岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド
とりあえず過去執筆した作品、未完成も含めてここへ残しておく

新宿コンチェルト05

2022年04月25日 21時51分31秒 | 新宿コンチェルト/とれいん

 家に帰ると、以前百合子が渡してくれた俺たちの子供の写真を手にとって眺めた。
 二枚のエコー写真。俺の子供の写真……。
 彼女と楽しく過ごしてきた少し前の会話が頭の中に思い浮かんでくる。
「何だ、これ? 全然どこに写っているのか分かんないじゃん」
「ほら、ここ。ここに写ってんのが私たちの子供よ。まだそら豆太郎だけどね。これエコー写真っていって、特殊なカメラで撮ってんだよ」
「何だよ、そら豆太郎って?」
「まだ小さいからちゃんと人間の形してないの」
「それで、そら豆か」
「えへへ……」
「ここに写ってるのが、俺の子供か…。見てもいまいちピンとこないな」
「何、言ってんの。あなたの…、龍の子よ。ねえ…、男の子かな? 女の子かな?」
「絶対に男だ!」
「そんな事言って、もし女の子だったら可哀相でしょ」
「いや、俺には分かるんだ。絶対に男だってね」
「もう少ししたら性別分かるみたいだけど、聞きたい?」
「百合子は?」
「できたら私は聞きたくないなー…。現実的な話だと、男か女か分かっていれば準備もできるだろうけど、産まれてきて初めてどっちか分かるっていうのも良くない?」
「まあ、産むのはおまえだ。好きにしなよ」
「ありがとう」
 気付くと俺は涙を流していた。二枚の写真を持ちながら静かに泣いた。


 十二月十八日。土曜日……。
 朝の五時に自然と目が覚める。これから九時に百合子と大和産婦人科で会う。
 愛し合っていたからこそできた愛の結晶。それを消し去ってしまおうとしている。
 そう考えると非常に心苦しい。今、彼女はどんな心境でいるのだろうか? 男には一生掛けても理解できないほどの辛さなのだろう。
 風呂に入り、ゆっくりと湯船に浸かる。のぼせるぐらい湯に浸かってから、シャワーを浴びる。
 温度調節のつまみを一気に下げて、水のシャワーを体に掛けた。全身が一気に冷える。こんなもんじゃないんだ。あいつの辛さは……。
 俺は水のシャワーをしばらく浴びていた。
 いつから俺はこんな風になってしまったんだろう? 昔は本当に体を鍛えてきた。今の体は鏡で見て、本当に情けなかった。
 俺に何かできないのか?
 こんな水を体に掛ける事しか思いつかないのか?
 風呂場の窓を開けると皮肉な事に外はとてもいい天気だった。

 車で九時二分前に大和産婦人科に到着する。入り口の自動扉を開けると、左手に受付があり百合子が椅子に座っていた。同意書にサインしてからたったの四日間だが、遠目に見ても彼女の姿は酷くやつれているように見えた。軽く深呼吸をしてから私は近付く。
「大丈夫なのか?」
 何か言わなくてはと思って口を開いてみたものの、馬鹿な台詞を吐いてしまったものだと我ながら後悔する。ここまで百合子を追い込んでしまったのは俺自身なのだ。それを会うなり大丈夫かはないだろう。それでも彼女は少し微笑みながら軽く頷いてくれた。
 受付を済ませてから、エレベータを使って二階に行く。看護婦が彼女に色々細かい説明をしているのを俺はただ見ているだけだった。看護婦が去り、並んで椅子に腰掛ける。
「ほ、本当にごめんな…。こんなになっちゃって……」
「ううん…、しょうがない事だったんだよ」
「受付でお金払ってたけど、いくら掛かったんだ?」
「え…、ううん…。それはいいの……」
「全然良くないって。俺にだって責任はあるし、何言ってんだよ!」
「お願いだから…、ね?」
「百合子…。お願いされても、そういう問題じゃないだろ?」
「お願い。今は…。お願いだから私の言う事をきいて……」
 これから手術に臨む百合子。真剣な眼差しで俺を見ている。今は言う通りにしておいたほうがいいだろう。そう判断した。これ以上百合子に負担や嫌な感情を抱かさせては絶対にいけない。
「分かった。ごめんな……」
「龍だけが悪い訳じゃないの。お互いが無理し過ぎちゃってたんだよ。きっと……」
「うん……」
「ずっと待ってるの?」
「当たり前だ」
「でも一時ぐらいまで手術、掛かると思うよ?」
「何時になったって待つよ。そのぐらい当たり前だろ? そんな気遣いなんかより、もっと自分自身を大事にしてくれよ。俺なんかより、ずっとおまえのほうが辛いんだ」
「……」
「百合子…、本当に…、ごめんな……」
 我慢していたが、つい目から涙がこぼれる。
「ううん……」
「こんな風にさせるつもりじゃなかったんだ…。ごめん……」
 それだけ言うのがやっとだった。俺はその場でボロボロと泣いた。
「うん……」
 十五分ほどお互い黙って待っていた。
 ちょっとして看護婦が近付いてくる。いよいよ子供をおろす時が来てしまったんだ。
 今の気持ちをどう表現すればいいのだろう?
 いや、それよりも彼女に俺は何も言葉を掛けてやれないのか?
 彼女と共に椅子から立ち上がり、看護婦の説明を聞いた。俺は看護婦が百合子に何を言ってるのか何も聞こえなかった。拳をギュッと固め力を入れる。
「それでは行きましょう」
 看護婦が百合子に言った瞬間、体が勝手に動いた。
「本当にいいのか?」
 俺は百合子と看護婦の間に割って入り、目を見て聞いた。彼女に俺が掛けてやれる最後の言葉だった。
 百合子は少しはにかみながら、ゆっくりと頷いた。
 どんな気持ちで頷いたのだろう。俺には分からない。分かっているのは俺が男として最低な奴だという事だけだ。
「よろしくお願いします」
 俺は看護婦に頭を下げた。もう自分には何もできない。せめて彼女に負担掛からないよう誠心誠意心の底からお願いした。少し戸惑った表情で看護婦は俺を見ていた。
 看護婦について遠ざかっていく百合子を見て、胸に穴がポッカリ開いた感じだった。

 一人残されて、ただ手術が終わるのを待つしかない俺。
 本当にこれで良かったのか? いくら考えたところで、もうどうにもならない。
 周囲から一斉に非難の眼差しで見られているような錯覚に陥る。しかしそんな事はどうでもよかった。
 今まで生きてきて一番辛かった。プロレスが駄目になって自殺? 何を俺は甘えていたんだ。
 ただジッと待つ。それだけの事がとても苦痛だった。手術を受ける百合子の状態を考えると気が狂いそうだった。
 できる事なら俺が変わってあげたい。
 タイムマシーンがあったら、ちょっと前に戻りたい。
 でもそんな事は絶対に不可能で、単なる自分自身への気休めにしかならない。考えれば考えるほど後悔の念が強くなるばかりだった。
 今さっき手術に向かう前の百合子のはにかんだ顔を思い出す。果たしてあれははにかんだ顔と言うべきなのか……。
 どう表現していいのか分からない。ただそのはにかみの表情の裏側には、とても辛く、恐怖心だってあるに違いない。そんな状態なのに俺に対して見せてくれた百合子の優しさだったのか?
 心が痛い。
 鋭利な槍のような刃物で心を突き刺され、グリグリとエグられているような感じだ。
 馬鹿…、何が感じだなんだ。今、百合子は本当に肉体を傷つけているんだぞ?
 せつない。
 無力で何もできない自分の愚かさを呪った。
 頬を涙が伝う。本能的にできるのは涙を流すぐらいなのかよ……。
 トイレに駆け込むと、嗚咽を漏らしながら思い切り泣いた。
 過去に二度だけ、このぐらい泣いた事があった。大和プロレスが駄目になった時。そしてヘラクレス大地師匠が亡くなった時。やり場のない言いようのない悲しみ。でもそれらとは明らかに種類の違うものだった。
 いくら泣いても全然すっきりしない。
 悔やんでも悔やみきれない。
 俺は上着から手帳を取り出して、白紙の部分を捜す。今日の今現在の事は、生涯心の中で噛み締めなきゃいけない。今の心境を素直に手帳に書き出してみた。

【十二月十八日。土曜日。仕事を休み、九時に大和産婦人科で百合子と会う。何を言ってもどうにもならない事を分かりながらも、俺は色々と話す。九時二十分頃二階に行き、もう少しで手術が始まる。看護婦が「行きましょう」と迎えに来た時に最後の確認をした。「本当にいいのか?」おまえは少し考えてから俺にはにかみながら頷いた。そのはにかんだ表情が何を意味してるのかは分からない。でも一番辛い思いをするのは、俺ではなく百合子自身なんだ。俺は看護婦に頭を下げて、よろしくお願いしますといった。俺には何もできないし、何もしてやれない。心の底からお願いした。これから一時ぐらいまで俺は一人でおまえを待つ。ただ待っている事もできずに、今、こうして文章を書いている。何故、こうなってしまったのだろう。以前から腹を括ったと百合子に俺自身言っていたが、もう少し違ったやり方ができたんじゃないか? 周りから頭が切れると言われ、自分でもそう思っていたが、単なる馬鹿だったという事だ。結果的にお互い嫌な思いをして、おまえを傷つけてしまっただけなのだから…。男が生まれたら『大地』と名前をつけたかった。以前、百合子に話した事あったよな? 俺の師匠でもう亡くなってしまったけど、ずっと…、今でも忘れずに恩を抱いている人がいた事を…。何の恩も返せないまま、先に逝かれてしまった。俺に生き方を教えてくれた素晴らしい人だったんだ。その人の名をできたらつけたかったんだ。都合のいい言い方だが、本当にそう思っていた。しばらく俺はずっと一人で生きていくだろう。俺たちの子の事はずっと心にとどめながら生きていくのが、せめてもの償いだと思う。一人の生命を…、愛し合ってできた生命を消してしまった。俺とおまえのエゴで消してしまったのだ。でも深く傷ついているのは百合子だ。俺は精神的なだけで…。本当にごめんな。そして男か女か分からないけど我が子よ…。俺が悪かった。】

 読み直して見ると、まるで百合子宛てに書いた手紙のようだ。手帳に書き終わり、時間を確認するとまだ十時半だった。一時までかなり時間がある。このまま待っていると気が狂いそうだった。
 病院内にいるのが嫌で堪らない。気がつくと俺は外の駐車場にいた。車に乗り込み発進させる。
 自宅に向かって運転する。ただ待つという事に我慢ができない。自分の生き方を少しでも誇りに思えるようにしたい。
 今、俺ができる事。それは西武新宿の件に対して後ろ指を指される事なく、正々堂々と決着をつける事だ。
 実際に彼女やお腹の子には関係ないかもしれないが、自分の正しいと思った主義思想は投げ出さずに頑張りたい。今日までは西武新宿に対して悪い方向に考えていたと思う。終電時間を二時してみようとか、俺の書いている小説を広告で宣伝させるとか……。
 そんなんじゃない。これからでも自分自身を恥じない生き方をしよう。
 部屋に着いて、ノートパソコンをバックにしまう。待っている間だけでも『とれいん』を書き進めよう。西武新宿の中傷内容じゃない、いい形の物語を作ろう。
 病院に着いて先ほどの待合場所に向かう。周囲の目など一切気にせずに俺はパソコンを起動させた。
 読んだ人が良かったと思えるものを書きたい。
 一心不乱にキーボードを叩きながら物語を進めていった。

 十二時五十分。百合子が言っていた手術が終わる予定の時間まであと十分。俺は構わずに小説を続けた。
 横では赤ちゃんが産まれたばかりの幸せそうな家族が看護婦と話をしている。見ていて辛いが、結局のところ自分の招いた種なのだ。現実を受け入れろ。これ以上自分に甘えるな。どんどん物語を完成させろ。自分を叱咤激励させた。
「俺はこれ以上、自分の生き方を間違わない……」
 そっと心の中で呟いた。その時遠くから通路を歩く百合子の姿が目に入った。
 手術が終わったのか……。
 俺はジッと見つめながら、彼女が近付くのを待った。
「……」
 何て表現したらいいのだろう。手術前と手術後で百合子の顔がまるで別人のようになっていた。魂が抜けたような感じだ。自然に俺は駆け寄り抱き締めた。
「百合子、大丈夫か! 大丈夫か!」
「……」
 目も虚ろでどこを見ているか分からない彼女の姿を見て、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 何が自分にも責任あるだ。こいつ自身は充分償いをしている。
 悪いのは全部俺だ。
 今まで何故もっと百合子に気遣ってやれなかったのだろう。マタニティブルーという言葉があるぐらいだ。百合子は妊娠していて精神状態だって安定してなかったのだ。今になってそんな大事な事に気付いても遅過ぎだ。
 俺は大馬鹿だ。本当に大馬鹿だ……。
「ごめんな。百合子、本当にごめんな…」
「ううん……」
 エレベータで一階に降りて受付近くの椅子に座らせると、ようやく彼女は口を開いた。
「大変だったろ? 辛かったろ? 大丈夫か?」
 ありきたりの言葉しか掛けられない自分が情けない。この程度のボキャブラリーしかないのに、よく小説を書こうだなんて思ったもんだ。それでも俺は思いつくまま話し続けた。
「おまえがどんな思いで手術に望んだのか、俺には分からない…。ただとても大変で辛かったのだろうって事ぐらいは分かりたい。そんな簡単な言葉じゃ、百合子の気持ちを言い表せないのかもしれないけれど…。手術終わった後のおまえの表情を見て、俺が悪かったんだなと本当に反省した。すまなかった……」
 ゆっくり時間を掛けて彼女は唇を開く。
「ううん、もう…。もういいの」
「ごめん……」
「これで…、これで終わりに…、しよう……」
「……。うん……」
 相手の言い分を優先させたい気持ちでいっぱいだったが、どこかが引っ掛かっている。これで俺たちの関係を終わりにするとしても、もっとちゃんと話し合ってスッキリさせてやりたい。自分勝手な考えだが、そうするのがお互いの為になると思った。
「ああ、これで俺たちは終わりだ。俺、手術で待ってる間ずっと色々考えていたんだ。確かに待ってるのが辛くなっちゃって、パソコンで小説書いて自分を誤魔化してたけどね。俺は百合子が好きだよ。今だってね…。もちろんおまえもそうだったと思ってる。ただ、お互い好きと言っても、その度合いが違ってた事に気付かなかったんだと思う。こうなるまでずっとお互い責任があると思っていた。だけど手術が終わった時の百合子の表情を見て、ハッキリ分かったんだ…。俺がすべて悪かった。やり直したいとかそういう事を言ってるんじゃない。おまえが妊娠中なのに何故もっと俺が気遣ってやれなかったんだって後悔してる。この気持ちはずっと…、いや一生背負って生きていくつもりだ」
「……」
「あと、これだけはお互い必ず約束しよう」
「え?」
「以前百合子に子供を産む資格はないと言った事…。本当にごめんなさい! 俺もおまえも、もしいい人と巡り会って子供を作る事になったとしても、その前に籍をちゃんと入れてからにしよう。勢いとかだけじゃなくてさ。じゃないと産まれてくる子供が可哀相だ。約束できるか?」
「はい」
「何か俺に言いたい事あるか?」
「ううん……」
「分かった。今まで本当にごめんな」
「そんな事ない。ありがとう……」
「帰りはどうするんだ? 送って行こうか?」
「今朝もそうだけど、友達の麻子ちゃんが帰りも送ってくれる約束してるから大丈夫」
「そうか…、何時に来るんだい?」
「一時ぐらいにはって言ったけど……」
 時計を見ると一時半を過ぎていた。
「とっくに過ぎてんじゃん。もっと早く言ってくれよ。俺なんか気にしないで連絡しなよ。ほら早く」
「うん」
 携帯を取り出して友達に電話を掛ける彼女を見て、一つの恋が終わったんだなと自覚した。寂しいけど自分の蒔いた種だ。現実を受け入れるしか俺には選択肢がない。
「麻子ちゃん、もうとっくに駐車場で待ってたんだって……」
「じゃあ、早く行ってやりな」
「うん」
 二人で立ち上がり、病院の玄関に向かう。俺はそばで百合子の体を支えながらゆっくり付き添って歩いた。外に出ると、友達の麻子ちゃんの車が待っていた。
「今日の病院の費用、いくら掛かったんだい? そのぐらい俺に払わせてくれ」
「大丈夫」
「百合子、そういう問題じゃないだろ。俺の気が済まないんだ」
「あなただけが悪い訳じゃないでしょ。お互いが余裕なさ過ぎたんだよ。きっとね…。だから大丈夫。今までデート代から何からほとんど龍に出してもらったでしょ? いつも悪いなって、これでも思っていたんだよ」
「今はそんな事を話してる訳じゃないだろ。せめていくら掛かったぐらい教えてくれ」
「駄目…、言わないよ」
 そう言って百合子はあれ以来初めて微笑んでくれた。麻子ちゃんが車の中から心配そうな目で俺たちを見ている。
「分かったよ。さっきから友達も待ってるだろ。早く行ってあげなよ。最後に本当に困ったら何でも言ってきな」
「うん……」
 また百合子は俺に微笑んでくれた。少しだけ救われた気持ちになる。俺は麻子ちゃんの車に歩いて行き、礼儀正しく頭を下げた。
「迷惑掛けてしまいすみません。よろしくお願いします……」
「いえ……」
 俺は百合子の乗った車が発進して見えなくなるまで、その場に立って見送っていた。自分がした事は許されない行為だ。でも彼女の最後に微笑んでくれた笑顔でスッキリできた。
 俺って本当に人間失格だな……。
 親父やお袋を呪っていたけど、俺が一番呪われるべきなんだ。
 今日、自分のエゴで我が子の命を奪ってしまった。ずっとこの事は背負っていくしかない。忘れてはいけない事だ。大事なのは今後の俺自身の生き方だ。
 今の自分のできる事から始めよう。
 西武新宿の問題。いい方向で自分を示したい。今、書いている小説『とれいん』は出来る限りいい作品にしなきゃいけない。相手を憎むんじゃない。あの件はみんなが笑って済ませるようにもっていきたい。それが今現在、我が子と百合子に対する償い方だと思った。
 これだけ辛い目に遭っても俺はまだ生きようとしている。それなら胸を張って生きていきたい。我が子よ…。頑張って生きるから見ていてくれ。

 家に帰り小説を黙々と書いていると、携帯が鳴る。坂本からだった。
「もしもし、どうかしたんですか?」
「神威ちゃん、デジカメの件だけどさー」
「はい」
 一体、何の用だろうか?
「ちょっとこっちに出てきてくれないかな?」
 その言葉に正直愕然とした。先日ちゃんと仕事を休む理由について、ちゃんと話したはずだ。恥も外聞も捨てて正直に用件は伝えた。確かに今は百合子の手術も済んで何も予定はない。だけどさすがに仕事をする気にはなれなかった。
「すみません。今日、女の件で休むと昨日言ったはずですが」
「それは分かるけど、この間撮ったデジカメの画像をパソコンに入れるのに繋ぐコードを持ってくるって言ってじゃない? だからそれ持って来て欲しいんだよね」
 坂本の台詞を聞いて思わずムカッてくる。どうせ俺が行かないと、パソコンを誰も扱えないのだから何の意味もない事だ。
「申し訳ないですけどその件については明日にしてもらえませんか? 今日、どうしても必要なものではないと思いますが……」
「それはそうだけど、明後日にみんなで打ち合わせするだろ? だから今来てみんなに説明してほしいんだよ」
「あのー、お言葉ですが…。今日…、俺は自分の子供をおろしてるんです。その件につきましては、明日朝一で俺が店に行ってからやれば、すぐ済む話です。それじゃ駄目なんですか?」
 今日ぐらいは、自分を見詰め直したい。自分の子供をこの世から消してしまった。その事実を受け止めたかった。
 店にとっては自分勝手な行動に思われるだろうが、ちゃんと休むと筋は通している。重要な件でならまだ分かるが、どうでもいいくだらない事で呼ばれるのはイライラしてくる。
「神威ちゃんが来ないと話しにならないじゃん? パソコン扱えるの、神威ちゃんしかいないんだから。とりあえず今日来てよ。大変なのは分かるけど、夕方出てきて二、三時間の間だけでもパソコンいじって今日は帰りますなら誰も文句言わないよ」
 そんなのはただのエゴだ。それに給料だって出ず、電車賃だって自腹なのだ。それにこの状態でそんな薄情な事を言うなら、別に納得などしてもらわなくてもいい。
「でも、今日は本当にそれどころじゃないんですよ」
「それじゃみんな納得しないから、出てくるだけ出て来てよ」
 こんな奴と働くのを辞めてやろうかと思った。何故たいした用件でもないのに、わざわざ新宿まで行かないといけないんだ?
「おい、納得しないって何だよ! 悪いけど辞ぁ……」
 もう辞めると言い掛けて慌てて思い留まった。
 子供を俺は殺してしまった日なんだぞ?
 今日ぐらい怒るのはやめよう……。
 できる事からやっていくと決めたはずだ。
 けじめだけはつけよう。
 それに今、俺が中心で動いているホームページ作成の仕事。辞めたら誰が代わりをできるというのだろうか? すでに地元の先輩の榊さんたちを巻き込んでしまっているのだ。このままだと気に食わないからそれから逃げると周りから非難されるだけ。少なくとも今の自分自身が手掛けている仕事はやり遂げないと辞める訳にはいかない。
「分かりました。ただ、今すぐという訳にはいきません」
「何時ぐらいに来れそうなの?」
「夕方…、そうですね。六時ぐらいには行きます」
「分かった。早く来てよね」
 携帯電話を切って布団に寝そべる。早いとこホームページを完成させないと…。すべてにおいて無茶苦茶な要求が多過ぎる。それに短期間で色々な事が起き過ぎた。まず西武新宿の件、子供をおろした事、百合子との別れ、そして度重なる店の理不尽な要求。
 疲れた…。体や神経が疲れを訴えていた。
 まだ時間は三時。五時ぐらいの小江戸号に乗れれば、仕事のほうは問題はない。
 俺は百合子の事を考えた。あれからどうしているだろう。もう俺たちの関係は終わったのだ。それでも気にはなる。素直な気持ちをメールで打って彼女に送ろう。俺は携帯を手に取り、メールを打ち出した。
《百合子、今まで本当にありがとう。時間にしたら短い期間だったかもしれないが、愛し合いし過ぎたぐらい俺とおまえはお互いを求め合ったと思う。お互いの誕生日だって祝えたし、旅行だって行けた。俺には本当に新鮮で面白かったよ。初めておまえがサンドイッチ作ってくれた時は感動したよ。百合子の事、とても大事に想っているし、今でもそれは変わらない。だから今日みたいな事になって本当に残念だ。傷つけ、そこまで追い込んだ俺が悪かった。お互いの関係は終わったけれど、今日の事を戒めに頑張って生きていきたい。もし、おまえが誰か今後、素敵な人と巡り会ってその人との子供を産んだとしての話だけど、将来成長してその子が大きくなった時、あの人と私は付き合ってた事あるんだよって誇りに思えるような人間になりたい。百合子に対しては間違った愛し方だったかもしれない。だけど俺でも人を愛する事ができたんだなと初めて思わせてくれた。本当にありがとうと感謝している。ずっと何年も一緒にいた感じがしたよ。嫌な思いさせてごめんね。今日みたいな事させてすまなかった。困ったらいつでもいいから俺に言ってきな。俺はそばにはいないけど、そんな時があったら素直に頼ってくれ。俺は頑張って生きる。百合子も頑張って生きてくれ。今日亡くなった子の事は、ずっと心に刻み込むよ。俺から最後の言葉だ。本当に百合子が大好きだったよ。今までありがとう。 神威龍一》
 送信する前に何度も打ったメールを読み直した。読んでいて涙が出てくる。申し訳ないという思いでいっぱいだ。時計を見ると、四時半を過ぎていた。そろそろ仕事で新宿に向かわないといけない。目一杯気持ちを込めて、俺はメールを送信した。

 新宿へ着くと、年末も近付いたせいか人の数がいつもより多い。人ごみを掻き分けて『ガールズコレクション』に向かう。
 もうとっくに涙は乾いていた。これからは自分一人の戦いだ。西武新宿の件も仕事の件も簡単に片付けてやる。みんなが幸せな形になれるように……。
「すみません、仕事の件でみんなを困らせて申し訳なかったです」
 会社に着くなり低姿勢で頭を下げた。もういざこざはごめんだ。
「まあいい。このデジカメの撮ったのをパソコンで見るにはどうしりゃいいんだ?」
 オーナーの村川がデジカメを手に取りながら聞いてくる。
「このUSBケーブルをパソコンに繋げてこちらの部分をカメラに繋げて下さい。カメラの電源を入れます。これでパソコンはデジカメを認識しました。今、中の撮った画像をパソコンに送ります。これは枚数があるほど時間が掛かりますので、その辺は予め了承して下さい」
 時間にして一分半、すべての作業が終わる。パソコンの中にコピーされた画像をみんなの前で見せる。
「おおっ!」
「これ写真にもできるのか?」
「もちろんプリンターも高性能の物を買ってますので、その白紙の光沢写真用紙を使えば綺麗にできます」
「便利な世の中になったなー」
 村川は感心したように頷いている。
 こんなパソコン初心者でもできるような事で呼び出されるとは……。
「この風景をうまくいじったりは?」
「もちろん可能です。例えば、プロのデザイナーがよく使ってるこのアプリケーションソフトを起動させましょう」
「何だ? アップリケって?」
「簡単に言えば、この写真を加工したり色々できる便利なものの事です」
「加工?」
「だから写真をさっき言われたようにいじったりする事です」
「ふーん」
 こんな感じで俺は四時間半ほど、説明をしながら次々と作業をこなしていった。時計の針は十一時近くになっている。その時、携帯が鳴った。聞き覚えのある着信メロディ…。百合子からの着信だった。一体どうしたのだろう? 何かあったのか?
「おい、神威。この写真をこうやってこんな感じにできるか?」
 パソコンの便利さが少し分かったのか村川は妙にご機嫌だ。本当にくだらない連中だ。見ているだけで吐き気がする。
「すみません、ちょっといいですか」
 俺はみんなの前から離れ、百合子からの電話に出た。
「……」
「百合子、どうした? どうしたんだ?」
「あのね…。……。やっぱりいい…。ごめんね……」
「いいって事あるかよ。何か言いたい事があったから電話したんだろ?」
「……」
 電話の向こうで百合子は鳴き声を押し殺している。
「何でもいいから言ってみな。な?」
「やっぱり…、いいの…。何でもない。だ、大丈夫…。ごめんね」
「泣いてんじゃないかよ。大丈夫な訳ないだろ? 何でもない事でもいいから言いなよ」
「……」
「百合子、黙ってちゃ分からないよ。言い辛くても言ってみな」
「……」
「じゃあ、何でわざわざ電話を俺にしてきて泣いてんの?」
「あ…、あのね……」
「うん、何だい?」
「きょ、今日は自分の部屋に行たくないの……」
「俺にどうしろって言うんだい?」
「今日…。……。逢ってくれないかな……」
「ああ、分かった。ただ、今仕事で新宿にいるんだ。すぐ帰るからそれまで大丈夫かい?ほら、そんなに泣かないで…、な?」
「うん」
「川越に着く頃になったら連絡するから」
「分かった。待ってるね」
「百合子…、体は大丈夫かい?」
「うん、大丈夫」
「もうじき十一時だから、多分十二時ぐらいまでには着くよ。それでいい?」
「うん」
 携帯を切ると、オーナーの元へ行き、帰らせてもらうとハッキリ自分の意思を伝えた。さすがに今度は文句を言う者は誰一人としていなかった。こんな日にわざわざ呼び出されて来たのに、結局どうでもいい事ばかりだ。帰り支度をしていると坂本が声を掛けてくる。
「子供、おろしたの?」
「……」
「あれ、どうしたの?」
「おろしたから、今日休んだんじゃないですか!」
「そんな怒らないでよ。おろしたおろしたって言ってるけど、それを言ったら俺なんて、何回もおろしているよ」
「キサマ……」
 気付けば無意識の内に坂本の胸倉をつかんでいた。
「何をしてんだよ、神威! やめろ!」
 村川や若松が間に入ってくる。この馬鹿の顔面に渾身の一撃をお見舞いしたかった。
「急ぐんで失礼します」
 それだけ言うと、俺は『ガールズコレクション』をあとにした。
 もう俺がこの店で働くのは長くはないなと感じた。坂本と俺とでは感覚が違い過ぎる。頭がおかしいんじゃないかと思った。自慢でもしてるつもりなのか? よくもそんな台詞を吐けたものだ。
 俺は子供をおろすなんて、あのような思いはもうごめんだ。二度と味わいたくない。よく何回もおろせただなんて平気で言えたものだ。坂本の言うおろすと俺とは、明らかに種類の違うものなんだろう。
 どうでもいい事を考えながら、西武新宿駅に着く。改札を抜けて小江戸号の特急券を購入すると、特急車内清掃待ちの乗客が列を作って並んでいる。俺も列の最後尾に並び、小江戸号の清掃が終わるのを待った。
 駅員が特急券の確認目的の為の捺印を前から押しながら近付いてくる。どこかで見たような……。
 そうだ、この間の駅長の峰だ。
 俺はずっと峰の顔を睨みつけた。しかし峰は素知らぬ表情で俺の切符に捺印して、さりげなく素通りして過ぎていく。後ろを振り返り峰を睨みつけても完全に俺を無視しているようだ。さっきの坂本の件といい、今の峰の態度といい、腹が立つ事ばかりだ。
 列の先頭が動き出す。清掃が終わり、電車のドアが開いたようだ。俺も列の進む速度に合わせて歩き入り口まで行くと、若い駅員が立っていたので声を掛ける。
「おい、今日の駅長って誰よ?」
「は?」
「今日の駅長は?」
「は、はい。本日は峰駅長です」
「そいつに言っとけ。告訴されねえと分からねえのかって」
「は、はあ……」
 完全な八つ当たりだが、向こうの出方がああだからこのぐらい言っても罰は当たるまい。若い駅員には気の毒だったが少しだけ気分がスッとした。これから百合子と会うのに少しでもイライラをなくしたかったのだ。

 本川越駅に着いて改札を出る。時刻は十二時を回り、日付が変わっていた。電話を掛けようとすると、百合子の車がロータリーに停まっていた。俺は駆け足で近付く。
「ごめんな、遅くなって……」
 ドアを開けながら車の中に入ると、思わず言葉が止まってしまった。百合子のうつむいた横顔を見た瞬間だった。今日の手術後の時よりもさらに酷くやつれていた。
「百合子…、大丈夫か?」
「うん……」
「でも、すごい疲れきった顔してるぞ。体調は大丈夫? 痛くないの?」
「うん、大丈夫」
「そうか…、でも本当に無理はしないでくれよ」
「大丈夫だよ。ただね…、今日だけは家にいたくなかったの。親が私を心配するのは当たり前でしょ? でもそんな状態で家にいたとしても、どんどん悪い方向にいくような気がして……」
 俺は男で彼女の苦悩は理解できないが、その気持ちだけは分かるような気がした。
「ああ、分かったよ。でもどうすんだ、これから? お腹は減ってないか?」
 ゆっくり優しく話した。
「うん、平気。大丈夫。」
「じゃあ、俺の部屋に来るか?」
「きょ、今日は誰もいないところのほうがいいな……」
「ああ、分かったよ。その辺のホテルでいいか?」
「うん……」
 静かに車を発進させて、近くのホテルに向かう。ホテルに着くまでの間、お互い無言だった。百合子の横顔を見ていると、何も言葉が思い浮かばなかった。
「ここは私に出させて」
「何、言ってんだよ」
「お願いだから…、ね?」
「うーん、分かったよ」
 彼女の気持ちを素直に受け入れる。ホテルの部屋に入りコートと上着を掛け椅子に座る。タバコを吸おうとして慌てて火を消した。百合子が妊娠中だった時、つわりのせいかタバコの煙でよく気持ち悪そうにしていたのを思い出したからだ。
「もうタバコ、大丈夫だよ。気にしないで吸って」
 さり気ない百合子の気遣いが心に突き刺さる。タバコを気にしないで吸っても大丈夫なようにさせたのが、俺のせいなのだ。その為に失い、傷ついたものが多過ぎる。
「辛い思いさせちゃって本当にごめんな。体、異常はないか?」
「うん……」
「無理しないで休みなよ。ベッドに横になったら?」
 百合子をベッドに寝かせて、俺は再び椅子に腰掛ける。一時間ほど昨日の出来事を振り返っていた。
 いくら後悔しても二度と戻る事はできない悲しみ……。
 もう彼女は寝たかなと思い、ベッドのほうを振り返る。
「お願いがあるの……」
 振り向いた瞬間、百合子と目が合い、いきなり声を掛けられたのでビックリした。まさかまだ起きていたとは……。
「な、何だ?」
「腕枕してくれる?」
「そんな事ならもっと早く言えばいいのに……」
 俺もベッドに入り、右腕を百合子のほうにゆっくり伸ばす。少し前なら当たり前の光景が、今では遥か昔の事のように感じる。そっと右腕に頭を乗せる彼女を俺は優しく抱き締めた。
「辛かったろ? 大変だったろ? 我慢しないで思いっきり泣いたっていいんだぞ」
「……。うっ……」
 声を殺しながら俺にしがみついて泣く百合子の姿を見て涙が出てきた。懸命に涙を堪えようとしても我慢できなかった。
 二人で抱き合って思い切り泣いた。どのぐらい泣いただろう。百合子の顔を見てゆっくり話した。
「俺もおまえも今日失った命…、いや、子供をずっと想いながら生きよう…。こんな辛いなら、強引にでも止めれば良かったよ。都合いい言い方かもしれないけど」
「私…、手術の前になっても…、受付の時でも…、泣いてでもいいからやめればよかった。なんでこんな事になっちゃったんだろって……」
 自然と抱き締めている腕に力が入る。
「最後に言ったろ? 俺…、本当にいいのかって」
「……。もうね…、遅かったんだ……」
「何で?」
「前に龍へ電話したでしょ?」
「ああ……」
「あれから子宮口を広げる処置をしに行ったの…。二日間に渡って手術を行うようなもんなの。病院によって一日のところもあるみたいだけどね。だから龍にこれから病院に行きますって電話したでしょ?」
 いくら妊娠の事に知識がなかったとはいえ、馬鹿な台詞を言ってしまったものだ。あの時のはにかみ笑いをしたように見えたのは、そのせいだったのかもしれない。
「もう、すでに手遅れだったんだ…。ごめんな」
「ううん、しょうがないよ。きっとお互いに余裕がなかったんだし、おろした子には可哀想だけど、これで良かったんだと思うよ」
「……」
 何て答えていいか分からず、何も言葉が見つからなかった。
「そんなに落ち込まないで」
「だって……」
「いつもの龍らしくないよ」
「あ、当たり前だろ……」
「もう…、元気出してよ」
 あれだけ辛い思いをしたのに、俺を気遣ってくれる百合子。何を自分自身落ち込んでいるんだ…。今は自分の事より百合子を元気づけないといけないのに……。
「ごめんな。俺、本当どうかしてた……」
「しょうがないよ」
「俺だけはそれで済ませちゃいけないんだ」
「へへっ」
「何だよ?」
「ようやくいつもの龍らしくなってきたなって思って」
 気がつけば朝の五時半まで、俺と百合子は延々と話をしていた。お互い今日の仕事は辛い状態で迎えなくてはいけない。それでも会話は止まらなかった。
「何でもっとこういう風に早く、話をできなかったんだろうね」
「そうだな」
「電車の件はどうなったの? 私、あれから何も聞いてなかったし……」
「ああ、小江戸号の件か……」
 この話をするととても長くなるが、西武新宿駅での出来事を細かく伝えた。
「結局そのメガネの女の人が一番悪いんじゃないの?」
「そうだな。でも、その場の駅員の対処も悪いし、謝罪するのも遅過ぎる。俺は別に金銭を要求してる訳じゃない。反省しているのなら、ちゃんと謝れって言いたいだけなんだ。おろしてしまった子供に対して、俺がちゃんと正々堂々と生きないと申し訳ない。どこかで俺を見ていてくれって思っている。恥かしい生き方はできない。俺は俺らしく生きる。それがせめてもの供養だと思っている」
「うん……」
「実は今、小説を書いているんだ」
「小説?」
「ああ、百合子が手術終わった時、俺、パソコン開いてただろ? あの時も小説を書いてたんだ。今話した西武新宿の事がメインになっているけどね。ただ中傷的な内容じゃなく、できればみんなが笑顔で終われるようなエンディングにしたい。その為にも今、揉めている駅長の峰の件は、ちゃんとけじめをつけさせなければいけない。もうじき今年も終わる。みんな、笑って年を越したいじゃん」
「うん、そうだね」
 そう言って百合子は最高の笑顔を私に見せてくれた。

 ほとんど寝ずに彼女と別れ、仕事へ向かう。本川越駅まで送ってもらい、小江戸号の特急券を買いに行く。
 別れ際に言われた百合子の言葉が頭の中で蘇る。
「今日逢ってくれて本当にありがとう。私を見捨てずに付き合ってくれてありがとう。また逢おうね」
 逢った時はやつれ酷い表情をしていたが、別れる時は笑顔になっていた。その変化が分かっただけでも良かったと感じる。
「すみません。十一時三十分の小江戸、喫煙で」
 駅員に口頭で伝えながら財布を取り出す。何か違和感を覚えた。
「四百十円になります」
「あ、はい」
 とりあえず金額を払って切符を受け取り、改札口を通る。小江戸号に乗り込んでから、早速メールを彼女に打つ。
《頑張れよ。もっと早く今日みたいな素直さだしてたら、お互いいい方向に転んでたと思うぞ。でも顔つきが昨日今日で全然違って良くなってたから安心したよ。俺も色々話せてスッキリできたしね。本当に百合子は俺なしじゃ駄目な奴だ。眠いだろうけどあまり無理するなよ。体、ゆっくり休めて大事にな。 神威龍一》
 メールを送ってから、先ほどの違和感を思い出す。再度財布の中身を確認してみた。俺は面倒臭がり屋でいつもいくらあるかキッチリ見ている訳ではないが、どう考えても三万円ほど中身が多い。
 中の札を数えてみる。十二万と七千円……。
 どう考えてもおかしい。十万以上は入っていなかったはずだ。あいつが入れた以外思いつかない。メールで百合子に確認してみる事にした。
《百合子、俺の財布に三万ぐらい入れただろ? 十万以上は入ってなかったはずなんだ。こんな事されても困るよ……。 神威龍一》
 何でこんな真似を…。窓の外の景色を見ながら今朝の様子を思い出す。
 朝、目が覚めた時は十時半過ぎだった。百合子の姿が横にいないので、焦って飛び起きたらシャワーを浴びていた。ホッとしたものの会社の出勤時間遅刻だろと訪ねると、彼女は半日だけ代休使ったから大丈夫と言っていた。そのまま俺はコーヒーを入れ、少し離して駅まで送ってもらったのだ。
 どう考えても俺が寝ている間、百合子が財布にお金を入れたとしか思えない。それにしても何であいつは何故……。
 その時携帯電話に明かりが点き、Eメール受信中になった。
《バレた? 確かにお財布に三万入れました。龍に直接言ったら龍は絶対に受け取らないでしょ? 私、龍がいつもだしてくれてる分、私の財布分で今後の資金にとっておこうと、へそくってたの。入居費用に家電だって家具だって買い足すはずだったし…。その中から昨日の費用も出したし…。だから龍が困る事なんてないのよ。ただ私の貯金計画も六月頃まで見越しての皮算用だったから微々たるものなんだけどね。だからそれは当たり前に受け取って。お願いだから…、ね? 百合子》
 隣に乗客が座っていなかったら、泣いていたところだった。あいつ…、こんな事思っていたならもっと早く言ってくれればいいのに…。そうすれば、子供をおろせだなんて…。本当に大馬鹿野郎だ。そんな事に気付きもしない俺は、もっと大馬鹿野郎だ。
《危なく人混みの中で泣きそうになっただろ。もっと早く言えば良かったんだよ…。おまえは何でそうなんだよ? 俺は百合子を妊婦だというのに気も使わないで、俺たちの子供をおろさせて、散々ボロボロに傷つけた最低野郎なんだぞ? 金の事を言ってんじゃないぞ。そういう優しい気持ちを持っていたなら、あの時出して欲しかった。まったく自分が情けないよ。 神威龍一》
 メールを打っていると、画面が曇ってよく見えなくなる。目に涙が滲んでしまい、周りに悟られないようにするのが精一杯だった。百合子に対して自分のした行動の愚かさを呪う。スッキリしたつもりが、全然スッキリしてなかったのだ。さらにメールを打ち続ける。
《もっと俺を罵ってくれればいいのに…。そのほうが楽だよ。俺は許されちゃいけない事をおまえにした最低な男だぞ。こんな周りまで巻き込んで、俺をこんな気持ちにさせて、どうしたいんだよ? 百合子をスッキリさせられたと思ってたのに俺の潜在的な…、悲しみの部分が一気に大きくなって…。まだ…、全然百合子の事大好きなんだって気付いた。その気持ちに気付くと、百合子にしてしまった事に対して自分自身呪ってしまうよ。馬鹿なのは俺だけだったんじゃないかよ。俺は生きる価値もない……。 神威龍一》
 メールを送信すると、小江戸号は西武新宿に到着する。これじゃ今日は仕事する気分じゃない。でも現実からは逃げられないんだ。
 自分自身を見詰め直して、いかに情けないかがよく分かった。自信持って生きてきた分、ショックが大きかった。それでも俺は前に出て、頑張っていかなければいけない。
 自分だけじゃないのだ。亡くした我が子の分も、百合子の分もすべて背負って生きなくては…。それが俺の宿命だ。
 女は偉大である。誰かが言っていた言葉。
 今はそれがよく分かるような気がした。

 
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