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2013/12/31 ヒジハラ
終焉が目睫の間に迫っている。
物語の現在が治承4(1180)年初夏、清盛の没年が翌治承5(1181)年冬ですので、残す所あと1年を切りました。
大局から見ると清盛個人としても平氏一門としても非常にクリティカルな局面を迎えているのですが、治承三年の軍事クーデターで政敵を一掃し、また外孫言仁親王が即位して安徳天皇になるなど、正に我が世の春。
はい。この歌を送りましょう。
この世をばわが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることもなしと思へば (藤原道長)
●治承三年の政変
前回の放送で清盛は後白河法皇の院政を停止した上で鳥羽離宮に幽閉、後白河院と組んだ関白藤原基房・師家父子を実質配流、院近臣を解官しました。
北面の武士等近習の人間も随分処刑されたようで、ついでに言えば弟であり正室の子、清盛に対して一定の距離を保っていた平頼盛もこの時に所領を没収されている。院と距離が近かったということもあったようです。
この政変の特徴は武力で治天の君より強引に政権を奪い取ったことにある。
とはいえ清盛、後白河院を幽閉した後はすぐに神戸・福原に帰っています。
政務は高倉天皇(甥・娘婿)、関白藤原基通(娘婿)、平宗盛(息子)に任せているのですが、この人たち大変政治に不慣れというか、政務の経験がほっとんどないっちゅーか…
なんとも頼りない!^^;
藤原基通は基実の息子になりますが、継母が平清盛の娘盛子。
盛子は前回、重盛が亡くなる前に亡くなった女性で、夫基実の死後幼い基通に代わり摂関家の所領を管理をしていました(清盛が後見)。
そんでもって基道の妻は清盛の娘(※書き間違いではない)。
基実が死去した際、基通はまだ子供で摂関家を継ぐことができず、叔父の基房が中継ぎとして家を継いでいます。(基実の子が基通、基房の子が師家)
ただその中継ぎ期間が2桁になるともう中継ぎじゃなくても…という感じになってきた。(基房的に)
盛子が亡くなった際に後白河が介入して荘園を取り上げ基房に与えていましたが、清盛との関係の他にそうしたごたごたもあったんですね。
政変後、基通は関白になります。
しかしこの方、それまで公卿として政務につくような官職についた事がなく、全くの経験不足。
宗盛も政治に対するやる気が薄い。
新院も経験不足、関白も経験不足、宗盛はやる気もなければ政治担当能力もあまりない。oh…
他に政務をまわす公卿がいるとは言っても、重要事を決める際には清盛が出てこざるを得ないような状態にいずれはなったのではないかと思われます。
そういう感じで、経緯はどうあれ結果的には治承三年の政変で清盛は独裁体制を作り上げたことになった。
しかしながら武力で政権奪取したこと、安徳天皇の擁立や高倉院の厳島神社への行幸など、強引な物事の運び方に大きな反感を持つ人間が多くおり、それが以仁王を初めとする反平氏の武力蜂起に繋がっていきます。
●以仁王の令旨
後白河院の子だけれど、親王宣下されていないのでいつまでも王のまま…
八条院の猶子になっています。
八条院は今や懐かしい鳥羽院と美福門院の皇女で、両親の荘園の大半を相続していたのが彼女。
鳥羽院は美福門院との間の子を正当な皇統継承者としていたようで、八条院の猶子となっている以仁王はその系統にいるため有力な皇位継承者のひとりであった。
八条院・以仁王からすると、清盛が擁立した高倉天皇・安徳天皇は正当ではないという認識があり、特に以仁王はそれまでの行きがかりから平氏に対し非常に大きな不満、反感があったと思われます。
清盛からすると安徳天皇の位置を脅かす一番の存在は以仁王。
ドラマでは政変の際に王が「所領を没収された」と言ってましたが、以仁王の力を削ぐためであったと思われます。
また同じく描かれていましたが、以仁王が立ち上がる際には八条院が大きな役割を果たしていました。
というか、以仁王の蜂起は八条院を舞台とする出来事だった。
以仁王は八条院の猶子、源三位頼政は八条院に仕える人物、今回初登場の源行家も同左、八条院蔵人。
王と源三位の武力蜂起は実に簡単に終息したのですが、八条院は特に追及されずに終わっています。
ドラマからは分からないけれど、八条院は平氏とも源氏とも結構な関わりがあり、無体な事ができない一種独特の政治勢力であったようです。
その為政争で敗れた人なんかが身を寄せるような場所になっていたと『藤原定家の時代』にあった。
●源頼政・仲綱、源行家
八条院より源三位(げんざんみ)と呼ばれていました。
頼政は2年ほど前に清盛の推挙で従三位となっており、源三位という呼称はそこから。
源氏のそれまでの極位は正四位下。
三位となると公卿の仲間入りで、頼政からすると正に悲願達成であったと思われます。
その為に子供に代を継がせず現役でがんばっていた。
宇梶さんみてるとそうは思えないけど、以仁王の令旨が出た際、既に御年77。
なんてーか、当時としてはもう棺桶に足突っ込んでる感じだったと思われ…^^;
頼政の鵺退治はおとぎ話で有名な話ですが、京都に鵺退治に使った鏃を祀った神明神社があります。
宗盛が仲綱の愛馬「木の下」を奪ったという話は『平家物語』に出てくる話。
この話を聞いて頼政は平氏打倒に動くようになったというもの。
ついでに八条院で出てきた源行家は当時八条院の蔵人になります。
新宮十郎とか、新宮行家とも言われますが、源為義の十男、つまり義朝の弟で頼朝・義経から見ると叔父になる。
この人はーなんとゆーかー私はあまり好きではないんだがー…
うん、はっきり言おう。嫌いである^^;
私木曽義仲が大好きなんだ(これで察して下さい)
一言で表現すれば風見鶏だけれど、まあこの辺りの話はもうドラマでは出て来ないだろう。
●平泉
引いた。
違うだろーあれは違うだろーorz
平氏サゲの為かは知らないがあんな約束させんなよ…というか、しないだろ。
秀衡の中にあったのはどうやって平泉を保全するかだけで、源平いずれにも深く肩入れするつもりはなかったと思う。
ちなみに秀衡の制止を振り切って義経が平泉を出て行った際、平泉からついて行ったのは佐藤兄弟だけ。
●祇王・祇女、仏御前
「ぎにょ」なんだ。「ぎじょ」だと思ってた。
祇王は清盛の寵愛を受けた白拍子で、祇女はその妹。
押しかけでやってきた仏御前を清盛は追い返そうとしたのですが、同じ立場であった祇王に取りなされ目の前で舞う事を許した。
…ら、祇王は捨てられてしまった。
仏御前が驚いて取りなそうとするも聞いてもらえず…
所が仏御前も後に清盛に捨てられ、祇王祇女姉妹が世を儚んで移り住んだ嵯峨野で共に暮らしたというのが『平家物語』。
以前サイトの史跡紹介で兵庫にある築島寺を紹介しましたが、そちらに祇王祇女の塔という供養塔があります。
また京都の嵯峨野にも祇王寺がある。
今頃紅葉できれいだろうなー^^
原敬の話ちょっと待ってね。ごめんね。てか読んでる人いるんか…
今日はそれとは別の話。
秋田県横手市が去年から「平泉源流プロジェクト」を立ち上げています。
中尊寺や毛越寺を初めとする平泉の遺跡は昨年世界遺産に登録されましたが、それに連動して平泉成立以前に起きた後三年の役を平泉のルーツとして位置付け、同地の歴史文化をよりよく知って欲しいというプロジェクトらしい。(横手市/公式HP)
後三年の役については昨年このブログでも連載しましたが、合戦の舞台が横手辺りになるんですね。
(平安の風わたる公園@横手)
その横手のプロジェクトと連動して地元の民間団体(平泉源流プロジェクト応援団)が11月を”おもてなし強化月間”として色々とイベントを企画しています。
「絵巻物の世界を見て、触れて、感じるイベント」で、場所は横手市、美郷町、大仙市。
見れば義家が町を歩いていたり流鏑馬が行われたり、色々されているようです(流鏑馬は既にスケジュール終了)。
イベント開催日は基本各土日のようですがなんだか楽しそうな感じ。(イベント/公式HP)
近かったら通うんだけどね…秋田遠い…
後三年の役時に源義家が腐った豆を食べたのが納豆の始まりという話があり、また後三年合戦絵巻でも義家の食事のシーンがあることから、平安時代の食事に関する展示もされるとのこと。
平安の食事というとあれこれ調べて纏めた話を「平安ライフ」としてサイトに掲載しているのですが、それが分かりやすいという事で、現地での掲示資料として使用して頂く事になりました。
というかあちらの事務局、お忙しいのか、どこでどういった形での引用になるとか、お願いした連絡が全然来てないんだが…^^;
今伺っている感じとしては一部引用になるようですが、サイト名と土原の名前を入れて頂くようにはお願いしているので、もし御覧になった方がおられたらあいつかーと思い出してやってください。
何にせよ自分が作ったものを評価して頂くのはすごく嬉しいです。
平泉といえば、観光協会の公式HPを久しぶりに見ました。
いつもは1か月に数度更新があったら良い方なのですが、今月の更新具合すごい。笑。
何かと言えば紅葉情報です。
平泉は今が丁度見頃のようで、綺麗な中尊寺や毛越寺の写真がごろごろ!^^
そういや今月初めは秋の藤原まつりだったわーとか…
平泉的には今月はあっちでもこっちでもイベントですな。
*
「平清盛」は見たんですが何か書けるような状態ではなくてですねー
すいません。でもちょっとだけ。
安徳天皇の誕生、翌治承3年には盛子が死去、その約1ケ月後には重盛が死去、その後政変という事で、重要な出来事が一気に出てきました。
建春門院滋子が亡くなり、平清盛と後白河法皇の蜜月状態は終止符を打ったわけです。
その後に後白河が平氏にした事と言えば、自分の息子を高倉天皇の養子に、鹿ヶ谷事件、盛子に伝領していた摂関領の没収等関白基房と平氏に圧力をかけ、重盛の死後知行国を没収、平氏を排除するための強引な除目(人事)。描かれていなかったけれど、延暦寺への攻撃命令も平氏に下している。
その上後白河と関白が相謀って平氏を滅亡させようとしているという噂までが飛ぶ。
要するに後白河は平氏に執拗に圧力をかけていた。
ええ加減にせえよと言う事で、とうとう清盛の堪忍袋の緒が切れました。
これが治承3年の政変。
鹿ヶ谷事件では院近臣のみの処罰で済んだけれど、後白河自身は無傷でした。
今回も特に自分自身には危害は加えられないとでも思っていたのか、平謝りで謝れば今回も許されるとでも思っていたのか。
ただ清盛はそこまで甘くなかった…
清盛は数千騎の軍勢を率いて上京し、関白藤原基房・師家父子を解官した上大宰府に左遷、院近臣らを解官。
これに驚いた後白河は清盛に使者を送って弁解するものの、許しを請うにはやりすぎました。
ドラマでは後白河は今までドラマや漫画で描かれてきたイメージのままと言うか。
確固たる信念を持って清盛に対峙、という感じだけれどもそういう感じではないよなあ…
弁解しに回る辺り、まさかここまでされるとは思わなかった、まさかこんなことになるなんて、そういう感じがありあり。
経済面、人事面でそこまでの嫌がらせをしたら相手がどう出るかとは考えないのだろうか。(素朴な疑問として)
特に当時、平氏は大きな武力を握っていて、武門は他にもあるとはいってもやっぱり対抗するのは難しい。
そういう相手を敵に回した時にどうなるかという想像が欠如しているとしか思えませんな。
後白河法皇は、この立場の人としては随分行動が軽率なように思います。
側近の要求を通して鹿ヶ谷事件、治承3年クーデター。
平氏が完全に斜陽になってからは木曽義仲を都に引き入れ、それが上手く行かなかったら頼朝に声を掛け、頼朝と関係を築いてからは義経に声を掛け…
平清盛だけでなく源頼朝ともだけれど、関係が後になる程こじれてくる。後白河の後先考えない行動が原因になっている所が多分にあると思う。
治承3年のクーデターで後白河は鳥羽殿に幽閉されますが、気落ち?何それおいしいの?
日々これ今様三昧。楽しそうでなによりです…
この人は責任感という言葉とは無縁なのじゃないだろうか^^;
重盛が死去しました。
清盛と後白河を繋いでいたのは建礼門院滋子でしたが、平重盛もまたそのひとり。
重盛は後白河により出世している所が大きく、また院の近臣とも非常に近い存在でした。
鹿ヶ谷事件で死んだ藤原成親の妹が妻だし。
重盛は平氏の棟梁ではあったものの実質的には清盛に従属している立場で、重要事があればやはり清盛に判断が委ねられる。
その上母親を早くに亡くして後ろ盾がおらず兄弟もおらず。
それだけでも平氏内部での立場は中々難しいのに、そんな中で起きたのが鹿ヶ谷事件でした。
首謀者が妻の兄と言う事で重盛の面目は丸潰れ、一族の中での地位もだだ下がり。
この辺りから重盛は政治に対する意欲を失っていたようです。
そして清盛と後白河の間に挟まれて一番苦しい思いをしたのが重盛だった。
板挟みで、かといって何ができる訳でもなく…
病気になったのはそうした状況もあるんじゃないかと想像。
ドラマでも「とく死なばや」(『愚管抄』)と言っていましたが、まあうん。本当に苦しかったと思う。
無力感通り越してもはや自棄…(;´Д`)
次回が以仁王の令旨かー早いなー
全然関係のない話ですが、「とく死なばや」の「とく」、漢字では「迅く」と書きます。
今ではあまり使わないよね。
多分古語でいいと思うのだけれど、「とく死なばや」で「早く死にたい」という意味になる。
高校生の時、古典の勉強をしている時にこの単語を覚えました。
問題集に乗っていた例題が面白かったんだ。
多分今昔物語に載っていたものと思うのだけど。
お姫さまが結婚に際して乳母(だったと思う)にその心得を聞くのだけれど、「ご飯をお代りをする時はどうするか」という話があった。
乳母「鶯のように言うのよ」
姫様「分かった」
で、本当にそういう場面が来る訳です。
旦那さまとご飯を食べていてお代りをお願いしようとした時、姫様いきなり立ち上がり鶯のように両手を広げてお代りを要求。(イメージ動画)(※嘘です)
姫さまその鶯とちゃう。
乳母が言うたんは「鶯のように(しとやかに小さい声でお代りちょーだいと)言うのよ」であって「鶯の真似して要求しろ」ではないのよー^^;
周囲( ゜д゜)ポカーン…
そうしたら「お代りまだー?反応が悪いよ!」と言う事でそのままの格好で「とく!とくとくとく!」
乳母血涙。
行間も空気も読めない姫様の結末はどうだったかなー
この十二単来た姫さまの鶯の真似っちゅうのが強烈過ぎて(爆笑した)、後はあまり覚えてないんだ。
話も今ではこんな感じだったという感じで、多分ディテールは随分違うんじゃないかと思うけど^^A
ただこの「とく」という単語は一発で覚えたわー。
学校で習う古典て紫式部とか清少納言とか、面白いけど勉強するのは結構苦しかった。
鴨長明とかもなぁ。
ただこの話読んだ時、平安時代にもこんな話あるんだ!わはは!とは思った。
そして古典の先生が「徒然草のアホな法師の話は大体仁和寺の話」と言っていたのが忘れられません。
古典って普通に読んでも面白い話が多いのに、難しいっていう先入観があって中々触れる機会がないんだよねえ。
勿体ない。
前回のレビューで少し触れましたが、法皇側と比叡山延暦寺の争いの結果天台座主の明雲が捕縛、拷問の末伊豆に流罪となりました。
それを比叡山の悪僧たちが取り戻し、それを機に平氏に比叡山攻撃の命令が下ってしまった。
平氏としては宗教権門を攻撃するというエキセントリックな事は避けたい訳で、かといって法皇側の命令に背くのも難しく…
つまり両者の板挟みになってしまった。
これは平氏にとってはかなりの危機であったと思われます。清盛にしても大分苦慮したと思われる。
所が叡山には兵を繰り出さずに済みました。
何故かと言うに、出兵直前に鹿ヶ谷事件が起ったから。
ハイ。タイミングが大変よろしいようで。
うん。タイミングが本当に良くて、しかも平氏にとっては対叡山では攻撃する事無く終わり、対法皇・院近臣では都合の悪い院近臣を遠ざけることができ、と両方とも平氏に大変都合よい結果に終わっている。
そこから鹿ヶ谷事件は平氏の陰謀、つまり平清盛のでっちあげではないかという見方があって、最近ではこれが主流みたい。
ただ平氏打倒の謀議がなされていたというのは本当みたいだけど。
●鹿ヶ谷事件
まあ陰謀説云々は今は置いといて。
事件の首謀者は院の近臣、西光、藤原成親、平康頼、法勝寺の俊寛ら。
あと後白河法皇もか。
そして平氏打倒の兵を挙げた際、彼らが総大将にしようとしたのが多田行綱になります。
20年ほど前の保元平治の乱で武力の重要さを痛感しただろうに(特に当事者であった法皇、西光、成親は)、仲間に引き入れた武士が多田行綱のみという杜撰さ。
ドラマの中で、源頼政が「公達が飲みながらどうこう出来るほど平氏は甘くない」という旨を言っていましたが正にその通りで、行綱もこんな計画に関わっていては自分の身が危ないと感じたのではないかと思います。
そらー 酒に酔って騒いで瓶子(へいじ。徳利のこと)が倒れ
→瓶子にかけて「平氏」倒れた
→倒れた平氏の首を取れワーイ!
なんてキャッキャ言ってるの見てたらこんなんで大丈夫かと怖くなるわー
こんな計画に付き合ってられへんわー
多田行綱の密告により事が露見し、関わった院近臣が処分されることになりました。
この陰謀が行われたのが俊寛の鹿ヶ谷にあった別荘で(愚管抄によると信西の子静憲の別荘)、そこから鹿ヶ谷事件と言われる。
京都東山で、現在でも鹿ヶ谷という地名が残っています。
先週新聞に写真が載っていて石碑があるということを初めて知りました。
●処断
西光が捕縛の上拷問にかけられ斬首、成親は重盛の義兄ということで直ちに殺害されることは免れました。
しかしながら成親、これで2回目なんですよね。
平治の乱で藤原信頼側につき平氏と敵対したものの、平氏と婚姻関係があるからという理由で助けられている。
ドラマの中でも清盛に「今回は許すが次はない」と恫喝されていましたが、その「次」が鹿ヶ谷事件だった。
西光の処断については今回触れられていたけれども、成親は次回かな?
備前に配流となりその配流先で斬罪になったとか、餓死したとか、実質的には死罪となった。
そして益々一族の中で立場が悪くなる重盛…
母親がおらず兄弟もいないとなるとそれだけでも立場としては微妙であるのに、こうなってしまってはもうかなりきつい。
この話はこれまた待て次週!かなー。
で、この処断の中で一番有名なのが俊寛かと。
平康頼、成親の息子と共に鬼界ヶ島(現:鹿児島の硫黄島)に流罪となっている。
後清盛の娘徳子が安徳天皇を出産した際に大赦が出され、康頼と成親息子は赦免となったのですが、俊寛は赦されずそのまま鬼界ヶ島で亡くなった。
なぜ俊寛だけ残されたのかというと、鹿ヶ谷の謀議の張本人だとされたからという話ですが、私は詳細は知りません。
亡くなったのは流罪になって1年後くらい。
康頼は鬼界ヶ島に来てから毎日卒塔婆に和歌を書いて海に流し、それが清盛に辿り着き赦免に繋がったという話がありますが、それは平家物語だったかな。
とにかく能になったり物語になったりとよく知られた話のひとつだと思います。
菊地寛にも俊寛を書いた小説があるけれど、あれは意外で面白かった。
悲劇的な最期を想像することの方が多いと思うのだけれど、俊寛逞しすぎて笑う。
何となく色黒腹筋シックスパックのムキマッチョ(※イメージ)で脳内再生される罠w
「俊寛」といい「極楽」といい菊地寛って持っているイメージ覆すような話がちらほらありますな^^;
●スーパー足蹴タイム
( ゜д゜)ポカーン となったのは平氏の公達だけではない筈だ!何を隠そう私もだ!笑
ああいう行動を起こす主人公も珍しかろうと思うけれど、確か平家物語に清盛を面罵する西光を清盛が踏みつけるといった場面があったと思う。
多分それがもとになっている。
明日を見つけたーとか段々ファンタジーな感じになってきた源氏パートと、武士と公家との間で明日がやや暗い平氏パートと、色彩が逆転してきました。
以前も書いたけど、今年の脚本の人、史実と物語の組み合わせ方や伏線の張り方が結構うまいと思う。
面白いのになんであんなに視聴率が悪いのだろう…
●政子 ザ・レジェンド・オブ鬼嫁!
いや、別に鬼嫁とは思ってはいない。関東と関西の文化が違い過ぎただけだきっと。
とまれ頼朝さんこれから大変ですなー。
政子と言えば頼朝が余所に作った女を決して許さなかったっちゅう有名な話があります。
亀の前とか大変気の毒や。
頼朝は平治の乱で敗れて配流になる迄13年間都で、都の文化の中で育っています。
父源義朝にも側室が何人もいましたし、跡継ぎの問題もありますし、それが普通なんですな。
染五郎だったか海老蔵だったかが昔、隠し子がいたりするのは普通だと思っていたと言っていましたが、その世界ではそういうのが普通。
それと同じで、都では何人も側室がいるのは普通のこと。
まあこの話まではドラマでは描かれないかなー。
実は北条政子は大河で扱って欲しいと思い続けている女性だったりする。
来年の主人公より絶対面白いと思うんだ。今年のあの政子(のノリ)は、個人的には大変苦手なのだけれど^^;
次回が治承3年のクーデターですかー。早いなー!
>10/28 22:39 田原坂のページ~の方 (反転して下さい)
御覧頂いてありがとうございます!あの辺りのページは作るのが大変でしたので楽しい、分かりやすいと声をかけて頂けると本当に嬉しいです^^
コメントありがとうございました!
時間が開いてしまいましたがサイト更新です。
今回は兵庫×平氏3と言う事で和田神社と阿弥陀寺。
和田神社がお祀りしている神様のひとり?は市杵島姫命。
大輪田泊の工事が殊の外難航し、それを心配した平清盛が工事の完遂と将来の繁栄を祈って広島の宮島から勧請したと言われています。
市杵島姫命は厳島神社のご祭神。ついでに言えば厳島神社は平氏の氏神になります。
神戸には他にも厳島神社がありますが、本当にあっちこっちに勧請されてますねえ。
今まで何度か書いていますが、平清盛は神戸で千僧供養を何度か行っています。
詳しい開催場所は分からないようですが、どうもこの和田神社の辺りであっただろうと。
和田神社には平清盛に関する石碑などはないのですが、近くにある三菱重工の敷地内にはこの万灯会に関する石碑があるようです。
こちらの神社を調べていた時に驚いたことがありまして。
郷土史の本に「幕末に武庫川堤防が決壊し、武庫郡小松村にある岡田宮の御神体が流れ着いたものを祀った」とあったのよ。
めちゃめちゃ地元やないか~い!笑
この岡田の宮、現存していて今は岡太神社。
何を隠そうこの辺り平安時代末期は平氏の荘園があった所で、伝承では付近に平重盛の館があったとされている所。
→平重盛邸跡@西宮
写真に小松内府とありますが、ここから地名が取られてこの辺りは現在小松町。
そうした所から平氏所縁の地に流れ着いた神様も大したもんだ。笑。
そう言えば先日新聞広告を見ていて地元にも厳島神社があることに気が付きました。知らんかったー
両方とも武庫川沿いだけれども距離がある。
さすがにその厳島神社の辺りは平氏の荘園ではなかっただろうけど、何か関係があるのかとは思いますねえ。
面白い。
現在は全然そのような名残はないのですが、和田神社の辺りはかなり風光明媚な場所であったようです。
幕末には勝海舟、徳川家茂、徳川慶喜といった人々が訪れたこともあったそうで。
勝海舟は海軍操練所の関係で神戸に滞在していたからあちらこちらに顔を出しただろうとは思うけど、家茂慶喜と言われると、流石に結構有名な所だったのかなーと^^;(現金)
もうひとつの史跡は阿弥陀寺。
こちらは平清盛と言うよりも南北朝時代、楠正成がメインです。
清盛と関係ない訳ではないようなのですが、今年に入ってから無料配布された史跡巡りのパンフにちょっと載っているという位。
私もここが清盛所縁と紹介されていても何故かは初めは分からなかったです。
清盛とちょっぴり関わりがあるという事はごくごく地元の人位しか知らないのではないだろうか…^^;
楠正成は湊川の戦いで戦死しますが、その後掻かれた首は尊氏の許に齎され首実験されることになる。
この阿弥陀寺にはその首実験の際に使われたとされる巨石が残されています。
大名家から地元の名士に賜り、そこからこのお寺に寄贈されたそうです。
関わった人物が人物ですし結構大事にされたのではないかと思います。
湊川神社も近いし、もしかしたら明治期に伊藤博文や東郷平八郎なんかもやってきたかもしれませんね~
湊川神社は比較的新しい神社です。
幕末期に薩摩が中心になって神社を作ったれという動きがあり、それが引き継がれて明治5年に創建された。
神社の奥には施錠されている区域があって、そこが楠正成の戦没地とされている場所です。
勝手には入れない所ですが、見たいと言ったら見せてもらえる。
で、その入り口には石灯篭が建っているのですが、その寄進者が伊藤博文、江藤新平、大木喬任の3人。
ひとり1基ずつ。
大木もそうだけれど、江藤に関するものが兵庫にあると言うのは私としてはかなり意外でした。
湊川神社には伊藤博文の銅像も建っていました。
しかしながらそれは日露戦争後のポーツマス条約の内容に怒った民衆によって引き倒され、福原の海に棄てられそうになった所を救われて、昭和初めに萩に戻っている。
萩の松下村塾近くの伊藤博文旧宅の前に建てられていたものの戦時の金属供出に引っ掛り、その後萩焼で陶像が作られています。
それが今伊藤旧宅前に建っている。
その後もう一度神戸で銅像が作られてます。それがこれ。
現在は台座だけ大倉山公園に残っている。
湊川神社の宝物館には東郷平八郎が奉納した旗なんかもあります。
ご時世と言うか何と言うか、御祭神が御祭神なだけに色んな人がお参りしているんですよね。
楠公さん大人気。
広瀬武夫も湊川神社に参詣していますし、彼は清盛のお墓がある能福寺にもお参りしています。
これは本人の書簡から分かっている事なのだけれど、明治38年に出た広瀬の伝記にも書かれています。
楠正成についての反応は…うん、まあご想像の通り^^;
(「広瀬本人の反応」じゃなくて「伝記著者がこうあらまほしと思う広瀬の反応」)
なんせ広瀬の辞世になった「七生報国」は元々楠正成の言葉で、七生報国を誓って自刃したのが湊川神社の戦没地ですし。
その一方で、清盛墓での「こうあらまほし」な反応は「横恣驕慢なる歴史に、目尻を立てゝ唾したでせう」。
こーゆー扱いだったんだよなー清盛は…
ちなみに両方とも参ったと言うだけで、広瀬の本人の感想はありません。
神戸には小野浜造船所がありました。
広瀬やその同級生たちは海軍兵学校卒業間近の時期に瀬戸内を練習航海していて、その時に造船所の見学で神戸に寄っていたんですね。
小野浜造船所は、元々は神戸居留地の外国人が経営していたのだけれど、最終的に呉鎮守府に吸収されている。
場所は恐らく勝海舟の海軍操練所があった辺りかと思います。
ここで初代の戦艦大和が建造されていて、その監督官であったのが東郷平八郎になります。
花隈の方に東郷に関係する石碑も残っています(東郷井)。
***
維新以前、神戸の中心地は兵庫の辺りでした。
まさに今史跡紹介をしているJR兵庫駅の辺りですが、本当に史跡が多いんですよ。
交通の要衝であったと言うのが大きいと思います。
特に西から上京するのに船を使った場合、兵庫や西宮で大船から降りる必要があった。
大阪湾の大阪側は淀川やその支流から流れ込む土砂のせいで水深が浅く、喫水の深い船が入港できない。
例えば、江戸時代では千石船は兵庫で停泊、積荷を小舟に積み替えて大阪にまで向かっていて、兵庫津はその中継地点になっていた。
兵庫を代表する豪商北風家や、高田屋嘉兵衛の本拠地が兵庫にあったのはそういう理由から。
西宮もまた昔からの交通の要衝で、ここは幾つかの街道が交差している場所になります。
一番大きな道が京都に続く旧西国街道(山崎街道)。
ここは大阪を経由せずに京都に行ける道で、西国大名なんかが利用していたそうです。
幕末禁門の変で長州が都落ちした際、多くの兵がこの街道を下り、西宮から船に乗って国に帰っています。
中岡慎太郎とかそうですな。
西宮から大阪に続く浜街道もあるし、西宮から下関に続く山陽道もあり、と言った感じで重要なポイントになっている。
で、町は北が山、南が海となっていて、山の方に城を作れば四方の交通を見渡せる。
地元の甲山には越水とか城山という地名が残っていますが、そこに越水城という城があった。
三好長慶が居城にしていたこともあったのよ…
信長の上洛の際に城主(※三好じゃない)が逃げ出して、最終的には廃城になったのだけれど。
どこまでが本当か分からんのだけれど、この越水城が日本初の天守閣を備えていたという話があって、それを信長が参考に安土城を作ったと物の本で読んだ事がある。
こういう場所は儲かるんですよ。
関所を作ったり宿場を作ればお金巻き上げ放題!笑。
なので江戸時代では天領の時期が長く、一時尼崎藩の領になるものの結局幕府が召し上げている。
神戸と共に重要地であったという点もあったと思います。
水陸の要衝で、京都大阪に近いというのが神戸と西宮の一番のポイントだったかと思います。
それだけにこの辺りで起った戦も多い。
平安時代後期、南北朝時代、室町時代後期、戦国時代とひっきりなく戦が起り、土地の奪い合いになり…
江戸時代になって落ち着いてからは商売の歴史で、近代に入ってからもあれこれあります^^;
西宮の方は目に見える史跡はあまりないけれど、兵庫の方は県庁所在地なだけに。
兵庫駅前には付近の史跡地図が出ているのですが、時代ごちゃ混ぜで100件を優に超えている。
そりゃ人が長いこと住んでいたら100件なんて大した数ではないのでしょうが、あれもこれもと言う感じで結構驚くんだよねえ。
(西宮がね、本当に全然力入れてないようにしか見えないから余計に…)
流れが分かり易いように年表を上げます。
サイトにアップしている年表で、神戸との関連が中心なので京都での話はここからは分かりにくいですが、まあこれで充分だろう。
今回の話が安元2(1176)年、ドラマでは兎丸が尽力していた兵庫の経ヶ島がその前年安元元年に完成を見ている。
前回の話、後白河法皇と滋子が広島の厳島神社に参詣していたのは史実で承安4(1174)年のことになります。
その建春門院滋子が亡くなったのが安元2(1176)年。
享年35という事で若いですねえ…
才色兼備の女性であったと言われ、後白河法皇はそうした点を気に入ってか彼女を寵愛していたことがよく知られている。
平清盛ら平氏一門と後白河法皇・院の近臣の間には、朝廷での除目や荘園・知行国を巡り元々大きな亀裂がありました。
除目は人事のことですが、人事権を専断したい法皇とそうはさせたくない平氏。
法皇が専断したら院の近臣ばかりが昇進し、平氏が排除されることになるのは目に見えている。
知行国や荘園といった財政に関係する話は人事に付いてくると見てもいいと思うので、やっぱり人事が大きな問題だったのじゃないかと。
元々高倉天皇擁立が両者にとってメリットがあるという理由で手を結んでいたので、ちょくちょく両者の間で問題が起っていたのはドラマで描かれていた通りです。
その両者の関係が一見平静に保たれていたのは建春門院がいたからでした。
建春門院は平氏と後白河側の鎹(かすがい)だった。
そうした立場、調整役の人物がいなくなるというのは清盛にとっては文字通り痛恨の出来事であったと思います。
今回のドラマの中で後白河が「滋子がいれば配慮もするけれど」といった旨の台詞を言っていましたが、本当にその通りだったのだろうと思います。
今回もまた千僧供養が行われていましたが、これが建春門院が亡くなった翌年の3月。
建春門院の菩提を弔うという感じの大法会であったようです。
確か後白河が千僧供養で神戸に来たのはこれが最後かな?
●平知盛
平清盛が一番可愛がったのが四男の知盛。
重盛も宗盛も清盛の目には柔弱、優柔不断と写っていたようで、一番期待をかけたのが知盛だと言われています。
『玉葉』では九条兼実が「相国入道最愛の息子」とか、そういう事を書いている。
武に秀で人的魅力もあった人物として知られていて、国司として武蔵国に赴任した際はそこで多数の家人を得ている。
武蔵国は元々源氏の影響の大きな土地ですが、そうした所で現地の人間に受け入れられるのはどういう事か、推して知るべしでしょう。
治承寿永の乱(いわゆる源平合戦)では知盛が実質的な総大将になっており、壇ノ浦の戦いで「見るべき程の事は見つ」と海に身を沈めました。
上にあげた系図、漢字が間違っていますが、知盛の息子に知章(ともあきら)がいます。
一の谷の合戦で父知盛の代わりに戦死していまして、お墓が神戸の長田にある。
写真、あるんだけどね…なんつーか…うん。なんか写ってるので出さない方がいいと思う。
で、今回蔵人頭に知盛が推されていましたが、豈図らんや実際に蔵人頭になったのは院の近臣藤原光能でした。
次の蔵人頭に知盛がなると言うのは衆目一致の見解であったようで、そんな中の院の近臣の大抜擢。
建春門院が生きていたらこんな露骨な格好にはならなかっただろう。
●高倉天皇
そろそろ成人します。
天皇がいるにもかかわらず後白河法皇が政治に関与していられるのは天皇が未成年だから(院政)。
仏門に入っていたふたりの宮を呼び返し高倉天皇の養子にしたのは、天皇が成人する前に退位させ、引き続き院政を続けるという意思表示と見ていいでしょう。
ただ平氏としては高倉天皇に譲位されたら元も子もない訳で、絶対にこれは阻止したい。
入内して中宮になっている徳子には何としてでも皇子を生んでもらいたい。
高倉天皇には他にも妃がおり子供もいたのですが、内親王のみで皇子はいなかった。
これが高倉天皇自身の立場も不安定にしています。
平氏だけではなく高倉天皇も切実に皇子が欲しかったと思うよ…
●序曲
延暦寺の末社との争いで延暦寺の強訴を招き、それが原因で西光の息子である目代藤原師経、引き続き加賀守藤原師高が配流となりました。
ここからは恐らく次回の話になりますが、たび重なる強訴に業を煮やした後白河法皇は「これは謀反である」として天台座主の明雲をひっ捕らえ、座主を罷免した上流罪に処しています。
これには西光の讒言があったとも言われている。
公卿連の大半は温情を、という感じであったようですが流罪は強行。
以前延暦寺の強訴で院近臣藤原成親も配流の憂き目にあっている事もあるので、法皇側としてはかなり思う所もあったかと思います。
しかしながら配流先に向かう途中で延暦寺の悪僧どもに明雲は奪還されてしまった^^;
これには後白河法皇激怒。
平氏に向かい出した命令が「延暦寺を攻撃せよ」。
権門寺院との争いについては平氏は消極的で、延暦寺が強訴に及んでも積極的には動いていません。
清盛が出家した際の授戒師は明雲で個人的な誼もあったと思いますし、寺院と争うと言うのはやはり得策ではない。
かといって後白河法皇の命令も無視できるものではなく、法皇と寺院の板挟みでどうしようかという時に起きたのが鹿ヶ谷事件でした。
次回か次々回で西光も成親もいなくなるのかー。寂しいなー
●多田行綱
今回出てきてましたが、次週大変重要な役目を負う人です。
多田という姓から分かるように多田源氏(摂津源氏)、源氏の元々の嫡流になります。
「源氏の嫡流」と言うと頼朝、つまり河内源氏の系統だと一般的には思われるようにと思いますが、河内源氏の祖は多田を出て羽曳野に本拠を置いた頼信になります。
確かに一番力があったのも栄えたのも歴史に名前を残したのも河内源氏ですけど。
源氏の嫡流は多田源氏だけれども総領は河内源氏と表現している本なんかもあります。言い得て妙。
この本来の嫡流であったところの子孫が多田行綱。
有名な話ですけど、この方が何をするかは待て次週で良いでしょう。
●北条政子
暫く見ない間に普通になっていたー。何があったー^^;
輿入れ云々の話が出てきました。おー。来週あたり山木兼隆が出てくるのか。なんかあの話創作らしいけどどうなんだ。
再来年の大河がまた戦国時代と言う事で。もういい加減にしてくれ。