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2013/12/31 ヒジハラ
33話から大分飛んでました。お久しぶりです。
第3部になってからあまりまともに見られていないと言う寂しさ。
1・2部と3部とでは随分毛色が変わってきましたが、受ける感じとしてはうーん…視聴者離れが進みそう…^^;
面白いと思うんだけどなー
今までの清盛のスタンスからすると、ドラマの中での清盛の人物像がちょっとあれれれ…な感じに。
都に残した一族のしていることを「平氏は一蓮托生だから」で容認、政権の座についてやりたい事があるからで黙認。
…でいいのかな?
西行が「清盛は変わった」というような事を言っていたけど、それは見ている方も同じ感想を持つよなー。
ドラマの中の登場人物にそうした事を言わせるという事は、脚本も意図してそう描いているということだろう。
やり方が多少強引でも、自分が思う国造りにかける執念を表そうとしているのだろうと思いながら見ていますが、それでいいんかな?
福原と都の同時進行で政権の光になる面と陰になる面が並立して、ドラマとしては描くのが難しそうだなとは思う。
●千僧供養、万灯会
清盛が福原に拠点を置いていた時期、1年に2度千僧供養が行われていたようです。
神戸で行っていない時は広島の厳島神社で行ったりもしていたみたい。
千人の僧を集め、宿泊所といった施設や食事なんかも全て準備してイベントを行える財力って相当なものだと思いますなあ…
確か開く事ができるのが皇族や摂関家とか、そういう感じだったので。うろ覚えでスマソ。
そう言えば平泉の藤原清衡も中国で千僧供養を行ったという記録もありますな。
神戸では海の方、現在の和田神社の辺りで千僧供養が行われたのではないかと考えられているようです。
お久しぶり西行法師が出ていましたが、彼は実際にこの千僧供養の際に神戸に来ていたようで、その情景を歌に詠んでいたことが知られています。
消えぬべき法の光の灯火をかゝぐる和田の泊なりけり (山家集)
ドラマでも詠まれていました。
●禿(かむろ)
これは前回から出て来たんでしたっけ?
元々子供のおかっぱの髪型のことを禿(かむろ)と言っていて、それが平氏の密偵になった少年たちの固有名詞になっている。
おかっぱで赤い直垂を来た14~16歳の少年たちとされていますが、リアルに見ると気持ち悪いな!
とはいえ禿は史料からは確認されておらず『平家物語』の創作だと考えられています。
ただ、これが元になっているのでは?というモデル的なものはある。
平時忠が2・3度検非違使の役職についています。
今の段階では別当(長官)になっているか、なる直前かどちらかか。
検非違使は都の治安維持と民政にあたる役職で、別当なので前者に関して言えば時忠は京都府警のトップを務めたということになる。
ちなみに清盛も務めた事があります。
その検非違使の最下部に放免というのがいまして、これが釈放された罪人になります。
釈放した元罪人を使って犯罪の探索をさせていた。
江戸時代の岡っ引きみたいなもんかと思いますが、これが結構乱暴であったようです。
そういうものの長官に平氏の人間が何度か務めているという所から禿の話が出て来たのでは?と言う…
●大輪田泊
宋との繋がりに関してはドラマの時代考証をされている高橋昌明さんの本そのままでした。
早春に聞きに行った講演会のレジュメを見ると、清盛に使いを送ってきていたのは趙伯圭という人物で、明州刺史と沿海制置使を兼ねていたようです。
確か後者の立場で日本に使いを送ってきていたという事だったと思う。
前者は今風に言えば県知事、後者は水軍を統括して海上貿易に害をなす海賊を取り締まる役目。
ドラマで清盛が言っていましたが、この人物は南宋の第2代皇帝孝宗の兄だそうで。
高橋さん曰くそうした人物の立場や役職の内容から考えて、日本への使いが一地方官の判断から出たものとは考えにくいという事だった。
宋の国の意思として日本との交易を始めたという事ですか。
ただこれまた春先に聞きに行ったシンポジウム(清盛縦横無尽@神戸)では、この日宋貿易については過大評価大禁物という結論に至ったので(笑)
まー…ドラマの主人公たちが実現したいと願う「国を富ませる」という所まではまだとてもとても。
ただ大輪田泊には何度か宋の船が入っていたようです。
ドラマでも後白河上皇が実際に宋人と会う場面があったり、羊等の日本にはいない動物を献上されたりしていましたが史実です。
遣唐使廃止以降に「どうしても外国人に会わないといけない時は御簾越しで」と決められていたのですが、後白河はそれを無視して宋人に会っており、九条兼実がそれに驚いて「天魔の所為か」だなんて言葉を日記に書き残しています。
兼実はドラマでもそういう台詞を吐いていました。ちょくちょく史料の言葉を引っ張ってきてますね。
●兎丸無念
初期から出ていたメンバーがこの段階でいなくなると言うのは寂しいですなあ。
しかも政権の手に罹ってと言うのも。都でのやり方のしっぺ返しが清盛に来たという感じですか。
兎丸が清盛に「どこに向かってるの?」といったような事を言っていたように思いますが、それは見ている人の感想でもあるような^^;
前回書いたエントリで松王丸伝説の話に触れました。
もしかして兎丸の妻子がその松王丸の扱いになるのかなーと思っていたのですが、それは流石になかったな。
●平時忠
そして平時忠が微妙な感じになってまいりました。以前からちょっと微妙だったけど。
確かに他の平氏一門の人々とは少し毛色が違います。
ドラマではそれでもそれなりに「清盛と共に、清盛を支えて」という感じがあるかと思いますが、多分そんな綺麗な話じゃなかったと思う。
元々堂上平氏(堂上=殿上の間に昇殿できる家柄)の出で武家平氏とは違うという違いがあるかと思いますが、時忠は清盛に助けてもらえず2度ほど配流になっているので普通に考えたら思う処があるのじゃないかなーと。
1度目は少し古い話になりますが、二条天皇の時代に妹滋子(建春門院)が産んだ皇子(高倉天皇)を擁立しようとして解官され、出雲に配流となっています。
2度目は最近の話で嘉応の強訴の際。
重盛の義兄である藤原成親が後白河により一旦配流になったものの呼び戻され、その後「嘘の報告してんじゃねーよ」という八つ当たりのような理由で時忠が配流になった。
うーん。2度目の時は清盛は神戸だし助けてもらえなかったというのはちょっと違うかもだけど。
清盛にも後白河にもギリギリの段階では捨てられるという感触を持っていたんじゃなかろうか。
壇ノ浦までついて行っているけれど助命されたり、自分の娘を敵方であった源義経に嫁がせたりと不思議な感じのする人ではあります。
結局最後まで生き残ってるしね。
●京の五条の橋の上
大の男の弁慶は♪
丑年に作ったゴム版スタンプ。
五条大橋にはすごくかわいいころんころんした牛若と弁慶の石像が立ってますが、当時の五条大橋は現在の松原通りにありました。
松原通りは四条と五条の間にあります。
四条五条のメインストリート並みの道幅と比べると大変狭いですが、清水寺に続く門前町、あそこの道が松原通り。
豊臣秀吉の時代に五条の橋の場所が変わったのね。
現在では四条通りがメインストリートですが、明治末頃までは三条通りがそうでした。
三条通り、鴨川より西側にはかつて銀行だったりした古い西洋建築が結構残っていますが、それがメインストリートであった名残になります。
河原町の道幅が広がってメインじゃなくなった。
江戸時代、東海道五十三次の最終地点は京都の三条大橋で、橋の東側には現在高山彦九郎の銅像が土下座してます。
ほれ写真。
土下座してるから通称『土下座前』若しくは『三条土下座前』(京阪三条駅の目の前)で、絶好の待ち合わせスポット。
いや、本当は土下座ではなくって望拝とか拝望なんとか、なんかそんなのです。
エキセントリックで知られる勤王家高山彦九郎ですが、入京前は御所に向かい伏し拝んでいたといい、それがあの像になります。
そして橋の西側には弥二喜多道中の弥二さん喜多さんの銅像がある。
…でっていう感じですが、歴史が長い都市だけに変わっている所も結構あるなーと思いまして^^;
*****
今日でサイトを開設して8年になります。
始めた当初はどーせ1年か2年で辞めるだろうという感じだったのですが、豈図らんやまだ続いてる。
自分が一番びっくりしてます。わはは。
相変わらずゆるーい感じでの更新ですが、遊びに来て頂いている方、いつもありがとうございます。
最近ではブログを含め常連さんも増えているようで、拍手や感想を頂く機会も増え、本当に励みになることが多いです。
開設して1・2年ほどはカウンターもつけずサーチにも登録してなかったので、本当に見ている人いるのか状態でした。
その頃の事を考えると今との違いは一体何なのかと。
私のサイト・ブログは歴史ジャンルの中でもそんなにリピーターさんを掴める力がある場所ではないと思いますが、過分な人数の方に御覧頂いていると感じています。ありがたいです。
無駄に年数重ねて来た甲斐がありました。
広瀬武夫メインと銘打ちつつ現在「広瀬どこ行った」状態になっていてすいません。
偶に自分で突っ込む。お前は南国アイスホッケー部か(※最初はアイスホッケーしてた)。
申し訳ないけど気分乗らないとできない。笑。
ただ、長い期間やっていると広瀬だけでは絶対にネタがもちません。
正真正銘広瀬武夫中心のサイトであったならとっくの昔に消滅していました。これは確実に言えます。
広瀬を含めた近代、江戸時代中期~幕末、平安時代と気分によりあっちへ行き、こっちへ行きという感じでいるから続けて来れたと思います。
近代と江戸ならまだしも、近代と平安は流石に並立が難しかろうと思いきや(読む人は少なかろうということ)、平泉の世界遺産登録や今年の大河ドラマで近代目的だったのに平安もついでにとか、その逆とか、それで「興味が出て来た」と感想下さる方もいて。
歴史ってちょっとおもしろいんじゃね?と感じる人が増えたらいいな~と思いながら書いている所もあるので(特にレビュー系はそんな感じ)、歴史好きの端くれとしてはこれ以上にない褒め言葉です。
更新の都度内容の濃いものを上げたり深みのある専門的な事を書くというのは私の能力ではちょっと無理ですが、まあゆるゆる続けて行きたいと思っています。頑張り過ぎると燃え尽きるので(笑)
これからもよろしくおつきあい頂ければ幸いです^^
サイト更新 【兵庫×平氏4】
前に和田神社の更新をすると書いたのですが次回に回す事にしました。そんなんばっかやな…
と言う事で今回の更新は【兵庫×平氏4】、 来迎寺(築島寺)と古代大輪田泊の石椋の紹介。
今回の更新はドラマの進行に合わせてみたよ!
お寺の前に石碑があるので私はずっと築島寺と言っていたのですが、今は来迎寺と言う方が正しいの?
「島を築く」とあるように、大輪田泊の波除のための島が築かれるのですが、その工事が難航したため人柱が立ったという松王丸伝説が残っています。
ドラマには松王丸は出てきませんでしたが、この伝説、早春に能福寺に行った際にお芝居として公演されていました。
その時は土日にやっていたようだけど、今でもまだやってるのかな。
ドラマの中では船に石を積んで沈めれば良いじゃんと旅順閉塞作戦のような話をしてました。
積載する石にはお経を書いたと言われていて、それで築かれた島には経ヶ島と言う名前がついた。
尼崎の大物から引き揚げられた経石があるのですが、それも紀行で映像が出ていました。
この島の場所は分かっていないようです。
ちなみにこの来迎寺には人柱に立った松王丸の供養塔と、祇王祇女の塔がある。
祇王(祇女はその妹)は清盛の寵愛を受けた白拍子ですが、その寵愛が仏御前(白拍子)に移ると世を儚んで嵯峨野に隠棲。
のち仏御前も清盛に捨てられて共に嵯峨野に住んだというのが平家物語。
嵯峨野には祇王寺が残っています。秋は紅葉が本当に綺麗な所なんだ…
その所縁の塔がなんで神戸にと思ったのですが、平家滅亡後にこの付近に住んでいたという話が残っているようです。
で、
これが大輪田泊に使われていたと推定される石材。写真では分かり辛いですが、かなり大きいです。
こちらは特にいいですか。
分かっている事が少ないようで、あまり書ける事がないというのも正直な所…^^;
よろしかったら御覧下さい。
***
先月神戸平野(前回紹介した福原京の中心地と考えられる辺り)に行った際、あまりの暑さにクーラーの涼を求めてきよもん(平野商店街のゆるきゃら)サテライトショップに入った。
店番されてた方と平家の話をしていたのだけれど、雪之御所跡の話をした拍子に史跡巡りの話になり、壇ノ浦も屋島も一の谷も宮島も行きました。平泉?大好き大好き一時期通ってた。京都は住んでたから用がなくても六波羅には行ってたし鞍馬にも義仲寺にも行ったぜよ。鶴岡八幡宮だって大好きだぜイエーみたいな話に。回れる所は多分粗方回ってると思う。
ちょっと驚かれた。
私としては結構年数かかってるし、そんなに無理な話でも驚くような話でもないと思うんだけど「もしかして歴女か。初めて見た」と言われまして。
初めて見たってあたしゃ珍獣か。
しかし歴女かあ…
歴史が好きなんだなといった感じでの言葉だったというのはすごくよく分かるんだけど、何とも言えないこの微妙な感じ^^;
あー本当に何とも言えねえ…
定義がよく分からんのだけど、私の中では歴女ってゲームの方向からアプローチしている人としか思い浮かばんのだよ。
何年か前のニュースで「今流行りの歴女を追う」といった特集があり、その人たちの歴史上の人物に対する人物観と史跡巡りの仕方を見てどん引きしたというのが一番大きい。
その人たちの中では「ゲームのキャラ」が「歴史上の人物」にすり替わっている感じだった。
…すり替わってる?混同、同一視の方がいいのか。
実在人物の史跡を巡ってるのに、ゲームのキャラ詣でしてるのね。
テレビに出ていたのは特にエキセントリックな人々だったのかもしれないけど、実在と想像の線引きがないのかと思ってびっくりした。
まあ、それはそれで楽しそうだしいいと思うのだけど、歴史好きな女子を皆ああだと『歴女』ってひと括りにされると辛いなー^^;
誤解を産みそうだし、あまり公共の電波で流すもんではないだろうとも思った…
南海電車の歴女?が両手組んで「幸村様」というCMにも正直引いてしまうヒジハラです。ははは
ああいう感じで捉えられているんだろうな、『歴史好き女子』ってと思ってしまうorz
ゲーム関係なく本当に好きで戦国時代辺りを調べている人なんかは色んな意味でちょっと気の毒だ。
迷惑という言葉で片付かないような歴女の話も聞いているし、正直あの言葉にはそんなにいいイメージがないのですわ。
元々歴史好きで史学科まで行ったのにブームに乗っかって歴史好きになった的な扱いされるとちょっと寂しいものがある…^^;
でもそんなの親しい人でない限り「知らんがな」って感じだよなー。笑
まあ麗しいビジュアルと美化され過ぎな二次元的キャラでも、歴史への入り口のひとつには違いない。
そこからキャラの元になった人物に興味が出て歴史に興味を持つ切欠になった、という人が増えたらいいなーとは思う。
思うけど、二次元と三次元の線引きはちゃんとして欲しい。
あと小説と史実の線引きもいると思うんだ…
司馬遼太郎の小説から受ける「この人こういう感じ」という印象が強すぎて、大好きな司馬遼の小説で散々苦しんだ(苦しんでる)私が言いますよorz
小説で得た印象や先入観から歴史上の人物を見ると、理解できないこと(したくないこと)が多くて痛い目にあう。
司馬遼小説ラバーで史学科に行ってる方がおられましたら頑張って下さい。
あの呪縛(としか言いようがない)から抜け出るのはホント大変です…
新聞見てたら来月から始まる連載小説が高杉晋作ですって!高杉晋作ですって!
楽しみだけど私連載小説のあの細切れ感がもの凄く苦手…(一気に読みたい派)。
『坂の上の雲』もリアルタイムだったら絶対無理だったと思う(笑)
や、それはいいんですが【平家×兵庫 8】ということで、サイト更新です。
昨日大河ドラマの再放送を見ました。辛うじて見逃すことは避けられた。
録画しろよと言う感じですが、録画しても私多分見ない^^;
折角兵庫の辺りなのに…
先週所用で今ドラマの舞台になっている辺りに行ってきました。つまり今史跡ページで更新している辺り。
あまり時間の余裕もなかったのだけれど、本当に後2~300m位で塞神の松という史跡がある場所だったのでついでに寄って来た。
塞神の松は内容としては前回更新した中に入るもので、この辺り一体の史跡は祇園遺跡と言われています。
日本でも出土例が少ない中国製の碗等、かなり貴重な遺物が出ているようです。
撮ってきた写真は前回更新ページに追記として入れておきました。
信号を待っている間に平野商店街にある付近史跡の案内を眺めていたら、勝海舟寓居跡があって驚きました。
山の方に勝海舟所縁の史跡があると言うのは知っていたのですが、もう少し違う場所かと思っていた。
生島家だっけ?
時期としては勝海舟が神戸に海軍操練所を作った際の史跡になるのですが、今回更新した祇園神社から数十mという距離にあるそうで。
海軍操練所があったのは三宮ですが、平野からだと結構距離があります。
勝海舟が常にここで寝起きしていたとか、そういうのではなさそうだなー…
操練所を作る時に協力してもらって、その時に居拠したとかそういう感じじゃないかなー…
詳しくは知らないけど、調べたらすぐに色々と分かりそう。
もう本当に時間がなかったので今回はスルーしましたが、また近くまで行くことがあったら見に行きたいですな。
で、今回更新は#8ということで、祇園神社と雪見御所跡です。
前回と引き続き山側にある平氏関連の史跡ですが、上記の通り今丁度ドラマの舞台になっている辺り。
祇園神社はドラマが始まってから清盛関連の史跡としてあげられていますが、調べてみても特に関わりがあると言う感じではなかったんですが。笑。
この神社はちょっとした丘?山?の上にあるのですが、その麓一帯が平氏の邸宅郡があったと考えられている所。
中でも祇園神社のすぐ下にある史跡が塞神の松になる。
清盛邸があったのもこの辺り、もしかしたら塞神の松の辺りは清盛邸の一部では?と考えられている。
この祇園神社からほど近い所にあるのが雪見御所旧跡。
平家物語には春は花見御所、夏は月見御所、冬は雪見御所と清盛が四季に合わせた館を作っていたことが記されています。
史料には「雪御所」という表記が実際にあるようで、清盛の邸宅でそう呼ばれていた館があったのは確かなようです。
ただこの辺りと比定はされるものの平氏の邸宅と断定できるほどの遺物がないのも確かなようで、正確には雪見御所跡比定地という感じかと思いますが。
この石碑は長らく小学校構内(遺跡の真上に小学校がある)に設置されていて、本や雑誌に載っている写真でしか見たことがなかったんです。
この写真を撮った時に初めて実物を見ましたが、ドラマの影響で表に出て来たと近所の方より伺いました。
初めて行った時に見られなくてがっかりしたのを覚えているので、これは結構嬉しかった。
やっと見られたな~と言う感じで。
この辺りはまだ平氏関連の史跡があるのですが、歩いて回るにはちょっとしんどくてこの時は回りませんでした。
なので山側の史跡は一旦ここで終了して、次は再び海側に戻ります。
前回の平清盛では福原で千僧供養が行われていましたが、あれは海側、現在の和田神社の辺りで行われたという話が伝わっています。
次回はその和田神社からです。
ドラマの辺りでは重盛が段々可哀想になってきました…orz
私は重盛はあまり好きじゃないんですけど、ドラマの重盛はなんか気の毒だわー頼りなさ過ぎてハラハラする。
というか今日の殿下乗合事件は史実ではなくて平家物語の方を採用するような感じですな。
あ、というか今日平泉初登場じゃん(忘れてた)
…本放送で見たいな(たぶん無理)
毎週放送されているっぽいのですが、日曜日日付が変わる(変わった?)頃に大河ドラマの番宣?が放送されていた。
なんだろう。超ダイジェストみたいなの?次回予告をちらっとみたら京本正樹が…
少し前に平泉の藤原秀衡を演じるのが京本正樹だと教えて頂いたので、来週から平泉の話も出てくるのかと思いまして。
先週鞍馬寺で牛若(というか鞍馬寺に入ったら遮那王である)が写経をする場面がありましたが、平泉はまだもう少し先かと思っていた。
個人的には秀衡は僧形の印象が強いので、普通に烏帽子姿を見るのが何だか新鮮な感じ。
ちなみに『炎立つ』の時は北大路欣也でした…
と言いたい所ですが、キャストが変わり渡瀬恒彦になった。
『炎立つ』は『琉球の風』と前期後期に分けての1年2本立て(という平泉100年の歴史を半年で放送するというかなりな無茶ぶり)で、ドラマストーリーも1冊しか出ていない。キャストが修正されないままでござった…
タッキーが『義経』(※平泉ではいまだにポスターが貼られている)に出ていた時の平清盛が渡瀬恒彦でした。
かっこ良かったけど、牛若がまた神木くんとか本当に同じキャストばっかり使ってくるな。
僧形のイメージと言うか、私の中の秀衡は上の写真のイメージが強くてこの姿で脳内再生(何が)される事が多いです。
『炎立つ』のドラマを見た時キャストが違っていて落ち込んだ^^;
それはいいのですが、平清盛と藤原秀衡、実は同世代になります。
次回放送が殿下乗合事件(1170年)のようなので、清盛の年齢は52歳。
秀衡はもう少し若くて推定49歳位で、平泉が繁栄の真っただ中~少し難しい時期に差し掛かり始めたという辺り。
遮那王(16)が平泉に向かったのが1174年とされるので丁度その辺りの話になりますが、今回放送分はまだ見ていないので(第3部に入ってからちゃんと見られない事が多い)何とも言えないけれど、もう少し先の話になるのか。
次に出てくる話を予測すると、恐らく秀衡が清盛の推挙で鎮守府将軍になります。
殿下乗合事件と同じ年なんだよね。
これが割と特殊というか、何故この時期にというか、そういう印象がある補任。
現地の豪族、しかも中央貴族が夷狄扱いしている人間が鎮守府将軍になったということで、九条兼実の『玉葉』には「乱世のもとだ」なんて書かれている。
最も現地豪族が補任された先例はあります。
平泉の初代御館清衡の父が死んだ前九年の役の際、朝廷側に付いた清原武則(戦後清衡の義祖父となった人物)。
しかしこれは戦の恩賞であって、秀衡の時は全くの平時で彼自身は何かの功績があったわけでもない。
岩手には大きな役職がふたつあって、ひとつが陸奥守、もうひとつが鎮守府将軍。
国司である陸奥守が司法行政軍事のトップ、鎮守府将軍は岩手に置かれていた対蝦夷の軍の司令官になります。
九条兼実の言葉の中には夷狄を討つための役職に夷狄が就いたという意味も多分にあると思う。
アテルイの時代以降は陸奥守が上格になりますが、それでも鎮守府将軍には権力がある。
職権が陸奥守と被る所があり、それが熾烈な権力争いに繋がってもいます。
陸奥守と鎮守府将軍は兼任されることもあったのですが、それにはこう言う一面もあったからじゃないかというのが私の想像。
今まで何度か触れてきましたが、秀衡の場合は舅が元陸奥守藤原基成でした。
任期が切れた後は京都に戻りますが、異母弟藤原信頼が起こした平治の乱の際に連座して陸奥に流され、平泉で暮らすことになる。
平泉では2代御館が陸奥守と厳しく対立して痛い目に遭った事があり、それ以降融和政策を取っていました。
藤原基成も平泉とは融和的でしたし、基成以降も彼の親族が陸奥守に就任している。
当時平泉政権が陸奥守の職権を浸食していたと想像されます。
それにこうした中央との繋がりのある人物を一族に迎えた後に鎮守府将軍に補任。
お墨付きというか、権力を官職によって更に強化されたような感じなのかと思います。
後平氏のギリギリの段階に来た所で秀衡には陸奥守を与えられるのですが、鎮守府将軍の頃はまだ平氏の全盛期。
そんな時にどういう狙いがあったのかと思いますが、清盛が本腰を入れようとしていた日宋貿易の資金源というか、その辺りじゃないかなあ…
見られるのかと思うけど、平泉初登場はどんな感じになるんだろう。
※昨日17日が前九年役が終結した日で、せめて少しでもそれに関するようなことでも書こうと思ったけれどもやっぱり間に合わなかった…(笑)こんなんばっかやなー…
■サイト更新 【兵庫×平氏7】
前は1と2だったじゃんという話ですが、大河ドラマの進行見て順番を変えました。
今日福原の回ですよね。なので先に町の方により関係する方から更新しようかと。
そういうことで今回はいきなり飛んで7です。笑
兵庫(地名)の辺りにある平氏関連の史跡は、大まかに分けると兵庫駅より海側と山側に大別できます。
先に海側の方の更新を考えていたんですが、まあ…
今回更新したのは荒田八幡宮、宝池院、平野商店街にある平清盛の銅像2体。
荒田八幡宮は清盛の異母弟頼盛の邸宅があったとされる所で、その目の前にある宝池院は安徳天皇の菩提を弔い為に創建された寺院になります。
この荒田八幡宮やほぼ隣接している平野商店街の辺りは平氏の館郡があったとされる所で、発掘調査でも結構貴重なものが出てきているようです。去年も兵庫ローカルでは新しい発見があったと結構大きなニュースになっていました。
まさに福原における平氏の中心地になります。
山側と書きましたが、本当に山の麓なんだよね。
今と違い遮るものがなかった平安時代では、本当に周りの様子、それこそ大輪田泊等の様子がよく見えたと思う。
清盛の館があったのでは?とされる一帯の隣を通っているのは有馬街道といいます。
古代からある道のようで、名前から有馬温泉の方に続いているのかと思っていたのですが、なんかルート違うというか、この道真直ぐ行っても温泉には辿り着かないような気がする…
調べてみたら有馬街道3つ位ルートあって、やっぱりこの道ではなかった(笑)
で、この平野商店街ですが、ズバリ所縁の地と言うことで色々イベントをされているようです。
ゆるキャラ(なのか)きよもんから、きよもんサテライトショップから。
新しい銅像がひとつ出来ているのは知っていたのですが、実際に行くともうひとつ新しい銅像ができていてました。
これ、駅とかで配布しているパンフレットには載っていなかったんだよね。書けばいいのに。
カッコ良くてびっくりしたわー(笑)天気が良すぎて綺麗に写せなかったけど。
ポーズからして呉にある日招きの像をモチーフにしているのかと思われます。もう一体の方はまさに日招きの像でした^^;
呉の音戸の瀬戸には一度行ったのですけど、残念ながら写真なしですorz
道路が狭いのと瀬戸が狭いので本当にびっくりした覚えがある。
よろしかったら御覧下さい。
といいますか、この山側史跡、割と色々あるんですけど範囲が広いというか…
全部回るのはちょっと辛いものがある^^;
知っていて行ったことがない所が結構あります。いつももういいかで終わってしまう(笑)
**
今週来週再来週と2歳が来ております。
明日明後日は私2歳とふたりきりというこれなんという試練。遊ぶしか能がない私には非常にハードルが高い。
ついでに言えば私は明日から来ると思っていたのに昨日からだったという何と言う誤算。
既にNHKの吉田茂のドラマを見逃し、今日の清盛も見られるのか~
>とよたさん
そうですよね~今の様子からだと流鏑馬が行われていたとか、そんな雰囲気が全然ありませんもんね。
平野商店街の方も発掘調査の結果が貼り出されていたり、銅像ができたりと少し昔とは変わってきているような(笑)
あ、確かに平野と平氏なら平で1文字繋がりですね。どうなんだろう…あまり考えた事無かったです^^;
ぼちぼち更新していきたいと思いますのでよろしくお付き合いください!