是々初心忘るべからず

日々思ったこと

気に入った文章

2017-08-20 09:45:39 | 日記

糸井重里氏の書く文章が好きだ。
ほぼ日に毎日書かれる「今日のダーリン」は、その日1日しか読むことができない。
だから、気に入った文の時は自分で保存しておく。

気に入った、なんてエラそうだ。笑
こんな文章書けないし、視野の広さなど足元にも及ばない。
けれど、書かれた文章が時折、普段自分が考えていたことだったり感じていたことだったりして、あまりにも共感するので、そうそれが言いたかったと膝打ちしては自分が書いたかのように、気に入ってしまう。

そしてこうして、他人に知ってもらいたくなる。
私も同じように思っています、と。




糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの


中学生や高校生たちに「将来なにになりたい?」と、大人たちはよく質問する。すっきり答えられる学生ばかりじゃない。大学生だって、まだわかってない人はいくらでもいる。いやいや、社会人になって仕事をやっているはずなのに、「なにになりたいんだっけ?」と思っている人もいる。(中略)
ほんとは、なにをやったって、そいつの自由なんだしね。その職業に就くための免許みたいなものがあるなら、それを取得すればわかりやすいんだろうけれど、免許があるからって食っていけるとはかぎらない。なんか、「職業の名前」って、どうなんだろうねぇ?
(中略)

舞台を創っているスタッフも、役者さんたちも、たくさんの裏方の人たちも、みんな、「それで食えているのか?」とあらためて訊かれたら、そうは言えないかもしれない、とは思うんだよ。だけど、食えるかどうかを超えて、「これがやりたい」「これをやっている」と、堂々と言える人たちって、尊敬できるんだよなぁ。
(中略)
まるごとのじぶんのすべてを燃焼させられる時間を、ちゃんと持っているっていうことは、たいしたことだぜ。

「将来なにになりたい?」の答えは、職業名なんかじゃなくていいんだよな。どういう人間でありたいか、どういうふうに生きたいか。そっちのほうを、しっかり考えろということだよね。




最後の方がね、気に入った。



次も一番最後が気に入った。



ぼくの若いときに、なにかと流行った言い方に「独断と偏見によれば」というのがあった。なにかと客観性だとか普遍性を求められることに疲れて、「おれは、おれなりに勝手に言ってるんだから、とやかく言わないでくれないか」ということだろう。「独断と偏見だけどさ」なんて具合に、おしゃべりのなかにも、ときどき登場した。

このごろだと、「自戒をこめて」というのをよく見る。他人に文句を言いたくて、つい言ってしまうのだけれど、同じようなことをじぶんもやってるとも言えるな、というような場合に、「自戒をこめて」を添えておく。これで、「おまえもな〜」と嘲笑されることを防げる。

タクシーの運転手さんとかが、唐突に「論」を語りはじめるときなんかだと、「おれに言わせりゃ」と頭につけることが多い。これも、「私論ではありますが」という防御的な修辞だ。

「わかんないんだけど」と言ってから、滔々としゃべり続ける人もいる。内容のなかに、矛盾やでたらめが発見されたとしても、最初に「わかんないんだけど」と言ってあるから、責め立てるほうが野暮というものである、と、あらかじめ釘を刺してあるというわけだ。

いつの時代も、なにかものを言えば、唇寒し秋の風になるに決まっているわけで、たいていの人は、言われたらめんどうだなぁと考える。それでも言いたいから、言うんだろうね、人ってものは。

ものを言うというのは、ただじぶんの思いを吐き出すだけでなく、じぶんとは別の人びとが聞いている場に立つということ。だから、賛同されて悪い気はしないと感じたり、とやかく言われて気が悪くなったりもする。いつも気持ちよくのびのびしていたいと思うなら、ものを言わないほうがいい、と決めてしまうのも方法だ。しかし、なにも言わないと、また不自由な思いがするし(ぼくら、よくインターネットなんかやれてるよなぁ)。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。 あなたを好きで、話し相手になってくれる人は、貴重だよ。



「わかんないけどさ」
よく使うフレーズだなぁ。

友だちとのおしゃべりが、死ぬほど好き。
おしゃべりしてくれる人が、いかに貴重でありがたいか、実感している。




糸井重里氏のような文章が書きたいなぁ。

なんて思った、8月の日曜日。

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