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キリシタン受容の構図-織田信長の受容-飛躍

2021-02-25 00:02:34 | 茶の湯

十六世紀 茶の湯におけるキリシタン受容の構図

前田秀一 プロフィール


<本論要旨>は こちらから

3)織田信長のキリシタン受容 -飛躍

(1)織田信長の宗教観

 「彼(織田信長)は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏の一切の礼拝、尊崇、ならびにあらゆる異教徒的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは、当初法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大にすべての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。
 彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることの指図に非常に良心的で、対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賎の者とも親しく話をした。彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りであり、目前で(身分の)高い者も低い者も裸体で相撲をとらせることをはなはだ好んだ。何びとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった。彼は少し憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当たってははなはだ大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した。
 彼(織田信長)の父が尾張で瀕死になった時、彼は父の生命について祈祷することを仏僧らに願い、父が病気から回復するかどうか訊ねた。彼ら(仏僧ら)は彼(父)が回復するであろうと保証した。しかるに彼(父)は数日後に世を去った。そこで信長は仏僧らをある寺院に監禁し、外から戸を締め、貴僧らは父の健康について虚偽を申し立てたから、今や自らの生命につきさらに念を入れて偶像に祈るがよい、と言いそして彼らを外から包囲した後、彼らのうち数人を射殺せしめた。」18)(p103)
 「今まで彼(織田信長)は神や仏に一片の信心すら持ち合わせていないばかりか、仏僧らの苛酷な敵であり、迫害者をもって任じ、その治世中、多数の重立った寺院を破壊し、大勢の仏僧を殺戮し、なお毎日多くの酷い仕打ちを加え、彼らに接することを欲せずに迫害を続けるので、そのすべての宗派の者どもは意気消沈していた。ある意味で、デウスはその聖なる教えの道を開くために彼(織田信長)をそれと気づくことなく選び給もうたようである。」20)(p11)

(2)織田信長のキリシタンへの関心

 永禄12年(1569)3月13日、高槻城主・和田惟政の尽力でルイス・フロイス(日本滞在:1563~1597年没)は織田信長に接見を許され、織田信長と問答した。
 「彼(織田信長)は、伴天連はいかなる動機から、かくも遠隔の国から日本に渡って来たのかと訊ねた。司祭(ルイス・フロイス)は、日本にこの救いの道を教えることにより、世界の創造主で人類の救い主なるデウスの御旨に添いたいという望みのほか、司祭たちにはなんの考えもなく、なんらの現世的な利益(を求めること)なくこれを行おうとするのみであり、この理由から、我らは困苦を喜んで引き受け、長い航海に伴ういとも大いなる恐るべき危険に身をゆだねるのである、と返事した。」18)(p153)
 「さらに、司祭は、自分が都に自由に滞在してもよいとの殿の允許状を賜りたい。それは(殿が)目下、私に示すことができる最大の恩恵のひとつであり、それにより、殿の偉大さの評判は、インドやヨーロッパのキリスト教世界のような、殿をまだ知らない諸国にも拡がることであろう、と恩寵を乞うた。これらの言葉に(接し)、彼(織田信長)は嬉しそうな顔付をした。」18)(p155)

「御朱印 すなわち信長の允許状
 伴天連が都に居住するについては、彼に自由を与え、他の当国人が義務として行うべきいっさいのことを免除す。我が領する諸国においては、その欲するところに滞在することを許可し、これにつき妨害を受くることなからしむべし。もし不法に彼を苦しめる者あらば、これに対し断乎処罰すべし。
    永禄十二年四月八日(1569年4月27日)、(これを)したたむ

 その下には、『真の教えの道と称する礼拝堂にいるキリシタン宗門の伴天連宛』とあった。さらに信長公は公方(足利義輝)様に対し、自分はすでに朱印を伴天連に授けたから、とのも制札なる允許状を彼に授与されるがよい、と言わしめた。そして和田殿が成した良き執成しにより、これはさっそく交付されたが、その訳分は次のとおりである。

公方様の制札
 伴天連が、その都の住居、また彼が居住することを欲する他のいずれかの諸国、もしくは場所では、予は他の者が負うているいっさいの義務、および(兵士を)宿営(せしめる)負担から彼を免除する。しこうして彼を苦しめんとする悪人あらば、そのなしたることに対し処罰される(べし)。
    永禄十二年四月十五日(1569年5月1日)、(これを)したたむ。

 これらの允許状に捺印された後、和田殿はただちにそれらを司祭の許に届け、爾後彼がこれについてどうすべきかを忠告した。」18)(p159)

(3)安土セミナリオ(神学校)建設
 「オルガンチーノ師は、信長が異常な満悦をもって宮殿の建築を自慢し、身分ある武将たちが彼に迎合するために、安土の新しい市(まち)に豪華な邸宅を造りたがっていることがいかに信長の意向に添ものであるかを知っていたので、(同地で)適当な場所を入手することを切望していた。なぜなら同所には、日本中の重立った武将たちが居住しており、信長を訪問し、彼と種々の用件を談合するために各地から参集する身分ある武士や使節が後を絶たなかったので、短期間にデウスの教えを知らしめ弘布するのに、またイエズス会が日本の遠隔の地方にも知られるために絶好の地と思われたからである。なおこれ以外に、信長の居城とその政庁を構成する多数の名だたる武将の間に住まうことによって、(イエズス)会が信用と名誉を獲得し、威信を高めることになる(と思われた)。」20)(p12)
 「信長には、そこが伴天連たちに便利であり適した場所であると思われたので、直ちにそれを与えることに決めた。オルガンチーノ師は、聖霊の祝日〔1580年5月22日(天正8年4月9日)〕にその土地を深い喜びのうちに受理し、それが我らの宗教とキリスト教の信仰を高揚するのに最も適した道であることを疑わなかったので、司祭もすべてのキリシタンも、それをデウスの偉大な恩恵として受けたのであった。
 なかでもこの事業で示された(高山)ジュスト右近殿の働きぶりは特に際立っており、彼は四日の道のりにある(摂)津の国から、彼の領民を呼び、その支出を(我らが)負担することを断わって(彼らをして)仕事に従事せしめた。
 このように事業はきわめて熱心に開始され、キリシタンたちの目覚ましい援助により、わずかの間に信長の宮殿を除いては、安土においてもっとも美しく気品のある邸のひとつとして完成した(1581年7月)。
 織田信長の配慮で実現した安土セミナリオでは、アレッサンドロ・ヴァリニャーノの「法令指針」20)(p22)に基づき、「階下に外部の人を宿泊させるために、はなはだ高価で見事に造られた茶の湯の場所を備え、きわめて便利で、清潔な良質の木材を使用した座敷が造られた。」20)(p15)

 

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キリシタン受容の構図-「茶の湯」文化の発見

2021-02-25 00:02:00 | 茶の湯

十六世紀 茶の湯におけるキリシタン受容の構図

前田秀一 プロフィール


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3.キリシタンの「茶の湯」文化の発見

1)ルイス・デ・アルメイダの見聞報告

 1565年1月1日(永禄7年11月29日)、司祭ルイス・フロイスは修道士ルイス・デ・アルメイダ(日本滞在:1552~1583年没)とともに豊後を発ち、約40日を費やして1565年1月27日(永禄7年12月25日)に堺の港に着き日比屋了珪の歓待を受けた。途中、厳しい寒さを耐え忍んで来たので二人とも病気になっていた。フロイスは、司祭ガスパル・ヴィレラに会うために翌日都へ向かったが、アルメイダは、健康を害していたことと堺でなさねばならない用件があったので、堺に留まり了珪の家で保養することにした17)(p216)。
 アルメイダは、25日間にわたる日比屋了珪およびその家族の手厚い看護で健康を回復し、当時、河内国・飯盛山城にいる司祭ガスパル・ヴィレラを訪問しようと日比屋了珪にその旨伝えると、日本の慣習に従い別離に際して示す親愛の情の証として宝物を見せてくれた17)(p268)。
 「それらは、彼らがある粉末にした草を飲むために用いるすべての茶椀と(それに)必要とする道具です。それは茶と呼ばれ(飲み)慣れた人には味が良いばかりでなく、健康増進にも(役立ち)ます。ところでその所作に用いられるすべての品は、日本の宝物であって、我ら(ヨーロッパ人)が指輪、宝石、非常に高価な首飾り、真珠、ルビー、ダイヤモンドを所持しているようなもので、それらの器や価値に精通しており、売買の際に仲介役となる宝石商(のような人)がいます。・・・・(その茶会に)人を招き、そこで上記の道具を見せるために、彼らはまず各人の力に応じて饗宴を催します。これが行われる場所は、この儀式のためにのみ入る特定の室でその清潔さ、造作、秩序(整然としていること)を見ては驚嘆に価します。
 (さて)私は(ディオゴ了珪)の居間の側面から導かれました。そこにはちょうど一人(だけ)が具合よく入れるくらいの大きさの小さい戸口があります。そこから私は真直ぐな狭い廊下を通り、杉材の階段を上りましたが、その(階段)は、まるでそこに人が足を踏み入れるのは初めての事かと思われるほどの印象を与え、あまりにも完璧な造作で、私はそれを筆で言い尽くしえません。
 部屋の片隅には彼らの習わしによって一種の戸棚があり、そのすぐ傍には周囲が一ヴァラ(1.1メートル)の黒い粘土でできた炉がありました。それは真黒の粘土製であるのに、あたかも黒玉のようにきわめて澄んだ鏡に似た非常な輝きを帯びているので不思議(に思える品)でした。その上には感じのよい形の鉄釜が、非常に優雅な三脚(五徳)にかかっていました。灼熱した炭火がおかれている灰は、挽いて美しく篩った卵の殻でできているように思われました。
 すべては清潔できちんと整っており、言語に絶するものがあります。そしてそれを不思議とするに足りないことで、この時(人々は)それ以外のことに注意を注ぐ(余地は決して)ないからであります。その炭は、一般に使用されるものではなくて、非常に遠方から運ばれてきたもので、手鋸で(巧みに)小さく挽いて、消えたり燻ったりすることもなく、わずかな時間で熾となり、火を長らく保たせるのです。
 私たちがきわめて清潔な敷物である優美な畳の上に座りますと、食事が運ばれ始めました。日本は美味(の物産)が乏しい国ですから、私は(差し出された)食物を称賛しませんが、その(席での)給仕、秩序、清潔、什器は絶賛に値します。そして私は日本で行われる以上に清潔で秩序整然とした宴席を開くことはあり得ないと信じて疑いません。と申しますのは、大勢の人が食事をしていても、奉仕している人々からただの一言さえ漏れ聞こえないのであって、万事がいとも整然と行われるのは驚くべきであります。
 食事が終わってから、私たち一同は跪いて我らの主なるデウスに感謝いたしました。こう(すること)は、日本のキリシタンたちのよい習慣だからです。(ついで)ディオゴ(了珪)は手ずから私たちに茶を供しました。それは既述のように(草の)粉末で、一つの陶器の中で熱湯に入れたものです。
 ついで彼は同所に所持する幾多の宝物を私に見せましたが、なかんずく三脚がありました。それは周囲が1パルも少々の(大きさの)もので、釜の蓋を取る時にふたを置くものです。私はそれを手にとってみました。それは鉄製で、年代を経ているためにいろいろの個所がすでにひどく損傷し、二ヶ所は古くなって罅が入りそれを再び接合してありました。彼が語るところによれば、それは日本中でもっとも高価な三脚のひとつで、非常に著名であり、自分は1,030クルザ―ドで購入したが、明らかにそれ以上に評価しているとのことでした。
 彼(了珪)は私に、この他にも高価な品を所蔵していますが、容易に取り出しにくい場所に(しまって)あるので、今はお目にかけられません。しかし御身らが(堺に)帰って来られた際にはそれらをお見せしましょうと言った。」24)、17)(p268~271)

2)ルイス・フロイスの見聞報告

 永禄12年(1569)2月11日、足利義昭と織田信長連合軍による三好政権討伐後、堺衆が二万貫の矢銭を支払って降伏したのを受け、佐久間衛門、柴田勝家、和田惟政(1532~1571)など織田信長の家臣たちが堺の接収にやって来た。当時、高槻城主で高山ダリオ(飛騨守厨書)の主君であった和田惟政は、永禄8年(1565)5月、正親町天皇の伴天連京都追放令により堺へ避難していたフロイスを都に連れ戻し、織田信長に謁見させる計画を立て、あれこれその根回しを行ってフロイスを都へ案内する段取りを進めた18)(p137~139)。
 「信長が都にいたこの頃、三河国主(徳川家康)の伯父(水野下野守信元)で、三千の兵(を率いる)武将である人が、(都にある)我らの教会を宿舎としていた。それゆえ司祭(フロイス)はそこに入ることができなかった。かくて司祭はソーイ・アンタンと言い、非常に名望ある年老いたキリシタンの家を宿とし、そこに百二十日間滞在した。
 (アンタン)は都で改宗した最初の人たちの一人であった。司祭は、彼およびその息子達から大いなる愛情と心遣いをもって遇せられたが、(アンタン)は司祭に一層自分が満足し喜んでいることを示そうとして、(司祭)を茶の湯の室に泊まらせた。(茶室)はその場が清浄(であるために)人々に地上の安らぎ(を与える)ので、キリシタンたちも、異教徒たちも(その場を)大いに尊重しているのである。司祭はそこでミサ聖祭を捧げ、キリシタンたちはそこに集まった。」18)(p142)

3)巡察師・アレッサンドロ・ヴァリニャーノ「礼法指針」

 巡察師として日本の政教事情を視察し、布教発展指導の任務を負ってアレッサンドロ・ヴァリニャーノが、1579年7月25日肥前・口之津(島原半島)に上陸来日した22)(P254)。
 当時、日本の教会は極めて憂慮すべき事態に置かれていた。その主たる原因は、第3代布教長フランシス・カブラルの偏狭な日本観と、それに基づく誤った布教方針にあった。ヴァリニャーノはその実態把握と日本への布教方針の徹底のため宣教師の報告システムを改定(「日本年報」制度の導入)し、「日本布教長内規」を策定した。日本の布教区を都、豊後(大友領)、下(シモ:豊後を除く九州)に分かち、将来、日本人聖職者の育成を目指して神学校(セミナリオ)、学院、修練院等の教育機関の設立を目指した。日本への布教方針ほか諸件で見解を異にしたため、ヴァリニャーノは総長宛にカブラルの解任を上申した。 
 ヴァリニャーノは、1579年9月8日に口之津を出発して、豊後領府内(大分)に到着した。滞在中に日本人に対する独自のキリスト教教義書「日本のカテキズモ」を作成し、12月24日に臼杵に新設された修練院の開院式で修練士に講義した。
 1581年3月8日(天正9年2月4日)、ヴァリニャーノは五畿内巡察を目的としてルイス・フロイス等を伴って府内を出発し、3月17日(天正9年2月13日)堺に上陸した。堺では、すでに布教拠点となっていた日比屋了珪にもてなされたのを初め、河内、高槻、都、安土で歓迎を受けた20)(p94)。
 3月29日、本能寺で織田信長に拝謁し、4月1日には馬揃えの式典に招待され、その後も安土で並々なら歓待を受けた。4月中旬から5月末まで河内国および摂津国・高槻城など五畿内を巡察し、その後、安土にて巡察結果を踏まえ「日本の風習と形儀に関する注意と助言」と題する在日イエズス会員の礼法指針を著した22)(p256)。同書の第七章には、日本でイエズス会員が修道院や教会を建築する際の心得が述べられ、「日本の大工により日本風に建築されるべきであること、階下には縁側がついた二室からなる座敷を設け、そのうち一室は茶室にあてるがよい」と記した。20)(p22)。
 茶の湯については、日本人の新奇な風習として書かれた。
 「日本では一般に茶と称する草の粉末と湯とで作る一種の飲み物が用いられている。彼らの間では、はなはだ重視され、領主たちはことごとく、その屋敷の中にこの飲み物を作る特別の場所をもっている。日本では熱い水は湯、この草は茶と呼ばれるので、この為指定された場所を茶の湯と称する。日本では最も尊重されるから、身分の高い領主たちは、この不味い飲み物の作り方を特に習っており、客に対し愛情と歓待を示すために、しばしば自らこの飲み物を作る。
 茶の湯を重んずる故にそれに用いる或る容器も大いに珍重される。その主要なものは、彼らが鑵子と称している鋳造の鉄釜と、上述の飲み物を作る時にその鉄釜の蓋を置くのに用いるだけの、ごく小さい鉄の五徳蓋置である。その他に、この茶を飲ませる一種の陶器の茶碗、及びその茶を保存する容器。その内のあるものは非常に大きくて、その草を一年中保存するのに用いられる。さらにその草を粉末に碾いた後入れておく小さい(棗)がある。すべてこれらの容器は、ある特別なものである場合に-それは日本人にしか解らない-いかにしても信じられないほど彼らの間で珍重される。」22)(p23)
 ヴァリニャーノは、日本では茶の湯が身分の高い領主たちに最も尊敬され、客に対する愛情と歓待を示す作法であることを知り、領主たちが自ら茶を点てるために茶の湯を習っていることに注目した。内容的には、「茶と称する草の粉末」という表現と名物として「鉄の五徳蓋置」を挙げている点では、日比屋了珪の茶室での体験を報告したアルメイダの報告と同じである。
 日本からヨーロッパに茶が輸出されたのが1609年、平戸からオランダ船に積み込まれ、バタビアを経て1610年アムステルダムへ運ばれたのが初めてであった25)(p155)。従って、ヨーロッパ人として茶葉についての概念がなかったのもやむを得ない。
 ジョアン・ロドリーゲスは、1622年10月31日付マカオ発総長宛書簡3)(p40)で『日本教会史』を著したことに言及し、その中で茶の湯について触れた章で茶葉の認識を示した。
「その(茶道具の)中でも、茶を葉のままで保存するために使う大きな壺が正当につけられた高値を保っているのはなぜかというに、それが稀にしかなく、数が限られているほかに、茶の葉を保存する特殊な性質を有しているからである。」と、茶の湯をより正確に理解して記述している3)(p600)。

 

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キリシタン受容の構図-高山右近の生きざま

2021-02-25 00:01:18 | 茶の湯

十六世紀 茶の湯におけるキリシタン受容の構図

前田秀一 プロフィール


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4.利休七哲 キリシタン大名・高山右近の生きざま

1)高槻城主・高山右近の誕生とキリスト教教理の再教育

 高山右近(幼名・彦五郎)は、天文21年(1552)高山友照(飛騨守、 ~1595))の嫡男とし摂津国・三島郡高山庄に生まれた。父・高山友照が奈良で琶法師だったイエズス会の修道士・ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、永禄7年(1564)6月洗礼を受けると同時に、当時の居城だった大和国宇陀郡の沢城で家族と家臣150名とともに洗礼を受けた。洗礼名は、父がダリオ、右近はジュストを授けられた。右近12歳の時だった17)(p186)
 永禄7年(1564)7月4日、三好長慶が河内国・飯盛山城で没すると、内紛などから三好政権は急速に衰退し、永禄11年(1568)9月、足利義昭(後の第15代将軍)を奉じて上洛した織田信長は、足利義昭の直臣・和田惟政を高槻城主に、自領を有する伊丹忠親(1552~1600年)と池田勝正(1539~1578年)の実効支配を追認し摂津・3守護体制を敷いた。高山父子は本来の所領地・摂津に帰り和田惟政に仕えた。元亀2年(1571年)8月28日、白井河原の戦い(茨木)で和田惟政が荒木村重に討たれると和田惟政の嫡子・和田惟長(1551~1573年)が高槻城の城主となった。
 「その城には、同地でもっとも賢明で、戦の事にきわめて経験を積んだ人の一人である高山ダリオ殿と、その息子ジュスト右近殿がいた。(右近殿)は、大いに卓越した個性の持ち主であり、その父同様に勇敢な兵士であり、若輩にもかかわらず、その輝かしい行為、ならびに勇敢な精神によって、大いに天下に勇名をとどろかせていた。それがため、彼もまた、(若い)和田殿の忠告者であり、ジュストは、良き兵士たちの頭であり、(和田)の貴人でもあった。そのおのおのにはそうした稀に見る(優れた)特徴があったために、和田殿の息子の側近者とか、数名の家人、または同郷の知人たちは(高山父子)に対して激しい憎悪を抱いていた。」18)(p275)
 元亀4年(1573)4月、「和田惟長は反高山側の家臣とともに高山右近を襲い右近自身は生死に関わる重傷を負ったが、高山の家臣たちの助けを得て和田惟長に重傷を負わせ死に至らしめた。この事件後、高山右近は荒木村重の支配下に入り、荒木村重が既に織田信長から摂津の支配権を得ていたので、この事件が問題にされることはなく、高山右近は高槻城主となり、芥川山城は廃城となった。」18)(p278)
 天正2年(1574)8月、「(日本布教長)フランシスコ・カブラル師(1529~1609年)は、都から豊後に戻るに先だって、都からルイス・フロイス師、ならびに、ロレンソとジョアン・デ・トルレス(両)日本人修道士を伴い、数日高槻城に滞在した。すなわち、(カブラル師)は、その地の城主(高槻城主)であり、かの諸城の領主であるジュスト右近殿に、改めて(キリシタンの)教理の説教を聞かせたく思ったからである。というのは、(右近殿)は幼少時にキリシタンとなったから、デウスのことについては、両親の信仰を(信仰として)生きているという以外何も知らなかったからである。」18)(p317)
 「ジュスト右近殿は、非常に活発で明晰な知性と、きわめて稀に見る天賦の才を有する若者(22歳)であった。今や彼は、異教徒に対してなされた教理説教や、一同から提出された疑問に対する(司祭たちの)答弁を絶えず傾聴したので、彼はデウスのことどもを好むことにおいても、またそれらを認識することにおいても、実に顕著な進歩を遂げ、その後は卓抜な説教者となり、またその大いなる得操によって都地方の全キリシタンの柱となるに至った。また彼はいとも多才、かつ能弁であったので、彼がデウスのことどもを語る際には、それを聴く者はすべて、家臣たちも見知らぬ異教徒たちもそれがため驚嘆したほどであった。」18)(p319)
 高山右近の信仰の決意は固く偶像崇拝に対する態度は徹底していた。その姿勢は天正10年(1582)10月15日大徳寺で行われた織田信長の葬儀参列の際に周知された。21)(p344)。
 「関白が(織田)信長の葬儀を営んだ折、(右近)が明らかに示したところであった。葬儀の場所に柩が搬入され、仏像の前に安置された時、そこには細かく刻んだ香を添えて香炉が置かれていた。(参列者)全員は、異教徒の習慣に従い、信長を主君として認める印として、おのおの仏を拝み、香をそれ(香炉)に投ずるのであった。
 同所には夥しい数の日本の武将たちが列席しており、(たまたま)右近は関白の近くに侍ることになった。関白が最初に儀式を済ませ、ついで武将全員に同じようにすることが命ぜられた。そのために右近はきわめて苦しい立場に立たされることになった。なぜならば偶像の前で行われるこの儀式に加われば、明らかに偶像を崇拝することになるし、それに与からなければ与からぬで、領地(のみか)おそらくは生命すら失うことになるからであった。
 彼は、こうした事態にあって、不撓不屈の勇気をもって、(その)儀式を行わぬことを決めた。そしてその理由を問われたならば、予はキリシタンであり、そのような忌むべき偶像崇拝は致しかねる、と答えるつもりであった。そしてそのために関白が領地を召し上げ、または死罪を命ずるならば、デウスへの愛ゆえに、それらをすべて甘受する覚悟であった。各人が儀式を行うために立ち上がって行き、彼だけが関白と並んで留まっていたにもかかわらず、我らの主なるデウスは、それについてだれも話さぬよう取り計らい給うた。それは、(彼らが)気付かなかったためなのか、あるいは彼はキリシタンであるから、そうしたことを行わぬことを知っていたためか(判らない)。右近殿は、こうしたデウスの聖なる執成しに、この上なく強化され、爾後はいかなる事態が起ころうとも、真のキリシタンであることを表明しようと、ますます鞏固な決意を固めるに至った。」
 高山右近は、しばしば、隠遁の境遇を求めたいと願ったが、領主の身分を維持してキリシタンの支柱となり五畿内のキリシタン宗団を守り通してゆく責任感を強くし、信仰がより堅くなるよう教育し、激励する立場が必要と考え率先した21)(p345)。

2)高山右近の茶の湯

 『天王寺屋會記』の記録から、織田信長は、政治的に重要な支配拠点とする摂津国主・荒木村重(有岡城主)に続いて、荒木村重の家臣・高槻城主・高山右近に茶の湯を許していた。高山右近は、荒木村重に茶の湯の手ほどきを受け、天正5年(1577)12月6日晩に千宗易と津田宗及に紹介された8)(p270)。
 高山右近は、利休の弟子として七人衆(利休七哲:蒲生氏郷(1556~1595)、高山右近、細川忠興(1563~1546)、芝山監物、瀬田掃部(1547~1595)、牧村長兵衛、古田織部)に数えられ、蒲生氏郷に次いで2番目に位置づけられていた4)。
 茶の仲間内でもよくデウスの話をし、特に蒲生氏郷と親しく説得を繰り返したため、ある時には快く思われず避けられる時もあったが、彼らは熱心に説教を聴くようになり、天正12年(1584)には牧村長兵衛が、翌天正13年(1585)には小西行長(アゴスチノ)、ついで蒲生氏郷(レオン)、黒田官兵衛(メシアン)、播磨国・三木城主が洗礼を受けた21)(p123、187)。
 高山右近の茶の湯には、興味ある逸話が伝えられている。「織田有楽(1547~1622)が、ある時の会でいろいろの四方山噺の末たまたま高山右近の話が出たので、高山右近の茶の湯には大病がある。所作も思い入れもよいが、清の病があって、真に清いことを知らない。路地のほとりは言うに及ばず、方々脇々の縁の下まで掃き清めて、掃除に際限もない。その世話の焼くこと、沙汰にきくさへ、いきどしく覚える。今の世にはこの高山の類病多し、といったといふのである。この話は古今茶話にも載っているが、清の病というのは、利休の言う『綺麗でさへいけない』とする、侘びの境地にまだ到達せぬことを言ったもので、この織田有楽の右近の潔癖を揶揄した短評は、非常に謹直な性質でキリシタンの十戒を恪守し、模範的な信者であったとする教会側の所述と思ひ合わせて、よく右近の人となりを語って、肯綮を得たものだとおもへる。」23)(p95)
 天正14年(1586)10月、高山右近はオルガンチーノ師から堺のキリシタンの柱と敬われていた日比屋了珪が身内のなかで起こった殺人事件により、かねがね堺において騒動を起こすものがあれば重罪とし、死罪に処し、家財を没収すると命じた関白秀吉の禁令に触れたため追い詰められている事実を知らされた。万策尽きてその救出策を相談された時、「たまたま(高山)ジュスト右近殿は、関白とその茶の湯の師匠宗易(千利休)を自邸に招(く機会)があった。この宗易は異教徒だがジュスト(右近)の親友であったので、両名は席上、かの無実の者たちのことで関白と話してみようと機会を窺った。そして(話題がその件に及び、彼らが)関白を(言葉をもって)ひどく追い詰めると、(関白)は、その話は止めろよ、その件についてはもう触れるな、と言うに至った。」21)(p239)
 関白秀吉は、関白夫人やその他多くの貴人たちからの嘆願にもかかわらず、財産や家屋の没収を免除する代わりに日比屋了珪や親族を破滅させるほど莫大な年貢を課した21)(p248)。
 「五畿内のキリシタンたちは、今回の事件により互いに大いなる愛情、また、深い信頼と多くの教化的規範を示しあうこととなった。大勢の人たちが援助に馳せ参じ、富める者は、ジュスト右近殿や(小西)アゴスチイノ弥九郎どのその他のキリシタン(武将)たちと同様に多くの喜捨を行ったので、彼ら相互の間においてのみならず、その愛と熱意は異教徒たちにも影響を及ぼすこととなった。」21)(p250)その故か、日比屋了珪の後世は不詳である。
 高山右近が本格的に茶の湯に没頭としたのは、天正15年(1587)6月19日、伴天連追放令により関白秀吉に改易、追放され、キリシタン洗礼に導いた小西アゴスチノ行長に小豆島領にかくまわれた後、豊臣秀長(1540~1591)の嘆願で天正16年(1588)に関白秀吉から五畿内を除いて日本国中どこに住んでもよいと許された機会に加賀藩・前田利家(1537~1599)に引き受けられてからであった。前田家では、茶匠・南坊(南之坊)として封禄を以って迎えられ、慶長19年(1614)徳川家康(1543~1616)の伴天連国外追放令によってフィリピン(マニラ)に亡命するまでの26年間、高山右近の生涯においてもっとも茶の湯に没頭した安穏の時期であった23)(p108)。
 高山右近は、「この芸道で日本における第一人者であり、そのように厚く尊敬されていて、この道に身を投じてその目的を真実に貫く者には、数寄が道徳と隠遁のために大きな助けとなるとわかった、とよくいっていたが、我々もそれを時折彼から聞いたのである。それ故、デウスにすがるために一つの肖像をかの小家(茶室)に置いて、そこに閉じこもったが、そこでは、彼の身につけていた習慣によって、デウスにすがるために落ち着いて隠退することができると語っていた。」3)(p638)

3)伴天連追放、改易(所領・地位没収)

 天正15年6月19日(1587年7月24日)夜、博多湾外のフスタ船でフロイスとともに眠りについていたコエリェ副管区長のもとに、突然、関白秀吉から伴天連追放令が届いた。その理由は、九州に来てみて以外にキリシタンの数が多くいことに驚き、しかも彼らキリシタンは神々の国である日本の神社仏閣を破壊し、キリシタンの教理で結ばれた絆は幅広く、非常に強い。天下の支配者としてなすがままにしておいては、日本の宗教とその教えは失われてしまう。従って、商取引のためを除いては伴天連は20日以内に帰国すべし、ということであった。当時、高山右近は、千名に近い家臣を率いて島津征伐のため九州に参戦していた21)(p321)。
 それに先立って、関白は高山右近のもとに使者を派遣して「予はキリシタンの教えが、日本において身分ある武士や武将たちの間で弘まっているが、それは右近が彼らを説得していることに基づくことを承知している。予はそれを不快に思う。なぜならば、キリシタンどもの間には血を分けた兄弟以上の団結が見られ、天下に累を及ぼすに至ることが案ぜられるからである。同じく予は、右近が(先には)高槻の者を、そして今は明石の者をキリシタンとなし、寺社仏閣を破壊せしめたことを承知している。それらの所業はすべて大いなる悪事である。よって、もし今後とも、汝の(武将としての)身分に留まりたければ、ただちにキリシタンたることを断念せよ」と。
 これに対して右近は、臆することなく以下のように答えた。
 「私が殿を侮辱した覚えは全くなく、高槻の家来や明石の家臣たちをキリシタンにしたのは私の手柄である。キリシタンをやめることに関しては、たとえ全世界を与えられようとも致さぬし、自分の(霊魂の)救済と引き替えることはしない。よって私の身柄、領地については、殿が気に召すように取り計らわれたい」と。
 高山右近のあまりにも自由で断固とした返事を聞き、折から幾人かの彼ときわめて親しい異教徒の重立った人々が訪れ、これまでに培ってきた領地と地位を失うのを見るに絶えないと心を痛め、たとえ胸中はいかようにキリシタンであっても、返事を少し和らげ、せめて関白となんらかの折り合いがつくよう口上してはと、数々助言した。
 「だが右近殿は固く決意して、デウスのこと、およびその教えに関する限りは一点たりとも変えるわけには参らぬ、と彼らに言った。そして伝言を携えて来た関白の家臣たちに向っては、初めに申した返答を(関白殿に)伝えられよ、それ以外の答えを申してはならぬ、と今一度繰り返し、彼らを帰らせた。」21)(p337)
 翌早朝、高山右近は家臣や武将を呼び集め、次のように話した。
 「汝らは今日まで今度の事件の経過を眺めて来た。我が身に関する限り、予はそれをいささかも遺憾に思わぬのみか、己が信仰を表明でき、また我らの主なるデウスの名誉と栄光のために多年待ち望んでいた苦しみを味わえる機会が与えられたことを非常に喜んでいる。
 だがこの際ただ一つ気がかりなのは汝らのことである。すなわち汝らは予とともに天下の主(関白殿)に仕えようとして、いとも大いなる危険に身命を捧げて予に尽くしてくれた。汝らは(戦場において)勇気を示し、(それによって)少なからぬ名声と栄誉を獲得された。(予が遺憾に思うのは)今、それに対して報いることができぬことである。だが、予手ずから汝らに恩返しができぬ以上、予はそれを全能なるデウスの強力にして偉大な御手に委ねる(ほかはない)。なぜなら汝らはキリシタンであり、その教えをわきまえていることゆえ、デウスはこの世においては、汝らが目下の迫害のため世俗的な財にこと欠くに至らしめ(ても)、来世においては現世における苦労の報いとして無現の栄光と財宝を汝らに与え給うことであろう。
 ここに改めて(汝らに)乞い、汝らに対する愛情から篤と願いたいのは、(爾今、汝らが)勇気をもって信仰に踏み留まり、自ら範を垂れ、良きキリシタンとして生きることであり、(予はそれを)期待している。事態が(いまさら)改まる気配とてはないことだから、(予は)心ならずも、汝らが妻子や家族のため、生活の糧と保護を容易に求められるところに赴かれるがよい(と言わざるを得ない)。予の友人である天下の武将たちの中には、予に対する好意から、汝らを喜んで召抱え、自領において汝らに相応しい封禄を付与してくれる人たちは決して少なくはない(と思える)からである、と。」21)(p340)
 「彼(高山右近)はしばしば、俗世を離れ、ひたすら己が霊魂のことを考えて過せるよう、隠退し静寂な(境遇)を得たい、と述べていた。だが彼は他方、この問題を熟考すると、(領主の)身分を維持している方が、我らの主に役立つようにも思われた。けだし目下のところ、キリシタン宗団は、都地方においては、(右近)以外に人間的には保護者を有していなかったのであり、受洗した貴人たちは、まだ信仰には日も浅く馴染んでいなかったから、彼らを助け、彼らがより(信仰が)強く堅くなるよう、教育し、激励する人物が必要であった。」21)(p346)
 天正16年(1588)、高山右近は、その後、加賀藩・前田利家に引き取られ、天正18年(1590年)春の北条氏追討に際し、「主君(前田利家)とともに出陣して大いなる軍功を収めた。関白はそれを聞くに及んで満足したが、元どおり(大名の地位に)復帰させること、家臣として取りたてることもないと公言した。しかるに、関白の許である日話題が(高山)ジュスト右近殿のことに及ぶと、右近に逢い快く彼を迎えたいから(と言って)、彼に下(九州)に行くように命じ、そこで引見すると期待させた。
 そして(老関白は)名護屋に二ヶ月近く滞在した後、彼(右近)を引見し、面前に出頭することを許したが、それは日本では和解の印であり慣習に基づくやり方であった。(老)関白は彼を見ると優しく言葉をかけ、久しく汝に逢わなかったが、定めて窮乏の生活を余儀なくさせられたことであろうと言った。そしてその二日後〔文禄元年(1592)12月26日〕には、特に位が高くかつ親しい貴人以外には迎え入れることのない茶の湯(茶室)に彼を招いた。(その際)彼(関白)は(右近と)ともに羽柴筑前守殿(前田利家)ならびに諸人からきわめて尊敬されている重立った人を招待した。今では彼(右近)はどこでも自由に滞在し、(老)関白の前にも出頭し、友人にも自由に交際することができるようになった。」19)(167)

 

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茶の湯におけるキリシタン受容の構図

2021-02-25 00:00:42 | 茶の湯

十六世紀 茶の湯におけるキリシタン受容の構図

前田秀一 プロフィール

<本論要旨> こちらから

 

5.茶の湯とキリシタンの受容

 アルメイダとフロイスは、茶の湯に初めて出会った機会は異なってはいたが、特徴的なことは、共に茶室を清浄で人々に地上の安らぎを与える場であることを認めたことである。さらに、司祭の資格を有するフロイスにとっては、茶室はキリシタンを集めミサ聖祭を捧げるに足る神聖な場所であった。
 ヴァリニャーノは、今回(第1回:1579~1582年)の日本巡察滞在中に著した「日本の風習と形儀に関する注意と助言」でヨーロッパ人と日本人イエズス会員の融和、ならびに聖職者と世俗の人々との円滑な交流のための心得を説いた22)(p100~104)。
「第一に、ヨーロッパの諸条件や態度、行為によって彼らを導こうとせずに、彼らの条件なり方法によって待遇することが必要である。
第二に、進歩のために採らねばならぬ方法は、彼らが心を触れ合いたいと考えることについては、ことごとくこれを教え、説得することである。彼らは生来その性格は萎縮的で隠蔽的であるから、心を触れ合おうという気持ちを起こさせ、納得せしめることが必要である。
 第三は、日本人の風習に従うならば、彼らはただちに我らに同調し、すべてそれを行った人々の経験から知られるように、彼らは我らに愛情を抱くようになるであろう。従って、この点において欠如する危険があるとすれば、彼らの側よりは、むしろ我らの側である。すなわち、彼らはいかなることにおいても、その風習を放棄しはせぬのであるから、すべて我らの方から彼らに順応せねばならず、それは日本では必要なことであり、我らは大いに努力せねばならぬからである。ある場合には、我らは天性までも変え、大いなる苦しみによってそれを成すのであるから、この統一のために必要なことを行う困難は、我らの側にあって日本人の側にではない。」
 上記のうち「第3」はヴァリニャーが日本への布教戦略として提唱した「適応主義」の核心に触れる内容であり、「風習」という表現ながら日本文化の規範として茶の湯を受容する姿勢を示した。
 高山右近は、戦国大名として主従関係にあった摂津国主・荒木村重に茶の湯の手ほどきを受け、千宗易を紹介され師事した。
 山上宗二に茶の湯は「数寄の覚悟は禅宗を全うべきなり」、「惣別、茶湯風体、禅宗よりなるにより出で、悉く学ぶ」と説かれ、フロイスに千宗易(後に、利休)は異教徒と言われ21)(p239)たが、キリシタンとして偶像崇拝を認めない高山右近は、茶の湯を禅宗の一様式としてではなく、この道に身を投じてその目的を真実に貫く者には数寄が道徳と隠遁のために大きな助けとなる芸道であると悟り精進した3)(p638)。
 すなわち、「精神を浄化し、救霊を成就する芸道」と受け止め、利休高弟七人衆(利休七哲)4)の説得に活かし牧村長兵衛、蒲生氏郷、織田有楽など高名な茶人3人を説得してキリシタンに導いた。
 高山右近が本格的に茶の湯に没頭したのは、関白秀吉が伴天連追放令を発して改易(所領、地位没収)された後、天正16年(1588)、豊臣秀長など多くの貴人からの嘆願により五畿内以外の地での行動の自由を許され、加賀藩・前田利家に茶匠・南坊(南之坊)として迎えられてからである。それは、慶長19年(1614)徳川家康が発した伴天連国外追放令によりフィリピンへ亡命するまでの約26年間であった。

 キリスト教宣教師は、日本の社会支配の重要な位置づけにある有力者が茶の湯を尊敬し、生活文化の規範としていることを発見した。日比屋了珪は、都を目指して堺の港に上陸したキリシタン宣教師に帰依し、自らも洗礼を受けてキリスト教信者となり献身的に布教活動を支え、生活文化としての茶の湯を伝える役目を果たした。
 一方、高槻城主となった高山右近は、1573年、主従関係にあった摂津国主・荒木村重から茶の湯の手ほどきを受け、千利休を紹介され師事した。1574年、日本布教長カブラルからキリスト教教理を再教育され、あらためてキリスト教に目覚め、自ら卓抜な説教者となり五畿内キリシタンの柱石となった。
キリシタンとして偶像崇拝を認めない高山右近は、禅宗の一様式としてではなく茶の湯を「精神を浄化し、救霊を成就する芸道」と受け止めた。つまり、仏教に通じる「禅」(座禅)の精神としてではなく、デウスの導きを深め、すがるための体験的な「道」としての時空間(市中の山居)と位置付けた。
 従って、高山右近は、ときおりキリシタン宣教師に「この道(キリスト教信仰)に身を投じてその目的を真実に貫く者には、数寄が道徳と隠遁のために大きな助けとなるとわかった」と言い、また、「デウスにすがるために一つの肖像をかの小屋(茶室)に置いてデウスにすがるために落ち着いて隠退することができた」(ジョアン・ロドリゲス『日本教会史』、p.638)と語り、茶の湯がキリシタンにとっても相入れ合う様式(文化)であることを伝え、日本巡察師ヴァリニャーノに「礼法指針」への茶室の折り込みを促した。
 キリシタンは、茶の湯を「禅宗」の一様式してではなく「禅」の一様式として、冒頭の山上宗二の記述に従えば「数寄の覚悟は“禅”を全と用うべきなり」、「惣別、茶湯風体、“禅”よりなるにより出で、悉く学ぶ」と受け止めていたと考察する。

 

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キリシタン受容の構図-謝辞

2021-02-25 00:00:08 | 茶の湯

十六世紀 茶の湯におけるキリシタン受容の構図

前田秀一 プロフィール

<本論要旨> こちらから

謝 辞
 大きなテーマを設定して取り組んでみたのは良かったのですが、文献調査が進むにつれて改めて浅学非才な自分自身に気づかされ反省させられました。そのような中、臨済宗大徳寺派龍興山南宗寺塔頭・天慶院(堺市)で開催された「はなやか関西~文化首都年~2011“茶の文化”」協賛行事「山上宗二忌」(平成23年4月11日)にお招きいただき、大変有意義に学ばせていただいたことが大きな励みとなりました。また、堺市立図書館の蔵書検索システムにも助けられ本稿をまとめることができました。
改めて、諸先達のご教示とご指導を仰ぎ、問題をさらに深く見極め、次なる目標設定に結びつけることができればと願っております。
 ここに至るに際して、史料として信頼性の高い茶会記録『天王寺屋會記』とイエズス会宣教師報告書を忠実に読み解くことを基本におきましたが、論の構成に当たっては関連する先学の玉書・玉論を広く学ばせていただきました。
 従いまして、先ずは、引用させていただいた文献および論の構成の基本を支えていただいた参考文献の著者の方々に厚く御礼を申し上げます。
 また、本稿に取り組むに際して、皆さまから関心と好奇心および動機づけに結びつく示唆に富んだお話を承りました。ここに、お名前を挙げて厚く御礼申し上げます。

「山上宗二忌」主宰者・(株)つぼ市製茶本舗会長 谷本陽蔵様
「山上宗二忌」事務局・堺市立泉北すえむら資料館学芸員 森村健一様
「山上宗二忌」講演講師・静岡文化芸術大学学長 熊倉功夫様
堺市立博物館学芸課長 吉田 豊様
関東学院大学大学院文学研究科後期博士課程 スムットニー祐美様

さらに、谷本陽蔵様と森村健一様には平成24年4月11日開催「山上宗二忌」に於いて本論の発表の機会を与えていただき、その際、臨済宗大徳寺派龍興山南宗寺塔頭・本源院(堺市)住職小野雲峰様から本論をまとめるにあたりよりどころとした「禅宗」と「禅」の違いについてご解説いただきご評価を賜りました。加えて、元堺市博物館館長・和歌山大学名誉教授角山 榮様と帝塚山大学非常勤講師・博士(学術)神津朝夫様には本論の視点についてご評価を賜りました。
ここに重ねて厚く御礼申し上げます。

左から 熊倉 功夫先生 角山 榮先生 神津朝夫先生 谷本陽蔵先生 小野雲峰住職

 

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キリシタン受容の構図-文献

2021-02-24 23:59:34 | 茶の湯

「十六世紀 茶の湯におけるキリシタン受容の構図

前田秀一 プロフィール

<本論要旨> こちらから 

(引用文献)
1)熊倉功夫校注2006『山上宗二記 付茶話指月集』岩波文庫 青50-1岩波書店
2)松田毅一1968『南蛮史料の発見 よみがえる信長時代』中公新書51中央公論社
3)江馬 務 佐野泰彦 土井忠生 浜口乃二雄訳1967『ジョアン・ロドリーゲス日本教会史上』
   大航海時代叢書Ⅸ 岩波書店
4)千 宗左1977「江岑夏書」千宗室編纂代表『茶道古典全集 第十巻』 淡交社 p71
5)永島福太郎1977「解題」千 宗室総監修『茶道古典全集 第七巻』 淡交社 p437~460
6)神津朝夫2007『堺衆 山上宗二』龍興山本源院・小野雲峰、一会塚発起人代表・(株)つぼ
   市製茶本舗・谷本陽蔵 p49
7)永島福太郎1977「天王寺屋會記 自会記」千宗室編纂代表『茶道古典全集 第八巻』淡交社
8)永島福太郎1977「天王寺屋會記 他会期」千宗室編纂代表『茶道古典全集 第七巻』淡交社
9)林屋辰三郎ほか七名編集代表1994『角川茶道大事典 本編』 角川書店
   p26:  武内範男「明智睦秀」      p228:  武内範男「織田信長」  
  p229:  武内範男「織田信長」       p761:  村井康彦「千 利休」
  p813:  瀧浪貞子「高山右近」      p1045:  谷 直樹「南宗寺」
  p1320:  泉 澄一「三好實休」      p1320:  泉 澄一「三好長慶」
10)天野忠幸2010『戦国期三好政権の研究』清文堂
11)堺市役所1977三浦周行監修『堺市史 第二編本編第二』 堺市役所
12)桑田忠親校注1997『太田牛一 新訂信長公記』新人物往来社
13)湯川 制監修1974『今井宗久茶湯書抜 静嘉堂文庫蔵本』 渡邊書店 p34
14)松田毅一 川崎桃太郎訳1981『フロイス日本史4 五畿内編Ⅱ』 中央公論社
15)永島福太郎編1989『天王寺屋会記五 紙背文書』淡交社 p84~85、
16)森本啓一2004「荒木村重の織田信長への謀反の期日」『村重 第4号』荒木村重研究会p22、
17)松田毅一 川崎桃太訳1978『フロイス日本史3 五畿内編Ⅰ』中央公論社
18)松田毅一 川崎桃太訳1981『フロイス日本史4 五畿内編Ⅱ』中央公論社
19)松田毅一 川崎桃太訳1977『フロイス日本史2 豊臣秀吉編Ⅱ』中央公論社
20)松田毅一 川崎桃太訳1978『フロイス日本史5 五畿内編Ⅲ』中央公論社
21)松田毅一 川崎桃太訳1977『フロイス日本史1 豊臣秀吉編Ⅰ』中央公論社
22)松田毅一 佐久間正近松洋男訳1990『ヴァリニャーノ日本巡察記』東洋文庫229平凡社p23
23)西村 貞1948『キリシタンと茶道』全国書房
24)松田毅一監訳1998『十六・七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第2巻』 同朋舎 p274
25)角山 榮2000『堺-海の都市文明 PHP新書104』PHP研究所 p155

参考文献
1.堺について
   泉 澄一1981『堺 中世自由都市 歴史新書<日本史>64』教育社
   角山 榮2000『堺-海の都市文明PHP親書104』PHP研究所
   吉田 豊1998「堺中世の会合衆と自由」『堺市博物館報17号』堺市博物館 p.2、
   森村健一2008「利休の考古学 自由都市 堺」『千利休』別冊太陽日本の心155平凡社p23、
2.茶の湯
   千 宗左 千 宗至 千 宗守監修1989『利休大事典』淡交社
   倉澤 洋2000「茶道と宗教-キリシタンの見た日本の茶湯」
           『東洋と西洋 世界観・茶道観・藝術観』東方出版社
   谷 晃2001『茶会記の研究』淡交社
   神津朝夫2005『千利休の「わび」とはなにか 角川選書378』角川学芸出版
   千 宗至監修2008『利休宗易 裏千家今日庵歴代第一巻』淡交社
3.仏教とキリスト教
   増谷文雄1968『仏教とキリスト教比較研究 筑摩叢書113』 筑摩書房
   八木誠一2000『パウロ・親鸞*イエス・禅』法蔵館
   佐藤 研2007『禅キリスト教の誕生』岩波書店
   木村典雄1963「真宗と基督教に於ける救済比較研究」龍谷大学卒業論文
4.キリシタン文化
   松田毅一1967『近世初期日本関係 南蛮史料の研究』風間書房
   河野純徳訳1994『聖フランシスコ・ザビエル全書簡3東洋文庫581』平凡社
   松田毅一監訳1997『イエズス会日本報告集 第Ⅲ期』第1巻~第7巻(1549~1587年)同朋舎
   松田毅一監訳1987『イエズス会日本報告集 第Ⅰ期』第1巻~第3巻(1589~1601年)同朋舎
   五野井隆史2002『日本キリシタン史の研究』吉川弘文館
   堺市博物館2003『南蛮-東西交流の精華』堺市博物館
   堺市みはら歴史博物館2006『南蛮との出会い-ポルトガル・スペインが残したもの』
   岡美穂子2010『商人と宣教師 南蛮貿易の世界』東京大学出版会

 

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