とれいん
執筆期間 2004年12月12日~2004年2月5日 352枚
今日の仕事を済ませ、帰り支度を済ませる。家に帰って飯を喰い風呂に入れば、あとは寝るだけだ。川越と新宿を毎日のように往復して、週に一度だけの休みを部屋でゴロゴロして過ごす。それが三十三歳になった私の日常だ。その生活に対して特に不満は感じない。仕事に充実感をもってる訳ではないが、自分の生き方というものについて日々考え、出来る限り自分の理想通りに生きたい。その部分にこだわっているせいだろう。言い方を代えれば、そうして生きていく事が自分自身好きで堪らないのだ。
男に生まれたからには男らしく生きたい。シンプルで簡単な事にように見えて、これが中々厄介なものである。これもこだわって生きる事の一つであろう。人間こだわりというものを捨て去れれば、みんな仲良く出来るんじゃないかと思うが、それは人間である限り捨て去る事は出来ない。大なり小なり個人差はあるにせよ、みんな考えこだわりながら生きていく本能が人間には備わっているのだ。私はそう思いたい。
評価というものは非常に曖昧なもので、自分自身で自分を評価してしまうと、実際の評価よりも他人は低く見られる傾向がある。自分が好きで好きで堪らない。だから他人に、自分のしてきた事をつい言いたくなってしまうのだ。周りがあの人はこうなんだよと、勝手に評価してくれるのが理想だろう。
人間として大事な事。義理人情、思いやり、優しさ、礼儀作法、嘘をつかない、自分の意見をハッキリと言える事など、あげればキリがない。私は仕事中でもプライベートでもいつもこんなことばかり考えている。結局のところ自分が可愛いから、いつだって格好良く生きていたいのだ。
仕事先は新宿。住んでいるところは川越。通勤手段は電車を利用する。川越から新宿まで行く場合、詳しく言えば三つの通勤パターンがある。東武東上線の川越駅から池袋駅まで行き、山手線に乗り換えて新宿。もう一つは埼京線を使って川越駅から新宿。最後に西武新宿線の本川越駅から西武新宿駅までという方法だ。時間的に早く行きたいのなら東上線を使って行くのが一番早いだろう。乗換えという非常に面倒臭いものがあるが…。
私は楽に通勤したいので西武新宿線をいつも利用していた。利点をあげると、まず職場に一番近いのが西武新宿駅だという事。乗り換えなしの一本で電車が到着する事。西武新宿線において、本川越駅と西武新宿駅は両方とも終点の駅なので、必ず座って行ける事。そしてなによりも別途に費用は掛かるが、小江戸号という指定席の特急で、煙草を吸いながらゆっくり通勤出来る点が一番の理由で私は西武新宿線を利用していた。
今、話に出た小江戸号だが、私は十年ほど好んでこの特急を毎日のように使っていた。この電車があるから私は十年間も川越から新宿までの距離を苦痛に感じずやってこれたといっても過言ではない。片道で特急料金四百十円の小江戸号は月に換算すると、いい金額を使ってる計算になる。もちろん会社に交通費は請求出来ても、小江戸号の特急料金まで請求出来る訳にはいかない。それでも自分の精神的なリラックスを兼ねて、自腹でお金を払ってこの小江戸号に乗って私は通勤するのであった。
小江戸号は四十三分の時間で、私を新宿まで運んでくれる。電車の両端にはジュースの自動販売機にトイレも設置されていて、ちょっとした小旅行に行くような錯覚を感じさせてくれる。車両は全部で七車両。真ん中の四号車が喫煙になっていて、残りの車両はすべて禁煙だった。思えば十年も私はこの四号車に乗って煙草を吸いながら通勤しているのだ。
十年も同じ電車に乗っていると様々な出来事がある…。
ある日、私が川越に向かう帰りの小江戸号に乗っていると、年配の駅員に声を掛けられた。よく切符の点検の時に顔を合わせるので顔馴染みになり、挨拶ぐらいはする間柄になっていた駅員だった。
「お疲れ様。」
「あ、どうもこんばんは。お疲れ様です。」
「実はね、私も今年で定年なんですよ。」
「そうなんですか、それはお疲れ様でした。」
「お客さんとは毎日のように顔を合わせていたから、一言ぐらい挨拶しておきたくてね。やっぱり少し寂しいですね…。」
「こんな自分にわざわざ気を使ってもらって、ありがとうございます。」
「今度、ここが終わったら田無の駅前の自転車置き場で働く事が決まってるんです。」
「あれー、それは大変ですね。頑張って下さい。」
「ええ、お客さんも…。」
会釈する程度の間柄でも、この駅員が定年退職すればその関係はなくなる。そう考えると私も少し寂しい感じがした。お互いの名も知らず、ただ笑顔で挨拶を交わすだけの仲でも、小さな信頼関係が生まれていたのかもしれない。
小江戸号が止まる駅は本川越、狭山市、所沢、高田馬場、西武新宿の五つの駅になっている。所沢から高田馬場までは駅と駅の間が距離があるので三十分ぐらいはノンストップで走り続ける。
プライベートの用事で新宿に向かう時の事だった。夜九時の小江戸号に乗ると、車内はガラガラでいつも満席になる四号車でも座っている客はまばらであった。朝の通勤時とのギャップに驚きを感じたが、普通に考えてみれば当たり前の事である。所沢を出てから私は喉の渇きを覚え、セカンドバックを座席に置いたまま自動販売機へジュースを買いに行く事にした。バックの中には小説が三冊に手帳ぐらいしか入っていなかったので、もし盗まれたとしても大した被害はない。それに三十分も電車の中から逃げられないような状態で、盗む奴もいないだろうと…。
私がジュースを買って席に戻ろうとすると、ドアの窓越しにサラリーマン風の中年が目に入った。私は五号車と四号車の間の場所で立ち止まり、そのサラリーマン風の男の様子をしばらく見ていた。何故そうしたかというと、その男は私の座席の所で何かをしていたからであった。
私が窓越しで様子を見ているのも気づかずに、その男はかなり慌てながら自分のアタッシュケースにセカンドバックごと捻じり込もうとしている。小説が三冊も入ってパンパンに膨れている私のセカンドバックは中々アタッシュケースに収まらない。見ていて滑稽だった。これだけがら空きなのだから、どうせ盗みを働くならサッと私のバックを盗って、別の車両でゆっくりとアタッシュケースに中身だけしまえば済む話だ。男がバックを捻じり込んだ瞬間を見計らって、私は自動ドアを開けた。突然の出来事に対応出来ない惨めな中年サラリーマン。私のほうを見てポカンと呆気にとられていた。私は眼光を鋭くして無言で相手を見据えているようにした。
「ち、違うんです。これは違うんです。」
その男は立ち上がり、必死に手を振りながら弁解しだした。
「何が?」
「わ、忘れ物かなと思って…。私はバックを電車出てから届けようと…。決して盗もうとした訳ではないんです…。」
そんな台詞が言い訳になるはずもないのに、男は必死に話している。私が一言、じゃあ何故アタッシュケースの中に、わざわざバックを入れようとしてるんですかと言ってしまえば、すべて無駄になってしまう言い訳を…。私は黙って席に腰を下ろすと、男はかなりビクビクして挙動不審だった。
「じゃ、じゃあ失礼します。」
私は逃げようとした男の肩に手を掛けて、冷静にゆっくりと口を開いた。
「まあ、いいからここに座りな。」
「いや、わ、私は…。」
「いいから座りなって。」
強引に男を私の隣りに座らせる。二人とも無言の状態で何もしないまま、電車は刻々と目的地に進んでいった。男の心理状況を考えて、何も話さないのが一番のプレッシャーになるだろう。
「次は高田馬場。次は高田馬場でございます。」
車内のアナウンスが聞こえた途端に、男は急に立ち上がった。
「あ、私、ここで降りないと…。」
「いい加減、見苦しい行動はやめなよ。新宿までは付き合ってもらうからさ。」
「いえ、私は…。」
「おい、アタッシュケースの中に人のセカンドバックを入れたまま、勝手に何で高田馬場に降りようとするんだ?ひょっとしてどさくさに紛れて俺のバックを返さないつもりか?あまりふざけた事を抜かすなよ。」
「す、すいません…。」
さすがに男は観念したのか首をうな垂れて下を向いている。静かにアタッシュケースから私のバックを取り出すと、恐る恐る渡してきた。電車が高田馬場に到着しても動こうとはしなかった。
「私、ど…、どうなるんですか?」
「駅員に報告は嫌か?」
「は、はい…。」
わざと私はそれに対して返事を返さなかった。自分のした事を懺悔させたかった。それに最初の誤魔化し方が癇に障ったのもあった。少し苛めておきたい。男はこれからどうなるのか不安で堪らないといった表情でソワソワし、落ち着きがなかった。そうしている間に小江戸号は西武新宿駅へ到着した。
相手の腕をつかみながら小江戸号を降りると、男は私を見て小声で懇願してくる。
「お、お願いです。見逃して下さい。」
「うるさい。黙ってついて来い。」
有無を言わさぬ私の言い方に、男は再び挙動不審に陥ってしまっている。一緒に歩いているこっちが恥ずかしくなってくるぐらいだ。私は改札の横の降りの階段に向かって歩き駅のトイレに向かった。相手の腕は離さない状態で、トイレの中に入るとアンモニアの嫌な匂いが充満している。周りには男性が八人ほど小便をしていた。
「いいか、愚痴愚痴と言っても仕方がないから、簡単に済ませてやる。まずは俺のバックを返せ。」
「は、はい。」
中年のサラリーマンは、アタッシュケースから私のセカンドバックをすぐに取り出して渡してきた。私は受け取ると、相手の顔をしっかりと見定めた。
「文句はないよな?」
「……。」
「それとも駅員に俺が報告してって形がいいか?」
「そ、それだけは…。お願いします。お願いします。」
「ああ、分かってるよ。そんな事したら家族が困るだろ?俺もそんな事をするつもりはないから安心しなよ。ただ、けじめはけじめだ。このまま何も無しじゃ済ませられない。拳一発で済ませてやる。歯を食いしばれ。」
小便をしていた人たちも、私のかもしだす雰囲気が尋常じゃない事に気づいたのか、その場を黙って離れていった。私は右の拳をギュッと握り締め、そのまま男の顔面に叩き込む。両手で顔を押さえながら、座り込む中年サラリーマンをしばらく眺めてから、私は黙ってその場を離れる事にした。
あれから四年ほど経つ。それまでで私にその件について何かあったかというと、現在まで何事もない。暴力というものについて、世間は否定的である。しかしこの件については相手が訴えない限り、私的には間違ってなかったと思う。盗みを駅員に報告して、そのサラリーマンの人生を壊したところで、私には何もならないからだ。社会的に相手の生活をボロボロにしてスッとするよりは、まだ相手を殴るという形でスッとする方が自分自身、断然いいと思った。悪い奴に制裁は必要だが、その家族まで巻き込む必要はない。この件で彼が真っ当に生きてくれる可能性もある。それとも彼は今でも盗みを働いているのだろうか…。どちらにしても私にはどうでもいい事だった。
十二月十日 金曜日…。
仕事を終え、時計を見ると夜の十一時を回っていた。遅くなるのは予め予想していたので、夜の九時に西武新宿駅に行き、前もって小江戸号の特急券を買っておいた。自動券売機でなく駅の特急券売り場で買うと、通常の切符よりも三倍ぐらい大きな切符になる。小江戸号は朝の通勤時間の上りと、夕方からの下りの時間帯は混雑する時間で切符も売れ切れる事が多かった。特に喫煙車両の四号車はほぼ乗る直前に行くと、席がなくなっているのが現状だ。帰りの時間を予測して前もって買っておく。それだけで四号車の窓際の席が取れ、ゆっくり煙草を吸いながら帰れるのだから私はよく事前に大きな切符を購入する事が多かった。
改札を通ると左手には小江戸号の切符を求めて、券売機の前に沢山の人が並んでいた。無常にも電光掲示板に表示されるあと何席という数字は、並んでいる人たちに対して蜘蛛の糸を垂らしているようにも見えた。その情景を見るたびに、私は前もって購入しておいて良かったと思う。
改札口の目の前に見える小江戸号が目に映るたびに、こいつのおかげで頑張ってこれたんだと愛おしさを覚える。真っ直ぐに小江戸号に向かって歩き、切符を取り出して見せると、担当の駅員が薄めのハンコを押す。西武新宿からの乗車口は、各先頭の一号車からか七号車のみであった。私は一号車から乗り込み、真ん中にある四号車へと向かう。ここまではいつもの日常と何ら変わりはなかった。
私の切符は「2A」。こちらから四号車に向かって右側の窓際の席だ。四号車まで辿り着いて自分の席に座ろうとすると、私の席に女性の荷物が置いてあった。持ち主の女性は近くにいない様子だ。多分、トイレかジュースを買いに行く時に、席を間違えて置いたのだろうと思い、荷物を隣の席「2B」に移動しようと思った。手さげの部分をつかもうとして、慌てて思いとどまった。もし最悪の場合、相手の女性が勝手に荷物を触った、セクハラだと騒がれるのは困るからだ。バックの所に切符が二枚さしてあったが、よく見てみたら小江戸号の「2B」切符と、通常の乗車券だった。とりあえずこの場は何もせずに相手の女性を待っていればいいかと判断する事にする。私は通路を通る客の邪魔にならないように立って待つ事にした。相手が戻ってきたら荷物をどかしてもらえば済む話なのだから…。
三分ほど時間が経ち、白のハーフコートを着た茶色の髪のメガネを掛けた女性が席に戻ってきた。その女性は私にまったく気づかない様子で黙って「2B」席に座り、荷物をどかそうとする気配は微塵も感じられなかった。私は少しムッとしながら女性に言葉を掛ける事にする。
「おい、ねーちゃん。荷物どかしてくれ。じゃないと座れねーよ。」
言い方は少し乱暴だと思ったが、相手の態度を見ていたら、これぐらいでちょうどいい気もした。どっちにしても、これで相手が私の座席から荷物をどかしてくれればいい話なのである。しかし私の予想に反して、メガネの女はキッと私を睨みつけてきた。
「は?あんた何言ってんの?ここは二つとも私の席だから。」
訳分からない返答に思わず面食らってしまったが、ここは毅然としないといけない。自分の切符を相手に見せながら話し出す。
「なあ、よく聞いてくれよ。俺の切符はこの席なんだよ。見ればわかるだろ。Aになってんだろ?分かったらサッサと荷物をどけてくれ。」
「あのねー、私はここの切符と隣の席は子供料金の切符だけど、ちゃんと買ってんの。ゆっくり座って行きたいしね。それで隣の席の切符は無くしちゃったけど、駅員さんがいいって言ったの。だからここは私の席なの。分かった?」
切符を無くしたけど座っていいなんて、果たして西武の駅員が言うだろうか。十年ほど小江戸号に乗っているがその台詞は信じられなかった。
「じゃあ、俺の席はどうなってんだよ。この席の切符を都合よく無くしたって言ってるだけだろ?そうじゃないと何故、俺の切符がこの席になるんだ。いいか、切符を持ってるのは俺なんだから、そこの荷物どけな。」
「何時に切符買ったんだよ?」
切符の大きさを見れば一目瞭然だった。小さい券売機はすぐ発車する事前の切符しか買えない為、俺の買った切符の方がどう考えたって先に購入しているはずだ。
「時間を言ったところで、おまえが恥をかくだけなんだぞ。そんな事どうだっていいから、とっとと荷物をどかせよ。」
「じゃあ、駅員呼べよ。駅員呼んで来いよ。」
まるで話にならない。そう判断した私は駅員を捜す事にした。回りを見渡すと場内の客がほとんどこちらに注目している。外で電車を待ってる人たちも注目していた。いい赤っ恥だ。
「早く駅員呼んで来いよ。」
「おまえ、誰に口きいてんだ?自分が抜かした台詞、忘れんなよ。」
メガネの女はさらに大声で叫んでいる。周りの迷惑も考えられない本当にただの馬鹿な女だ。相手にしないで電車の外を見ると、駅員が歩いていた。場内の客はともかく外にいる人たちでさえ、こちらに注目しているのに、何でこの駅員は気づきもしないんだ。私は四号車と三号車の間のデッキに行き、窓を叩いて駅員を気づかせようとした。駅員が私にようやく気づき、こちらを不思議そうに見ている。
「すぐに来てくれ。」
私が声を出しても電車の外にいる向こうには聞こえてない様子なので、さらに大きい声を出しながらジェスチャーも加えてアピールした。
「早くこっちに来てくれ。」
文句を言いながらも、図々しく座席に座っているメガネの女。反対に私は立った状態で話している。さらに男と女の図式。傍から見れば、私が悪者にしか見えないだろう。
駅員の姿が見えるまで私はデッキで待って、一緒にメガネの女のところへ向かった。駅員が直接言えば、あの女も言う事を効くだろう。
「駅員さん、言いましたよね?」
四号車に着くなり、女は喚きだした。こいつには社会的常識というものが無いのだろうか。女は興奮しながら捲くし立てている。私は駅員にまず切符を見せて確認してもらう事が先決だと思い、話の途中で口を挟む。
「すいません、ちょっとこれ見て下さい。ここは俺の席ですよね?」
「駅員さん、私にいいって言いましたよね?」
馬鹿な女は勢いが止まらない。後々の事も考えると、駅員の確認は大事な要素になってくる。まずは女を制さないといけない。
「お姉さん、ちょっと待って。落ち着けって。駅員さん、この切符はこの席でしょ?」
「は、はい、そうですね。」
駅員が私の切符を確認した途端、女はまたすごい剣幕で喚きだした。
「ちょっと駅員さんがいいって言ったんでしょ?ここ二つとも私の席でしょ?」
剣幕に押されたのか、駅員は座っている女の目線に合わせるように腰を下ろしだす。表情は困った顔をしていた。
「ええ、おっしゃいました。はい…。はい、そうですね。」
「おい駅員さん、何考えてるんだよ。この席を何とかしてくれって、さっきから言ってるじゃん。何の為に呼んだんだって。」
何故、この状況でまず女に謝るのか理解出来なかった。これじゃ他の乗客には私一人が悪者に見えてしまう。駅員は私の胸辺りに手を出して静かに制しだした。
「落着いて下さい、お客さん。」
一言だけそう言うと、その駅員はまた女の方に向いて座りペコペコしていた。一瞬カッとなったが、ここで怒っても仕方ない。座って女の対応をしている駅員は通路を塞いだ形になっている。そこへ乗客が通りかかっても駅員は、まったく気づかない様子だった。
「ええ、すいません。はい…。」
「おい、駅員さんよ、どうでもいいけど、後ろ通してやんなよ。客がさっきから通れないで困ってるよ。」
「あ、はい。すいません。」
駅員が立ち上がり、客を通してる間、メガネの女は私に向かって喰って掛り出す。
「あんた、一体何時に買ったんだよ。言ってみろよ。」
自分の目つきが険しくなるのを感じる。俺は間違っているのか。どこかに自分の落ち度はあるのか。いくら考えても見当たらない。
「時間を言ったら、おまえが公衆の面前で恥をかくんだぞ。」
「何時だって言ってんだよ。言えよ。」
「えー、お客様は何時に切符をお買い上げになったんですか?」
駅員までメモ帳を片手に、切符を購入した時間を聞こうとしてくる。何でこんな簡単な問題をここまでこじらせてしまうのだろうか。どんどんイライラが増してきた。
「買ったのは九時。俺は窓際に座りたいから、ちゃんと前もって買ってるんだよ。」
「はい、九時ですね。」
「切符見れば、すぐに分るだろ?」
メモ帳に九時とわざわざ書く駅員。買った時間が分かったところで何をしたいのだろうか。公衆の面前でここまで恥をかかされた私に対し、どう責任をとってくれるというのだろうか。
「お客様は……。」
メガネの女に駅員が声を掛けた時だった。年配の駅員が四号車に現れた。やっと話の分かる駅員が来てくれたか。一言、メガネの女に荷物をどかすよう言ってくれればいいだけの話なのだ。
「お客様……。」
私にも聞こえないぐらいの小声で、年配の駅員は女に話し掛けている。馬鹿な女はどんどん興奮して手がつけられなくなっている。座席についている備え付けのテーブルまで手で引っ叩いてる状態だ。
「おい、駅員さん。どうでもいいけど、早く荷物をどかさせてくれ。」
年配の駅員はメガネを掛けていて、ガラスの奥から鋭い視線を私に投げかけてくる。
「お客さん。これ以上、電車を遅らせる訳には行きませんから。」
年配の駅員の言葉が信じられなかった。今の言い分じゃ、私が揉めて電車を遅らせてる事になる。このままじゃ、小江戸号の乗客全員に私が逆恨みされてしまう。体中が熱くなる。私が電車を遅らせてるというのか…。
「ふざけんな。誰がこんなちっぽけな事で、電車を遅らせろと言った?周りの客に迷惑だろ。サッサと発車させろ。ふざけんな。」
年上の人に対する言葉使いではないのは百も承知だった。今は客としての立場、自分自身間違ってないという理念を持ちたかった。後ろで馬鹿な女がギャーギャー騒いでいた。
「こんな馬鹿な女、放っておいて早く発車させろ。」
これだけ怒鳴っても、駅員は女の事を気に掛けていたのでさらに続けた。
「早く行けって。こんなのほっとけよ。」
強引に駅員二人を私の前に行かせ、入り口の一号車に向かって歩き出した。女の声が背後で聞こえたが、気にしないで駅員二人を後ろからせっつきながら通路を進んだ。三号車、二号車、一号車を通りながら他の客たちの視線が突き刺さるのを感じる。一号車を越えて一番端のデッキに着くと、二人の駅員は何も言わずに電車の外へ出てしまった。一言文句を言いたかったが、これ以上電車を遅らせるのも嫌だったので、そのままデッキで立ちながら待っていた。
「車両点検があった為、電車が遅れてしまいました。まことに申し訳ありません。只今より電車が発車します。」
構内アナウンスが鳴り、小江戸号は静かに発車しだした。
私には自分の子供を宿った彼女がいた。彼女の名前は、さおり。妊娠四ヶ月目にさしかかろうという時期でもあった。まだ籍を入れてはなく一緒に住んでもいなかったが、今日仕事終わって帰ったら、一緒に食事に行く約束をしていた。ひょっとしたら、いつもより帰るのが長引くかもしれない。一言、連絡を入れておこう。私は携帯電話を取り出して、一号車のデッキで電話を掛けた。
「もしもし、俺だ。ちょっと小江戸号の中でトラブルがあってさ…。うん、大丈夫だよ。問題ない。こっちには何の非もない事だから…。ああ、本川越駅に着いたら、少し話し合いしようと思ってるから。ああ…。だから今日は遅くなるかもしれないから、寝ちゃいなよ。明日、詳しく話すよ。うん、お休み…。」
電話を切ったぐらいに、ちょうど高田馬場に止まる。電車が出ると場内アナウンスがかかる。西武新宿を出発してから、私は時間にすると六、七分ほど待っている事になる。あの駅員二人は中で何をしてるんだ。そう思うと無性にイライラしてくる。車掌室のドアを乱暴に叩くと、ドアがすぐに開いた。出てきたのは先程の駅員二人とは別の若い駅員だった。
「あれ、あの二人はどうしたの?」
「新宿駅にいますけど…。」
あいつら、あれだけ場を乱しといてあのまま駅に残っただと…。絶対に許さねえ。
「何考えてんだよ。俺は十年この電車に乗ってるけど、こんな失礼な真似は初めてされたよ。俺のどこに落ち度があるってんだ?ふざけやがって…。ま、あなたにこんな事、言っても筋違いだけどな。」
「すいません、アナウンスだけさせてもらってもよろしいですか?」
「あ、全然構わないですよ。そんなの自分なんか気にしないでして下さい。」
「ありがとうございます。」
車掌はそう言うと車掌室に入り、車内アナウンスを始めた。終わると申し訳なさそうな表情で出てきて頭を下げてきた。
「あの駅員は何考えてんだ。公衆の面前で赤っ恥かかしといて…。」
「いえ、お客様のおっしゃるとおりです。私も話を聞きましたけど、お客様は間違っておりません。あの女性の乗客とうちの駅員の応対が明らかに悪いです。お客様はあの座席の切符を持ってらっしゃるのですから、当然の行動だと思います。本当に申し訳ありませんでした。」
初めてまともな感覚の駅員に出会えた。熱くなっていた頭の中が徐々に冷静になってくる。これで落ち着いて話が出来そうだ。
「いえ、駅員さんが謝る事じゃないから…。あなたのおかげで冷静になる事が出来た。ただあの馬鹿な女と、さっきの駅員二人は絶対に許せない。自分たちで騒ぎをでかくして客に罪をなすりつけ、電車が動くと駅に逃げてしまう。そんな都合いい事ってありますか?俺はそんな真似されて黙って見てるほど、お人好しじゃないですから。」
「ええ、お客様の気持ちはとても分かります。」
「そうでしょう、駅員さん。」
「え、駅員じゃなくて、車掌なんですけど。」
「ああ悪かったね。車掌さんはあの二人の駅員の名前分からないか?」
「すいません。今の段階ではまだハッキリとは分からないです。私も本川越に着いたら呼ばれてるので、色々と状況を話さなければなりません…。」
考えてみたらこの車掌さんも犠牲者なのだ。この人に罪は無い。私もこのままこの件をうやみやにする訳にはいかない。悪いのは、あの女と駅員二人なのだから。
「車掌さんは本川越に着いたら呼ばれてるんですね?」
「はい。」
「では、その場に私も一緒に行かせて下さい。駅員の名前だって知りたいですし…。この件に関して、私は引かないし、逃げるつもりもありませんから。」
「はい、分かりました。」
「それに車掌さんがこの件で責任問われるのはおかしいから、私は車掌さんを守りたいんです。」
「い、いえ…、そんな…。」
「もし車掌さんが始末書とか書かされるんでしたら、私が絶対に止めさせます。」
明確な強い意志を持って相手に伝えた。自分の理を通したかった。
「車掌さんは私に対して冷静に対処してもらって、これでも感謝してるんです。私が怒っているのは、馬鹿な女とあの二人の駅員だけですから。」
「分かりました。」
「それとあの女の首根っこつかんで、ここに連れて来ていいですか?」
「お客様、それは困ります。お気持ちは分かりますが、他のお客様のご迷惑になります。ここは私の顔に免じて許してもらえないでしょうか?」
自分に責任が無いのに、低姿勢で礼儀正しく謝れる車掌。ここはこの人の顔を立てたかった。胸についてる名札を見ると「石川」と書いてあった。
「石川さん…、で、いいんですよね?」
「はい。」
「分かりました。ここは石川さんの顔を立てます。」
「ありがとうございます。あ、お客様。ずっとデッキでお立ちになってられますのも失礼なので、私が空いている席を探してきます。少々お待ちになってもらえますか?」
「いいですよ、そこまで気を使ってもらわなくても。どこが空いてるかぐらいは、自分も分かりますから。そのぐらい自分で探せますよ。車掌さんの誠意はよく分かったので、もう車掌室に戻って下さい。」
「すいません。ただ、四号車は出来たら控えてもらえますか?」
「それは無理ですよ。煙草吸いたくてこの電車乗ってんですから。こっちが悪い事した訳じゃないし…。大丈夫ですよ。車掌さんと約束したから、あの女と揉めたりしないって約束しますよ。その辺は安心して下さい。」
石川さんは少しの間、考え込んでから私の方を見て頷いた。
「分かりました。それでは私は車掌室に戻らせていただきます。本当にすいませんでした。ご迷惑をお掛けしてしまい…。」
「とんでもないです。これ私のプライベート用の名刺なので…。」
「すいません。受け取っていいんですか?」
「当たり前じゃないですか。逃げるつもりはないって言ったじゃないですか。私もそろそろ席に座りますよ。」
車掌と別れて四号車に向かう事にした。通路を歩いている最中に車内アナウンスが鳴る。まもなく小江戸号は所沢駅に到着しようとしていた。
三号車まで歩いていると、所沢で降りる乗客が列を作って、通路まで並んでいた。私は少し距離をあけて待つ事にする。所沢駅に着くと、乗客の半分ぐらいが次々に降りていった。さっきまで満席状態だった席はガラガラになっている。四号車に入ると本来の私の席「2A」の横「2B」にメガネの女はしれっとして座っていた。通路を挟んだ反対側の「2C」、[2D]席がちょうど空いているので、私はその席へ座る事にする。ゆっくりと腰掛けから、女の方を見る。
「おい、ねーちゃん。」
私の言葉に反応してメガネの女はこちらを振り向く。
「いいか、俺はこの件に関して絶対に逃げないからな。あんたもあれだけの事を言ったんだ。絶対に逃げるなよ。俺はとことん行くところまでいってやるからな。この切符が俺の手元にあるという事は、誰がどう見たって俺の席なんだよ。」
「あのー…。」
私の迫力押されたのか、不意に女は私の右腕に手を重ねてきた。ゾワッと鳥肌が立つ。私は女の気安く乗せた手を振り払った。
「気持ち悪いから、気安く触らないでくれ。別件としてセクハラで訴えてもいいんだからな。頼むから絶対、俺の腕に触らないでくれ。」
「おかしいですよね、この会社って。」
言い訳にもなってない答えが返ってくる。本当にこの女は頭がおかしいんじゃないかと思った。
「いいかい?あなたが切符を買ったという事実。出来れば俺は信じてあげたい。本当に買ったのかもしれない。本当に切符を無くしたのかもしれない。」
「ほんとに買ったんです。さっきはお兄さんが最初にキツイ言い方をしたから、私もついカッとなっちゃって…。切符だってほんとに落としてしまったんですよ。」
まず相手の言い分はちゃんと聞いてやろう。私の言いたい事はそれからでいい。
「うん、それで?」
「それでさっきの駅員さんに無くしたけどいいって聞いたら、ちゃんといいですよって言ったんです。だから私はいいと思ったまでで…。これで今回みたいなこういうトラブルが今までで三回もあるんですよ。参りますよ。ほんとにこの会社っておかしいですよね?そう思いませんか?」
「俺から言わせてもらえばね、まずあなたが何回もトラブル起こそうが、俺にはそんな事まったく関係ない、どうでもいい話なんだ。駅員が切符無くしても大丈夫と言ったのかもしれない。ただ、俺はあなたより早い時間にこの席の切符をすでに買っている。その時点でこの席は俺の席なんだよ。あなたが切符を無くそうが何しようが、俺には何も関係ないんだ。もしあなたの話を信じるとしたら、券売機のコンピューターが狂ってるとしか、言いようがないよね?」
「私、ちゃんと買いました。この席は子供用の切符ですけど…。」
「そう…。出来れば信じてあげたいよ。でもそれはさっきから何度も言ってるでしょ?ただ、それだと矛盾が発生するんだよ。切符を持ってるけど席を座れない俺が悪いのか、それとも切符を買ったけど無くしてしまい、駅員がいいと言っただけで席を譲らないあなたが正しいのか。この件は逃げないで、俺はとことん出るところへ出て話そうと言ってるんだよ。あれだけ自分の主義というか、簡単に言えばあれだけの事を俺にしたんだ。そのぐらいの覚悟はあるよな?」
「だからー…、それはこの会社がおかしいからなんですよ。」
これだけ言っても分からないとは、なんて物分りの悪い女だ。それともわざと分からないフリをしているのであろうか。駅のせいにすれば済むとでも思ってるのだろうか。
「おい、おねーさん…、分からないみたいだからハッキリ言ってやるよ。俺はな…、おまえにムカついてんだよ。おまえが言った事、全然俺には関係の無い事ばっかりだ。あんたも引けないんだろ?あれだけの事を偉そうに抜かしたんだろ?だったら今更引くなよ。俺は出るとこ出て決着つけようって言ってるんだよ。あれだけの事を俺に対して言ったんだ。そのぐらいの覚悟はあるよな?いまさら逃げるなよ。裁判になってあんたの証言が通用するか、俺の証言が正しいのか。どっちが正しいか白黒をハッキリさせよう。多分、あんたには名誉棄損。同じく西武新宿の駅員に対しても名誉棄損の対象になる。それと西武の方は小さい事かもしれないが、契約詐欺も該当するだろうな。」
「ええ、私もこの事は駅に文句言います。ほんとにおかしいですからね。そう思いませんか?まったく失礼な話ですよね。」
そう言いながら、女はまたしても私の腕に手を乗せようとした。これだけの騒ぎになっても、自分の女の色気ごときで誤魔化されると思ってるのか。だとしたら本当に馬鹿だ。こいつに合う言葉は…。すぐに出てこないけど、ようするに己の身の程を知れって感じだ。
「頼むからいちいち触ろうとしないで、本当にお願いだからさー。」
「でも私は切符を…、この席は子供用の切符ですけど確かに買ったんです。」
頭が悪すぎる。何回も同じ事ばかり言ってもどうにもならないというのに…。言い方を変えて言ってやろう。
「分かった。とりあえず切符を買ったのは信じるとしよう。ようするにあなたの座ってる席は四百十円の通常の切符。俺が座るはずだった席のところは、お金をケチって子供用の切符をちゃんと買いました。そういう事でしょ?」
「だからそうだって言ってるじゃない。」
「ああ、それは信じるよ。だがな…、社会的な良識、または常識を言っておくよ。」
「はあ?」
「いいか、この時間帯は放っておいたって、いつも満席になるぐらい混んでるんだ。小江戸号は全部で七車両。でも煙草が吸える車両はこの四号車一車両のみ。だから煙草を吸いたくても四号車の切符が売り切れて、我慢して乗ってる人も沢山いるんだ。それをあなたはゆっくり座っていきたいという理由だけで、子供用の…、もっと簡単に言えばせこい半額料金で二席とろうとした。誰がそんな事してる?そんなの見たの、あんたが初めてだよ。みんながみんなさ、あんたみたいな事したら小江戸号はどうなるよ。話にならないだろ?そのぐらい社会の一般常識だからちゃんと覚えておきな。分かったか?」
「わ、私…、子供はちゃんといますから。」
めげないというか、馬鹿というか…。今、私が話した言葉をちゃんと認識しているのであろうか。こんな脳みそを持った女は絶対に子供を産んじゃいけないと感じた。
「あんたのお子さんって、まだ小さいだろ?」
「ええ、小学生です。今日は連れてないだけで、いつもは横にいますから。」
よくも抜け抜けシャーシャーと…。本当に親って自覚があるのかと問いたいぐらいだ。
「いいか?今度は教育について語ろう。こんな煙草の煙がモクモクなってる四号車に、よく小学生の自分の子を座らせられるな?子供の体にとって良くないぐらいは分かるだろ?だから世の中、変なガキが多くなったって言われるんだよ。」
「それは私と子供の問題だから関係ありません。」
「確かに俺には関係ない話だ。ただな、その子供が大きくなって、俺の前であんたみたいに偉そうな事を抜かしてきたら、遠慮なくギャフンと言わせるからな。」
ここまでマシンガンのように喋ると、さすがにメガネの女は黙ってしまった。それにしても、この女はあれだけ私に失礼な事をしときながら、まだ一言も謝っていない。こんなもんで許す訳にはいかない。
「おい、ねーちゃん。」
「な、何ですか?」
「世の中の男が弱くなったって言われてるけどな…。」
私は胸を張りながら相手の目を見て、力強く話した。
「ここにな…、目の前に強い男がいるんだよ。分かったか?今日は本川越まで付き合えよ?とことん話し合ってやるから。タクシー代だって出してやるから安心しなよ。」
車内アナウンスが鳴り出す。もうじき狭山市駅に到着だ。女は放送を聞いて立ち上がる。
「おい、どこに行くんだよ?」
「私はここで降りますから。」
「何だよ、あれだけほざいて逃げんのか?」
「逃げる訳じゃありません。降りたら駅で、ちゃんとこの事について文句言います。」
「うまい言い草だな。まあいい、逃げたいのならサッサと逃げな。もし本当に駅へ文句を言うのなら、自分の氏名、電話番号、住所をハッキリ言っておきな。」
「ええ、そうします。」
「期待しないで待ってるよ。それが出来なきゃ、二度とこの電車に乗るな。」
「駅員に私はちゃんと言いますから。」
「おい。」
私は自分の顔を指差しながら、相手を見る。
「最後によーく覚えておきな。俺って人間はどうですかって、川越でも新宿でも行って、聞いてみな。ああ、あの人はこういう人ですって、みんな口揃えて同じ事言うからよ。俺はおまえみたいにコソコソ生きてねーんだよ。」
女はずっと無言だった。小江戸号が狭山市駅に着くと同時に、逃げるように降りてしまった。果たしてちゃんと連絡先を言うだろうか。絶対に言わないだろう。ああいうタイプは自分が悪いと分かってても、とりあえず騒げば何とかなると思っているのだろう。過去に三回も、こういうトラブルがあったとあの女は言った。私以外の二回のトラブルは、こうやって騒いでやり過ごしてきたのであろう。確かにあんな女と関わるのは非常に疲れるし面倒だ。だから馬鹿は相手にしないといった感じで無視して自分から引いたのかもしれない。しかし今回ばかりは相手が悪かったなと、あの女に言いたい。私のした事は少しぐらい男としての面目躍如になったのか。そればかりは周りが評価する事だから、私には分からない。くだらない事を考えている内に、小江戸号は最終地点の本川越駅に到着しようとしていた。
電車を降りて、改札口の方向へ進む。本川越駅の特急券改札のところで、かっぷくのいい年配の駅員が立っていた。名札のところに目を向けると駅長と書いてある。私は近づいてゆっくりと尋ねる。
「どうもすみません。先程、西武新宿駅で騒ぎを起こした者です。」
「ああ、お客様、本当にすいませんでした。駅長の村西です。とりあえず立ち話も何ですから、奥にいらして下さい。」
駅長村西さんに促された通り、改札右手にある駅員待機室に入った。中にいる駅員は三人ほど。状況を知らされてないのか、みんな不思議そうな顔をして私を見ていた。
「さ、さ、どうぞ。」
一番奥の部屋、駅長室らしい部屋に通される。広さは八畳ぐらい、テレビにテーブル、ゆったりとした茶色のソファが二つ。質素だが中々快適な空間だと思った。私はソファの横に立ったままの状態で口を開いた。
「だいたいの話を聞いてるとは思いますが、私がここにきた用件は二つです。」
「ま、どうぞお掛けになって下さい。」
「失礼します。」
ゆっくりと腰を下ろしてソファに座る。ゆったりとした、いい座り心地だった。
「おい、お茶。冷たいお茶を持ってきてくれ。」
駅長が駅員に声を掛けている。私は駅長が話しかけてくるまで、テーブルに目線を向けてジッとしていた。
「駅長の村西です。今日の件はお客様に大変ご迷惑をお掛けしてしまい、本当に申し訳なかったです。」
村西さんは丁重に侘びを入れてから、私の対面のソファに腰掛けた。そこで私も相手に目線を初めて合わせる事にした。
「はじめまして、こういう者です。」
立ってプライベート用の名刺を村西さんに手渡す。
「今回の件で二つの用件があるといいましたが、一つは今、小江戸号を運転していた。車掌の石川さんの事です。」
「はい、うちの石川が何か?」
「石川さんは冷静かつ礼儀正しく迅速な対応で私に対して、非常にいい対応をしてくれました。私がこうして冷静に話せるのも、すべて石川さんのおかげです。」
「そうですか。」
「ええ、だから今回の事で彼が現場責任を負わされるとしたら、それは大きな間違いなので、私はそれを止めに来ました。もし彼に始末書等の罰が下されるなら、私は西武鉄道に対して徹底的に戦います。」
本心からそう思い、考えた事をそのまま素直に言葉にした。
「お客様の言い分はもっともです。私が向こうから話を聞いたところ、間違ってるのは新宿の駅員と女性の乗客が明らかにおかしいです。石川に対しての処分はまったくありませんし、私が約束します。」
「それなら安心出来ます。よろしくお願いします。それともう一つの用件ですけど、あの新宿の駅員二人の名前を教えてもらいたいんです。それ以外の西武鉄道の方には何の恨みもありません。かえって良く対応してもらってるぐらいですから。ただあの駅員二人は絶対に許しません。あれだけ状況を自分たちでおかしくしておきながら、電車が動くと新宿駅に逃げて責任をなすりつける。随分、都合良すぎだと思いませんか?」
「お客さんのおっしゃる通りです。ただ私は電話で聞いただけなので、駅員の名前までは分からないんです。」
うまい逃げ方だ。それならそれでいい。聞きだす方法はいくらでもある。
「分かりました。それならこれで私は帰ります。ただ一つだけ言っておきます。私は新宿の駅員の顔を二人ともハッキリと記憶してます。明日、新宿に行くのでその時、名前を見れば済む話ですから。きっちりと裁判であの二人を吊るし上げます。それで今の駅長さんの言葉をプラスさせるだけです。本川越駅の駅長に、駅員の名前を聞いたら知らないと誤魔化されたと、証言の一つに入れるだけですから。」
「ま、待って下さい。おい、早くお茶を持ってきてくれ。今、新宿駅に電話して聞きますから少々お待ち下さい。」
村西さんは急いで立ち上がり、駅長室から出て行った。入れ替わりに若い駅員がお茶を持って入ってくる。
「あの、よろしかったらお茶をどうぞ。」
「あ、気を使っていただいてすみませんです。」
奥で駅長の声が聞こえてくる。新宿駅とあの件で色々話し合っているのであろう。私はお茶を入れてくれた駅員に一礼しながら、聞き耳を立てた。ハッキリとは聞こえないにしても電話内容の簡単なやり取りぐらいは、自分の耳に入れておきたい。駅長の村西さんは新宿の駅員の名前を確認している様子だった。
「いやー、お待たせしました。今、お聞きしたところ、駅員の名前も分かりました。本当にすいませんでしたと、本人たちも深く反省しております。」
「お手数掛けまして申し訳ありませんでした。それでお名前の方を教えてもらえますか?それが知りたいだけですので。」
「はい、峰と朝比奈と言います。」
「峰さんと朝比奈さんですね。年配の方はどっちなんですか?」
「ええ、峰が西武新宿駅の駅長です。」
「え…、駅長だったんですか?」
あれが駅長…。あんな対応をしておいて、よく駅のトップでいられるものだ。私は西武鉄道という組織そのものを疑ってしまう。
「村西さんにお聞きしますけど、西武新宿駅の駅長があの対応でいいんですか?」
「いえ、今回の件はお客様が正しいです。本当に申し訳ないです。こちらの対応が間違っていました。向こうもさっきの電話で散々謝ってました。」
「もう一人の人は?」
「はい、朝比奈は同駅の助役になります。」
「そうですか…。若造だったら、次はもっとちゃんと対応しろよって笑って済ませます。でも今回の件は明らかに私より年配の方ですし、しかも駅のトップです。その人に公衆の面前であれだけ赤っ恥をかかせといて、自分は何の責任もとらずに駅に残る。それが駅のトップのする事なんですか?」
「まあ、本人たちも大変反省していますので。」
「口だけじゃ、誰だって何とでも言えます。私は相手の行動しか見ないように出来る限りしています。本当に電話口で村西さんに謝っているのかもしれない。でも私にはそれじゃ何も通じません。車掌に全部責任を押し付けて逃げながら、電話でただ謝った。それだけの事じゃないですか。」
「そうですよね。おっしゃる通りです。」
「失礼します。」
横から別の声が聞こえたのでその方向を見ると、車掌の石川さんが駅長室に入ってきた。
「あ、石川さん。先程はどうも。」
「いえ、とんでもないです。」
「村西さん。」
「はい。」
「車掌の石川さんには世話になりました。石川さんは何も悪くないんです。かえって私が救われたぐらいです。この人に対して何だかの処罰はとらせないって、私の前で約束してくれますか?」
「もちろんそうしますよ。」
しつこいと自覚はしておいたが、念には念を入れといた方がいいと思った。これで少なくとも石川さんの事は安心出来る。
「ありがとうございます。これでとりあえず自分の言いたい事は話せました。」
「いえいえ、本当に申し訳なかったですね。」
後々の事を考えて、この件は一筆をもらっておいた方が良さそうだ。
「それで村西さん。」
「何でしょう?」
「紙に村西さんの名前と判子。それに車掌さんの石川さんの名前をそれぞれ直筆で書いていただけますか?」
「分かりました。あと紙にお客様の特急券もコピーしておきます。」
「ご親切にすいません。」
私の目の前で誠心誠意で応対してくれる村西駅長の態度を見ながら、時間は過ぎていく。二人のサインをもらい、その後で西武新宿駅駅長の峰と助役の朝比奈の名前も同じ紙に書いてもらった。その間、部屋の中を無意識に眺めていると、石川さんと目が合った。私はニコッと微笑んで軽く会釈した。村西さんが書き終わったのを見計らって、石川さんが口を開く。
「駅長、お客様は所沢までずっと席に座れず、立ったままだったんです。」
「え、それなら特急料金の四百十円はお返ししますよ。」
何だかまた面倒臭い事を言い出してきたもんだ。
「それはいいです、結構ですよ。別に四百十円が欲しくて、ごねたって訳じゃないんですから。私自身、あの女と新宿の駅員二人が許せないだけの話なんです。」
「ええ、その気持ちは分かります。ただ切符を買っていただいたのに、席が無くて座れなかったという事に対して、こちらはお客様から代金をいただく訳にいきませんので…。」
「気遣いありがとうございます。でも、お金は返さないで結構ですよ。小江戸号に乗って帰ってきた事は確かですから。それよりも私は明日、新宿に行くのでその時にあの二人と話したいだけなんです。その事を向こうに伝えといて下さい。よろしくお願いします。」
「分かりました。伝えておきます。」
「それでは失礼します。お騒がせして申し訳なかったです。」
駅長室を出ると、周りの駅員たちがペコペコしている。私は頭を少し下げながら駅構内を出た。今日はとりあえず帰って寝よう。明日、新宿行った時、この件は一体どうなるのだろうか。裁判まで持ち込むとは言ったものの正直、面倒だった。
家に帰ると、風呂がいい感じで沸いていた。ゆっくり湯船に浸かりながら、今日一日を振り返る。一日といっても新宿から川越に帰るまでの間だけが、今日の中心だったような気がする。特に事を大きくする必要性は何もない。そんな事したら西武鉄道だけでなく、私も面倒だ。何かいい解決策はないだろうか。風呂から出て布団に入ってからも思案を巡らせていたが、中々いいアイディアは出てこなかった。
自分の彼女の事を思い出す。私の子供が来年の七月ぐらいには生まれる。まだ男か女かも分らない。希望を言えば、男の子がいい。よくさおりとは口喧嘩もしたが、子供さえ生まれれば二人ともそっちに気が向き、さらに慌しい日常になるだろう。将来の事を考えてると睡魔が襲ってきた。
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