是々初心忘るべからず

日々思ったこと

腰が痛いんだよ。ホントだよ。

2017-08-20 17:58:44 | 日記
腰が痛い。

痛くてたまらん。

前かがみになってちょい腰をひねる動作をしたら、腰が痛くなった。
かれこれ半日痛い。

腰をさすり痛い痛いって言っているのに、ウソだとおもっているんだか、スルーしている人がいる。


歩ける。
動ける。
だからウソだとおもっているのか。


明日仕事だしなぁ。
ヤバイなぁ。

走るのはムリ。
さっき試しに走ってみたけど、ムリ。


ロキソニンの湿布を貼って休むことにする。

けど、誰かさんはホントに痛いと思ってないから、夕飯ができるのを待ってる。

私は痛い痛いと言いながら、作る。



そりゃ、どちらかというと私はウソつきな人間だけどさ。
それに痛みは主観的なものだけどさ。
他人にはわからないだろうけどさ。

痛いって言っているんだよ、私が。

多分、誰かさんがこの痛みを体感したら、寝たまま起きてこないし、もっと痛い痛い言ってると思うよ。




じいちゃんのグループホームの納涼会。
地元のお祭りを観るんだけど、お祭りの規模縮小の関係で、グループホーム前でよさこい発表を観ていた昨年と違い、何にもない道路に座ってる利用者の面々。
なんだかなぁ。
大あくびしている人が、私の腰痛をスルーしている人です。

おさるになりたい。 おさるのジョージ展

2017-08-20 11:56:44 | 日記

H.A.レイさん
マーガレットさん
このご夫婦にこんな波乱に満ちた人生のひとコマがあったとは。

戦争体験をなくしては語れないこの年代の芸術家、アーティストの半生。
戦後の明るく平和な世界を様々なかたちで表現してきた先人たちの美術、音楽、文学で、私たち戦争を知らない世代は大きくなった。
おさるのジョージを楽しんできた。

戦争はイヤだし、2度とというか死ぬまで、いや子孫たちにも体験させたくはないが、
レイ、マーガレット夫妻にもし苦難の時代かなかったら、ここまでジョージが世界中に愛されるくらい広まっただろうか。

戦争がなくても広まったに違いない。

なぜなら、作品にはその人生の辛さも苦労も投影されることなく、どこまでも明るくカラッとしている。
作品に対する情熱は、戦争などものともしない。
芸術とはそういうものなのだ。

綿密なほどのラフスケッチには、2人の情熱がほとばしっているように見えた。
こんなにもしっかりとした絵コンテ、何度もしっかりと描かれるラフスケッチ。

好きなことをしている喜びが伝わってくる。
優しさ、温かみが、半生を通して作品に生かされる。

それを感じられた展覧会に行けて、幸せだ。
原画を見る、原画を知る。
それだけで幸せになる。



見ごたえのある原画の数々は、我が子に読み聞かせをした日々を思い出させた。

当時の息子の行動パターンにそっくりなんだ。
くじけないジョージ。
懲りないジョージ。
好きだなぁ。

そう思う人が私以外にたくさんいる。
つまり、ジョージは幼子なのだ。
幼子の象徴なのだ。
黄色い帽子のおじさんをはじめジョージの周りにいる大人は社会なのだ。
社会が幼子を見守る優しい眼差しが、どこまでも優しく温かい。
そんな社会にして行かなくては…。
と、自分もかつて幼子であり、かつて幼子を育て、幼子を育てる仕事についた私はそう思う。

私自身も、おさるのジョージになりたいなぁ。
あの自由さと懲りない性格。
おかげ様で、好奇心はそこそこあるけど。笑


アニメもいいけどね。
絵本の中のジョージが、頭の中で走り回りイタズラするのも楽しいよ。
と、会場を走り回ったり、泣いたり、よく観たり、している子供たちに心の中で話しかける。

この自由で、わがままで、素直で、優しい心根で、柔軟で、スポンジのような吸収力を持つ子ども時代に、たくさんの絵本との出会いを。

たくさんのジョージのような魅力ある絵本の中の人物との出会いを願って止まない。







おさるのジョージ展は今日でおしまい。
またいつか会いたいな。
あ、絵本の中で会えるのね。

気に入った文章

2017-08-20 09:45:39 | 日記

糸井重里氏の書く文章が好きだ。
ほぼ日に毎日書かれる「今日のダーリン」は、その日1日しか読むことができない。
だから、気に入った文の時は自分で保存しておく。

気に入った、なんてエラそうだ。笑
こんな文章書けないし、視野の広さなど足元にも及ばない。
けれど、書かれた文章が時折、普段自分が考えていたことだったり感じていたことだったりして、あまりにも共感するので、そうそれが言いたかったと膝打ちしては自分が書いたかのように、気に入ってしまう。

そしてこうして、他人に知ってもらいたくなる。
私も同じように思っています、と。




糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの


中学生や高校生たちに「将来なにになりたい?」と、大人たちはよく質問する。すっきり答えられる学生ばかりじゃない。大学生だって、まだわかってない人はいくらでもいる。いやいや、社会人になって仕事をやっているはずなのに、「なにになりたいんだっけ?」と思っている人もいる。(中略)
ほんとは、なにをやったって、そいつの自由なんだしね。その職業に就くための免許みたいなものがあるなら、それを取得すればわかりやすいんだろうけれど、免許があるからって食っていけるとはかぎらない。なんか、「職業の名前」って、どうなんだろうねぇ?
(中略)

舞台を創っているスタッフも、役者さんたちも、たくさんの裏方の人たちも、みんな、「それで食えているのか?」とあらためて訊かれたら、そうは言えないかもしれない、とは思うんだよ。だけど、食えるかどうかを超えて、「これがやりたい」「これをやっている」と、堂々と言える人たちって、尊敬できるんだよなぁ。
(中略)
まるごとのじぶんのすべてを燃焼させられる時間を、ちゃんと持っているっていうことは、たいしたことだぜ。

「将来なにになりたい?」の答えは、職業名なんかじゃなくていいんだよな。どういう人間でありたいか、どういうふうに生きたいか。そっちのほうを、しっかり考えろということだよね。




最後の方がね、気に入った。



次も一番最後が気に入った。



ぼくの若いときに、なにかと流行った言い方に「独断と偏見によれば」というのがあった。なにかと客観性だとか普遍性を求められることに疲れて、「おれは、おれなりに勝手に言ってるんだから、とやかく言わないでくれないか」ということだろう。「独断と偏見だけどさ」なんて具合に、おしゃべりのなかにも、ときどき登場した。

このごろだと、「自戒をこめて」というのをよく見る。他人に文句を言いたくて、つい言ってしまうのだけれど、同じようなことをじぶんもやってるとも言えるな、というような場合に、「自戒をこめて」を添えておく。これで、「おまえもな〜」と嘲笑されることを防げる。

タクシーの運転手さんとかが、唐突に「論」を語りはじめるときなんかだと、「おれに言わせりゃ」と頭につけることが多い。これも、「私論ではありますが」という防御的な修辞だ。

「わかんないんだけど」と言ってから、滔々としゃべり続ける人もいる。内容のなかに、矛盾やでたらめが発見されたとしても、最初に「わかんないんだけど」と言ってあるから、責め立てるほうが野暮というものである、と、あらかじめ釘を刺してあるというわけだ。

いつの時代も、なにかものを言えば、唇寒し秋の風になるに決まっているわけで、たいていの人は、言われたらめんどうだなぁと考える。それでも言いたいから、言うんだろうね、人ってものは。

ものを言うというのは、ただじぶんの思いを吐き出すだけでなく、じぶんとは別の人びとが聞いている場に立つということ。だから、賛同されて悪い気はしないと感じたり、とやかく言われて気が悪くなったりもする。いつも気持ちよくのびのびしていたいと思うなら、ものを言わないほうがいい、と決めてしまうのも方法だ。しかし、なにも言わないと、また不自由な思いがするし(ぼくら、よくインターネットなんかやれてるよなぁ)。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。 あなたを好きで、話し相手になってくれる人は、貴重だよ。



「わかんないけどさ」
よく使うフレーズだなぁ。

友だちとのおしゃべりが、死ぬほど好き。
おしゃべりしてくれる人が、いかに貴重でありがたいか、実感している。




糸井重里氏のような文章が書きたいなぁ。

なんて思った、8月の日曜日。