岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド
とりあえず過去執筆した作品、未完成も含めてここへ残しておく

新宿コンチェルト06

2022年04月25日 21時52分41秒 | 新宿コンチェルト/とれいん

 仕事を終え、駅に向かう。百合子からの返事はまだなかった。改札を通り特急券を買おうとすると、喫煙席がすべて売り切れになっていた。俺の後ろに列がたくさんできているので、仕方なしに禁煙席のボタンを押す。
「先日はどうも」
 背後から声を掛けられたので振り向くと、助役の朝比奈が笑顔で立っていた。彼に対してはもう何も文句はなかったので、俺も笑顔で応対した。あとは駅長の峰がちゃんと謝れば済む。
「寒いですねー」
「そうですね」
「お仕事帰りですか?」
「ええ、年末だから忙しいですよ」
 他愛もない世間話をしてから小江戸号に乗り込む。電車が所沢駅を通り過ぎる辺りで、百合子からメールが届いた。
《何、言ってるの。昨日、私がわがまま言って逢いたいって言ったら、見捨てずに一緒に居てくれたじゃない…。私、一緒に居てくれた事、感謝してるんだから。生きる価値がないなんて、情けない事言わないの。龍一人が悪い訳じゃないでしょ。お互いが話し合いで決めた事なんだから…。元気出しなさい。 百合子》
 百合子からの激励のメールを読んで、いかに自分が甘えていたか自覚した。彼女とは今後どうしていくとかなどの話し合いは何もしていないが、こんな状態になっても心の絆は切れてなかったのだ。あんな酷い目に合わせといて、百合子は何故、俺に優しくしてくれるんだ? そう考えると余計心が痛んだ。周りに乗客がいるのに涙が滲む。ここで泣く訳にはいかない。

 涙を堪えながら、百合子のメールを何度読み返しただろう。気がつけば小江戸号は本川越に到着していた。
 家に帰ると、早速百合子に電話を掛ける。無性に彼女の声が聞きたかった。
「ただいま、今、帰ってきた」
「おかえり」
「体は大丈夫なのか?」
「うん、大丈夫だよ」
「百合子、あんな事されちゃ困るよ」
「あんな事って?」
「俺の財布に三万入れた事」
「別にいいじゃない。全然おかしくないでしょ?」
「だって手術代だっておまえが全部出してるじゃないかよ。昨日のホテル代も……」
「何言ってんの。今までほとんどのデート代からすべて龍が出してきたでしょ。私に全然使わせてくれなかったじゃない。だから先の事考えてちゃんと貯めてたの。だから気にする必要なんて何もないのよ」
「そうは言ってもさ……」
 泣いちゃいけない。分かってはいるが、自然と涙が出てくる。
「も、もっと…,早く…、い、言ってくれ…、れば……」
「なーに?」
「もっと早く言ってくれれば…、俺は…、俺は……」
「どうしたの?」
 全部俺の一人よがりで、百合子をこうまでさせてしまった。いくら反省しても後悔しても、決して戻ってはこない。
「こんなんじゃ、俺はおまえに会わす顔がない……」
「何言ってんのよ。そんな事ないよ」
「俺は…、もうおまえに会えない……」
「何でそうなっちゃうの?」
「自分が馬鹿で…、いや、大馬鹿だという事に気付いたから……」
「龍も疲れてんだよ。とりあえず今日は早く寝て、ね?」
「う、うん……」
「龍には感謝してるって言ったでしょ? そんなに自分を責めないで」
「そうはいかない。だって俺は……」
「いつまでも過ぎた事を言わないの。分かった?」
「……」
「返事は?」
「うん…。悪かったよ。今日は百合子の言う通り早く寝るよ」
「そうだね。今日は早く寝て休んで」
「ああ、ごめんな。百合子は明日も仕事なのかい?」
「ううん。私、明日は休みだから、家でゆっくりしてるね」
「うん」
「じゃーね」
「ああ、おやすみ」
「うん、おやすみなさい」
 携帯電話を切り、布団に寝転がる。今日はとてもじゃないが、『とれいん』の続きはを書けそうもない。百合子に言われた通り、ゆっくり休もう。

 目を覚ますと朝の十時だった。久しぶりにゆっくり寝られた。
 百合子の気遣いと優しさに感動し、胸が詰まってしまった昨日の夜。情けない限りだ。俺は自分の子を宿した彼女を守れず逆に傷つけ、感謝している師匠に対してすら何の恩返しもできないまま亡くなってしまった。すべてに対して中途半端な状態だ。このままじゃいけない。
 最近の自分自身を振り返るとくだらない自己満足に陥っていた。いつからこんな腑抜けになったんだろう。今、何ができるかを考え、感情的にはならない。
 難しく考えるな。シンプルに生きよう。シンプルな事すらできないでどうするんだ。今回の一連の騒動で、一番辛い思いをしたのは百合子なんだ。俺が彼女を癒さず、反対に癒されてどうする? 百合子に今の正直な気持ちをメールで表そう。
《昨日はごめんな。俺、色々考えたけど、百合子には償わないといけない。百合子が俺と逢いたいなら逢おう。逢って百合子がまた逢いたいって言ったら、また逢おう。もし百合子が気持ちの整理がスッキリついて、逢わなくても大丈夫だと割り切れたなら、俺はおまえに逢いたくても我慢して、笑顔でありがとうと言いたい。だから百合子はもっと自分の気持ちを素直に出してくれ。今の俺の考えです。 神威龍一》
 送信してから急いで仕事へ行く仕度をする。十時半の特急に間に合うかな。時計を見ると十時二十分。
 本川越駅までダッシュで走り、小江戸号の切符を購入する。家から五百メートルぐらいの距離を走ったぐらいで息切れがするなんて、俺も体がなまったものだ。指定席に座り、息を整える。
 百合子はまだ家でゆっくり休んでいるだろうか? 逢って抱きしめたいという感情が今にも爆発しそうだった。

 西武新宿駅に到着して店まで歩いている時に、百合子からのメールが届く。
《おはよう。償うとか償わないとか、そういうのじゃなくて…。そうしたらまた改めて始めてみようよ。逢いたいっていう気持ちから…。焦らないでお互いが、自分たちがどうしたいのか一緒に考えてみようよ。今、私…、やっぱりすごく龍に逢いたいと思ってるよ。とりあえず今日も頑張ってお仕事行ってきて。いってらっしゃい。 百合子》
 読んでいて全身に力がみなぎるのを感じる。北方の『マロン』を辞めてから知り合い、今までの間に色々な事はあったが、百合子は俺をずっと見守ってくれていた。この先、生きていくにしてもずっと横にいて欲しいのは百合子以外、もう考えられない。本人の目の前で素直にありがとうと言いたい気持ちでいっぱいだった。
 あの忌々しい『ガールズコレクション』に着く前、百合子の携帯電話に掛けてみる。三回のコールが鳴り、百合子が出た。
「おはよう」
「おはよう。もう新宿に着いたの?」
「うん。まだ少し時間に余裕あるから電話してみた。昨日はおかげさまでゆっくり寝られたよ。あれから前向きに考えるようにしたんだ」
「うん」
「まず今の仕事に対しての身の振り方を考えてるんだ。百合子とああなる前に、もっと考えて行動しなきゃいけなかったんだ。いつも仕事の事とかでピリピリしてたしね。おまえが不安になって当然だよな。もっと自分自身の為になって、生き甲斐を感じられるような生き方をしたい。変なプライドを持ったせいで、百合子を傷つけ過ぎた」
 あんな店に何の価値があると言うのだ。先日の坂本の何度もおろしたと言う台詞。責任感も何も、俺は給料をもらっていないのだ。
「全然そんな風に思ってないよ」
「ありがとう。でも俺の言う償いとは、その辺の自己の改善からだと思っているんだ」
「考え過ぎだよ。私は充分、龍の事を評価してるよ。でもね、すごいなぁと感じる龍だけを好きな訳じゃないよ。優しいところや弱い部分も、たまらなく好きなんだからね。これからも色々な事があると思うけど、焦らず前向きに頑張ろうよ」
「そうだな……」
「でも龍だけが頑張るんじゃないからね。少しは私にも頼ってほしい。一緒に頑張っていこうよ。ね?」
「ああ、ありがとう。元気になった。お、もうこんな時間か…。とりあえず仕事に行ってくるよ」
「いってらっしゃい」
「いってきます」
 心のつかえが一つ溶けたような気がした。百合子のおかげだ。
 もう今年も終わる。せめて西武新宿の件だけは、いい感じで終わらせたい。みんなが笑って済ませる事ができるように……。

 今の俺は不思議と勢いに乗っている。仕事先で嫌な出来事があっても、サラリとかわせるようになった。どうでもいいつまらない事でこれ以上時間を無駄にしたくなかった。
 あの件は西武新宿駅駅長の峰、彼がキチンと謝れば許せる。彼以外の他の駅員は自分のせいでもないのに、みんな低姿勢で私に謝ってきた。心苦しいし申し訳ないが、それでは何も問題の解決にはならない。
 仕事を終えて帰り道、本川越駅駅長の村西さんの姿が見えたので、少し立ち寄ってみるつもりで声を掛けた。
「こんばんわー、村西さん」
「おお、どうも」
「お久しぶりです。先日は申し訳なかったです」
「いえいえ、お騒がせしてすみませんでした」
「よかったら中へどうです?」
「はい、お言葉に甘えます」
 村西さんに促されて、奥の駅長室へ行く。ソファに腰掛けるとお茶が出される。
「すみません」
 若い駅員にお礼を言ってから本題に移る。
「西武新宿の助役の朝比奈さんとは、ちゃんと話し合ったのでもう問題は何もないです。ただ駅長の峰さん…。彼についてはかなり問題があります」
「…と、言いますと?」
「まず謝るという事についてですけど」
「はい」
「最初に謝っても私の言い分に対して、いや、あれはこうです、これはそんなつもりはなかったですとか、言い訳をばかりでした。本来の謝罪とは明らかに違うものだと思うんです。要するにいくら謝られても言い訳を言ってる限り、見苦しいだけにしかとれません」
「ええ」
「助役の朝比奈さんはずっと頭を下げてすみませんでしたと、何度も謝っていたのでこれ以上何も言うつもりはありません」
「ありがとうございます」
「駅長の峰さんだけが問題なんです」
「それについては、彼も責任感じてるんで……」
「村西さんの気持ちも分かりますけど、現状ではしょうがないんです。ただ事を大袈裟にしたいとかそういう訳ではないんです。村西さんを始めとして西武の間壁さんや福島さん。様々な人が申し訳ないと頭を下げてもらってます。自分だって心苦しいです。それなのに当の本人である峰さんは、何故あんな態度でいるんだと分からせたいんです」
「それはそうですね」
「ただ、あの件からもう十数日は経ってますけど、一度私が西武新宿に出向いて話しただけで、それからは実際何の連絡もありません。それで責任感じてると言われても私は納得いきません」
「そうですね」
「だから少しお灸をすえる意味でも、これからちょっと攻撃するんで黙って見ていて下さい。みんなが笑顔で解決できるようにもっていきたいんで……」
 俺の言い分を話し終わると、村西さんは笑顔になり頷いた。
「分かりました」
「村西さんや間壁さんまで、こんな親身になってもらっているのに、西武自体を攻撃したいだなんて思えないです。それに今、この件を元にした小説を書いているんです」
「へー、小説ですか?」
「ええ、別に西武新宿を中傷するようなものじゃないですよ。あくまでも小説なので、読んだ人が呼んで良かったと思えるものを書きたいですから」
「それはでき上がるの楽しみですね」
「ちゃんと完成したら村西さんに持ってきますから」
「期待してますよ」
「あ、それと車掌の石川さんは……」
「安心して下さい。何の処分もないですよ。むしろよくやったと社内で評価は上がっています。だから問題ないですよ」
「それは良かったです」
 村西さんとまた話せて良かった。あれだけ重かった心の中が段々いい方向に向かっているのを感じる。

 もう十二月後半になっていた。結局オープンを遅らせたのは『ガールズコレクション』にとっては都合がよかった。何故なら働く女がまだ一人しか集まっていないのである。
 坂本と若松の仕事のできなさ加減にはほとほと呆れるばかり。こんなじゃまったく話にならない。それでも入ってくれた子には罪はないのだ。俺は写真を何ポーズか撮らせてもらい、パソコンに取り込んだ。
「……」
 お世辞にも綺麗とは言えない子だった。体型もトドのような感じである。いくら何でもこれでは客など来ないだろう。本人の目の前では言えなかったが、他に集められないのか。
 そんな酷い状況で『ガールズコレクション』はしょぼいオープンを迎えた。しかしとりあえずこれで給料が初めて出るのだ。よしとしよう。
 ここまでで坂本は経費が足らなくなったと、四人のオーナーからさらに二百万円の金をせしめていた。
 オープン初日。待機している女の子の名前は『ミミ』。年は俺と同じの三十三歳。さすがにこの子だけをホームページに載せたところで客など絶対に来ないし、かえって店の評判を落としてしまう。一日も早く女の子を集めるよう坂本に伝える。
「それよりさ、何でうちのホームページ、女の子の写真一人もいない訳?」
「あの子一人だけ載せろって言うんですか?」
「もっと頭使いなよ。インターネットにゴロゴロ女の子の写真なんていくらだってあるでしょ? それを使ってとりあえず水増ししときなよ」
「お断りします。勝手に他人の画像を使って訴えられたらどうするんですか? 責任者は誰だって来たら、俺のせいになるじゃないですか」
「大丈夫、大丈夫」
 この馬鹿と話していると、本当に神経が逆立ってくる。
「どこが大丈夫なんです? 責任持ってくれるんですか?」
「大丈夫だって」
「あのですね……」
「分かったよ。早めに探してくるよ」
 元々女の子集めと、店内改装は坂本の仕事だと言うのに何一つ満足にこなせないクズ。ここまで仕事ができない奴とは思わなかった。
「もう今日からオープンだし、俺はパソコン関係で何かあった時だけ来ますからね」
「え、ちょっと待ってよ」
「はあ、何ですか?」
「従業員はさ、俺と若松の兄貴、あと神威ちゃんしかいないんだよ? たった三人ね。若松さんは遅番で来るって言っているから、神威ちゃんは早番で来てくれないと」
「何でそうなるんです? 坂本さんは何をしてんですか?」
「俺はこの店の店長だからね。様子を見ながら全体的に見なきゃいけないしさ」
「話が違うじゃないですか! 俺はパソコン関係をするだけって最初の段階で決まってたはずですよ?」
「しょうがないじゃん。経費だって補充の連続で、従業員はこの三人だけだしさ」
「言っておきますけど、俺は給料まったくもらってないんですよ。経費だって最初の時点でホームページ作成料の二十万。あとはパソコンやプリンター、デジカメなど一式で二十万しかもらってません。でもそれは俺の給料とかじゃないですよね」
 以前村川から内緒でもらった五万円は、とりあえず伏せておく。ここ二ヶ月ばかりでたったの五万円である。坂本や若松が経費で三百万以上使った事に比べたら可愛いものだ。
「そんなの俺だってもらってないよ」
「坂本さん……。元々あんたが訳の分からん外人なんかに店の改装を頼むから、こんなに遅れてオープンになったんだよ? 経費だって何に使ったの? 女の子は一人だけしか集められない。他に何がそんな掛かる訳? いい加減にして下さいよ」
「そんな事よりさ、神威ちゃんが早番で入らないと他に誰にいないんだよ」
「知りませんよ、そんな事は」
「じゃあ、給料出ないよ?」
 この馬鹿とこれ以上話をしても無駄なようだ。俺は黙って立ち上がり店を出ようとした。もう本当にいいや。くだらない。こんな連中となんてとてもじゃないが一緒にできない。
「ちょ、ちょっとどこ行くの?」
「勝手にやってろよ!」
 俺は坂本を突き飛ばすと、店から出た。
 外でタバコを吸っていたオーナーの村川が、俺の姿に気付き近づいてくる。
「おいおい、どうしたんだよ?」
「お世話になりました。もうこれ以上坂本さんとはやっていられませんから」
「ちょっと待てよ。いきなりどうしたんだよ?」
「いきなりじゃないですよ。ずっと給料も出ない状態で我慢してきて、いざオープンってなったら俺に店番しろとか抜かして、断ると給料を出さない。だったらもういいですよ」
「落ち着けよ。今日店がオープンしたばかりなんだぞ?」
「もう知りませんよ。坂本さんや若松さんたちで勝手にやってればいいじゃないですか」
「ここは何だから一旦店に入れ。話を聞くから」
 俺は強引に『ガールズコレクション』店内へ戻される。坂本は不満そうな顔をして睨んでいた。村川は坂本に「ちょっとおまえは外にいろ」と出させた。
 これまでの経緯を踏まえ、どれだけ坂本たちが無駄な事をしているかを伝える。
「おまえの気持ちは分かるよ。でもな、俺たちだって無駄に金を出した訳じゃねえんだよ。それは分かるだろ?」
「ええ、分かります。四人のオーナーたちが一人頭百万円ずつ出している訳ですからね。ただ俺はその間、村川さんに頂いた五万円だけしか収入ないですよ。ボランティアでやっているほど余裕ある訳じゃありません」
「最初にパソコンどうのこうのって四十万持っていったろ?」
「だってあれは俺の給料って事じゃないじゃないですか。実際にパソコンだって買ったし、プリンターだってデジカメだって。あの値段であのスペックのパソコンは普通に買ったら無理ですよ? 俺が知り合いに頼んで組み立ててもらったからこそ、安く済んだんです。中のアプリケーションも、本来なら数万から数十万掛かるソフトだってタダで入れてますからね。それにホームページ作成料は知り合いに渡したし、まったく別物じゃないですか」
「パソコンの事は俺には分からねえって」
「分かり易く言うとこの店にあるパソコンは、普通に電気屋で売っているとしたら、三倍ぐらいの値段はするって事です」
「ふーん」
 つまらなそうに鼻で笑う村川。苦労してこのパソコンを作った事なんてまるで分からないのだろう。
「元々パソコン関係で俺は携わるって約束だから入っただけで、こんな状況になるなんて分かっていたら、始めからやっていませんでしたよ。坂本さんがあんなにいい加減な人とは思いませんでしたし」
「ただよ、おまえが辞めたらホームページとかどうすんだ?」
「オープンしたけど、女の子は『ミミ』って子だけで、今は何もできないじゃないですか。ちゃんとほかにも女の子が人数分入ったなら、今すぐにでもできますよ」
「そうか」
「でも、もう限界ですよ。俺、自分の子供だっておろしているんですよ? 何で給料も出ない状態でこれ以上何かしなきゃいけないんですか?」
「分かった分かった。とりあえず今日のところは帰って休め。明日、もう一度話そう」
「分かりました。ただ辞める方向で考えていますので、それだけは理解して下さい」
 まず地元に帰ったら、一緒にホームページを作っている先輩の榊に話を通さないといけないだろう。俺が辞めるという件は、あくまでもこちらの事情に過ぎない。
 歌舞伎町の街並みを歩きながら、こんな風になるぐらいならもっと早く辞める決断をするべきだったと後悔した。だけどいくらそう思ったところで、おろした子供はもう戻ってこないのだ。百合子とまた逢えるという事実だけが今の俺を支えていた。

 地元へ帰ると、荷物を置きに家に戻る。さて榊さんのところでも行くとするか。
 家を出ると、目の前の映画館に人が立っていた。よく見ると幼い頃俺ら三兄弟を可愛がってくれた坂井さんだ。よく二階の一番前の席に座らせてくれ、自腹でコーラとかアンパンとかご馳走してくれたっけなあ……。
「お久しぶりです」
 目と鼻の先なのにあまり顔を合わせる機会がなかった俺は、思わず道路を飛び出して坂井さんの元へ向かう。
「おお、龍ちゃんか~。おっきくなったなあ」
 坂井さんは俺を見ると、目を細めながら喜んでくれる。
「へへへ」
 そういえば最後に映画館に行ったのなんていつ頃だろう? 一度も料金なんて取られずうんざりするぐらい同じ映画を観ていたせいか、社会人になって映画館に行くという習慣がまるでなかった。確か高校時代、永田瑞穂と別の映画館に行ったのが最後かもしれないな……。
「今、どうしているんだい?」
「新宿で仕事をしてるんです」
 正直に風俗店に関わっているなどとは言えなかった。職業に貴賎はないなんて誰かが言っていたけど、あれは嘘だ。恥ずかしいと思う自分がいる自体、貴賎がある証拠だ。
「本当に大きくなったよなあ」
 逆に坂井さんはずいぶん年を取ったように見える。髪の毛はほとんど白髪になっていた。でも昔の面影はまるで変わらず温かいままだ。
「以前、チョモランマ大場社長が健在だった頃の大和プロレスに行きましたからね」
「あの大場のかあ」
「ええ、地獄でしたけどね。小さい時、よくジャッキーチェンの映画観たじゃないですか。酔拳とか蛇拳とか。本当に大好きで、もちろん今だって好きですけど、よく弟の龍也や龍彦とはカンフーごっこしたものです。それでジャッキーチェンの真似してトレーニングとかも真似できるものはやってみたんですよ。坂井さんの影響もすごい入っているんですよ」
「そうかそうか……」
「なかなか顔も出せずにすみませんでした」
「いいんだって。元気そうな顔が見れただけで」
 そう言って坂井さんは微笑んでくれた。
 あの頃に比べたら、今なんて全然自由なもんじゃないか。昔はいつもお袋の暴力に怯えて、顔色を伺うだけだったなあ。それでもこうして来れたのは、おじいちゃんや亡くなったおばあちゃん、そしておばさんのユーちゃんが育ててくれ、坂井さんら近所の人が可愛がってくれたからだ。
 本当ならリングの上で戦い、誰もが知るぐらい有名になりたかったなあ……。
 亀田先生の娘の真由香ちゃんに、以前格好つけて言った台詞を思い出した。あれから試合だって出なかったし、結局俺って口先だけで本当に中途半端だ。今の俺って本当に格好悪いなあ。

 和菓子屋の榊さんのところへ行く。『ガールズコレクション』のホームページの件で、けじめをつけなきゃいけない。まあ榊さんには金を渡してあるし、最初に型を作ったぐらいだから割のいい仕事だったはずだ。
 俺は店の事情を話し、まるで仕事になっていない状況を説明した。
「おまえ、相変わらず馬鹿だなあ。四人のオーナーってのは金を持ってんだろ?」
「まあ、持ってんでしょうね」
「だったらよ。うまく利用すればいいじゃねえか。四人のオーナーの力関係はどうなんだ? まあ従業員にオーナーの兄貴がいるってところが邪魔だけどなあ」
「いえ、榊さん。もう俺はこれ以上関わりたくないんですよ、あの連中とは」
「そんな簡単に決断するなよ。いいか? おまえはもっと自分の立場を利用してな、利口に金を稼げ」
 はたから見れば、そんなに裏稼業って簡単に見えるのだろうか? どれだけドロドロして、しかも腐った連中が山ほどいるなんて分からないだろうな。
「もうそういうのはうんざりなんですよ」
「おまえさ、そんなんで俺らを仕事に引きずり込んだのか?」
 急に榊さんの表情が変わる。
「ですからこうして話をしに来たんじゃないですか」
 俺らと言っているけど、当初は俺と榊さんの二人でやるつもりだった。それを勝手に同級生の袴田さんまで引っ張ってきたのは自分じゃないか。
「おまえが頼むって言うから、こっちはやったんだろ?」
 仕事として話を持ってきて金だって前渡しで払っている。それを素直に受け取っておいて何が不満なんだ。そして何故こんなムキになるんだ?
「それは感謝してますよ。でも仕事として成り立っていないし、俺は給料だってもらっていないんですよ? そんな状況でまだ何か頑張れって言うんですか?」
「いいから少しは俺の言う事を聞けよ!」
「ですから……」
「おまえはな、いちいち言い訳が多いんだよ! ですからって言う前に話を聞けよ」
 どっちがだ。俺より七つ年上だからって先輩風を吹かせやがって……。
「すみません」
 とりあえず形だけ謝っておく。こういう時、近所の先輩後輩の間柄は面倒だ。
 それから榊さんは、組織の内情なんて分からないのに、訳の分からない絵図を描き、おまえはこう動けと得意げに話していた。そんな表社会の人間が簡単に思っているほど、裏稼業は楽じゃないのにな……。
 ちょっとこの人とは距離を開けたほうがいいかもしれない。

 店の件や榊さんの会話で苛立っていた。家に帰ると、早速パソコンを起動して小説の続きを書き始める。そうだ、その前に百合子にメールを打たないと。
《ただいま。仕事行く前に本川越駅で駅長の村西さんと色々話し合ってきました。まだ解決まではいかないまでも少しずついい方向に向かっているようです。今は家に帰って早速『とれいん』を書こうとしているところなんだ。体の調子はどう? ちゃんとご飯食べてるかい? 神威龍一》
 あえて嫌な事には触れずにおく。変に心配を掛けたくなかった。
 メールを送信してから、『とれいん』のデザインした扉絵を百合子に見せてみたいなあと思う。パソコンで画像を処理し、携帯電話でも見られるようインターネットに画像をアップする。再度URLを打ったメールを送ろうとしたところ、向こうから返事が届く。
《お帰りなさい。仕事や西武新宿の件もそうだけど、色々とお疲れさまでした。ご飯の方はちゃんと食べてるから心配しないで。体調は良くなってきてるよ。出血もほとんどなくなってきたし、一応、大和産婦人科に行って診てもらうつもり。でも龍の書く小説がどういう風になるのか楽しみだな。できたら是非見てみたいな。ゆっくり休んでね。 百合子》
 百合子にメールの返事を書く。
《そうか、ほんとに申し訳なかったな。病院もできたら一緒に行きたいけど、オーナーが仕事を休ませてくれなさそうだな。明日、休めるか言ってみるけどね。『とれいん』の扉絵見られるURLを打っておきました。これ作るのとても苦労したよ。それでは小説の執筆に取り掛かります。百合子はゆっくり休んでね、おやすみ……。 神威龍一》
 もう明日には仕事を辞める話をするだけなんだけどな。まああんなところ、早く辞めたほうが百合子だって安心するだろう。
 今の俺には小説を一日でも早く完成させるしかない。久しぶりに心が躍っている。近い内、西武新宿駅駅長の間壁さんにも会って色々話してみたい。あんなつまらない件をいつまでも引きずりたくなかった。ハッピーエンド。現実も小説の中もそういう風になりたい。子供の件などで落ち込む事は多かったが、今はそれをバネに頑張りたい。
 勢いに乗って作品を書くと、時間が過ぎるのはあっという間である。さすがに目がトロンとしてきた。携帯電話が鳴る。百合子からのメールが届く。
《『とれいん』の表紙見たけど、ダーク系なんだね。黄色いイメージがあるからビックリしました。中身今度読ませてね。話がどういうものなのか全然分からないから興味があるの。早く完成させてね。病院は一人で行くから大丈夫だよ。一応、念の為に行くだけなんだから。気に掛けてくれてありがとう。明日、龍と逢いたいな。仕事終わったら連絡してね。 百合子》
 返事を返さなきゃ…。そう思いながら俺はその場で崩れるように寝てしまった。
 朝になって目が覚めると、慌ててメールを打ち出した。
《おはよう、昨日は百合子のメール届いた頃には寝ちゃってたよ。今日、逢うのは問題ないよ。だいたいこっちに帰るの十一時ぐらいになるかな。仕事終わった時点で連絡入れるよ。体に気をつけてな。俺もそろそろ新宿に行ってくるよ。 龍一》
 風呂に入り着替えを手早く済ませる。さてと、今日であんな忌々しい連中とはお別れだ。

 忘年会なのか、夕方になると新宿は陽気な人で街があふれかえっている。いくら人が多くても気温は変わらず冷たい。
『ガールズコレクション』に到着すると、坂本がのん気にタバコを吸っていた。
「おはようございます……」
 昨日の件もあり、そっけない挨拶を形だけする。
「あのさ、神威ちゃん。お願いがあるんだけど」
 坂本は昨日の事などまるで気にしていないかのように振舞ってくる。
「何ですか?」
「待機している『ミミ』ちゃんいるでしょ?」
「ええ」
「昨日神威ちゃんが帰っちゃったから、彼女お茶っぴきで給料出なかったんだよ」
 お茶っぴき。風俗業界用語で客が誰もつかない事を言う。風俗嬢の場合、客がついて初めて給料が発生する。なので一人もつかない日は、店で保障契約を結んでいない限り給料など何時間いても出ないのだ。
 それにしても俺が店にいようといまいと、彼女に客がつくつかないはまるで関係のない話だ。この男はそうやってすべてを誰かのせいにしてこれまで生きてきたのだろう。ここで怒っては相手の思うつぼだ。冷静に対応して、さっさとこんなところ辞めればいい。
「そうでしたか。自分の責任ですか。じゃあ責任取って辞めないといけないですね」
「ちょっと、何でそうなる訳?」
「俺のせいで客がつかないんじゃ、店にとっても縁起が悪いでしょう。いないほうがいいですよ」
「何回も言ってるじゃん。神威ちゃんが辞めたらどうすんのよ?」
「そんな事まで知りませんよ。別に給料もらっている訳じゃないし。村川さんと昨日話したら、とりあえず今日もう一度話そうって言うから来ただけです。村川さんはまだ来ていないんですか?」
「今から呼ぶよ。ちょっと待っててよ」
「いえ、いないんじゃ、お世話になりましたって言っといて下さいよ。もう懲り懲りなんです」
「そんな事言わないでさ。すぐ連絡するから」
 動じない俺の態度に焦る坂本。ちょうどその時嫌なタイミングで村川が店に入ってきた。
「おい、神威」
「はい、何ですか?」
「ちょっと来い」
「はあ……」
 坂本を放って外へ出る。黙って村川のあとをついていくと、ビデオ村のところにある喫茶店のラーセンへ行った。
「コーヒーでいいな?」
「あ、はあ……」
 妙に今日の村川は機嫌悪そうだ。まあ何だっていいや。どうせ、もう辞めるんだし。
「おまえ、本当にうちを辞めるのか?」
 いきなり単刀直入に切り出す村川。
「はい」
 俺も堂々と答えた。
「じゃあ四十万。あ、あと俺が渡した五万。全部で四十五万置いてけ」
「はあ? 何でですか?」
「おまえは別にホームページを完成させた訳じゃない」
「だってそれは坂本さんが女の子を全然集めていないから……」
「そんなの関係ねえ! 完成はさせていないだろ? 仕事ができないで放り出す奴から、料金を返してもらうのは当たり前だ」
「……」
 こいつ、正気で言っているのか? テーブルの下で拳を強く握る。
「あとな、店のパソコン。あれも持って帰っていいぞ。数十万の価値があるんだろう?」
「くっ……」
 汚い男だ。がんじがらめにして、俺を抜けさせない気か。
「早く抜けるなら四十五万出せ」
「今はそんなに持っていません」
「今日中に金は用意しろ」
「無理です。そんなにお金を持っていません」
「ふざけんな」
「ふざけてんのはどっちです? 俺、二ヶ月ほどタダ働きなんですよ?」
「店がオープンしたら給料って最初から約束したはずだ」
 坂本とかのミスもすべて無関係って事か。薄汚い本性をようやく出したのか。
「あまり無茶を言うと、訴えますよ?」
「おまえ、うちの組織を舐めているのか?」
「別に舐めていませんよ。無茶な要求は飲めないって言っただけです」
「訴えるなら訴えろ。徹底的にうちも動くからな」
「……」
 体中の血液がどんどん上昇していく。こっちは百合子との間にできた子供まで犠牲にしているのに……。
 この俺相手に徹底的か。上等だ。なら、俺だって腹を括るだけだ。
「何だ、その目つきは?」
「生まれつきです」
 村川はテーブルをグラスを取り、俺の顔に水をぶっ掛けてきた。一切よけずに水を被る。
「この小僧が…。一丁前に根性を見せているつもりか?」
「徹底的にやるんすよね、俺と……」
 ゆっくり立ち上がると、右の拳を村川の目の前につき出した。
「何の真似だ、おい」
 その時、マスターがおしぼりを俺に渡してきた。
「すみません、マスター」
「マスターは引っ込んででくれよ」
 ドスを利かせる村川。しかしマスターは毅然として口を開いた。
「ここは私の店だ。面倒な事はよそでしろ」
 しばらく村川はマスターを睨みつけていたが、財布から千円札を取り出して「コーヒー二杯分、これで足りるだろ」と放り投げる。そして外へ出て行った。
 俺はおしぼりで顔や服に掛かった水を拭き、マスターへお礼を言いながら返した。
「神威ちゃん。放っておいて逃げな」
「できればそうしたいんですけど、俺、あいつらのせいもあって先日自分の子供をおろしてんですよね。ありがとうございました」
 それだけ言うと、村川のあとを追った。

 俺が来るのを分かっていたように外で村川は待っていた。
「今度はどこに行きますか? ここじゃ、例の監視カメラに映ってますよ」
「生意気な口を利くようになったな」
「村川さん…。俺、言いましたよね? 自分の大事な子供をおろしたって」
「仕事と関係ねえ事を持ち出すな」
「仕事? どこがです? いつ俺が給料もらったんです? 辞めようとした時、村川さんが五万円を強引に握らせてきただけじゃないですか。五万なら今すぐ返しますよ。それじゃ駄目なんですか?」
「当たり前だろうが。四十五万、早く出せ」
「できなかったら?」
「抜ける事は許さん」
「ふざけんなっ! 子供の事が仕事と関係ない? あんたらのせいので、俺は……」
「サラリーマンの世界にでもいるつもりなのか? こっちは数百万単位で金を出してんだよ。ガキの遊びじゃねんだ」
 どれだけ人を馬鹿にしたら気が済むんだ。どれだけ俺が傷ついたか。絶対こいつらみたいな人種じゃ分からねえんだろうな。
「ガキですいませんね。金は払えない。でも辞めるって言ったらどうすんですか?」
「そんなの通るわきゃねえだろうが!」
「通らないと、どうするつもりなんですか? 極道使って追い込みでも掛けるつもりですか? 以前北方が同じ事をしましたよ。でも、俺は逃げませんでしたよ。知らなかったんですか?」
「そんな事はしねえよ。ただ、おまえの実家が急に不幸な事になる可能性ってのはあるかもな」
「うちの住所でも知ってるって言うんですか?」
「前のビデオの時にもらったおまえの履歴書は、まだ持っているぞ」
 怒りで全身が震えた。駄目だ。こんなところで我を忘れるな。
「汚い…。汚過ぎる……」
「ああ、汚ねえのが裏だろう。違うか? 誰からも相手にされねえでよ。半端者ばっかがこの腐った街に集まってよ。どこ行ったってまともな仕事なんかできねえ連中ばっかだ。だがオメーはちょっと違う。オツムのできがここの連中とはちょっと違う。俺はよう。おまえの事すげー買ってんだぜ? 失望させるなや」
「村川さん、俺、頭のほうで頭抜けてんじゃないんすよ。そっちはひたすら頑張って努力しただけで、大した事ないんすよ。一番自分で誇れるのって腕っぷしなんですよね。一応プロのリングにも上がってんすよ。素手で人壊すの、訳なくできますよ。そうやって来るんなら、俺だって……」
 そこまで言いかけて口がとまる。
 北方の『マロン』時代ならいくらだって命を張れた。何があったって俺一人で済むからだ。しかし今の状況は違う。家の住所だって握られているのだ。そして大事な存在を忘れるところだった。今は百合子がいるのだ。子供をおろしたばかりの百合子に、そんな危険な目に遭わせる事なんて、俺には……。
「もう、女とは別れたのか?」
「いえ……」
 馬鹿。何故正直に答えたんだ? 探偵なんか雇ったら一発で百合子の素性なんて分かってしまう。あいつは普通のOLなんだぞ。
 もしこいつらが百合子に何かをしたら、俺は絶対に殺してしまう。違う。もう百合子に心配掛けさせたり、嫌な思いをさせたりなんて絶対にできない。させない。
「たまにはうまいものでも食わせてやれ」
 そう言いながら、村川は財布から一万円札を五枚出してきた。
「いりませんよ、そんなおっかない金は」
「いいから受け取っとけ。言ったろ。俺はオメーを買ってんだって」
 鞭と飴。この男はその辺が本当にうまい。だけどそんなもんで俺が騙されると思っているのか。考えろ。何かいい方法はないのか?
 この窮地を脱する術を……。
 俺が組織を抜けられるベストな答えを……。
「……」
 ある訳がない。百合子という致命的な弁慶の泣きどころがある。心配なんて絶対にさせられない。不安な思いだってさせない。もうあいつのあんな顔は見たくない……。
 唇を強く噛む。血の味が口中に広がる。
 軍門に下るしかない……。
「だったら坂本をクビにして下さい。あと若松も。あいつらがガンです。とてもじゃないが、一緒に仕事なんてできません。俺を買ってんですよね? それぐらいいいっすよね!」
 今の俺が出せる最大限の提案だ。
「とりあえず出した金を受け取れ」
「嫌です。俺の言った事に答えて下さい」
「分かった。答えてやる。答えは無理だ」
「何故です?」
「いちいち聞かないだって分かるだろうが。若松の兄貴は、弟がオーナーなんだぞ? つまり俺と同格だ」
「じゃあ、坂本は?」
「もともと『ガールズコレクション』は、坂本がアイデアを出して始まった。裏本作っていたあいつもこのご時勢だ。食えなくなったのは分かるよな? もう裏本が売れる時代じゃねえんだよ。しかもこの浄化作戦だろ? 裏本の場合はよ。ビデオ屋に注文された数を最初に持ってくんだ。北方の『マロン』にいたんじゃその辺は知ってるよな」
「ええ」
「集金だって前もってじゃねえ。回収する前に警察に持ってかれちまった店から、どうやって金を取れる? オーナーに言ったところで、もう店がねえんだ。誰もそんな状況になったら金なんか出さねえよ。訴えたところでしょせん裏稼業だからなあ。裏本は高い金腹ってお姉ちゃん呼んで、スタジオ設備、製本代、最初にすげえ金が掛かる。あいつはこの浄化作戦で一気に金がなくなったよ」
「村川さん、言っている事は理解できますよ。でも、あいつをクビにするって話と焦点ズレてませんかね」
「全然ズレてねえよ。金を出したのは俺や若松だけじゃねえんだよ。四人いただろう。うちらの大ボスもいるんだ。東海林さんの顔は覚えているだろう?」
「ええ、初日の時に焼肉もご馳走になってますからね」
「東海林さんが坂本のアイデアを飲んだ。確かに『フィッシュ』の店舗をあのまま放置なんて無駄な真似はできねえなってな。あの人は言った。俺や若松の弟、あともう一人の小松に一緒に出資するかってな」
「だったらなおさらじゃないですか。坂本がいたらコケますよ、あの店」
「神威。オメーだからハッキリ言うわ。俺はよ。中学だってまともに言ってねえし、九九だってすべて言えねえぐらい馬鹿だ。漢字だってよ。テメーと女房の名前ぐらいしか分からねえ。すげー馬鹿だろ? 笑っちゃうぐらいよ。でもよ。俺の女房は歌舞伎町の中じゃ珍しい日本人だ。何で、こんな撫男で馬鹿がそんな女を女房にできたか分かるか?」
「知りませんよ。分かる訳ないでしょうが」
「東海林さんにずっと命預けてついてったからなんだよ」
「どういう意味ですか? ヤクザじゃあるまいし」
「この歌舞伎町のビデオ屋の三分の一の店は、全部東海林さんの息が掛かった店だ。俺の『フィッシュ』も『ビビット』も。あと高山さんのところの『リング』も『らせん』も。あと金子さんのとこの『らっきょ』もな。もちろんそれだけじゃねえぞ」
「……」
「おまえが名義を張っている訳でもねえのに、何故七十五万もの金をもらえたと思う。今までの歌舞伎町じゃ、そんな事ありえねえんだよ」
「そういえば何であんなに金をくれるのかなって思いましたよ。もう使っちゃいましたけどね」
「東海林さんがよ。影でちゃんとおまえの功績を見ててくれたんだ。で、おまえが出てきた時、俺らによ。遊ばせれやれ。そう言ったんだ」
「……」
 東海林さんとは、まともに会った事なんて最初ぐらい。話だってまともにした事なんてない。何で俺を……。
「で、さっきの話に戻るわ。脱線してわりいな」
「いえ、俺も知っておきたいです」
「何で俺がって話だけどよ。俺はあの人の身代わりで一度務所まで行ったんだ」
「何でそんな事まで……」
「それからだ。俺が金をつかめるようになったのは…。俺はほんと馬鹿だからよ。そうやって体張って、命張ってきたわ」
「……」
 身代わりで刑務所まで行った村川。何故そうなったのか経緯までは言わない。しかし彼の悲しいぐらい劣等感に満ち溢れた過去には妙な説得力があった。
「坂本を頭にして『ガールズコレクション』はやる。そしてその話に、神威は参加させろ。これが東海林さんの言った言葉だ。俺らにとっちゃよ。その言葉は絶対なんだわ」
「命令には絶対に逆らえないと……」
「ああ、そうだ。俺も馬鹿だけどよ。坂本の奴が使えない事ぐらい見てりゃあ分かる。だからよ。神威。おまえの存在ってのがとっても貴重なんだわ」
「村川さん……」
「何だ?」
「金、五万じゃなくて、十万下さい。金、ないんすよ。俺、ズルしてないし、ちゃんとホームページの作成料だって先方に等分で渡しているし、ここ二ヶ月で五万だけ。でも、電車賃にすらならないですよ。もうちょっとマシなものを女に食わせたいっすよ……」
「おう。分かった。今回は特別だ。他の誰にも言うんじゃねえぞ」
 村川はもう五万円を財布から出し、俺のポケットに一万円札を十枚捻り込んできた。
「言える訳がないでしょうがっ!」
「坂本の奴はよ。俺だって本音を言えば嫌いだ。あいつはただのご機嫌取りしかできない馬鹿だ。どうやって気に入られるように取り入ったんだか分からねえけどよ。東海林さんがこの件に絡んでなきゃよ。とっくに俺がぶち殺してるわ。神威。東海林さんだけじゃねえ。俺だって負けねえぐらい、オメーは買ってんだ」
「村川さん……」
「何だよ」
「泣いていいっすか……」
「坂本が店長。若松の兄貴もいる。でも頭脳はオメーだぞ」
「分かってますよ! だから聞いたんじゃないですか、泣いてもいいかって……」
「おう」
 俺はその場に座り込んで泣いた。本当に自分の馬鹿さ加減が嫌になった。
 百合子とはあそこで終わらせておくべきだったのだ。何でこんなタイミングで……。
 本当に俺は大馬鹿だ。

 
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