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キリシタン受容の構図-「茶の湯」文化の発見

2021-02-25 00:02:00 | 茶の湯

十六世紀 茶の湯におけるキリシタン受容の構図

前田秀一 プロフィール


<本論要旨>は こちらから

3.キリシタンの「茶の湯」文化の発見

1)ルイス・デ・アルメイダの見聞報告

 1565年1月1日(永禄7年11月29日)、司祭ルイス・フロイスは修道士ルイス・デ・アルメイダ(日本滞在:1552~1583年没)とともに豊後を発ち、約40日を費やして1565年1月27日(永禄7年12月25日)に堺の港に着き日比屋了珪の歓待を受けた。途中、厳しい寒さを耐え忍んで来たので二人とも病気になっていた。フロイスは、司祭ガスパル・ヴィレラに会うために翌日都へ向かったが、アルメイダは、健康を害していたことと堺でなさねばならない用件があったので、堺に留まり了珪の家で保養することにした17)(p216)。
 アルメイダは、25日間にわたる日比屋了珪およびその家族の手厚い看護で健康を回復し、当時、河内国・飯盛山城にいる司祭ガスパル・ヴィレラを訪問しようと日比屋了珪にその旨伝えると、日本の慣習に従い別離に際して示す親愛の情の証として宝物を見せてくれた17)(p268)。
 「それらは、彼らがある粉末にした草を飲むために用いるすべての茶椀と(それに)必要とする道具です。それは茶と呼ばれ(飲み)慣れた人には味が良いばかりでなく、健康増進にも(役立ち)ます。ところでその所作に用いられるすべての品は、日本の宝物であって、我ら(ヨーロッパ人)が指輪、宝石、非常に高価な首飾り、真珠、ルビー、ダイヤモンドを所持しているようなもので、それらの器や価値に精通しており、売買の際に仲介役となる宝石商(のような人)がいます。・・・・(その茶会に)人を招き、そこで上記の道具を見せるために、彼らはまず各人の力に応じて饗宴を催します。これが行われる場所は、この儀式のためにのみ入る特定の室でその清潔さ、造作、秩序(整然としていること)を見ては驚嘆に価します。
 (さて)私は(ディオゴ了珪)の居間の側面から導かれました。そこにはちょうど一人(だけ)が具合よく入れるくらいの大きさの小さい戸口があります。そこから私は真直ぐな狭い廊下を通り、杉材の階段を上りましたが、その(階段)は、まるでそこに人が足を踏み入れるのは初めての事かと思われるほどの印象を与え、あまりにも完璧な造作で、私はそれを筆で言い尽くしえません。
 部屋の片隅には彼らの習わしによって一種の戸棚があり、そのすぐ傍には周囲が一ヴァラ(1.1メートル)の黒い粘土でできた炉がありました。それは真黒の粘土製であるのに、あたかも黒玉のようにきわめて澄んだ鏡に似た非常な輝きを帯びているので不思議(に思える品)でした。その上には感じのよい形の鉄釜が、非常に優雅な三脚(五徳)にかかっていました。灼熱した炭火がおかれている灰は、挽いて美しく篩った卵の殻でできているように思われました。
 すべては清潔できちんと整っており、言語に絶するものがあります。そしてそれを不思議とするに足りないことで、この時(人々は)それ以外のことに注意を注ぐ(余地は決して)ないからであります。その炭は、一般に使用されるものではなくて、非常に遠方から運ばれてきたもので、手鋸で(巧みに)小さく挽いて、消えたり燻ったりすることもなく、わずかな時間で熾となり、火を長らく保たせるのです。
 私たちがきわめて清潔な敷物である優美な畳の上に座りますと、食事が運ばれ始めました。日本は美味(の物産)が乏しい国ですから、私は(差し出された)食物を称賛しませんが、その(席での)給仕、秩序、清潔、什器は絶賛に値します。そして私は日本で行われる以上に清潔で秩序整然とした宴席を開くことはあり得ないと信じて疑いません。と申しますのは、大勢の人が食事をしていても、奉仕している人々からただの一言さえ漏れ聞こえないのであって、万事がいとも整然と行われるのは驚くべきであります。
 食事が終わってから、私たち一同は跪いて我らの主なるデウスに感謝いたしました。こう(すること)は、日本のキリシタンたちのよい習慣だからです。(ついで)ディオゴ(了珪)は手ずから私たちに茶を供しました。それは既述のように(草の)粉末で、一つの陶器の中で熱湯に入れたものです。
 ついで彼は同所に所持する幾多の宝物を私に見せましたが、なかんずく三脚がありました。それは周囲が1パルも少々の(大きさの)もので、釜の蓋を取る時にふたを置くものです。私はそれを手にとってみました。それは鉄製で、年代を経ているためにいろいろの個所がすでにひどく損傷し、二ヶ所は古くなって罅が入りそれを再び接合してありました。彼が語るところによれば、それは日本中でもっとも高価な三脚のひとつで、非常に著名であり、自分は1,030クルザ―ドで購入したが、明らかにそれ以上に評価しているとのことでした。
 彼(了珪)は私に、この他にも高価な品を所蔵していますが、容易に取り出しにくい場所に(しまって)あるので、今はお目にかけられません。しかし御身らが(堺に)帰って来られた際にはそれらをお見せしましょうと言った。」24)、17)(p268~271)

2)ルイス・フロイスの見聞報告

 永禄12年(1569)2月11日、足利義昭と織田信長連合軍による三好政権討伐後、堺衆が二万貫の矢銭を支払って降伏したのを受け、佐久間衛門、柴田勝家、和田惟政(1532~1571)など織田信長の家臣たちが堺の接収にやって来た。当時、高槻城主で高山ダリオ(飛騨守厨書)の主君であった和田惟政は、永禄8年(1565)5月、正親町天皇の伴天連京都追放令により堺へ避難していたフロイスを都に連れ戻し、織田信長に謁見させる計画を立て、あれこれその根回しを行ってフロイスを都へ案内する段取りを進めた18)(p137~139)。
 「信長が都にいたこの頃、三河国主(徳川家康)の伯父(水野下野守信元)で、三千の兵(を率いる)武将である人が、(都にある)我らの教会を宿舎としていた。それゆえ司祭(フロイス)はそこに入ることができなかった。かくて司祭はソーイ・アンタンと言い、非常に名望ある年老いたキリシタンの家を宿とし、そこに百二十日間滞在した。
 (アンタン)は都で改宗した最初の人たちの一人であった。司祭は、彼およびその息子達から大いなる愛情と心遣いをもって遇せられたが、(アンタン)は司祭に一層自分が満足し喜んでいることを示そうとして、(司祭)を茶の湯の室に泊まらせた。(茶室)はその場が清浄(であるために)人々に地上の安らぎ(を与える)ので、キリシタンたちも、異教徒たちも(その場を)大いに尊重しているのである。司祭はそこでミサ聖祭を捧げ、キリシタンたちはそこに集まった。」18)(p142)

3)巡察師・アレッサンドロ・ヴァリニャーノ「礼法指針」

 巡察師として日本の政教事情を視察し、布教発展指導の任務を負ってアレッサンドロ・ヴァリニャーノが、1579年7月25日肥前・口之津(島原半島)に上陸来日した22)(P254)。
 当時、日本の教会は極めて憂慮すべき事態に置かれていた。その主たる原因は、第3代布教長フランシス・カブラルの偏狭な日本観と、それに基づく誤った布教方針にあった。ヴァリニャーノはその実態把握と日本への布教方針の徹底のため宣教師の報告システムを改定(「日本年報」制度の導入)し、「日本布教長内規」を策定した。日本の布教区を都、豊後(大友領)、下(シモ:豊後を除く九州)に分かち、将来、日本人聖職者の育成を目指して神学校(セミナリオ)、学院、修練院等の教育機関の設立を目指した。日本への布教方針ほか諸件で見解を異にしたため、ヴァリニャーノは総長宛にカブラルの解任を上申した。 
 ヴァリニャーノは、1579年9月8日に口之津を出発して、豊後領府内(大分)に到着した。滞在中に日本人に対する独自のキリスト教教義書「日本のカテキズモ」を作成し、12月24日に臼杵に新設された修練院の開院式で修練士に講義した。
 1581年3月8日(天正9年2月4日)、ヴァリニャーノは五畿内巡察を目的としてルイス・フロイス等を伴って府内を出発し、3月17日(天正9年2月13日)堺に上陸した。堺では、すでに布教拠点となっていた日比屋了珪にもてなされたのを初め、河内、高槻、都、安土で歓迎を受けた20)(p94)。
 3月29日、本能寺で織田信長に拝謁し、4月1日には馬揃えの式典に招待され、その後も安土で並々なら歓待を受けた。4月中旬から5月末まで河内国および摂津国・高槻城など五畿内を巡察し、その後、安土にて巡察結果を踏まえ「日本の風習と形儀に関する注意と助言」と題する在日イエズス会員の礼法指針を著した22)(p256)。同書の第七章には、日本でイエズス会員が修道院や教会を建築する際の心得が述べられ、「日本の大工により日本風に建築されるべきであること、階下には縁側がついた二室からなる座敷を設け、そのうち一室は茶室にあてるがよい」と記した。20)(p22)。
 茶の湯については、日本人の新奇な風習として書かれた。
 「日本では一般に茶と称する草の粉末と湯とで作る一種の飲み物が用いられている。彼らの間では、はなはだ重視され、領主たちはことごとく、その屋敷の中にこの飲み物を作る特別の場所をもっている。日本では熱い水は湯、この草は茶と呼ばれるので、この為指定された場所を茶の湯と称する。日本では最も尊重されるから、身分の高い領主たちは、この不味い飲み物の作り方を特に習っており、客に対し愛情と歓待を示すために、しばしば自らこの飲み物を作る。
 茶の湯を重んずる故にそれに用いる或る容器も大いに珍重される。その主要なものは、彼らが鑵子と称している鋳造の鉄釜と、上述の飲み物を作る時にその鉄釜の蓋を置くのに用いるだけの、ごく小さい鉄の五徳蓋置である。その他に、この茶を飲ませる一種の陶器の茶碗、及びその茶を保存する容器。その内のあるものは非常に大きくて、その草を一年中保存するのに用いられる。さらにその草を粉末に碾いた後入れておく小さい(棗)がある。すべてこれらの容器は、ある特別なものである場合に-それは日本人にしか解らない-いかにしても信じられないほど彼らの間で珍重される。」22)(p23)
 ヴァリニャーノは、日本では茶の湯が身分の高い領主たちに最も尊敬され、客に対する愛情と歓待を示す作法であることを知り、領主たちが自ら茶を点てるために茶の湯を習っていることに注目した。内容的には、「茶と称する草の粉末」という表現と名物として「鉄の五徳蓋置」を挙げている点では、日比屋了珪の茶室での体験を報告したアルメイダの報告と同じである。
 日本からヨーロッパに茶が輸出されたのが1609年、平戸からオランダ船に積み込まれ、バタビアを経て1610年アムステルダムへ運ばれたのが初めてであった25)(p155)。従って、ヨーロッパ人として茶葉についての概念がなかったのもやむを得ない。
 ジョアン・ロドリーゲスは、1622年10月31日付マカオ発総長宛書簡3)(p40)で『日本教会史』を著したことに言及し、その中で茶の湯について触れた章で茶葉の認識を示した。
「その(茶道具の)中でも、茶を葉のままで保存するために使う大きな壺が正当につけられた高値を保っているのはなぜかというに、それが稀にしかなく、数が限られているほかに、茶の葉を保存する特殊な性質を有しているからである。」と、茶の湯をより正確に理解して記述している3)(p600)。

 

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