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2013/12/31 ヒジハラ

平清盛 #33清盛、五十の宴

2012-08-28 | ヒストリ:平清盛

2週間開くとなにがなんだか。
前回分は一応見ていたのですが、音だけ聞いていたような状態だったので見ていないのと同じである…

●清盛の昇進
長寛3(1165)年 大納言
永万2(1166)年 内大臣
仁安2(1167)年 太政大臣
 
前回が「100日の太政大臣」ということで、位人臣まで極めたものの3カ月であっさりと辞めてしまいました。
当時太政大臣は有名無実…
というのは大袈裟かもしれませんが、名誉職でそれほど権力があった地位ではなかったというのがあります。

太政大臣になったことより大臣の位に上ったことのほうが重要というか、衝撃的であったようです。当時としては。
このドラマの一番初め、清盛のアイデンティティとして「後白河法皇の子」という話がずっと出てきていました。
当時そういう噂があったのは事実のようですが、その話の出所?はこの「大臣にまでなった」という点にあるそうです。
 
なぜかというと順調に昇進を重ねていても大臣になるのはめちゃくちゃ難しい。
というか家柄が壁になる。まー…普通はなれないもの。
皇族と婚姻関係であるとか摂関家の人間かという感じで、清盛が藤原氏でないのは周知ですからそれなら皇族の一員、御落胤かと。
簡単に書くとつまりはそういうことだったようです。

とはいえ、武士の出自の人物が従一位太政大臣。これはすごいインパクトだと思うなあ…
清盛のことを平相国といいますが、相国は太政大臣の唐名になります。
国を相(たす)けるという意味。
ちなみに水戸黄門の「黄門」も唐名で、こちらは中納言のこと。
 
重盛が内大臣、宗盛と時忠が参議。
オープニングでさらっと流されていましたが、この方々肩書きから見て仗議(陣定(じんのさだめ))に参加している人々になります。
仗議は公卿以上つまり三位以上が参加するのですが、参議も三位以上ということになり(実際の官位が四位でも)、参加した。
何をするところかというと、国政の審議をする場。
決定権はなくて、天皇や摂政にこんな意見が出ていますといった…補佐機関?諮問機関?
必ずしも人数が多ければいいというわけでもなかったんじゃ?という気もするけれど、少なからぬ影響力はあっただろう。
「音戸の瀬戸の開削が朝議で決定した」と重盛が清盛に告げていましたが、平氏の子弟がそういう処に出られるほどの官職にまで上っているということですな。
ついでに言えば清盛は太政大臣をすでに前回で引退していますが、前太政大臣ということで政治関与は続けています。

●乙前
まだ出てくるか聖子ちゃん…
乙前は後白河院の『梁塵秘抄』にも名前が出てきます。
この人から口伝されて、自分が乙前の正統な後継者である、という感じで書いてあった。

●親王たち
後白河院の皇子として以仁王と憲仁親王が出てきています。
以仁王は初登場?
親王宣下を受けていないということですが、親王と認められない限り親王とは名乗れませんし、そうだとすると親王が受けられる特典?も受けられません。
土地の給付とかが受けられない…かなり苦しい内情だったんじゃないかと想像。
結構才能豊かな優秀な人であったという話が伝わっていますが、なぜ後白河がそういう仕打ちをしたのかは不明。
勝手に元服してしまっていて、それが原因じゃ?という話を読んだことがありますが…

憲仁親王はのちの高倉天皇になります。
母は清盛の妻時子の妹、滋子。
今回清盛と時子の娘徳子が出ていましたが、後彼女が高倉天皇の中宮として冊立されます。
 
●院の近臣
西光と藤原成親が出てきています。
今更ですが、西光は信西の家人であった藤原師光になります。
池禅尼(頼盛実母)のいとこであった藤原家成の子が成親ですが、西光はもともと家成の養子でもあったので、まったく他人というわけでものなかったのかなー…よくわからんけど。
で、成親の妹が重盛の妻になっています。
後白河はよく分からん(こればっか)のだけど、藤原頼長の息子も近臣か取り立ててるかしてなかったっけ…

そういや自分が見捨てた(に等しい)信西の館の跡地に自分の館を立て、しかもその館、信頼の館をそのまま持ってきたものだったり。
平氏が壇ノ浦の波間に消えた後、自分が滅ぼした(に等しい)一族の生き残り、徳子に会いに大原に行ったり。
ちょっと何かが欠落しているんじゃないかというか…
天皇として相応しくないと見られていたと言われる後白河ですが、どうもそういう軽薄?な振る舞いもその原因であったようです。
  
●後白河院
後白河がやたら清盛に噛み付いていますが、当時はそこまでではなかったと思います。
両者の懸け橋になる親王もいて、おそらくめちゃくちゃ蜜月期間というか。
それに平氏の軍事力と経済力に頼っていた時期なので。
京都の蓮華王院(三十三間堂)造営の財政的なバックアップを清盛がしたのもこの時期ですし。

●摂政基房、右大臣兼実
簡単に系図にするとこう。ドラマに出てきている人だけ。
 

 
摂政基実は前回亡くなっていましたが、妻が平清盛の娘になります。
基実が亡くなり、その莫大な財産を管理したのが妻盛子。
といっても当時10歳くらいで、実質的に管理していたのが清盛になります。
 
基実の後任として摂政になったのが基房(細川茂樹)、セットで出て来たのがその弟兼実(相島一之)になります。
藤原兼実と名前が出ていましたが、九条兼実と言った方がよく知られています。
で、ドラマでは出てきていませんが更にその弟が慈円(天台宗の座主)。
兼実が『玉葉』という日記、慈円が『愚管抄』という歴史書を書き残しています。

●平氏一門 
いい加減ややこしくなってきたので作ってみた。
   

  
既に出てきている人と、これから出てくるかな?という人々。
今回出て来たのは弟忠度、娘徳子、孫の惟盛、資盛、清経ですか。
忠度についてはこの前書いたのでそちらからどうぞー(忠度@「平清盛」)。

平氏の侍大将伊藤忠清が惟盛の乳父になってました。
かなり良いポジションについている人物ですが、まー…あとはちょっと可哀想なんだよね…(余りいい言い方が見つからない)
あー惟盛ね、惟盛。めっちゃカッコ良かったそうです。
めっちゃカッコ良くて、光源氏の再来(?)とか言われていたそうで(ちゃんと史料に記述がある)。

忠度への兄弟紹介の段で、経盛は文、教盛は武の人と言われていました。
まーそんな感じですかねえ…
経盛は歌人で家集がありますが、教盛は本人がというより子供が、という感じだけれども。
次男教盛がまさに武の人で、壇ノ浦でも最後まで戦って亡くなっています。

●常盤御前と牛若丸
常盤御前が一条長成の後妻におさまった事が出てきました。
常盤は平治の乱の後、平清盛に再嫁し女児を得たとも言われますが、それは史実かどうなのかがいまいちよくわからない。
それはともあれ、常盤は藤原(一条)長成に嫁しており、女子と男子を産んでいます。
この一条長成の従兄弟の子供が平治の乱の首謀者となった藤原信頼で、その兄弟が陸奥守藤原基成。
基成の娘が奥州藤原氏の3代目御館秀衡に嫁いでおり、4代目御館となった泰衡を生んでいます。
泰衡と義経、血の繋がりはないものの系図上では親戚になるのね。
奥州に向かったというのは、常識的に考えるとこの繋がりを辿ったものと思われます。
 
秀衡が義経を迎えたのは地方にありがちな貴種を迎えて地位や威光の向上を謀ったもの、と一般書なんかではよく出ているのですが、当時はどう考えても義経は貴種ではないと思うんだ…
義朝の時代を考えても貴種とか言えるような感じじゃないと思うし。
そこんとこどうなんだろう。

●五十の宴
五十ということですけど、全然年齢感じないんですよね…ちょっとそこに違和感があるなあ。
清盛の兄弟も依然若いままで、どんどん大きくなる子供たちとも大差なくなって来ているし。
清盛と兄弟世代はもう少し老けメイクするとか、工夫した方が良いんじゃないだろうか。


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平忠度@「平清盛」

2012-08-26 | ヒストリ:平清盛



忠度好きな私涙目

いや…正直忠度はもう出てこないものだと思ってました。
平清盛の一番下の弟で、もちろん腹違い。
清盛とは25・6歳ほど年が離れていて、もちろんそれだけスタートの時期が遅いということなので、忠度自身は他の兄弟ほどの昇進はしなかった(平氏が没落した)。
最終の官位官職が正四位下薩摩守になります。
何で有名かというと、今回の大河ドラマでもありましたが、和歌になります。
歌読みとして有名な人物。
私は読んだ事がありませんが『忠度集』という家集があるので、ドラマで詠まれていた和歌はそこから拾ってきたんじゃないだろうか。
 
和歌を通して交流があったとして名前があがるのは藤原俊成。
藤原定家の父で『千載和歌集』を編纂した人物ですが、この人が忠度の先生だった。
平氏が都落ちする頃、勅撰和歌集が編纂されるらしいという噂があったようで、それを聞いた忠度が自分の和歌集を持って俊成を訪れたという話が残っています。
俊成は忠度の歌を1首選んだものの、朝敵という立場を憚って「読み人しらず」となっている。

「故郷の花」
さざ波や志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな
 
マメ知識としては忠度の読みが「ただのり」ということで、「薩摩守」を落語なんかでは無銭乗車という意味で使っている事があります。
あと唱歌『青葉の笛』の2番が忠度ですね。1番は敦盛です。



1:一の谷の軍(いくさ)破れ 討たれし平家の公達あわれ 暁寒き須磨の嵐に 聞こえしはこれか青葉の笛
2:更くる夜半に門を敲き わが師に託せし言の葉あわれ いまわの際まで持ちし箙に 残れるは花や今宵のうた
 
大好きなんです、『青葉の笛』。良い歌だ…
古くて明治39年、作詞作曲が大和田建樹と田村虎蔵という何とも不思議な日露戦争軍歌コンビ。
大和田は広瀬武夫の歌も何曲か作ってますし、”♪四面海もて囲まれし”の『日本海軍』、”♪海路一万五千余里”の『日本海海戦』なんかの有名な曲も作っている。

忠度は一の谷の合戦で戦死していまして、所縁の地が兵庫に幾つかあります。
長田に腕塚と胴塚、明石に忠度塚というお墓がある。明石の方が行った事がないなー…
『青葉の笛』の歌詞「花や今宵のうた」というのは、

ゆき暮れて木の下かげを宿とせば花やこよひのあるじならまし

の和歌のことで一の谷の合戦で首をかかれた際誰かわからなかったのですが、箙に括り付けてあった和歌で名前が判明した。
それがこの和歌になります。
だから「いまわの際まで持ちし箙」なんですな。

とりあえずはこんなもんでしょうか。ドラマのレビューは気が向いたら書きます。

 


>とよたさん
ホント、毎日暑いですね~ 今回の更新は1ヶ月以上前に作って、その後存在をナチュラルに忘れていたものです(笑)御覧頂いてありがとうございます。
荒田八幡神社の辺りですか。良いですね~。頼盛の家があった辺り!安徳天皇の行在所があったりした所ですね。というか平野商店街結構凄いことなってません?この前行った時清盛で盛り上がっていて少し驚きました。
大阪城行かれたんですね!私はもうずいぶん行っていませんが、あそこも見応えがあるというか結構時間かかる…それに人多い^^;
何よりブログやサイトが少しでもお役に立っているようでなによりです^^ ありがとうございました!

Comments (2)
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平清盛 #30平家納経

2012-07-30 | ヒストリ:平清盛

平家納経はー平家一門の繁栄を願ってのものでありー怨霊や戦争で死んだ人間の霊を鎮める為のものではないー
うーん…まあドラマだからとは思うけど平氏ageに無理矢理使わんでも良いんじゃないか。
中尊寺供養願文のパクリのようだ…
調べてみたら平家納経が厳島神社に奉納された年と崇徳院が亡くなった年は同じでした。
長寛2(1164)年のことで、保元の乱(1156)からすでに8年が経っている。
ちなみに平治の乱(1159)からは5年が経過しているというのが今の時点。
まさかまだ崇徳院が出てくるとは思っていなかったので、少々驚きました。
崇徳院は日本最大の怨霊と言われる人物でもあります。
菅原道真と平将門を合わせて三大怨霊と言われます。
 
讃岐に配流になった後、崇徳院は五部大乗経を書写して都に送るのですが、それが突っ返されてきた。
それを見て憤怒、日本の大悪魔になるとか大魔王になるとかで、髪も爪も伸びるに任せ天狗の姿になったという伝説があります。
崇徳院が亡くなって20年ほど経った後、後白河に近い人物が相次いで亡くなったり(滋子もそのひとり)、大きな火事が起きたりと、大きな事件が立て続けに起り、それがこの崇徳院の怨霊によるものではないかということになった。
 
 
 
平家納経は厳島神社が所蔵している国宝ですが、普段行っても見られません。
普段出ているのはレプリカで実物は春と秋の特別展で一部が公開されるだけなので、中々見られる機会がないというか。
なので神戸で見られてよかったです^^
そして厳島神社の丹塗りの社殿は大変美しかった…
ちなみに厳島神社は平氏の氏神で、今の廻廊で繋がれた社殿を作ったのが清盛になります。

●憲仁親王誕生
後の高倉天皇になります。
高倉天皇は平清盛の娘徳子を中宮とし、のち安徳天皇を授かることになる。

●二条帝と後白河院
…の間を「アナタコナタ」していた、悪く書けばどちらにも良い顔をしていたのが清盛です。
微妙な立場と言えば、立場だったと思います。妻時子は二条帝の乳母で、義妹滋子は後白河院の寵妃で。
どちらかに偏り過ぎず、バランスを取りながら両者に接していたのが清盛になる。
そら時忠の憲仁親王を立太子させようという動きはなー…どういう感じであったかな、とは思いますな。
時忠は出雲に配流になっていましたが二条帝が亡くなった後都に帰ってきます。 
ちなみに「平家にあらずんば人に非ず」という有名な言葉を吐いたのはこの人です。清盛じゃないのよ。
その頃清盛は神戸にいました。
  
●福原、大輪田
やっと兵庫の話が出てくるぞー!
以前ちょっと触れましたが、清盛が神戸兵庫の辺りの何らかの権利を得たのが平治の乱より3年後のこと。
なのでこのドラマの時間軸より2年早い事になります。
自分の県のことなのでどんな形で出てくるかな~楽しみです^^


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平清盛 #28友の子、友の妻

2012-07-22 | ヒストリ:平清盛

遅くなりました。待ってると言って下さった方、ありがとう!

●義朝の最期
平治の乱で敗れた源義朝は側近の鎌田正清に子供3人を伴い東国へと落ちのびて行きました。
実際にはもう少し人数は多かったようです。
嫡男であった頼朝は途中で一行とはぐれ、負傷していた次男朝長は義朝自身が手にかけ。
長男義平は北陸で兵を募るとして道行きを別にしている。
尾張国野間に至り義朝と正清が頼った先は正清の舅長田忠致でした。
そこで風呂を使っている時に忠致の謀略に気付くも既に時遅く、正清と共に自刃したと言われてる。
忠致はその恩賞を貰ったものの、源平の力関係が逆転した後は源氏方へ。
とはいえ源頼朝から見たら父の仇ですので、最後は頼朝の命令で殺害されたとか、討たれたとか、そういう話になっている。
詳細はよく分からない。

●源頼朝
落ちのびる途中で父らとはぐれた頼朝。
都に連れ戻され処刑されるかと思いきや、流罪となっていました。
口添えしたのは清盛の継母池禅尼で、頼朝が亡き実子家盛に似ていているからとか、年若いからとか、そういう話になっていた。
情からの助命嘆願になっていましたが、偉い筋からの口添えがあったみたいですな。
  
そもそも池禅尼は院近臣がを多く輩出している家の出身で、皇室とは密接な関係があります。
父が白河法皇の近臣。
今回罪を許された藤原成親の父家成(池禅尼の従兄弟)は鳥羽院の第一の近臣。
ちなみに家成は美福門院ともいとこなんだよね。
で、池禅尼自身崇徳天皇の皇子重仁親王の乳母になっている(美福門院が後ろ盾)。
皇室とは太いパイプがある女性だった。
 
後白河上皇の姉に上西門院がいます。同母姉弟で父が鳥羽院、母が待賢門院璋子。
平治の乱の際に後白河と一緒に閉じ込められていた女性がいましたが、その方です。
この方とも繋がりがあったようで、頼朝の助命はこの筋からでは、ということになっている。
頼朝は上西門院の蔵人でした。
  
忠盛の正妻であったという立場もあり、池禅尼の発言力は強かったと考えられています。
また頼朝は池禅尼の子頼盛の受領している国で、頼盛の郎党平宗清に捕縛されているという事情もあったようです。
 
要するに頼朝の助命には皇室から圧力がかかっていたかと。

頼朝は冷酷な政治家のイメージが先行する人物のひとりかと思いますが、実は情に深い面があります。
自分が配流され、不遇時代を過ごしていた時に助けてくれた人々に対する恩は忘れなかった。 
共に戦い命を落とした部下の墓前では泣いてしまうからといって、行き道を変えたりする話だってある。
池禅尼に対してもそうだったかと思います。
平氏の都落ちの際、池禅尼の息子頼盛はそれについて行かず鎌倉に向かいますが、頼朝はそれを厚遇します。
 
●藤原信頼の最期
はっきり言って物語上の評価は散々です^^;
義朝には散々罵られ、鎧を着て馬に乗ったものの落馬、鼻血が…みたいな…
とはいえ公卿なのに馬に乗って戦に出ただけでも結構豪気だと思うんだが。
仁和寺に避難していた後白河院を頼ったものの、勿論それが許される訳はなく、結局は斬首となりました。
斬首…きついっすねー
貴族の処刑は奈良時代以来、約340年ぶりの話。
340年って一口で言いますが、現在から言うと1670年位、江戸時代初期の話、という感じになります。
これはもう全くもって”歴史上”の出来事ですよね…
恐らく当時の人々にとっても同じだったと思います。
現在起きた犯罪に対して「市中引き回しの上磔獄門」の判決というのと似たような感覚だったんじゃないかな。
享年27。

一方成親は許されていました。
恐らく平氏の身内であったというのが大きかったと思います。
平氏の嫡男重盛の妻が成親の妹であったため。
清盛が今回は許すが次はないと思え、といった言葉を吐いていましたが、本当に次はなかった。
信西の家人であった藤原師光改め西光が出ていましたが、成親はこの人物らと共に後年、鹿ヶ谷事件の首謀者になります。

●宗盛ェ…
何も言いますまい…orz 宗盛だもんねだって宗盛だもんね…
 

清盛が頼朝に義朝を見ながら(なんのこっちゃ)思いを吐露する所は大変好きです。
元々『炎立つ』とかあんなノリが大好きなんです察して下さい。
池禅尼の人間関係なんて絶対に出て来ないのは分かっていましたから(この流れで出すべきでもないでしょう)、ドラマの中では情に負けて頼朝を助けるのかなーと思っていたのですが、結構いい感じで決着をつけていました。

このドラマが始まった頃の主人公の中二病は正直目を覆いたくなるほど酷かったですが、この脚本家の方、割と歴史ドラマや時代劇を書くセンスがあるんじゃないだろうか…
偶に突飛な感じは受けるけど。
本来なら捨てられるような細かいエピソードも丁寧に拾って、最後はそれをちゃんと回収している。
今回の例で言えば髭切もちゃんと清盛から頼朝の手に移っていましたし。

それに大河に限らず、主人公は悪い面が都合よく省かれる傾向にありますが、今年は良く描き過ぎな面はあるものの、割と良い面悪い面をそれなりに整合性を付けて描いているような感じは受けます。
『徳川慶喜』の時は確か大阪から逃げ帰る前に終わったでしょ?
そういうのもきっちりやれよ、と思うんだよ…都合が悪いからそこでやめたとしか思えない。
常盤手籠め?いいんじゃね?(※ドラマとしてはという意味です)
これから清盛にも「驕り」という面が出てくると思いますがそれをどう表現していくのか、それが楽しみです。

そもそも愛とか人権とか平等とかウーマンリブとか戦争絶対反対とか、それが絶対の価値観だという感覚で歴史上の人物を描こうとするのが大嫌いで、そういうのでなければ私は大体OKです。
昔にそういうのがなかったとは思いません。でも最近のドラマは度が過ぎてる。
今年(途中まで)見た山田顕義物語がいい例です。あれは最低でした。


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平清盛 #27宿命の対決

2012-07-08 | ヒストリ:平清盛

●構図
後白河院派 信西入道、藤原信頼
二条天皇派 藤原経宗、藤原惟方
この信頼が天皇派のふたりと謀って院とその上西門院を幽閉し、信西を殺害。
その知らせを聞いて熊野詣から清盛が都に帰って来たというのが先週までの話。
義朝は信西方の清盛とすわ戦かという感じでしたが、平清盛は中立的な立場です。
また信頼とは通婚している為敵対するとは思ってなかったのでは?という…
 
●名簿捧呈
平家貞が信頼に持って行ったのが名簿。「めいぼ」ではなくて「みょうぶ」と読みます。
自分の氏名と官職を書いたもの=名簿を差し出す。
これは臣従する、つまり臣下になるという意味です。去年後三年の役の話で触れました(→残心12)。
相手方を油断させるということでいいのだろうか…

●信頼らの分裂
経宗と惟方にあっっさり裏切られてしまった信頼。
詳細が一切語られないまま終わってしまいました(笑)
以前書いた通り、信西が打倒されたのは古参の院近臣を押しのけて自分と子息が重要な立場についたから。
そして信西は息子たちを後白河院だけでなく、二条天皇の側近にもしていたんですね。
力を集め過ぎた。
それに、そうした地位を信西一族に世襲されたら元いた人たちは追いやられたまんまになってしまう。
そうした事が理由となり信頼と二条天皇派、本来なら対立する筈の両者が結び付いていた。

二条天皇はそろそろ親政出来るような年齢になってきています。
このままではそもそも帝としての権威も正統性も薄かった後白河が院政を続けるのが難しくなってくる。
平たく言えば信頼は院から帝に乗り換えるつもりだったと思われます。
そうじゃないと後白河の院御所を破壊など出来ないだろう…(したんです)
ただそうなると元々二条天皇派であった経宗、惟方は面白くない訳です。
このふたりが裏切ったため、容易に天皇と後白河院が手引きされることになり、平氏の邸宅がある六波羅へと脱出していく。

信頼にしてもまさか自分の叔父さん(惟方)に裏切られるとは思いもしなかったでしょう。
この段階で天皇を抑えておけなかったのは大失策でした…
天皇を敵にまわす、つまり信頼と源義朝は謀反人になります。

義朝が信頼を「日本一の不覚人」と罵っていましたが、そういった事を言っていたようで、言葉が伝わっています。
曰く。日本一の愚者を頼りにしてこんなことをしてしまった。

●装束
清盛がー!黒絲威の大鎧!黒毛の馬!平治物語(だったと思う)通り!
しかし平氏方は皆一様に鉢巻が赤でした。
…ちょっと分からないのですが、ああいうので赤ってありなの?
源氏の白旗平氏の赤旗で、そこから来る演出なのかと思ったのですが。
源氏方はみんな白だったし。

●常盤ちゃん
残念ながら後再嫁していることが分かっています…(あーあ)
平治の乱後平清盛の側になり女子を得たとも言われますが、これはどうなの?ちょっと分からない。
その後一条長成に再度嫁し、こちらでは男子と女子を得ている。(長成は牛若の養父になる)
ちなみに長成の従兄弟の子供が信頼になる。
そしてもうひとりの子供が基成で、こちらは既に何度も出てきていますが、平泉の藤原秀衡の舅になる。
泰衡の爺さん。
不思議な回り合わせというか、なんというか。

●平氏重代の太刀
源氏と同じく2本あります。小烏丸と抜丸。
重代の刀ということで、両方とも棟梁である清盛に伝わっているのが筋ってもんですが抜丸は頼盛が持っていました。
うーん、この辺り何とも微妙な温度差…
頼盛は忠盛の正妻の子なんですよね。それが響いているかと思うのですが、その辺りどうだろう。
ちゃんと調べた事がないので何とも言えません。
ちなみに子烏丸は巡り巡って明治天皇に献上され、現在御物になっています。

Comments (2)
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