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堺から日本へ! 世界へ!

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「濃茶呑ヤウ」 「御茶(茶)-薄茶」二服もてなしの事例

2021-02-25 00:24:03 | 茶の湯

『山上宗二記』 茶湯者の覚悟 「濃茶呑ヤウ」 その一考察

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前田秀一 プロフィール

2.『茶会記』における「御茶(茶)-薄茶」二服もてなしの事例

 ジョアン・ロドリゲスが著作『日本教会史』に記録した四種の茶の種類の記録は、天寺屋宗達起筆による『天王寺屋會記』の天文年間後期(1548~1553)に見ることができる。これら四種類のグレードの茶葉を使用して、同じ茶会で御茶(茶)と薄茶を二服つづけてもてなした場合の茶葉の事例を「表-1」12、13)に示した。

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  これらの内、ロドリゲスの記録の中になかった「無上」は「極上」に同義語であり5)(1331頁)、「つめ茶」と「五百茶」は茶銘と見られている12)(4頁、12頁)ことから、ロドリゲスの記録の正確さが確認できる。また、もてなしの手順として、三例(天文17年12月23日、天文18年2月11日、12日)を除けば、先ず、上質の茶葉でもてなし、その後、より品質の低い茶葉で薄茶をもてなしていることから、最初にもてなされた御茶または茶は濃茶であると思われる。
 天文年間以降、『天王寺屋會記』には茶の種類および濃茶の記録は見られなくなったが、
天文2年(1533)奈良の塗師・松屋久政が起筆した『松屋會記』および博多の豪商・神屋宗湛が天正14年(1568)11月九州島津征討を計画する秀吉軍の兵站物資調達参画を目的として天王寺屋宗及の招きで上洛したのを機会に起筆した『宗湛日記』では、天正14年から天正18年にわたってコイ茶(スイ茶)の記録があり、ウス茶を併せてもてなした場合を主として「表‐2」3,5,13~14)に示した。

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 特徴的なのは、天文年間の場合は天目茶碗を主体として使用したのに対して、天正14年および15年には「宗易形の茶碗」、「今ヤキノ茶碗」、「ヤキ茶碗」、「黒茶碗」等独自に創作した茶碗が現れたことを挙ることができる。併せて、茶の湯の空間が四畳半から三畳、二畳とつきつめられ、道具揃えに備える空間を省き、茶の点前に重点を置き客人と緊張感を持って接する「侘数寄」の境地に迫っていく過程を見るようである。
 「表‐2」から同じ茶会においてコイ茶とウス茶をもてなした事例を抜粋し「表‐3」に示した。

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 天文年間後期(表-1)と同様に、常にコイ茶が薄茶に先だってもてなされたとは言えないまでも、総体的には濃茶は薄茶に先立ってもてなされていた。
 また、茶の飲みまわしについて以下の各様の事例が見受けられることも注目に値する。
天正14年9月28日朝(『松屋會記』)4)  亭主・山上宗二  客・豊臣秀長、松屋久政
 ・・・茶は極ム、如何ニモ如何ニモタフタフトスクヰ、四ツ五ツ入、湯一柄杓、スイ茶也、初口(松屋)久政、次(豊臣秀長)也、(山上)宗二取テ参ル、又圍ヘ返シ、呑間ニ壺キンシテ出サル、見ル間ニ何モ水指マテ入ル・・・
天正14年10月13日朝(『松屋會記』)4)  亭主・中坊源吾  客・宗治、宗立、久政
 ・・・宗易形ノ茶ワン ヲリタメ 御茶極ム、スイ茶ハ宗治・久政・宗立・源五殿也・・・
ウス茶 別儀
天正15年1月3日(『宗湛日記』)14)  亭主・関白(秀吉)  客・大坂御城 大茶湯之事
 ・・・御茶ノ時ニ、関白様御立ナガラ被成 御諚ニハ、多人数ナルホトニ、一服ヲ三人ツツニテノメヤ、サラバクジ取テ次第ヲ定ヨト被 仰出候ヘハ、内ヨリ長三寸、ヨコ一寸ホトノ板ニ名付書テ、小姓衆持参候、御前ニナゲ被出候ヲ、座中有之大名衆、コノフタヲウバイ取ニシテ、其後誰々ハ誰カ手前手前ニトサシヨラレテ・・・
天正17年9月24日朝(『松屋會記』)4)  亭主・豊臣秀長  
 ・・・スイ茶御手前ニ而御茶被下ル・・・鬮(くじ)取ニ而御座敷ヘ参ル・・・
    一クシ 宗立 宗方 二人       二クシ 宗有 久政 二人
    三クシ 道可 紹斗 二人       四クシ 壽閑 関才次郎 二人
    五クシ 等旧 有俊 久好 三人
 濃茶には、最上級の茶葉を用い、飲みまわしをするが、参会者の人数が多い場合には、その順番をくじ引きで決めることもあったことがわかる。
 神津朝夫氏は、茶の湯大成者と言われる千利休の生涯を『茶会記』と重ね合わせて
    第1期を天正2年(1574)頃に茶頭になるまでの堺の一茶人であった時期
    第2期を信長や秀吉との関係が深まっていった信長茶頭時代
    第3期を天正10年(1582)6月の本能寺の変以降の晩年9年間
の三期に分けることができるとしている。15)(118頁)
 天文年間(表-1)に比べて天正14年から15年(表‐2)は、千利休が名実ともに天下一の宗匠として独自の美意識から四畳半の茶室に代えて三畳、二畳と小間の空間へ境地を開き、宗易型の茶碗の創作にも踏み出し「上様御キライ候ホトニ、此分に仕候ト也」としながら「黒ハ古キココロ也」と黒茶碗を創作しそれまでの茶の湯を大きく変え、侘び茶を大成していった。

 

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「濃茶呑ヤウ」 茶の湯大成の背景

2021-02-25 00:23:11 | 茶の湯

『山上宗二記』茶湯者の覚悟 「濃茶呑ヤウ」 その一考察

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前田秀一 プロフィール

3.茶の湯大成の背景

 「西行の和歌に於ける、宗祇の連歌に於ける、雪舟の絵に於ける、利休が茶に於ける其の貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。・・・」16)(311頁)
 これは、松尾芭蕉が貞享4年(1687)10月から翌年4月にかけて,伊良湖崎,伊勢,伊賀上野,大和,吉野,須磨,明石の旅をつづった芭蕉第3番目の紀行『笈の小文』の冒頭に書かれた有名な風雅論の一節である。和歌の道で西行のしたこと、連歌の道で宗祇のしたこと、絵画の道で雪舟のしたこと、茶道で利休のしたこと、それぞれの携わった道は別々だが、その人々の芸道の根底を貫いているものは同一である。
 中世から近世に至るそれぞれの時代に一世を風靡した芸道を列挙して それを貫くものはひとつ、すなわち「風雅の道」、これは不易(いつまでも変わらない文化)であると主張したもので、それぞれの時代の文化の背景を言い得て妙である。
 歴史的に見て芸道の基盤ができたのは中世であった。中国伝来の文化は、平安時代までは専ら学問の範囲に終始することが多く、芸能と言われる範疇のものでもその方面の知識や技術の習得から修業過程論に至り、さらには人生論へと展開する、いわゆる「道」の位置づけに置かれた。その一つとして平安時代には「和歌の道」があった17)(4~7頁)。
 「道」は、王朝文化に基盤を置くもので王朝文化の継承意識の上に成り立っていたが、これが中世(平安末期から安土桃山時代)に入って王朝の衰退とともに家を中心とした伝統文化の専門的継承が本格的になってくるにつれて、末世意識とともに広義の諸道(諸芸能)の世界における道の論が発生し、展開をうながした。
 鎌倉時代に入ると学問のほかに、管弦・舞楽をはじめ、漢詩・和歌の文学、観想、医術、武芸などまで取り込んでより広義に展開していった。
 室町期・八代将軍・足利義政の時代(1449~1473年)、家督継承問題から大名間の派閥抗争が激化し、諸大名の結束が乱れ、応仁の乱発生の原因となった。世相は、荘園領主への請願をはじめ、各種の一揆〔荘家、土(百姓)、国人(武士)、宗教(一向、法華、根来等)〕が多発し、社会的にも一揆が容認されていた。一揆は、飲食を共にして一体感を呼び起こす「一味同心」で堅く結束していた18)(41頁)。
 応仁・文明の乱(1467~1477年)後、古代的な美意識が決定的に崩壊し、新たに中世的な美・幽玄への美意識が深まり、「歌」主道論は能楽論や連歌論へと変わった。連歌では高山宗砌、蜷川智蘊、飯尾宗祇などが脚光を浴び、禅竹、心敬など陽の当らないところにいた実力派たちから「侘び」や「冷え」の美が高く評価されるようになった15)(42頁)。
 一方、応永11年(1404)、明の永楽帝と日本を代表する三代将軍・足利義満との間で結ばれた通商条約に従って、割符を持った政府公認の管理貿易によって長期的な繁栄に乗り出した日明貿易の実態は、将軍、有力大名、天龍寺、醍醐の三宝院などが出資者となり、博多や堺の商人が商売の実務にあたっていた。生糸や絹織物など大量に買い付け、日本で売れたため出資者は潤い、次第に貿易利潤の獲得競争に発展していった。
 寛正6年(1465)、日本を出港した三隻の遣明船が文明元年(1469)に帰国の途に就いた時、当初予定していた兵庫の港が応仁・文明の乱で全壊した上に大内氏の支配下にあったため、急遽、土佐沖を迂回して堺港へ入港した。その後、細川氏が支配する遣明船は堺港を出発・到着港とした10)(60頁)。
 文明元年(1469)、堺の港に遣明船が入港して以来、防衛とともに、商業資産を守るために天文期以降に周濠(環濠)が整備され、堺は世界的な商業都市として発展していった。

 住吉大社の「開口庄官」などを起源として南北庄の荘園領主が変わる中で、津田氏や今井氏など後に茶人として活躍する有力商人たちが台頭し会合を重ねて利害の異なる諸集団を一つの都市としてまとめる調停機能を発揮し、外交、自衛組織として室町幕府や守護と関わりを持った19)(18頁)。
 十六世紀には幕府や細川氏の衰退により世界的な商業都市として栄えた堺は安定した後ろ盾を失うが、管領・細川氏を傀儡とした政権樹立を目指していた阿波の豪族・三好氏が海外貿易の拠点として堺の流通機能に注目し堺の豪商との関係構築をはじめ堺南北庄の代官とは別に堺奉行を設置した。豪商自らも三好政権の中で役割を果たしていくことが求められ、堺奉行にも豪商と交流するために文化的教養が求められた20)(124頁)。
 財政が破たんした室町幕府は、将軍家の所有していた美術品を売却したり、代物弁済するようになっていった。経済力をつけていた堺の豪商はじめ有力者たちは、「東山御物」の唐物絵巻や美術工芸品、茶道具を競って入手した15)(209頁)。

 

杭全神社(大阪市平野区) 連歌所および連歌の会(杭全神社御由緒より)

 室町時代の文化の特徴は、集団芸能の発達にあり、連歌はその代表例である。複数の人が一ヶ所に集まって、和歌の上の句(五・七・五)と下の句(七・七)を分けて交互に詠みつづけて一つの作品を仕上げて行く連作形式の詩である。鎌倉時代から百句を一作品とする百韻の形式が整えられ、南北朝時代を経て室町時代に最盛期を迎えた。和歌の良し悪しは個人、ひいては家の名誉に関わるので、後世に残るような素晴らしい歌を詠もうという執着心や雑念が生じるが、連歌は「当座の逸興」、その場が盛り上がればいいという芸道である。連歌の参加者は相互に対等であり、他の参加者と強調しつつ主体性を発揮し、最終的には、没我し、集団的に熱狂していた18)(101頁)。
 宗匠を迎えて一味和合の精神で数日かけて行う連歌の会では、国人(武士)一揆や宗教(法華、根来、一向)一揆の結成につながることもあり、一座百韻ごとの連句を十日間続けて行う千句連歌は一揆の親睦を深め、結束を固める平時の姿とも言われていた。
 「此中惣テ茶湯風體ハ禅也、口傳、密傳等ハ云渡スナリ、書物ハ無シ」3)(53頁)。
茶の湯を大成した千利休には口伝、秘伝を主体とし自らしたためた書はないが、利休を師と仰いだ山上宗二の著作『山上宗二記』が補っている。その中に連歌に関わる記述がある。
 「紹鴎三十マテ連歌師也、三条逍遥院殿詠歌大概之序ヲ聞、茶湯ヲ分別シ、名人ニナラレタリ、」3)(98頁)
 「古人ノ云、茶湯名人ニ成テ後ハ、道具一種サヘアレハ、侘数寄スルカ専一也、心敬法師連歌ノ語曰、連歌ハ枯カシケテ寒カレト云、茶湯ノ果モ其如ク成タキト紹鴎常ニ云ト、辻玄哉云レシト也、」3)(97頁)
 「客人フリ事、在一座ノ建立ニ、條々密傳多也、一義初心ノ為ニ紹鴎ノ語傳ヘラレタリ、但、當時宗易嫌ルル也、端々夜話ノ時云出サレタリ、第一、朝夕寄合間ナリトモ、道具ヒラキ、亦ハ口切ハ不及云ニ、常ノ茶湯ナリトモ、路地ヘ入ヨリ出ルマテ、一期ニ一度ノ會ノヤウニ、亭主ヲ可敬畏、世間雜談無用也、夢菴狂言謌
      我佛隣ノ寶聟鼠天下ノ善悪
此歌ニテ可心得、茶湯事、數奇ニ入リタル事可語」3)(93頁)
 神津朝夫氏は、『山上宗二記』を精査、解読され通説に対して異論を提唱されている。その論の一端を引用して以下に要訳した15)(46頁)。
 武野紹鴎は三条西実隆に連歌の指導を受け、日本の歌論『詠歌大概』から美意識を学び、それを茶の湯に応用して侘び茶を方向付けた。それは、伝統的に評価の確立している茶道具をつかい、そこに新たな趣向を生み出す道具組を編み出すというものであった。
 昔から茶の湯の名人とされる人は、道具一つさえあれば侘び茶を点てることができるといわれている。若いころは格調が高くあっても、ゆく先々には連歌師・心敬が詠んでいるように「枯れて寒々とした」という境地を得るようになりたいものだ、と武野紹鴎は日頃から弟子の辻玄哉に云っていた。
 連歌の一座と同じように、紹鴎は茶の湯の座は、そこに集まる人々が、利害共同者として商売の話や諸大名の動向に関する情報交換など世間雑談を行う場であると口伝したが、宗易(利休)はそれを嫌って、「常」の茶会でも一生にただ一度の会のように亭主を敬い、連歌師・牡丹花肖柏が狂歌に歌っているように世間雑談のないものであることを求めた15)(223頁)。
      我が仏 隣の宝 婿舅(しゅうと) 天下の戦 人の良し悪し

       

唐物 天目台茶碗           創作焼き茶碗(畳に直接置く)

 武野紹鴎は、連歌の世界から学んだ伝統的な美意識を活かして唐物道具を集め、立派な座敷で道具を見せる茶の湯を目指した。
 宗易は、武野紹鴎の教えを辻玄哉を通して伝え聞いたが、武野紹鴎と違って連歌にも深入りすることなく、伝統的な茶道具を揃えることはしなかった。むしろ運び手前や作法を見せる侘び数寄を大事とし、茶席の振る舞いも一生にただ一度の会(「一期一会」)のように亭主と客人が相互に敬い合い、緊張感を持った静かな一座(「和敬清寂」)とすることを目指した。

 

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「濃茶呑ヤウ」 考察

2021-02-25 00:22:29 | 茶の湯

『山上宗二記』 茶湯者の覚悟 「濃茶呑ヤウ」 その一考察

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前田秀一 プロフィール

4.「濃茶呑ヤウ」(飲み様) 考察

 『茶会記』の記録(表‐1,2,3)から、総じて濃茶には上質の茶葉を使用し、薄茶に先んじてもてなされた。千利休が茶の湯を大成する過程にあった天正14年および15年の頃には独自のヤキ茶碗と組み合わせてもてなされた。また、利休は茶の湯の空間を客人と相互に敬い、常に、一生に一度の出会いであるように緊張感を持って接する静かな境地とすることを求めた。
 その方法として、伝統的な唐物の道具類を置いて見せる大型の棚や大きな掛け物など設える余地を省いて茶室を四畳半から三畳、二畳に詰め、道具類は茶を点てる時に運び入れる運び手前を創案して点前を見せる侘び茶の基本とした。15)(127頁)
 『山上宗二記』に「茶湯者の覚悟」(茶の湯を嗜む者の心得)が記されており、その中に本論に関わる二条に注目した。3)(92頁)
 「薄茶ヲ建ルカ専一也、是ヲ眞ノ茶ト云、世間ニ眞ノ茶ヲ濃茶ト云ハ非也、濃茶ノ建様ハ手前ニモ身モカハズ、茶ノカタマラヌヤウニ、イキノヌケヌヤウニ建ルカ習也」
 「濃茶呑ヤウ」
 濃茶は、茶葉の固まらないようにともかく一生懸命かき混ぜることが肝要であり、その点、薄茶の場合は点前の作法の美しさを表現することに意義があり、むしろ薄茶の方が真の茶の湯であるとした。
 濃茶については、むしろその飲み方に意義を見出していた。

 

南宗寺 実相庵 松孤軒 濃茶席(平成24年4月27日)

 ロドリーゲスは、秀吉による伴天連追放令発令(1587年)前後の日本については誰よりもよく知っていると自負し、『日本教会史』に著した濃茶に関する記録は大変貴重で、特に、濃茶の飲み方については重要な手掛かりとなる。
 「客は誰から飲み始めるか、たがいに会釈し合って、最初に主賓からはじめ、それを三口飲んでから第二の人に渡す。こうして皆が飲み終わるまで、つぎつぎに渡って行く。また、初めて壺の口を開いた時には、どのようになっているかを見るために、最初に家の主人が自分に試飲させてほしいと請うことが往々にある。」
 濃茶は、一座の客人を自慢の高級茶葉でもてなすことを目的としており、ましてミサにおけるぶどう酒のように聖なるものとの機縁を込めた儀式としてではなく、客人を主体にその求めに応じて自慢の茶をもてなす謙譲の形として記している。
 また、飲む段にあっては、その順番は主賓からと一座の客の間で暗黙の了解があり、主賓の後は、相互に同席の客人に礼を尽くしながら順番に飲みまわしていく互礼の形式として著しており注目に値する。茶葉を保存している壺の口開きをする場合は、主人が客人に先立って試飲する許しを請うこともしばしばあった。
 1596年、すでに司祭の資格を取得していたロドリーゲスは11)(35頁)、ミサにおけるぶどう酒の飲みまわしとの共通性を示唆することなく茶の湯の作法としてのみ記述した。
 利休の高弟七人衆(利休七哲)の中には、高山右近をはじめキリシタンとなった大名が4人もいたため利休のキリシタン説が話題にされているが、ロドリーゲスに先立って日本での宣教活動に取り組んでいたルイス・フロイスは、著作『日本史』の中で「宗易はジュスト(高山右近)の親友であるが、異教徒である」と断定的に述べ21)(239頁)、ロドリーゲスとともに、当時、織田信長や豊臣秀吉の茶頭として社会的地位が高かったにもかかわらず異教徒の千利休について触れることはなかった。
 一方、『松屋會記』や『宗湛日記』にも茶の飲みまわしに関する記述がある(9頁参照)。中でも特異なのは、一座の人数が多い場合は、飲みまわしの順番をくじ引きで決めること
もあった(『宗湛日記』:天正15年1月3日、『松屋會記』:天正17年9月24日朝)。これは、一座の客人の数が多いための手っ取り早い対処策として講じられたものであった。
 増淵宗一氏は利休居士宗易が天正15年5月吉日付川崎梅千代に宛てた伝書「利休客之次第」から「茶を飲むに、上座ののみたる、其のみ口をちがはぬように、其次々の人も其ののみ口よりのむ事肝要にて候」を引用して濃茶の飲みまわしの背景を以下のように説明している。2)(132頁)
 「中世、利害を共通にする農民などが神前あるいは一座でお神酒あるいは神水を飲みまわし連帯感、つまり一味同心の感情を喚起し一揆などを起こすことがあった。確かに、濃茶の飲みまわしには、小間同座での連帯感や親密感を強める意図があったかもしれない。」
 中世の頃、一揆が社会的に許容され、多くの人々が共同で飲食して一体感を呼び起こす「一味同心」の風潮が強かった。
 自治都市・堺にあっては、会合衆と呼ばれた有力者によって治められており、その顔触れは紅屋宗陽、塩屋宗悦、今井宗久、茜屋宗左、山上宗二、松江隆仙、高三隆世、千宗易、油屋常琢、津田宗及など10人衆で、高名な茶人を含んでいた。15)(109頁)20)(125頁)
 これら会合衆は、利害の異なる諸集団を一つの都市としてまとめる調停機能を持ち、さらに外交・自衛組織となり幕府や守護と関わる役目があり相互の信頼関係の構築と結束が求められる立場にあった19)。茶の湯を通して一味同心の環境づくりには腐心していたと考えられる。
 従って、日常的に身近なところで戦乱の絶えない戦国時代にあって、茶の湯の席においては、上質の茶葉を使用して手間と暇をかけ丹精をこめて点てられた濃茶の賞味は貴重な機会であり、一つの茶碗から相互に回して飲む方式によって、その場に居合わせた同志相互の信頼関係を築き確かなものとしようとしたと考える。

 

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「濃茶呑ヤウ」 まとめ 謝辞

2021-02-25 00:21:22 | 茶の湯

『山上宗二記』 茶の湯者の覚悟 「濃茶呑ヤウ」 その一考察

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前田秀一 プロフィール

まとめ

 ピーター・ミルワード師が指摘されたミサにおけるぶどう酒と茶の湯における濃茶の飲みまわしの共通性に関しては確たる論拠を見出せているわけではなく、相互の慣習の中に見られる形式上の相似性から類推しているように思われる。茶の湯の大成の背景を追って『山上宗二記』に見る茶湯者覚悟「濃茶呑ヤウ」について考察した。
 松尾芭蕉は第3番目の紀行『笈の小文』の冒頭に「西行の和歌に於ける、宗祇の連歌に於ける、雪舟の絵に於ける、利休が茶に於ける其の貫道する物は一なり。」と著し、中世から近世に至るそれぞれの時代に一世を風靡した芸道を貫くものは「風雅の道」、これは不易であると主張した。これは中世のそれぞれの時代の文化の背景を言い得て妙である。
 ルイス・フロイスは、著作『日本史』の中で「宗易はジュスト(高山右近)の親友であるが、異教徒である」と断定的に述べ、ジョアン・ロドリーゲスとともに、16世紀後半、織田信長や豊臣秀吉の茶頭として社会的地位が高かったにもかかわらず異教徒の千利休について触れることはなかった。
 1577年に来日し45年間滞在したジョアン・ロドリーゲスは、秀吉による伴天連追放令発令(1587年)前後の日本については誰よりもよく知っていると自負し、『日本教会史』に濃茶に関する貴重な記録を残し、特に、濃茶の飲み方については重要な手掛かりとなる。
 ロドリーゲスは1596年に司祭の資格を取得していたが、濃茶は一座の客人を自慢の高級茶葉でもてなすことを目的としており、ましてミサにおけるぶどう酒のように聖なるものとの機縁を込めた儀式としてではなく、客人を主体にその求めに応じて自慢の茶をもてなす謙譲の形として記し、ミサにおけるぶどう酒の飲みまわしとの共通性を示唆することはなかった。
 一方、『松屋會記』や『宗湛日記』など茶会記にも茶の飲みまわしに関する記禄があり、天正14年(1586)9月18日朝、山上宗二が亭主として豊臣秀長と松屋久政を濃茶でもてなす席に飲みまわす事例が見られる。特異な事例としては、参会の客人が多い席にあって、くじ引きで飲む順番を決めることもあった。
 中世の頃、自治都市・堺にあっては、紅屋宗陽、塩屋宗悦、今井宗久、茜屋宗左、山上宗二、松江隆仙、高三隆世、千宗易、油屋常琢、津田宗及など高名な茶人を含む10人ほどの会合衆と呼ばれた有力者によって治められていた。
 日常的に身近なところで戦乱の絶えない戦国時代にあって、利害の異なる諸集団を一つの都市としてまとめる調停機能を持ち、自衛組織として幕府や守護と関わる役目があった堺の会合衆は相互の信頼関係の構築に腐心していた。
 千利休をはじめ、今井宗久、津田宗及、山上宗二など茶人を含む会合衆にとって、上質の茶葉を用いて手間と時間をかけ丹精をこめて練り点てた濃茶をもてなす席は、一味同心のもと相互信頼の証として一つの茶碗から相互に回して飲むことを習わしとしたと考える。

 

謝辞
 昨年(平成23年4月11日)、「はなやか関西~文化首都年~2011“茶の文化”」協賛行事「山上宗二忌」(堺市・臨済宗大徳寺派龍興山南宗寺塔頭・天慶院)において主宰者・(株)つぼ市製茶本舗会長 谷本陽蔵様のご厚意により恥を顧みることなく拙論「十六世紀 茶の湯におけるキリシタン受容の構図」説明の機会をいただきました。
 それを機会に、郷土・堺の文化「茶の湯」について一層関心を高め、ライフワークとして取り組む励みとさせていただきました。
 さらに、谷本陽蔵様には南宗寺献茶式(平成24年4月27日)へお誘いをいただき、初めて濃茶を含む大茶会を体験し「茶の湯」の深淵なる奥に触れさせていただきました。
 奇しくも、千利休の高弟・山上宗二により著された『山上宗二記』に茶湯者覚悟十體の一つして「濃茶呑ヤウ」が挙げられており、その意義について自問するところとなりました。
 その意図するところを掘り下げて学びたいという思いに駆られ本論を起こすことになりました。
 「山上宗二忌」事務局・堺市立泉北すえむら資料館学芸員 森村健一様には、本論をご校閲いただきました上に、再び「山上宗二忌」(平成25年4月11日)においてご説明の機会をお勧めをいただき、谷本陽蔵様にご紹介の労をお取りいただきました。
 我が身の未熟さも省みることなく、思いに任せてお言葉に甘えさせていただくことにしました。これも、ひとえに谷本陽蔵様と森村健一様のご厚意の賜物と深く感謝いたします。
 また、本論の構成に際して、浅学非才の故に先学の多くの玉書・玉論に学ばせていただき、それぞれの成果を幅広く引用させていただきました。ここに原著者各位に寛大なるご容赦をお願いしますとともに厚く御礼申し上げます。

 

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「濃茶呑ヤウ」 註および参考文献

2021-02-25 00:20:30 | 茶の湯

『山上宗二記』 茶の湯者の覚悟 「濃茶呑ヤウ」 その一考察

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前田秀一 プロフィール

註および参考文献
<註>
1)ピーター・ミルワード著、森内 薫・別宮貞徳訳1995『お茶とミサ』PHP研究所
2)増淵宗一1996「最後の晩餐における共同飲食」『茶道と十字架』角川書店
3)桑田忠親1977「山上宗二記」千宗室編纂代表『茶道古典全集 第六巻』 淡交社
4)永島福太郎1977「松屋會記」千宗室編纂代表『茶道古典全集第九巻』淡交社
5)林屋辰三郎ほか七名編集代表1994『角川茶道大事典 本編』 角川書店
      大和 智643頁「聚楽第」  村井康彦「千利休」761頁   若原英弌「無上」1331頁
6)松田毅一監訳1998『十六・七世紀イエズス会日本報告書第Ⅲ期第2巻』同朋舎 274頁
7)松田毅一 川崎桃太郎訳1981『フロイス日本史4 五畿内Ⅱ』中央公論社 142頁
8)松田毅一 佐久間正 近松洋男訳1990『ヴァリニャーノ日本巡察記 東洋文庫229』平凡社
9)松田毅一 川崎桃太郎訳1978『フロイス日本史5 五畿内編Ⅲ』中央公論社
10)角山 榮2000『堺-海の都市文明 PHP新書104』PHP研究所
11)佐野泰彦訳 浜口乃二雄訳 江馬 務注 土井忠生訳・注1967『ジョアン・ロドリーゲス 日本教会史 上 大航海時代叢書Ⅸ』岩波書店
12)永島福太郎1977「天王寺屋會記 自会記」千宗室編纂代表『茶道古典全集 第八巻』淡交社
13)永島福太郎1977「天王寺屋會記 他会期」千宗室編纂代表『茶道古典全集 第七巻』淡交社
14)芳賀幸四郎1977「宗湛日記」千宗室編纂代表『茶道古典全集 第六巻』 淡交社
15)神津朝夫2005『千利休の「わび」とはなにか 角川選書378』角川学芸出版
16)井本農一 堀 信夫 村松友次注・訳1976『日本古典文学全集41 松尾芭蕉』小学館
17)石黒吉次郎1993『中世芸道論の思想』図書刊行会
18)呉座勇一2012『一揆の原理-日本中世の一揆から現代のSNSまで』 洋泉社
19)吉田 豊1998「堺中世の会合と自由」『堺市博物館報第17号』堺市博物館 18頁
20)天野忠幸2011「戦国期における三好氏の支配をめぐって」『堺市博物館報第30号』堺市博物館
21)松田毅一、川崎桃太訳1977『フロイス日本史1 豊臣秀吉編Ⅰ』中央公論社
 
 
<参考文献>
)千宗守、千宗室、千宗左監修1989『利休大事典』淡交社
2)熊倉功夫校注2006『山上宗二記 付茶話指月集』岩波文庫 青50-1岩波書店
3)神津朝夫2007『堺衆 山上宗二』 龍興山本源院・小野雲峰、一会塚発起人代表・ (株)つぼ市製茶本舗・谷本陽蔵 
4)筒井紘一1992『茶の湯事始―初期茶道史論考』講談社学術文庫
5)谷本陽蔵1993『お茶のある暮らし』草思社
6)倉沢行洋1983『藝道の哲学 宗教と藝の相即』東方出版
7)古田紹欽1987『芸道の中の禅』法蔵館
8)千宗室代表編纂『茶道古典全集 第十巻』淡交社
9)前田秀一2012『十六世紀 茶の湯におけるキリシタン受容の構図』前田秀一

  

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十六世紀 茶の湯におけるキリシタン受容の構図

2021-02-25 00:16:13 | 茶の湯

前田秀一 プロフィール

<本論の要旨>は こちらから

     目 次

     はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

      1.『天王寺屋會記』に見る茶湯政道 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
        1)三好政権下、『天王寺屋會記』に見る武将の記録 (表‐1)・・・・・・・・・
        2)織田・豊臣政権下、『天王寺屋會記』に見る武将の記録 (表-2)・・・・・

      2.五畿内におけるキリシタンの受容(表3)・・・・・・・・・・・・・・・・・・
      1)五畿内におけるキリスト教布教 -足掛かり ・・・・・・・・・・・・・・・・
         (1)フランシスコ・ザビエルの野望と挫折 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
         (2)ガスパル・ヴィレラの再挑戦 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
         (3)商都・堺での捲土重来-日比屋了珪の献身 ・・・・・・・・・・・・・・・・
         2)三好政権下、河内国の武将たちのキリシタン受容 -定着・・・・・・・・・・・・・
           (1)三好政権の国づくり ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
        (2)飯盛山、岡山、三箇、砂、多聞山、沢地域の受容 ・・・・・・・・・・・・・
       3)織田信長のキリシタン受容-飛躍・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
             (1)織田信長の宗教観 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
         (2)織田信長のキリシタンへの関心 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
         (3)安土セミナリオ(神学校)建設 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 3.キリシタンの「茶の湯」文化の発見 ・・・・・・・・・・・・・・
        1)ルイス・デ・アルメイダの見聞報告 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
        2)ルイス・フロイスの見聞報告 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
        3)巡察師 アレッサンドロ・ヴァリニャーノ「礼法指針」・・・・・・・・・・・

   4.利休七哲 キリシタン大名・高山右近の生きざま・・・・・・・・・・
       1)高槻城主・高山右近へのキリスト教理再教育 ・・・・・・・・・・・・・・・
                  2)高山右近の茶の湯 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
      3)伴天連追放令 高山右近の改易(領地・地位没収) ・・・・・・・・・・・

5.茶の湯とキリシタンの受容・・・・・・・・・・・・・・・・・

                まとめ  十六世紀 茶の湯におけるキリシタン受容の構・・・・・・・・・・・・
       1)五畿内におけるキリシタン受容の背景 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
       2)茶の湯におけるキリシタンの受容 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

     謝辞・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

              註および参考文献 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

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キリシタン受容の構図 ー はじめに

2021-02-25 00:15:26 | 茶の湯

十六世紀 茶の湯におけるキリシタン受容の構図

前田秀一 プロフィール 
                    
<本論要旨>は こちらから

はじめに

 「その比(ころ)、天下に御茶湯仕らざる者は人非仁に等し。諸大名は申すに及ばず、下々洛中洛外、南都、堺、悉く町人以下まで、御茶湯を望む。その中に御茶湯の上手ならびに名物所持の者は、京、堺の町人等も大和大名に等しく御下知を下され、ならびに御茶湯座敷へ召され、御咄(はな)しの人数に加えらる。この儀によって、町人等、なお、名物を所持す。」1)(p12)
 天正16年(1588)、山上宗二(1544~1590)は師と仰ぐ千利休(1522~1591)の秘伝を書き留めた『山上宗二記』の中で、16世紀の茶の湯の流行の様子をこのように記した。「数寄の覚悟は禅宗を全と用うべきなり」、「惣別、茶湯風体、禅宗よりなるにより出で、悉く学ぶ。」と書き、大徳寺の伝統を伝える南宗寺に集う茶人たちの規範となっていた。
 十六世紀という時代の背景は、応仁・文明の乱(1467~1477年)後の世相を引きずって、まだ、戦乱の絶えない激しい群雄割拠の世にあり、そのような中イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエル(日本滞在:1549~1559)によりキリスト教という異文明が衝撃的に到来した〔天文19年(1550)12月堺上陸〕2)(p33)。
 イエズス会宣教師ジョアン・ロドリゲス(日本滞在:1577~1610)は「数寄と呼ばれるこの新しい茶の湯の様式は、有名で富裕な堺の都市にはじまった。その都市は日本最大の市場で、最も商取引の盛んな土地であり、きわめて強力なので、以前には、信長および太閤までの時代には、日本の宮都と同じように、長年の間、外部からの支配を認めない国家のように統治されていて、そこはすこぶる富裕で生活に不自由しない市民やきわめて高貴な人たちが住んでいる。彼らは相次ぐ戦乱のために各地からそこに避難して来ていた。その都市で資産を有している者は、大がかりに茶の湯に傾倒していた。また日本国中はもとより、さらに国外にまで及んでいた商取引によって、東山殿のものは別として、その都市には茶の湯の最高の道具があった。」3)(p605)と、日本の茶の湯の文化をヨーロッパに詳細に紹介した。
 日本人キリシタンの柱石で、有能な戦国大名でもあった高山右近は、禅宗の一様式と言われた茶の湯をたしなみ、千利休の高弟七人のうち2番目に数えられるほど茶の湯の世界に受け入れられた4)。その後、牧村長兵衛、蒲生氏郷および織田有楽など利休七哲に数えられた茶人で大名でもある3人が洗礼を受けキリシタンになった。
 十六世紀、世界的な大航海時代の潮流の中で、日本文化の規範である茶の湯が戦国時代の混乱期に異質なキリスト教文明とどのように向き合い受け止めていったのか、茶の湯文化の側面から茶会記録『天王寺屋會記』とイエズス会宣教師報告書にキリシタン受容の構図を追ってみた。

 

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キリシタン受容の構図-『茶会記』に見る茶湯政道

2021-02-25 00:14:43 | 茶の湯

十六世紀 茶の湯に見るキリシタン受容の構図

前田秀一 プロフィール

<本論要旨>は こちらから

1.『天王寺屋會記』に見る茶湯政道

 天文17年12月より、堺の豪商、天王寺屋・津田宗達( ~1591年)は、茶会の日付、場所、亭主、参会者、茶事の様式など茶会に客を招いた場合を『客来茶湯留』(「自会記」)として、また客として招かれた場合を『他所茶湯留』(「他会記」)として日記をつけ始めた。この茶会日記は、宗達〔天文17年(1548)~永禄9年(1566))の後、宗及〔永禄8年(1565)~天正13年(1585)〕および宗凡〔天正18年(1590)~元和2年(1616)〕と津田家三代にわたって引き継がれていった5〕(p443)。奇しくも、『天王寺屋會記』の始まりは、フランシスコ・ザビエルによる異文化(キリスト教)の到来と時を同じくした。
 津田家は、三好一族と茶の湯をとおして親交があり、織田信長(1534~1582)および豊臣秀吉(1537~1598)ら時の為政者の茶頭を務めるなど懇意だったこともあり、これら政権の茶の湯(特に道具類)に関する記録に詳しく、また関係した諸事件についても明確に記し自会記・他会記がそろっているなど史料的価値が高い1,5,6)。特に、武将に焦点を当てた場合、茶会に記された人名は世相を反映し三好政権時代(1549~1569年)と織田・豊臣政権時代(1573~1587年)に大別される。

1)三好政権下、『天王寺屋會記』に見る武将の記録(表‐1)7~9)

拡大詳細は、こちらから

 天文18(1549)年2月11日朝、三好本宗家の縁につながる三好政長(宗三、1508~1549)が「宗三御会」に武野紹鴎(1502~1555)、江州源六、津田宗達を招待したのが『天王寺屋會記』(他会記)おける武将の初見で、その後、亭主が津田宗達、武野紹鴎と変わり三日連続して三好政長が参加した茶会が持たれた。しかし、これを最後に、以後三好政長の名前を見ることができない。
 その後は、1年9ヶ月後の天文20年(1551)11月17日の朝会に津田宗達の招きで河内の大名・畠山氏一族畠山式部将とともに三好豊前守(實休:1527~1562))とその家臣が登場している。引き続き、武将としては三好實休および弟・安宅冬康(1528~1564年)の名前が散見されるが、回を重ねて登場するのは、弘治4年(永禄元年:1558)10月3日、津田宗達が、堺とともに拠点港と位置付けられていた尼崎に滞在する三好長慶(1522~1564)、三好實休および安宅冬康(1528~1564))の兄弟三人を訪ねてからの事であった。
 三好長政が津田宗達らと茶会をもってから間もなくの天文18年(1549)6月24日、江口の戦い(現大阪市東淀川区)で三好長慶(1522~1564)は主筋の管領・細川晴元(1514~1563)に逆らってまで、父・三好元長(1501~1532)を一向一揆で追い込んで堺の顕本寺で自刃に至らせた仇敵・三好政長を討伐した。三好長慶の攻勢を恐れた細川晴元(1514~1563)は第14代将軍・足利義輝(在位:1546~1565)一家を伴って京から近江(坂本⇒堅田⇒朽木)へ退去し細川政権は崩壊した。
 三好長慶は、京都を中心とした求心的な支配構造にこだわることなく、政権の拠点を摂津・芥川山城(1553~1560年)において京都と兵庫津を繋ぐ西国街道、京都と堺を繋ぐ三島路および熊野街道など交通大動脈の支配に重点をおき、細川氏綱(1514~1564年)を傀儡とし管領・細川氏を前提としない実質的な三好政権を打ち建てた。
 弘治2年(1556)6月15日、三好長慶兄弟は父・三好元長が自刃した堺の法華宗・顕本寺で父・三好元長の二十五回忌法要を営み千部教読経を挙げた。その後、弘治3年(1557年)、大林宗套(1480~1568)に帰依していた三好長慶は、父・三好元長の菩提弔いを発願し堺南庄舳松(現堺区協和町)にあった小さな坊院・南宗庵を中之町へ移転し、東西八丁南北三十丁にわたり壮大に造営し大林宗套を開基として南宗寺を建立した。当時の堺の茶人たちは、大林宗套や笑嶺宗訢(1490~1568年)など歴代の住特に帰依して参禅、得度した。
 三好長慶が、自ら拠点とする芥川(芥川山城)ではなく、また出自とする阿波・勝瑞でもなく堺に父・三好元長の菩提寺を選定したのは、茶の湯を活かして堺衆(堺商人)を西国大名に対する外交政策の担い手と位置づけ、さらに堺を三好一族や重臣の宗教的、精神的中核となる宗廟の地とする狙いからであった10)(p264)。
 弘治3年(1557)9月15日昼、宗久(今井)會の記録に松永久秀(1510~1577年)の名前があり、この時点で松永久秀が堺代官を務めた。永禄3年(1560)2月25日朝には、津田宗達を多聞城(築城:1560年)に招いて茶会でもてなしており、松永久秀はその間、堺の代官を務めていたと考えられる。
 三好長慶は歌道に親しみ、連歌もよくしたが、茶の湯を通して堺衆と親しくすることはまれで、茶事は弟の三好實休と安宅冬康に任せていた9)(p1321)。
 三好實休は、永禄5年(1562)3月5日紀伊・河内の守護大名・畠山高政との久米田の戦いで戦死するが、永禄7年(1564)3月5日朝、津田宗達が三回忌に合わせて宗閑、了雲、道巴とともに實休を偲ぶ茶会を開き堺の茶人との親密さがうかがえる。
 一方、弘治3年(1557)9月18日昼、織田信長(1534~1582年)方の使者が津田宗達の茶会席に現れ、清州城主となって堺の繁栄を視野に入れはじめた織田信長の台頭が予見された。
 永禄7年(1564)7月4日、三好長慶が飯盛山城で病死すると、三好政権は三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と松永弾正久秀に引き継がれたが内紛によった安定せず衰退の一途をたどり茶会記からも名前が消えていった。
 永禄11年(1568)9月、将軍家嫡流の足利義昭(在位:1568~1573年)が織田信長に奉載されて上洛し、10月に第15代征夷大将軍に補せられた。織田信長の功を賞して摂津、和泉、近江など諸国の中で領地を授けようと勧めたが、信長はこれらを辞退し、時の軍政・三好三人衆が治めていた堺および近江草津に代官を置くことを望み許された。
 信長の狙いは、海外貿易拠点としての堺および東海道と中山道が交わり湖上交通の要である近江草津などの交易拠点を手中にすることにあった。織田信長は、軍資として堺に二万貫、石山本願寺に5千貫の矢銭を課した。本願寺・顕如(1543~1592)はその命に応じたが、堺の会合衆は三好三人衆の軍政を頼りこれを拒んだ11)(p211~212)。
 永禄12年(1569)1月6日、織田信長が岐阜に帰った留守中、三好三人衆が京都・本國寺に将軍・足利義昭を襲ったが、義昭方の三好義継(1549~1573)らが三好三人衆を七条桂河邊で破った。本拠地・阿波国から三好三人衆援軍が堺に集まり出陣したことにより騒ぎが大きくなり、信長に攻撃されるという風説が流れ、堺の会合衆は将来とも堺に牢人衆を入れて反抗しないことを誓い、且つ二万貫の矢銭を納めて信長に陳謝して許された11)(p214)。

2)織田・豊臣政権下、『天王寺屋會記』に見る武将の記(表‐2)7~9,12~15)

拡大詳細は、こちらから

 織田信長は敢えてすぐに兵を動かそうとはしなかったのは、能登屋や臙脂屋(べにや)など反目する硬派の会合衆の一方において、これに応じようとした軟派の頭目・今井宗久(1520~1593年)が密かに名物・松島の壺(葉茶壺)と舅・紹鴎所持の茄子茶入れを献じており、その動きを洞察していたのではとの考え方がある。今井宗久が信長の知遇を得たことは、宗久をとおして津田宗及および千利休が紹介され信長に茶の湯を政治的に利用させる契機ともなった11)(p488)。
 「元亀」(元亀4年7月)から「天正」(天正元年7月)へ改元(1573年)し体制のめどが立つと、織田信長は上洛時の宿・妙覚寺(法華宗)と相国寺(臨済宗)などに堺の茶人を招いた。
 天正元年11月23日、妙覚寺の会には、塩屋宗悦、松江隆仙、津田宗及が招かれ、三の膳まで用意され、織田信長は正装で義父・斎藤道三(1494~1556)と縁のある京の町人・不住庵梅雪(村田珠光流:1541~1582))を茶頭にたて手厚くもてなした。
 翌日、天正元年11月24日、相国寺の会には堺の代官・松井友閑(生没不詳)、今井宗久(1520~1593)、千宗易、山上宗二が招かれ、千宗易が濃い茶を点て織田信長に呈茶し、その後、今井宗久が薄茶を点て信長に献上し、信長も一段とご機嫌だったと記されている。
 年明けて天正2年3月24日には、堺衆(堺の商人)10名を相国寺に招いた。『天王寺屋會記』紙背文書によれば、客人として紅屋宗陽、塩屋宗悦、今井宗久、茜屋宗左、山上宗二、松江隆仙、高三隆世、千宗易、油屋常琢、津田宗及の10名の名があり15)、今井宗久、山上宗二、千宗易および津田宗及など当時名声を高めていた茶人4名が含まれていた。お茶の後、今井宗久、千宗易および津田宗及には書院にて名物の千鳥の香炉、ひしの盆、香合が披露された。津田宗及が到着する前に、千宗易と茜屋宗左にはお茶がふるまわれ特別に扱われた。
 天正2年3月26日には、織田信長は臣下の武士とともに堺衆を伴って松永久秀が築いた多聞山城(奈良)に行き、正倉院から運び込ませていた御物の蘭奢待を切り取った。天正2年4月3日、俄かに、相国寺に堺衆を招き、梅雪の手前でもてなし、茶会が終わってから、3月26日に切り取った蘭奢待を扇子にのせてその銘香を楽しみ、宗易と宗及にも分け与えた。
 織田信長は、茶の湯を初めに不住庵梅雪に学んだが、その後、今井宗久、津田宗及および千宗易らを茶頭に取りたて盛大に茶会を開催した9)(p229)。
 先に今井宗久から献上された天下の名器・松島の壺(葉茶壺)や紹鴎所持の茄子茶入れ、さらには、松永久秀から献上された名茶器・九十九髪茄子など茶道具に開眼した信長は、実弟・丹羽長秀(1536~1585)や腹心の家臣・松井有閑に命じて銘品狩りといわれる本格的な茶道具の収集を始めた12)(p97、p103)。これらの名器は一個一城の知行同等と価値づけられ、武功のあった家臣にこれを下賜、また、茶湯の催しを許すなど政治の方便としても用いた。織田信長は、堺の茶匠の指導のもと茶趣味に没頭し、茶湯は単なる遊芸や慰みとは異なり政道(「茶湯政道」)として武将の間に茶湯が盛行する要因となった9)(p229)。
 表-2から、茶湯の会席を許された武将は、荒木村重(1535~1586)が一番早く〔天正5年(1577)4月13日〕、次いで、ロドリゲスにこの道で日本における第一人者と称されたキリシタン大名・高山右近〔天正5年(1577)12月6日〕が許されている。その後は、天正6年(1578)1月11日に明智光秀(1528~1582)、天正6年(1578)10月15日に羽柴筑前守秀吉、天正8年(1580)1月14日に牧村長兵衛(1546~1593)の名前が見える。
 天正5年(1577)12月6日朝、荒木村重は千宗易と津田宗及を客人として茶会を開いていた。千宗易はあつきくさりを持参して荒木村重に贈り、床の「遠浦帰帆の繪」の掛け方を教えた。津田宗及が薄茶を点てるなど荒木村重は千宗易と津田宗及から教えを受けた。
 同じ日の晩(天正5年12月6日晩)、高山右近が宗易と宗及を客人として茶会を開いた。帰りがけに荒木村重から贈られた鴈一つ、たぬき一つおよび炭十荷を千宗易と津田宗及に手土産とした。高山右近は、荒木村重に茶の湯の指南を受け、千宗易と津田宗及を紹介された。
 その後、荒木村重は天正6年(1578)10月12日朝、津田宗及と叔父の津田道叱を招き兵庫の壺の口切でもてなした。翌13日朝には宗及一人を客人として定家之色紙でもてなした。これは、荒木村重が将軍・足利義昭を支援する毛利軍と石山本願寺との戦いで織田軍の形勢が不利となり、摂津国の周囲を敵に囲まれたことから織田政権の命運を見限り、謀反を起こすことを決めた天正6年10月21日12)(p240)の直前、秘蔵の名物の後事を津田宗及とその叔父・津田道叱に託すための特別の茶会であったとの見方がある16)。
 荒木村重の家臣であった高山右近は、自身の妹や息子を人質として差し出してまで荒木村重の謀反を翻意させようと努力したが失敗した。当時キリスト教の布教に理解を示していた織田信長と主君・荒木村重の間で板挟みにあって悩み、尊敬するイエズス会会員オルガンチノ神父に助言を求めた。神父は、織田信長の元に降りるのが正義であると助言を与え、高山右近は、高槻城主の地位を辞し、家族を捨てて織田信長の元に行き、畿内の宣教師とキリシタンの身分を救う道を選んだ20)(p38)。
 戦略拠点・摂津の統一支配者として信じていた荒木村重の謀反にあわてていた織田信長は、政治的に重要拠点である高槻城主・高山右近の決断は、荒木村重の敗北を促す効果があったと高く評価して高山右近に再び高槻城を安堵し、摂津国の半領を与え、キリシタン宗門を保護すると約束した20)(p44)。
 後に(天正12年)、高山右近の熱心な勧めでキリシタンとなる牧村長兵衛は、天正7年(1579)12月8日晩、吉田久二郎の会で津田宗及、本能寺の僧・園乗坊、佐久甚九郎および山上宗二を招いて釜開きを行った。翌天正8年(1580)1月14日朝、津田宗及は織田信長へお礼に参上し、お茶のおもてなしを受けた同じ日の夜、安土にて佐久甚九郎と共に牧村長兵衛の会に招かれ、後に流行することになった「ユカミ(ゆがみ)茶碗」を用いてもてなされた。
 天正10年6月2日、本能寺の変で織田信長が明智光秀の謀反で倒れると、高山右近は羽柴秀吉の配下に入り山崎の明智光秀討伐の戦いでは先鋒を務め、戦勝後の清州会議でその功を認められた。
 天正10年(1582)10月11日、豊臣秀吉は、大徳寺で織田信長の大葬儀を主宰して天下統一の後継者としての地位を固めると、千宗易を茶頭として取りたてて茶の湯へ傾倒し、織田信長の「茶湯政道」を継承した。自らも大坂城、聚楽第および戦陣に茶席を設けるなど茶の湯を生涯の嗜みとして没頭した。
 高山右近は、豊臣秀吉から引き続き茶湯会席を許され、自らも、かつて鳥居引拙が所持していた名物「侘助かたつき」を所持し侘び茶に傾倒した1)(p72)。
 天正12年(1584)10月15日、豊臣秀吉が膠着状態にあった小牧・長久手の戦いへの協力要請を目的として大坂城内座敷で催した茶会には、堺の代官・松井有閑を筆頭に千宗易、今
井宗及、津田宗及、千紹安、山上宗二、万代屋宗安、住吉屋宗無、重宗甫、今井宗薫、山上道七など堺の茶人で商人と共に、細川幽齋、藤田平右衛門、佐久間忠兵衛、高山右近、芝山源内(監物)、古田左介(織部)、中川瀬兵衛子(清秀)、松井新介(康之)、牧村長兵衛(兵部)など武将も含む29名が招かれた。
 天正13年10月、豊臣秀吉が関白となったのを記念して禁中茶会が催され、正親町天皇に茶を献上した関白秀吉の後見役を務めた際に、千宗易は永禄年間(1558~1570年)に南宗寺の大林宗套から与えられていた「利休」居士号を正親町天皇からの刺賜として使用を始め、名実ともに天下一の宗匠となった。

 

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キリシタン受容の構図-五畿内の受容-足掛かり

2021-02-25 00:14:09 | 茶の湯

十六世紀 茶の湯におけるキリシタン受容の構図

前田秀一 プロフィール

<本論要旨>は こちらから

2.五畿内におけるキリシタンの受容(表-3)7~11、17~21)

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1)五畿内におけるキリスト教布教 -足掛かり

(1)フランシスコ・ザビエルの野望と挫折
 フランシスコ・ザビエルは日本において以下4項の企画をもっていた2)(p30)。
①都にのぼって天皇に拝謁し、全日本で自由に布教する許可を得、さらに、天皇はシナの皇帝と友好関係にあると聞いたので、勘合符を入手してシナ伝道に備える
②日本の大学を歴訪してヨーロッパへくわしい情報をおくり、後続する有能な同志が宗論において日本の諸宗派を論破できる道を開く
③日本‐インド間の定期航路をひらき、堺にポルトガル貿易商館を設置して、布教の財政的な基礎をかためる
④日本人をキリスト教世界に派遣する
 1550年10月末(天文19年10月末)、平戸を出港して、山口(12月17日発)、厳島(12月下旬発)を経由し1551年1月上旬(天文19年12月上旬)に堺港に到着した。1月中旬に都に入ったが、応仁・文明の乱による都の荒廃の中、乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、頼るべき政権(第14代将軍足利義輝:在位1546~1565年)が近江朽木に逃れていて拝謁することができず、デウスの種をまくべき状況にないと判断しわずか11日の滞在で都を離れた。
 1551年2月上旬(天文20年1月上旬)ザビエルが堺港を発ってから2)(p33)、永禄2年(1559)9月18日、後継者ガスパル・ビレラが堺に到着するまで約8年半の歳月が流れた。
 フロイスは、ザビエルが堺に向かう途次、立ち寄った港で一人の身分の高い男に堺に住んでいる友人宛の紹介状をもらい、堺に上陸した際に一行が日比屋了珪の家に泊まったと書いた17)(p17)。しかし、『フロイス日本史』翻訳者・松田毅一氏は、その後、ガスパル・ヴィレラが堺に上陸した際に日比屋了珪の家に泊まらなかったことを事例として挙げ、ロドリーゲスが『日本教会史』に記載した「ザビエルは宿泊するところがなかったので、住吉の大明神(宿院御旅所)の松林に赴き、そこの一本松の木の根元に、拾ってきた数枚の古いござで小屋を作り、その中で寝泊まりした」とする説をとり17)(p22)、フロイスが『日本史』を執筆する際に日比屋家に対する配慮から脚色した疑いがあると解説している2)(p38)。

(2)ガスパル・ヴィレラの再挑戦
 永禄2年(1559)10月18日、「ガスパル・ヴィレラ(日本滞在:1556~1570年)が政権の状況調査を目的に再び都をめざして堺に到着した。堺には知り合いもないので航海中にヴィレラの説教を聴聞して受洗したウルスラという女性の紹介で、ソウゼンと言う人の家に泊めてもらった。
 翌日、司祭(ヴィレラ)が伴侶の人たちとともに町を見物していた時、たまたま、パウロ・イエサンと称する山口出身の身分ある五十過ぎのキリシタンの医師に出会い、国主・大内義隆(1507~1551年)の死に際して自分も放遂されて来たと事情を打ち明けられた。彼は(司祭たちに)どこへ行くのかと訊ねたので、彼らは、比叡山に赴き、そこで許可を得て五畿内で教えを説くつもりだ、と答えると、パウロは御身らが(使命として)帯びたことは重要であり難しい企てだと言い、彼はヴィレラらを別の家に連れて行き優遇した。
 堺ではさっそく新奇を求めて数名の人が説教を聞きたいと申し出た。しかし司祭は、比叡山の主な僧侶の一人である西楽院に宛てた山口の国主の書状を携えており、寺院が建っている十六名の上長たち、およびかの大学の学問所を訪ねたく思ったし、自らの使命につき(修道会員として、上長からの)命令に服従して、それを速やかに実行したいと考えたので堺には3日しか滞在しただけだった。」17)(p44)
 「堺を発って、大阪で一泊して淀川を遡り逢坂関を経て大津に至り、三井寺を訪ね、1559年10月22日に坂本のディオゴの家に赴いた。10月23日日本人修道士・ロレンソがまず比叡山に赴き、門弟の大泉坊を訪ねたが体よく断られ、翌24日ヴィレラ自ら比叡山に再訪したが、比叡山での交渉にヴィレラは絶望した。比叡山の許可なくして都へ入ることの無謀さに伴侶たちから止められたが、ヴィレラはたとえ(入京)の当日に殺されても自分の使命を果たすまでは豊後へは帰らないと単身でも都へ入ることを決意した。かの年老いた尼僧の一人は、伴天連に同情し、彼に言った。「御身は異国の方であり、それゆえ、都には多分一人としてお知り合いはおられますまい。私が、あそこにいる知人に宛てて、皆さんを泊めてあげてくださいと手紙を書きましょう」と。そして彼女はそのとおりにした。」17)(p60)
 「都では、説教を聞きに来る人々の殺到ぶりは日増しに高まっていった。時には学識僧との激しい宗論となり都の町の仏僧たちは激昂し始めた。そのような中、全五畿内で最も主だった(寺院の)一つである紫の僧院(大徳寺)から、数人の禅宗の僧侶が、公家を装って訪ねて来たが、彼らは(司祭たちの説教を)聞いただけで、一言も話さなかった。」17)(p86)
 「かくて家主たちは、人から悪口を言われ、仏僧たちの圧迫に恐れをなし、さっそく司祭に、もうこれ以上家を貸しておけぬから出ていってほしいと通報した。・・・というのは、僧侶、親族、友人、隣人たちは、(伴天連)を追い出し、自分のみや妻子に神仏の罪がふりかからぬようにせよ、とひどくせき立てたからであった。」17)(p92)
 「そこへ禅宗の紫の僧院(大徳寺)から、もう八十歳近い老僧が訪ねて来た。彼は齢を重ねていたのと、気分がすぐれぬために、都に自分用に一軒の家を構えていた。生来親切な人で博愛と慈悲の業に心を傾けていた。彼はあの(司祭の)貧しい家に来ると、たいていの人々と同じように、ありふれた好奇心から出た質問を始めた。・・・司祭はその質問に満足な回答をした後に、自分がここで説いている(キリシタンの)教えについて少しぐらい聞きたいと思わぬかと訊ねた。それを聞くと老僧は微笑み、自分はすでに解脱のことは心得ており、インドとヨーロッパの珍しいことを知りたいだけだと言った。
 それはあたかも、(自分が奉ずる)禅宗は、霊魂の不滅とか宇宙の第一原因、至福なる(天国での)果報とか来世(で)の懲罰(といったキリシタンの教え)を否定し、千六百の公案というものが(禅宗に)あって、人々はそれによってあらゆる良心の呵責をなくそうと努めるものである。だから(いまさら)自分たちの職分に大いに反する教えを携えて道を外す必要はない、と言おうとしているかのようであった。
 ところで彼は司祭に同情していたので、他日また戻って来て、少しばかりの食物を持参したが、それは非常に清潔で、上手に料理してあった。・・・司祭は彼の贈物に対して謝意を表すことに決め、さっそく(老僧)に、デウスのことや、理性を備えた(人間の)霊魂(が)不滅であることや、来世のことを話すよう、適当な機会を探し求めた。果たして彼は説教を聞き始め、大いに興味を持つようになり、我らの(教えの)ことに非常に感動し、驚嘆の念を抱いた。そしてその善良な老人は、引き続き説教を聞いた後に聖なる洗礼を受け、その際、ファビアン・メイゾンと名づけられた。
 冬の厳寒の折であるが、ミサを聞きに来て、ダミアンを傍に呼んで言うことには、私は伴天連様がミサを捧げられる時に、毎朝なにもかぶらずに、あんなに長い間立っておられるのを見ると、本当にお気の毒に思う。それにまた、銀の盃から冷酒を召しあがるのを見ると、お身体に障りはしまいかと、いっそうそのように感じる。どうか、私の家には、小さい銅の炉がついた非常にきれいな茶の湯の釜がありますことを、彼にあなたからお伝えください。もしお望みならば、それを彼に贈りましょう。」17)(p94~95)
 「教会は嵐の後、静謐な歩みを保っていた。・・・1559年(永禄2年)11月初め、司祭は公方(第14代将軍足利義輝)様を訪問して、自分の名誉を回復させたり、(先に)下付された允許状を保証して恩恵を示されたことに謝意を述べようとしたところ、公方様はその点、いくらか難色を示し、当地の民衆は挙げて伴天連に反対して騒いでおり、僧侶もまた激しい憎しみを抱いている。したがって予が御身を優遇し、訪問を受けるのを人々が次々と見たならば、かならずや予にも不慮の出来事が起きることであろう。それゆえ、予を訪ねてこないようにと言った。」17)(p138)

(3)商都・堺での捲土重来 - 日比屋了珪の献身
 「司祭(ヴィレラ)は、都においては布教がさしあたってなんら進展しないことが判ったが、(生来)霊魂の救済ということに大いなる熱意を抱いていたので、キリシタンの数が増えぬままでいることには、胸中もはや堪えられなくなった。・・・そして彼には、都以外としては、日本のヴェネツィア(とも言うべき)堺の市街以上に重要な場所はなかろうと思われた。すなわち、その市街は大きく、富裕であり、盛んに商取引が行われるのみならず、あらゆる国々の共通の市場のようで、絶えず各地から人々が参集するところである。
 司祭は、堺には(自分のための)家も知人もないという事情が最初困難として自分の身に起こり得ようと考えたが、その時、我らの主なるデウスは、この市街のはなはだ名望があり、広く親族を有するフクダ日比屋了珪(生没不詳)なる一市民の心を動かし給うた。彼は伴天連がもし同所(堺)に来るならば、自分の邸に泊まってもらいたいと考えて、伴天連を知っていた日向殿(三好日向守長逸)という貴人に宛てて、もし(伴天連)が堺に来ることがあれば拙宅に住まわれるよう説得してほしいと書き送った。」17)(p140)
 1561年(永禄4年)8月、「(司祭)が都から18里距たった堺に来た時に、日比屋了珪はその来訪を非常に喜び、あとう限り歓待した。そして彼がそこで我らの聖なる信仰について説き始めたところ、新奇なことであったので数名の者が説教を聞きに訪れた。これらの人の中には幾人かの学識ある人々もおり、彼らはいくつかの論拠から、いかなる結論を出すべきかを洞察したが、当時それを実行しはしなかった。なぜならば、同市(堺)の住民の自尊心と不遜なことは非常なもので、彼らは貪欲、暴利、奢侈、逸楽をほしいままにしており、加うるに悪魔は滑稽さと奸計によって、キリシタンになることは彼らにとり堕落を意味し、恥辱であると思い込ませていたからである。そのために多くの者は、同国人からのそうした辱めを恐れ、真理を認めながら受け入れず、大勢の人々が司祭に対して、世間の思惑や評判が、自分たちがデウスの教えの心理に従うことを躊躇させるのだと告白した。
 それにもかかわらず、了珪の数人の子どもと親族たちがキリシタンとなり、それから2年後(1563年)には(了珪)も洗礼を受け、自らの生活および行為によって人々を大いに感化し、つねに当市のキリシタンの柱石となり生活の亀鑑であった。そして堺にはまだ我々の同僚たちの家がなく、司祭(ヴィレラ)たちがキリシタンの世話をしたり、布教のために他の用件を片付けようとしてその地に赴いた十八ヶ年以上もの間、彼の家は昼夜とも教会の役目を果たし、彼のものであった二階を司祭たちは居室とし、そこでミサを献げ、告白を聴き、キリシタンたちに他の秘跡を授けたりした。」17)(p140)
 「都や堺の人々は、現地の人の中からキリシタンになる者は少なかったが、他の国から(そこへ)来る人々の(中)で、(キリシタンの教え)を聴いて洗礼を受ける者は、いつも後を断たなかった。」20)(p11)

 

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キリシタン受容の構図-河内国の受容-定着

2021-02-25 00:03:13 | 茶の湯

十六世紀 茶の湯におけるキリシタン受容の構図

前田秀一 プロフィール

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2)三好政権配下、河内国の武将たちのキリシタン受容 -定着

(1)三好政権の国づくり

 三好長慶は、越水城(1539年)、そして芥川山城(1553年)に本拠地を置き摂津を本国として畿内に勢力を拡大させてきた。近江・朽木に逃れていた将軍・足利義輝との和睦を進め、都方面の戦争を終結に向かわせる一方、河内・大和方面へ進出するために河内の守護大名・畠山氏との戦いが本格してきた永禄3年(1560)に居城を河内・飯盛山城に移し、岡山(結城ジョアン)、三箇(三箇頼照)、多聞山(松永久秀)、砂(結城左衛門尉)、沢(高山重房)の地に配下を集め、最盛期には約四万人以上と言われたキリシタンを擁する大地域を形成し新たな政治拠点とした19)(p84)。
 一連の戦いの中で三好政成(三個城城主、1562年没)や三好義賢(實休、阿波三好家、1562年没)など一族の有力者を失ったが、畠山氏の勢力が瓦解し三好長慶の軍門に下って、永禄5年(1562)6月には畿内を制覇(三好政権:1549~1567年)した。 戦いの後、四弟・十河一存(1561年)、嫡男・三好義興(1563年)および三弟・安宅冬康(1564年)を相次いで失い、三好長慶は覇気をなくし永禄7年(1564)8月10日に飯盛山城で病死した。
 その後、三好長慶の娘婿で三好家の家宰・松永弾正久秀(霜台)が台頭し、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と共に政権を支配した。
 「当時天下の最高統治権を掌握し、専制的に支配していたのは松永霜台(久秀)であった。すなわち、彼はその点、偉大にして稀有の天稟の才能の持ち主であった。彼は完全に自らに服従せしめていた大和の国の、奈良の市街に近い多聞山という立派な一城に住んでいた。そして五畿内においては、彼が命じたこと以外は何もなされぬ様であったから、位階や門閥においては彼を凌駕する多くの高貴な人たちが彼に奉仕していた。
その人たちの中に結城山城殿(結城山城守進斎忠正)という一老人もいた。彼は学問および交霊術において著名であり、偉大な剣術家で、書状をしたためたり添削することにかけて有能であり、日本の学問(の程度)に応じた天文学にはなはだ通暁していた。彼には、かくも多くの稀有の才能が集まっていたので、彼は天下のもっとも高貴な人々から非常に敬われ、松永霜台は彼に幾多の好意を示していた。」17)(p159)

(2)飯盛山、岡山、三箇、砂、多聞山、沢地域の受容

 永禄6年(1563)6月27日、結城山城守からの要請に応じて「司祭(ヴィレラ)は遅滞することなく、さっそく大和に向かって出発し、結城進斎を訪れたところ、彼はその来訪を大いに喜んだ。(司祭)がしばらく(結城殿)および(清原)外記殿(清原枝賢)と語らった後、ある宿に落ち着いたところ、そこへおびただしい聴衆が参集した。それらの人すべてに全く満足のいく説教が行われ、ほとんど全員が聴聞したことに理解を示した。・・・しかし結城殿と外記殿は、もう一度特に説教を聞き、聴聞した最高至上の教えに全く満足し、両人は聖なる洗礼を受けるに至った。
 沢城主・高山厨書(重房)殿という別の貴人はこれを聞き、自らは(松永)霜台の使命を帯びて、ある他の地方へ急ぎ派遣されたにもかかわらず、出発したように見せかけ、奈良市内の一軒の家に二日二晩隠れ留まって、日夜絶えずデウスのことを聴聞した。彼はそれに異常なばかり感銘し、直ちにそこで聖なる洗礼を受け、ダリオの(教)名を授かった。彼は、都近隣の全ての地方、諸国におけるもっとも優れたキリシタンの一人であり、その言行によってだれからも常に確認されたところであるが、(日本)の初代教会の強固な柱石となった。
 司祭は松永霜台のところへも訪ねて行った。(霜台)はいとも鄭重慇懃に彼を迎え、時間に余裕があれば説教を聞くのだが、用務に妨げられて(果し得ない)と言った。しかし(霜台)は、全(宗派の)内でもっとも頑迷固陋な法華宗に属しており、仏僧たちの大の友人であったから、すでにそれまでも司祭ならびにデウスのことにははなはだしい悪意を抱いていたが、(司祭)に対していっそう激しく顕著な反感を示したことは、彼のその後の行いが物語るとおりであった。」17)(p170~171)
 「これら二人(結城山城守進斎忠正と清原枝賢)の大身をキリシタンに導き給うたデウスの御摂理は偉大であった。すなわち、それは都において、聖なる福音について(従来とは)異なった見解を生ぜしめるのに大いに寄与したのみならず、彼らの模範に倣う者が現れ、身分の高い武士や、高位、高官の人たちがキリシタンになり始めた。
 飯盛山城の近く砂の寺内というところに邸を持っていた結城山城殿の長男は、既述のように同じく奈良で父と共に洗礼を受け、結城アンタン左衛門尉殿と称し、当時天下のもっとも著名な支配者の一人であった三好殿(三好長慶)につかえていた。」17)(p175)
 「三好殿幕下の七十三名の貴人たちはまったく納得して、すぐにもキリシタンになることを決心するに至った。その中には、三人の首領ならびに重立った人たちがいた。重立った人たちの一人は三ヶ伯耆殿、二人目は池田丹後殿、三人目は三木判太夫殿であった。」17)(p178)
 「その国(河内の国)の、特に三つの地方には、堅固で、よく整ったキリシタン集団が存在していた。その第一は、岡山で、結城ジョアン殿が、その城の主君でもあった。第二の場所は三ヶ(さんが)である。初期に当国で改修が行われた(時の)代表的な一地(域)であり、それはこの地の領主である三ヶ(頼照)殿の努力に負うところであったから、オルガンチーノ師は当然(のこととして)この地では多数(二千ないし三千名)をキリシタンにすることができた。第三の(場所)は、若江と称されるところで、そこには飯盛山城で最初に(キリシタンに)なった人々の内の多くの貴人たちが住んでいた。彼らは(元来)河内の国主、三好殿(三好長慶、三好義継)の家臣であった。(しかるに)信長は、この三好(殿)を殺害せしめ(1573年12月10日)たので、池田丹後シメアン殿がこれらの家臣の頭になった。」20)(p8)

 

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