以外は触っていません。でも一番この話が好きなんだよね…(笑)
自分で書いていてなんですが、平安時代や歴史に興味がない方が読んでも、結構面白い話だと思います。
キーワードは「パンツ脱いでる状態」です。
今の感覚から言うと、なんで”あれ”が”パンツ脱いでる状態”(でいる位恥ずかしいこと)か、理解しがたいです。
だって、そうだと今みんなパンツ脱いでる状態だぜ!^^;
昨日書いた事ですが、1000年違うと、本当に色んな事が違う。
生活は勿論、心のあり方とか、ものの感じ方とか…
以下閲覧注意
平安時代で、え?と思うのはですねえ、生活の違いもさることながら、平安京の汚さです。
中世ヨーロッパがどれだけ汚かったか、ご存じの方も多いと思いますが、あれを少しマシにした感じじゃないかなあ…
尾籠な話ですが、庶民は路傍排便なんですよね。
大の方は一応場所が決まっていたみたいですけど。トイレ的な施設も一部にはあったようなのですけど。
溝に流すにしても、平安京は一応都市ですので、人口が多く溝で流せなくなったりとか、鴨川が氾濫した時とか…
いやいやいやムリムリムリ!
…ぞわっとする話です。
それに死体も目にする機会が多くてだな、ちょっとびっくりするけど、内裏の中を犬が人の腕を銜えて走っていたり、ふっと庭に目をやったら人の首が落ちていたりする(貴族の家)。
あーうんうん。あるある。よくある。
……。
……………。
………………ねーよ!
と突っ込みたいですけどね…
ハイ…あるんです…
中流の家なんかで使役している人間の中に病人が出たら道端に捨てます。
で、捨てられた方は物乞いなんかをする訳ですが、やがて餓死する。
死体はそのまま路傍に放置され、それを犬が食ったり鳥がついばんだりする。
食い残された頭なり腕なり足なりが犬によって内裏だったり貴族の家に運ばれてくる。
道長の時代の話です。源氏物語が書かれている時代の話です。
同時進行している世界とは思えません。
そりゃあね、こんな世界じゃ疫病だって流行しますよ。
ただ、最近調べていて思った…というか、認識を改めた事がありまして。
平安時代の貴族、自分が思っていたほど不潔ではなかったみたい。
従来言われている
「平安時代の貴族=ほとんどお風呂に入らない、髪の毛を洗うのは1年に1度=不潔」
この認識、恐らく一般的な認識でいいと思うんですが、これ、間違ってる。
道長のお爺さんが子孫たちに残した教訓では”風呂”には5日に1度入れといっていて、
また行事がある度に小浴を行っている。
風呂というのは蒸し風呂の事。要するにサウナです。
汗をかいて汚れや垢を浮かし、小枝や着ている湯帷子(ゆかたびら)でそれを落として、水なりぬるま湯なりで流す。
小浴は要するに行水ですが、この場合は精進潔斎とか、そんな感じ。
汚れを落とすというより、穢れを落とすことが主目的。
とにかく、サウナと行水を入れると2・3日に1回は体を清めているのね。
体を洗う事や洗髪に関する認識は、今を基準にするのは大間違い。
特に毎日頭を洗う、なんて恐らくこの半世紀位。
お風呂を焚くには経済力がいる。大量の水(を汲む労力)と、その水を沸かす燃料(費)が必要。
そんな事戦前では難しくて、近所にもらい湯や銭湯に行くのが普通だった。
『坂の上の雲』(小説)でも、秋山真之がお母さんをおぶってもらい湯に行く場面がありましたが、あれはありふれた風景だった。
昔から言うと、今のきれい好きは異常。
だから、2・3日に1度のサウナ&行水でも、当時からするとかなり清潔な感じだと思う。
何故そんな誤解が一般認識になったのかが不思議ですが…
勝手に不潔だと思っててごめんね、という感じです。
ただ、今のように石鹸などがないので、脂がきれいに取れたか、においがきれいに取れたか、と言われたら、正直な所どうだろうと思う^^;
まあ、においの方はその為にお香があるという事もありますが、貴族のお屋敷から一歩出たら上記のような感じなので、もしかしたら大して気にならなかったんじゃないだろうか。
糞尿臭や死臭の中を馬や牛車に乗って行き来するんだぜ…
時代は隔たりますけど、そう考えたら今の大河ドラマ、あれでもまだ滅茶苦茶きれいだと思うよ。
サイト更新です。
先日来ちょこちょこと触れていた「平安ライフ」、加筆修正でUPし直しました。
頑張りました。(大声)(笑)
…いや、はい…頑張りました、じゃなくて、まだ頑張ってます…
うん。この話、実はまだ続いてる^^;
元々そんなに分量のある話ではなかったのですが、つらつらと書いていたら思ったよりも長くなってしまったのでふたつに分けることにしました。
今回更新したのがその前半、平安時代の貴族のご飯の話です。
こういうの。
うん。一見おいしそうというか、ご馳走というか。そう見えるんだけどね…
調べていて思うのは、1000年経つと随分感覚が変わるんだな、という所です。
まー1000年だもんな!^^;
今回の更新分でも書いたんですが、当時はご飯にお箸を突き立てるのがお作法でした。
ちょっとびっくりするよね。
今だったら人が亡くなった時の枕飯位でしか見ない。
あとは神様にお供えする(神饌)とか、そういう辺りですか?
座り方ひとつをとっても、平安時代の女性だと正座はしていない。
立て膝か胡坐が正式な座り方です。
まあ、物理的に十二単などの衣裳では正座できなかっただろうとは思いますが…(^^;
正座は室町時代、茶道からですよねえ。
それでも戦国時代や江戸の初期ごろならまだ女性は立て膝だと思う。
それに平安時代だと身分の高いお姫様なんかは、室内であっても立って歩く事はしませんでした。
膝行(しっこう)といってね、膝で進む。
膝をついたまま進むというのではないようで、武道の蹲踞とか和室での膝行のイメージなのかなと勝手に思っているんですが。
平安時代だと高貴な女性は自分の部屋で人生のほとんどを過ごすことになる。
裾の長い着物、丈なす黒髪、活動的とは程遠い。
奈良時代はまだ建物が独立していたので、違う建物に移動するには歩くか、輿に乗る必要があった。
平安時代になると建物が廊下で繋がれたので、移動する際着物を地面に引き摺らなくなり、裾がどんどん長くなる。
更に女性は家族以外にむやみに顔を見せるものではない、ということになり、益々家の奥に引っ込む状態に…
『はだかの日本史』という本によると、当時の貴族の寿命の平均は男性32才、女性27才だそうです。
食生活が偏っている事もありますが、何より不健康だよね。
病気になっても医学に頼るのでは無くて加持祈祷だし、それでは治るものも治らない、という場面が随分あったのではなかろうか。
今の常識からすると、感覚的に理解できない事も多い。
ただこの”今の”というのが、歴史を考える上ではいつもネックになるなあといつも思います…
「平安スタイル」の方は今回は特に触りませんでした。
武者スタイルの方を少しいじろうかと思ったんですが、今手をつけるとそれこそえらい事に(笑)
うん…実はあの話、途中で終わってるんだ。ははは。
今年は大河で清盛を放送している事ですし、あの続き話は今でなくてもその内したくなるだろうと思って今回は放置。
ただイラストだけはきれいなものに差し替えました。
ボケていたのでスキャンし直した。
>なかむらきりのさん
つ、使ってるんですか…!私は大体1枚しか取っていないので使えないです(笑)それにメール便を使うようになってから切手を使う場面が殆ど無くなってしまい、使ってもいい用に置いてあるものまで使えない始末…^^ それはそれでどうしようかな、という感じです。笑
前九年の役が終結した日ですな。
今日は安倍貞任、藤原経清の命日になります。
初夏に散々書いていたのでかなり今更でもありますが、経清は平泉を築いた藤原清衡の父、そして貞任は清衡の伯父にあたります。
経清の妻、つまり清衡の母が貞任の姉妹になる。
貞任と経清は義兄弟になります。
古代東北にド嵌りしたのは貞任が原因でして、そういう意味ではまあ御命日…あ、今日だなとはいつも思います。
前九年の最後の決戦地は厨川柵、現在の盛岡市になります。
地名にも前九年町とか安部館町とか歴史の名残がある。
…のですが随分前に訪れた時道を教えてくれた地元の方は名前の由来を知らなかった。
「前九年町って変わった名前だとは思ってたんだけどね」
私からすりゃなんて羨ましい住所なのと思うんですが、そんなものなのか…
分かる気はするけれども。住んでたら日常すぎてそんなもん。
安倍氏は北上川沿いの要衝に柵を設け、そこに安倍の子弟を柵主として配置していました。
貞任が預っていたのはこの厨川で、貞任は厨川次郎とも言われている。
ちなみに貞任の弟宗任は鳥海柵を守っていたので鳥海三郎、黒沢尻柵の柵主だった正任は黒沢尻五郎。
貞任は『次郎』なんですな。
実は井殿という兄がいたものの盲目で出家していたようです。
厨川次郎と言いながら盛岡には貞任の名残は柵の辺りしかない。
盛岡では彼や安倍氏にまつわる伝承は残っているのでしょうか?
岩手の他のまちと比べると盛岡はあまりに都会で、そういう昔話や伝承が生きているような隙間が感じられない。
知らないだけかな。
岩手のあちこちに安倍氏や貞任の伝承はあるけれど、やっぱり衣川が本拠だったのだなーと思ってしまう。
厨川柵擬定地(@天昌寺)
康平6(1062)年9月17日、10年以上に及ぶ戦争が終結。
結果は書く迄もないですが、安倍方の敗北です。
『陸奥話記』によると、刀を抜いて戦っていた貞任は鉾で貫かれ、恐らくこれが致命傷だったかと思われます。
大楯に乗せられ官軍側の総大将源頼義の前に連れて来られる。
随分大きな人であったようで、身長は180cm越え。運ぶのは6人がかりだったそうです。
腰回り2.2m(!?)い、いや…腰回りはいいんです…聞こえないぞそんな数字!
『陸奥話記』をそのまま受け取ると、姿も顔つきも立派な人物であったようですな。
頼義は死に瀕している貞任に向かい今までの罪を問責するも、貞任は「一面して死す」、ちらと頼義を見てそのまま逝った。
藤原経清もまた生捕りにされ、頼義の前に引き出されます。
この両者のここまでの行き掛かりは長すぎるので省きますが、頼義は経清に裏切られた恨みを、鈍刀で苦痛を長引かせるという行為で返している。
数多い安倍兄弟は決着が着いた後、降伏したものの、命は許されています(配流)。
ただひとり、重任という弟は戦死していて、貞任、経清の首と共に京の都に送られている。
京都に到着したのは翌年の2月、それから西獄の門前で晒し首にされている。
貞任の首が晒されたのは確かですが、他のふたりがどうなったのかはいまいちよくわからない。多分晒されてると思うけど…
いつも思うのですが、幾ら冬を挟んでいるとはいえ半年、流石に腐敗が始まっていたのではないだろうか。
遺体の保存方法は2パターンありまして、ひとつが塩漬け、もうひとつが酒漬け。
源義経の首が平泉から鎌倉に送られた時は後者でした。
水分抜けるし、ふやけるし、どちらにしても…うん…
余談ですが、
江戸時代ではシーボルト事件の重罪人となった高橋景保(書物奉行並天文方)、大塩平八郎の遺体が塩漬けにされています。
高橋は伝馬町に収監中に病死し、大塩平八郎は潜伏先で火薬を使っての自決。
どちらも幕府による罪状確定前の死で、こういう場合は遺体を塩漬けにして保存しておきます。
判決が出た段階で、遺体を前に判決を述べるんですな。
大塩は磔になっていますがそれが大体1年後の事になります。
大塩は爆発物による自決ですし、その時点でもう自決したのが大塩本人であるのか分からない状態であった。
それをさらに1年塩漬けですから、貼り付けされているのももう全く誰かわからない状態であったと言います。
高橋景保の方は死罪になっている。
…遺体はそのまま廃棄だったのかな…
切腹申付なら塩から出して腹を切るそうですが、嫌な役目だ。
京都市右京区、といっても亀岡付近の山の中ですが、貞任峠という峠があります。
陰陽師が貞任の首級をそのまま処分するのは良くないという事で、遺体をバラバラにして埋めた。
そこが貞任峠、その他。
陸奥国から京都へ持ち帰られたのは首級だけでしょうし、まあ地域伝承なので、その辺りは色々な話が伝わっているのだと思います。
貞任峠、行ってみたいのですが、車じゃないと無理そうだし女子がひとりで行くには危険を感じる。
ただ、私としては関西に貞任所縁の地があるというのは、少し嬉しい…気もするのですが、内容が内容なので喜ぶに喜べない。
それに貞任はやっぱり岩手じゃないとな、と思うんです。
話は少し変わるのですが、源頼義、義家親子の本拠地は大阪府羽曳野市になります。
河内源氏というだけに、本拠地は河内にあった。
さらにその大本は兵庫県川西市で、ここから源氏は始まった。
源氏のルーツは兵庫県にあり!なんです(誇らしげ)(笑)
小学校低学年より八幡太郎義家のファンだった私としては(※八幡太郎=私を歴史好きにした張本人)、そらーもーこの辺りの史跡巡りは外せない。
ちゃんと歩きました。
源頼義、義家親子の館があった場所には現在壷井八幡宮が建っていますが、そちらが宝物を持っている。
公開はされていないのですが、電話でお願いして見せて頂きました。
だってそこには伝安倍貞任所持の太刀というのがあるんですよ。
これがすごかった。
長さ1.8mくらい。
太刀というより薙刀のような感じで、長すぎるので最早鞘から抜けない。笑。
これが貞任のだなんて流石に私も思いませんが、大きかったと言われる貞任なら、こういうのも簡単に振り回せそうだなーと不思議と納得したのは覚えている。
触らせて頂けて心が震えるほど嬉しかったのも、よく覚えてる。
そして宮司さんと話弾む。
「『炎○つ』の頼義の描き方は酷過ぎる」
意見一致!(^^ゞ
私は頼義が総大将として優れていたとは思わないけれど(凡将だと思う)、あれはちょっとないなーと思います…
ただ岩手の方からするとそれまでの安倍方の扱いが扱いだったという事もありその反動もあるんだろうなーとも思うし、原作者が地元出身ということで、どうしても安倍藤原アゲアゲになるのは心情からして仕方ないとも思う。
ただ御祭神をあんな風にされてしまったら、小説とはいえ神社としては辛いよなぁ。
そういう事もありましたが、なんというか、関西に貞任所縁の、というのが嬉しかったです。
首級とかではなくて…
まあこれも源氏ゆかりの神社に伝わっている辺り戦利品という位置付けになるかと思うのですが。
で。
あんた安倍と源氏一体どちらが好きなの、という感じですが(笑)、結局どちらも好きなんです。
守る安倍氏には安倍氏の正義が、攻める源氏には源氏の正義があったと思うんですよ。
勿論途中参戦した清原氏にも、清原氏の正義があったと思う。
歴史なんて何が正しくて何が悪いかなんて言えるものもないだろうし。
後世の私たちから言うと、官軍であった源氏が正しかったわけでもなく、朝敵になった安倍氏が悪かったわけでもない。
両者とものっぴきならない事態に陥り戦争になっただけであって、好悪を決めるような事でもないなーと。
何にでも言える事なのでしょうが、偏り過ぎない、バランスのとれた物の見方は大事だと思う。
一般的に教えられるのは「中央から見た政治史」が多いと思うし、私もどうしてもそういう見方をしてしまうんですが(近代で政治史に興味持つと余計に…)、古代東北史からはもっと違う側面から歴史を見ることも大事、という事を教えられました。
そういう意味では安倍貞任や藤原清衡との出会いは大きかった。
自分の中で大切にしている歴史上の人物は数人いますが、今日亡くなった貞任はその中のひとりです。
>感謝です。 さん
あーやっぱりそうですか。
写真まで載っているのに原文がないというのは著作権しか無いなとは思っていたんですが。
写真部分については8割方釈文が載っているようなものですし、自分で落とし込みしておこうと思いつつ、ついつい先延ばしで今まで来てます。笑。
『京在日記』がもう一冊あったらしいなんて初耳です。
行方の分からなくなっている史料は沢山あるものですね。
鹿児島も戦災に遭っていますし、存在が分かっている史料なんて氷山の一角なのでしょうが…
ホント、早く発見されて欲しいですね。
※少々グロい
※”The Bourne Identity” ではなく ”The Bone Identity” 笑。
「骨―日本人の祖先はよみがえる
」という本を読んでました。
斜め読みも斜め読み、さらーっと興味がある所だけを拾い読みした感じなんですが、これが結構面白かったです。
地元の図書館で発見しておや、と思ったんです。
著者は鈴木尚という人類学の先生で、昭和25年に行われた奥州藤原氏4代の遺体調査に加わっている。
骨から日本人を探るという分野の先駆者というか、権威の先生(数年前に死去されてます)。
芝増上寺の徳川家の調査なんかでも名前を見ます。
奥州藤原氏4代の遺体が、平泉、中尊寺金色堂にミイラとして残されている事は有名です。
3代藤原秀衡の遺体は写真で見た事があります。最近の書籍では載ってないですな。
O脚というか、がに股のような状態で仰向けで棺の中に寝かされていました。
写真と言っても全体像が映る様に少し高い所から撮影されているようで、はっきりとは分からないのですが、随分傷んでいるような印象を受けました。
公表されているデータによると、
初代清衡の遺体は広範囲に白骨化、基衡も身体の一部が白骨化しているのに比べ、秀衡と泰衡の首はほぼ完全にミイラ化している。
ただ秀衡の遺体は鼠害がはげしいようで、やはり傷みが激しい。
この辺りは「金色の棺―藤原三代の謎を開く」(内海隆一郎/筑摩文庫)というドキュメンタリー小説でも詳しく取り上げられていました。
ただ、泰衡の首は非常に保存状態が良いらしいんです。
へえと思って。
首は桶に納められていたので、それが鼠害、虫害、黴害を免れた要因になっている。
藤原泰衡は文治五年奥州合戦の際、裏切りにあい、最後は斬首の上晒し首にされている。
それがどういう経緯を辿ってか、父秀衡の棺に共に納められる事になった。
中尊寺の寺伝では、この首は泰衡の弟・忠衡の首だと伝わっており、昭和25年の遺体調査までずっとそうだと信じられていた。
その伝承が間違いではと遺体調査で疑問視されたのは、八寸釘が打たれた跡があったからです。
泰衡は『吾妻鏡』から斬首の上晒し首にされた事が分かっています。
また、ミイラの歯の状態からみても年齢的に忠衡ではなく泰衡だろうと。
保存状態が良いという事はこの跡も鮮明に残っているんだろうと思っていたんですが、ビビる程鮮明に残っていた。
…ハイ…
本に写真が載ってたんです…
驚きました。
顔面にぱこーんと穴があいてる。
泰衡の首は1刀では落ちず何度も頭部に刀を打ちつけられていて、最後の2打で首が落ちた。
随分暴れた…抵抗したようで、それで傷が多いようです。
斬首と言うシチュエーションを考えると、首の後ろや後頭部に傷が集中しているのかと思っていたのですが、豈図らんや顔面にも結構な数の傷跡が。
長さ10cm程の傷が顔面の中央、眉間から上唇をぱっくりと割っている。
骨にまで達していてこれはかなりの痛手になったとのこと。素人目にもそうだろうと思うほどの大傷です。
…何といいますか…ちょっと江藤新平思い出した。
江藤も首だけの写真が残ってますが、初めて見た時は吐いた。
江藤は生前の写真もあるけど、泰衡は元の状態が分からないしな…
いつも思うのですが、なんで首は金色堂に収められたのかなあ…
下げ渡されたのか。
「只私の宿意を以て誅亡」(『吾妻鏡』、朝敵でもないのに個人的な恨みでもって滅ぼした)、
ついでに言えば文治五年奥州合戦で亡くなった人たちの霊を慰めるために永福寺を建立もしているし…
こういう所に何かあるのかとも思いますが。どうだろう。
あと読んでいてふーんと思ったのは、鎌倉の材木座から相当数の人骨が出てきた事。
戦の諸々の犠牲者と言う事ですが、由比ヶ浜からも相当出てますよね。数千体。同時期なのかな…
そう言えば福岡県(だったと思う)でもなかったですか、そういう話。南北朝時代、確か足利尊氏の頃ですが、その時の戦の犠牲者と思われる人骨が大量に出て来たとか。
あるんだな、やっぱり…
京都でもありました。その手の話。戦関係じゃなかったけど。
それに心霊話までついてくるというおまけ付きというか、曰くつきと言うか。
それだけ歴史があるという事なんだろう。
そしてええええと思ったのは縄文人。食人してたそうで。
世界東西関わらずそういうのがあるそうです。
細かく切断された人骨に付いた鋭利な器具の行きかう跡。ぎこぎこ。
焼いた跡が認められるものもあるそうで、明らかに食されている。
今ならちょっと絶句してしまいますが、そもそもカニバリズムがダメ、なんて倫理?、いつ生まれたんでしょうかねえ。
ただこの手の話を見て思い出す事はふたつ。
ひとつは三国志。
吉川英治の三国志で、やってきた劉備玄徳をもてなせなかった男がその妻を殺して食べさせるシーンがある。
劉備は驚いて謝するのですが、こちらからすると男と劉備、そのあまりにも斜め上過ぎるリアクションにドン引きです。
ただこの場面には流石に註が入っていた。
曰く、この時代にはこういうもてなし方は最高の云々。
マジか。
これが史実として本当にそう考えられていたのかというのはちょっと分かりませんが、ものすごく印象に残っている。
もうひとつは、まあちょっとね、薩摩思い出すんですよね…ひえもんとりとか。
幕末関係の本でも結構触れられていますが。
何年か前、確か食文化関係の本で詳細を読んだのですが、き、き、き、気持ち悪い……
尚武の風とはいえ、これは尚武に繋がるのか…
薩摩は男色の話と言い、こうした尚武に関する話(ひえもんとりとか、鉄砲の話とか)といい、
……なんで?
と思うほどエキセントリックな気がします。
薩摩って書籍を通じて感じる印象と実際は随分違うのではないだろうか。
男色文化なくして中々理解できないのでは?とも思うけど、男色自体が現在ではタブーに近いから、まずそういう点で幕末維新に真面目に触れる事が少ない気がします。
まあ正直に言えば下世話な好奇心もありますが、真面目な話、薩摩に限らず日本史における男色は重要だと思うんだけどなあ…
BLとかじゃなくてさ。
空海以降、男色がアブノーマルである期間はアブノーマルでなかった期間よりも遥かに短いんだし(100年そこそこである)。
…オチがない。
平泉の話、まだ続く…
中尊寺の宝物は多くが重要文化財であるとか、国宝に指定されています。
平安時代の文化と言えばやはり京都でしょうが、政治の中心地だけに戦火に巻き込まれたりもしていますので…
そういった面で、平安時代の文化、工芸が金色堂という形でワンセットで残っているというのは珍しいのだと思います。
4代御館泰衡が平泉から落ち延びる際に火を放っているので、火事にはなったのでしょうが、それがどの程度の規模だったのか…
平泉館だけで済んだのかな?寺院が焼亡したような感じではない。
御館がいなくなった後は平泉の僧侶たちの訴えを受けて源頼朝も先例に従えという事を指示しています。
先例に従う、つまり秀衡泰衡時代と同じようにする、ということ。
頼朝自身も平泉には感銘を受けた事もあり、鎌倉勢よりの蹂躙をを免れています。それだけ凄かったんでしょうね…
ただそれ以降何もなかったかと言えばそうではなく、建武4(1337)年に起こった火災により中尊寺はその大規模が焼失している。
毛越寺も何度か火災に遭っていますし、平安時代から現在まで残っている平泉の建築物は金色堂だけなんです。
(ちなみに毛越寺の浄土庭園と伽藍の遺構は当時のままです)
先日「中尊寺建立願文」を紹介した際、写本が2本残っているだけ、と書きました。
1本が藤原輔方(輔方本、1329年)、もう1本が鎮守府将軍北畠顕家(顕家本、1336年)。
研究からこのふたりは同じものを筆写しただろうこと、また顕家の時代には既に原本が失われていただろうという事も言われている。
北畠顕家は『太平記』に興味がある方には、お馴染みかと思います。
『神皇正統記』を記した北畠親房の長男になります。
わっかいのよ!鎮守府将軍として東北に来た時は17、8歳!
亡くなったのも20歳くらいで、戦死地は大阪阿倍野の辺りになります。阿倍野神社、北畠神社が所縁の地。
『破軍の星』(北方謙三)が懐かしい。笑。
顕家は「願文」に目を通した上、これは不慮の事故で失くしてはならないものだ、として自ら書写した事が分かっています。
当時は南北朝の戦乱の真っただ中で、しかも遠い都からやってきた公卿の子供ですよ。
随分豪胆というか、機動力のある人物だったようですが、これを知った時は驚いた…
そういう事をできる余裕を持っていた事に驚いた。
というか親房の総領息子だもんな…さすがというか。
私の親友に北畠顕家を大好きで南北朝時代にのめり込んだ子がいるのですが、思わずお礼を言った。笑。
現在平泉にある「願文」はこの顕家の筆跡(て)によるもので、重要文化財とされています。
原本だったら国宝だったのかな。
「願文」は重文ですが、「紺紙金銀字交書一切経」、所謂「中尊寺経」は国宝に指定されています。
紺色の紙に金銀の字を交互に書いた一切経。だから紺紙金銀字交書一切経。
清衡発願のもので清衡経なんて呼ばれたりもする。(秀衡発願のものは紺紙金字一切経)
平泉の地に中尊寺を建立するのと並行して、清衡はこの一切経の書写を始めます。
その場所は分かっていまして、江刺の益沢院になります。
えさし藤原の郷の近くになるのかな?私は行った事がないので…
藤原の郷を挟んで豊田館と五位塚(藤原経清墓所)と益沢院、逆方向にあるんです。
つい豊田館と経清のお墓参りを優先してしまう(笑)
清衡のブレーンとも言われる自在房蓮光をリーダーとし、200人、約8年の歳月をかけて書写。
出来たのが5300巻と言われています。
それが中尊寺の経蔵に安置された訳ですが、現在こちらに伝わっている数は僅か20巻弱程になる。
これ、15巻とか16巻とか17巻とか言われているのですが、どれが正しいのかよく分からない。
20巻弱というのはこの清衡経の近年の調査に関わった方が出されている数字なので、それによりました(『特別展平泉 みちのくの浄土』/09)。
まあ、平泉には清衡経は20巻前後しか無い。
経蔵。修復中だった。笑。
後の膨大な巻数は何処へ行ったのか、という話ですが、それは高野山にあるんです。
高野山金剛峯寺に4297巻。その麓観心寺に百数十巻、その他にパラパラと。
消失したものも含めると、やはり5千数百巻はあったと考えられるそうで。
で、なぜ平泉から高野山に?という話ですが、これは豊臣秀吉の時代になります。
奥州仕置の際、平泉の諸寺院が寺領安堵(確認?)のためとして、この地方の仕置をしていた浅野長政に嘆願書を出したそうで。
何という皮肉か、それが平泉にどれだけの宝物があるのかということを示す事になり、
「中尊寺、毛越寺の宝物を見たい」→持ちだし
中でも一番大規模であったのが、
「秀吉に上覧する」という理由での豊臣秀次の中尊寺経の持ち出しで、恐らく関西にある中尊寺経の殆どがこれだと思われます。
中尊寺のえらい人たちが必死になって懇願したけれど、聞き入れてもらえなかった。
この豊臣秀次という人物は古典籍のコレクターというか愛好家というか、あちこちで同じような事している。
平泉中尊寺の他に、足利文庫からも金沢文庫からも古典籍持ち去って京都に運んでいます。
修復したり複製した上朝廷に献上もしていたようなので、コレクターとは少し違うかもしれませんが。
それに、こういう事があったから大規模な散逸を免れて現在に残っているという側面があると思います。
そういう意味では、ある意味功労者というか… 功績なんだろうなあ。
たださぁこういうの、見ていて本当に…何というか。人情として腹立たしいというか。
こ、心狭くてごめん…
つい北畠顕家と比べてしまうんです。
あれだけ大変だった時期に顕家がした事と、ある程度日本が整った時期に豊臣方した事を。
寺宝の持ち出しなんてあちこちで見られたありふれた事だと思うので、特別な悪事だとは思わないんですが、まあ…思い入れの深さでしょうか…
ただ好きでもなかった豊臣秀吉が更に好きではなくなったのは確か ^^ゞ
「関西人は豊臣秀吉が好き(→好きじゃない)」というのと
「住んでいる地域に甲子園がある=阪神ファン(→興味ない)」という自動変換がものすごく迷惑なヒジハラです…
コンビニに売ってないんだね、金色(こんじき)ヨーグルト…。やっと見つけた@成城石井
金色堂にあやかってのネーミング。小岩井乳業の。小岩井は盛岡に近いからなー余計かな。
ちなみに小岩井は
小…小野なんとか(ごめん。笑)
岩…岩崎弥之助(弥太郎の弟)
井…井上勝(長州ファイブ。東京駅前の銅像の人)
の3人共同で農場を作ったんですな。その頭文字をとって小岩井農場。
ちなみにこのヨーグルトの販売数量1個当たり1円を被災地の「子供の笑顔作り支援」に役立てる、とのこと。
本当に身近でできることだなあと思って。