体が何をしても動かない。私は大地さんの一撃で完全にノックアウトされた。所詮、私などこんなもんだ。体を揺さ振られているのを感じる。誰だろう。ひょっとして大地さんが気遣ってくれているのか。しかしまぶたが重く、目も開かない。
「ねえ、起きてってばー。」
女の声が聞こえる。
「龍…、どうしたの?」
さおりの声だ。さっきまで大地さんと向かい合っていたのにどうして…。
「ねえ、龍。大丈夫?」
心配させちゃいけない。私は懸命に目を開こうとする。
「さおり…。」
私の顔を覗き込むようにして、心配そうな顔をしているさおり。
「大丈夫?ずっとうなされていたけど…。」
「……。」
「龍?」
「夢か…。」
「夢?」
「現実じゃなかったんだ…。」
「どうしちゃったの?」
「師匠に夢の中で説教されたみたいだ。」
「師匠?」
「以前、俺は大和プロレスにいたろ?」
「うん。」
「その時、お世話になった師匠である大地さん…、夢に出てきたんだ。」
「そうだったんだ。ずっとうなされてたから心配したよ。」
「まだまだだな…。」
「何が?」
西武新宿の一件から、どうやら私は自分の思想が絶対だという慢心が、どこかにあったのかもしれない。今の自分に満足したら、そこで成長は止まる。大地さんが私の事を心配して夢に出てきてくれたのかな。そんな気がする。
「現状で満足しちゃいけないって師匠に教えられたよ。いつからそんな偉くなったんだってね。」
「龍は頑張ってるよ。私はそう思ってるよ。」
「ありがとう。でも俺はそれで頑張ってると満足した時点で、成長は止まると思うんだ。現時点じゃ、少なくても自分自身に俺は満足出来ないよ。もっと上に駆け上がりたい。思ってるだけじゃなく、行動も伴わないとね。」
「すごいな、龍は…。」
「何でよ?」
さおりは甘えた表情で私にもたれ掛かってくる。
「別にいいじゃない、私が勝手にそう思っているだけなんだからさー。」
「ところで今、何時よ。」
二人して時間をすっかり忘れていた。時計を見ると九時を過ぎている。私は十二時半に出勤だから問題ないが、さおりは完全に遅刻だ。
「おい、さおり。会社、大丈夫かよ?」
私が言うより早く、さおりは携帯で電話をしていた。
「あ、もしもし…。はい…、はい。ええ、そうです。すみません。はい…。それで今日、体調もおもわしくないのでお休みをいただきたいのですが…。はい…、申し訳ございません。ええ、それでは今日はゆっくり家で寝るようにしています。それでは失礼します。」
電話を切ったさおりは私の方を向いてペロッと下を出した。
「まったく…。」
「えへへ…、ずる休みしちゃった。龍も今日休んじゃえば?」
「無理に決まってんだろ。しかも今日イブだし…。そんな日に休んだら、どんなにいい言い訳考えたって疑われるだけだ。」
「分かってるよ。龍、仕事に対しては真面目だもんね。ちょっと言ってみたかっただけ。」
「どっちにしろ俺は十時三十分の小江戸号か、五十八分の通勤快速で行くようだからな。じゃないと遅刻だ。」
「じゃあ、五十八分ので行こうよ。少しでも長く一緒にいたいもん。」
「分かったよ。」
新宿に着くと、今日はさすがにカップルの数が多い。あちこちでイチャイチャしている。しかし見ていても別に何とも思わなかった。さおりとさっきまで一緒に居たのだから当然といえば当然だが…。
無茶な要求をいうオーナーのおかげで、最近仕事に対してのやる気があまり出なかった。でも、今日は気分もスッキリしていてはかどった。さおりと再びうまくやっていく事ですべてがスムーズに進行していうような気がする。二人の間で出来た子供を失い、それも乗り越えられた。まだ乗り越えたばかりだが、このまま持続…、いや、さらにあいつを幸せにしないと駄目だ。今朝、別れ際に私が仕事終わったら逢いたいと、さおりは言っていた。思い出すと、仕事の時間が長く感じる。
「どうだ、今度のポスターの出来は?」
背後からオーナーが声を掛けてくる。さおりの事を考えていながらも、マウスを片手に持っていたので勝手に仕事してると、誤魔化せたみたいだ。慌ててフォルダを開いて、作りかけの画像をモニターに出す。
「うーん、そうですねー。あとここら辺の色合いと、光加減の調整で何とかなると思いますよ。」
「そうか、頼むぞ。これでうちのイメージが決まるんだからな。」
「ええ、分かってますよ。まず、ここにぼかしを入れて、ここを自動選択ツールで囲んでと…、ここはテクスチャのクラッキングとテクスチャライザどっちがいいですかね?」
「そんな事、言われたって俺はパソコン全然分かんないだから知らねーよ。」
ひと言ボソッと呟いて、逃げるようにオーナーは向こうに行ってしまった。パソコン用語を連発して聞けば、嫌な顔をするだろうぐらいは思ったが、こうまで予想通りにいくと、おかしくなってくる。さおりから一通のメールが届いた。
「仕事頑張ってる?龍、ありがとね。昨日、龍の作ってくれた料理、家族みんなで喜んで食べてます。仕事で忙しく疲れているのに本当ありがとね。」
仕事を終えて、歌舞伎町の中を歩く。すごい人混みだ。カップルの数が出勤前よりも数段多くなっている。今日明日は多くて当たり前か。お互いが求め合った通常の恋人同士であったり、偽りのカップルもいる。ホストや飲み屋の女にしてみたら、ある意味稼ぎ時だ。イベント事は客の心をつかむ最大のチャンスでもある。クリスマスがキープでイブが本命。どこかで聞いた事のある台詞だが、そんなものはその人次第でいくらでも気持ちを切り替えることは出来る。果たしてこの中に何人、本物のカップルがいるのだろう。
今日がイブで二十四日という事は、約一週間で今年も終わりになるのか。そう思うと西武新宿駅長の峰の件が終わっていないので、どうもスッキリしない。帰りに偶然、峰に会えたらガツンと言ってやろう。そう考えながら西武新宿駅に行き、十一時三十八分最終の小江戸号特急券を購入する。改札を通ると、助役の朝比奈さんの姿が見えたので近付く事にした。
「どうも。」
「あ、お疲れ様です。」
「忙しそうですね。」
「ええ、おかげさまで。」
「もう朝比奈さんはいいけど、峰さんに対しては、まだ何も許していないって伝えといてもらえます?」
「え…。」
「朝比奈さんはあの時、ちゃんと謝ってたじゃないですか。だからあれ以来、何も私は言ってないですよね?今はもう、何も思っていないし。」
「はい。」
「あの時、最後に私はちゃんと言って帰ったはずです。峰さんに対してね。あんな謝り方ってないじゃないですか。しかもこの間、峰さんに小江戸号待ってる時にすれ違っても、無視して行かれましたしね。」
「はぁ…、申し訳ないです。」
「朝比奈さんはもう謝らなくていいですよ。峰さんにこのままじゃ許さないと伝えて下さいって事です。」
自分で繰り返し同じ台詞を言っていてしつこいと思ったが、この件を解決というか納得するには仕方がない。
「分かりました。」
「俺だって早くこんなちっぽけな事、終わりにしたいんですよ。ただいい加減で終わりにしたくないだけです。」
「はい。」
「じゃあ、どうも。」
「お疲れ様です。」
私は朝比奈さんに一礼して、小江戸号に乗り込んだ。昨日と同じ、川越に着く頃には、日にちが変わっている。そういえばさおりにクリスマスプレゼントを何も買ってない。時間を確認すると十一時二十七分。発車までまだ十一分ある。急いで小江戸号から飛び出すと、駅を出て歌舞伎町を走り回った。近くの薬局で福袋の販売をしていたので立ち止まる。値段も千円、三千円、五千円、一万円と色々ある。私は迷わず一万円の福袋を買った。ダッシュで小江戸号に向かって走る。発車二分前には何とか間に合った。こんなもんしか用意出来なかったが、何も無いよりはマシだろう。とりあえずさおりにメールを打とう。
「これから川越に帰るよ。だいたい着くの十二時二十五分ぐらい。今日も仕事が忙しかった。着いたら電話するよ。」
何だかんだ慌しい一日だった。座席に座り煙草を吸っていると、まぶたが重くなってくる。睡魔が襲ってきた。小江戸号が発車してすぐに私は眠りについた。
十二月二十五日 土曜日 クリスマス…。
「お客さーん。起きて下さい。」
駅員に起こされて、目を覚ますと電車は本川越駅に着いていた。車内を見回すと誰もいない。どうやらずっと寝てしまったようだ。
「すいません。」
駅員に頭を下げて、電車を降りる。そうだ、さおりは…。携帯を取り出し見ると着信が一件に、メールが二件入っていた。すべてさおりからだった。歩きながらメールを見る。
「駅まで迎えに行きまーす。十二時半前ね。」
「龍、もう十二時半過ぎてるよ。何かあったの?連絡待ってます。」
携帯の時計は十二時五十分を表示していた。三十分近くあいつを待たせている。すぐに電話を掛ける。
「さおり、ごめん。電車に乗ってて今まで寝ちゃったよ。今、どこ?」
「良かった…。」
「え?」
「すごい心配したんだから。」
「ごめん。」
話しながら走り、改札を抜ける。ロータリーにさおりの車が停まっていた。急いで近付きドアを開ける。
「ごめんな、さおり。すっかり寝ちゃってたよ。本当にごめん。」
「別に怒ってないよ。ただ全然連絡こないから少し心配しただけ。」
「ゲッ?」
「どうしたの?」
さおりの為に買った福袋がない。焦って駅を出たから小江戸号の中に忘れてきたみたいだ。
「いや、電車に忘れ物しちゃってさ…。」
「忘れ物?だっていつも龍、手ぶらで仕事に行ってるじゃない。一体、何を忘れたの?」
そこをつっ込まれると痛い。あの福袋はクリスマスプレゼントを買えなかった代わりとして、誤魔化しで買った物だし…。下手にプレゼントと言って、さおりを期待させるのも嫌だった。
「いや…、あの、その…。」
「もしかして龍…。」
さおりは動揺した私の様子を見て、とても嬉しそうな顔をしている。やばい…、こいつ、絶対にいい方向へ勝手に勘違いしている。
「たいしたもんじゃないんだ、全然…。と、とりあえず戻って探してくる。」
「龍。」
「悪いけど、もう少しそこで待っててくれ、なっ?」
そう言いながら私は本川越駅に全力で走った。改札口まで行くと、若い駅員が福袋を持って駅員待機室に入ろうとしていた。
「駅員さーん。」
大声を上げて近付くと、駅員はこちらを不思議そうに見ていた。
「それ…、そ、その袋…。お、俺の…。」
若い駅員の顔を見る。どこかで見たことのあるような…。駅員は私があまりにも勢いよくいったので、ビックリして固まっていた。
「それ俺が小江戸号の中で忘れてったやつなんだ。」
「お客様のですか。」
「そう、四号車にあったやつでしょ?」
「はい。」
「良かったー…。ところで君、どこかで俺と会った事ない?」
「え、ええ。先日うちの村西駅長と駅長室で、お話されたお客様ですよね?」
思い出した。あの時、お茶を出してくれた駅員だ。
「そうそう、あの時はご馳走様でした。この福袋あって本当良かったよ。ありがとね。」
「いえ、とんでもないです。見つかって良かったですね。」
「村西駅長にもよろしく言っといて下さい。」
「はい、分かりました。」
「じゃあ、失礼します。ありがとうございました。」
お礼を言って駅から出る。さおりにもとに戻って、福袋を手渡した。
「ほれ、クリスマスプレゼントって訳じゃないけど、買う暇なくて、こんなもんしか用意出来なかったんだ。今度時間合ったら一緒に何か買いに行こう。とりあえず今日はこれで我慢してくれ。」
文句を言われないようさおりの顔を見ずに、マシンガントークで一気に話し終えた。
「何、言ってんの、充分嬉しいよ。ありがとね、龍。」
「面目ない…。」
「私は龍と一緒にいられるだけで満足なの。だからそんなに気を使わないでよ。」
そう言って優しく微笑むさおり。こいつと知り合えて本当に良かった。心の底からそう思える。さおりとずっと一緒に仲良く生きよう。それがおろした子供に対する最大の償いなのかもしれない。
「そんな落ち込まないでよ。」
「ああ、分かったよ。ところでさおり、腹減ったろ?どこか喰いに行こうよ。」
「へへー、実は今日私が手料理を作ってきたんだ。だから龍の部屋行って一緒に食べようよ。ね?」
「悪いな、何から何まで…。素直に嬉しいよ。」
部屋に着いくと、さおりが作ってきたご馳走を広げる。鉄火巻きにとんかつの海苔巻き。ポテトサラダにフライドチキン。昔懐かしいナポリタンに春巻き。豚キムチ炒めにほうれん草のソテー。これだけ作るのにすごい時間を使っただろう。あんなに辛い目に合わせた私に対して、また優しく接してくれるさおりに感謝してもしきれなかった。
「早く食べてよ。」
「ん、ああ…。ありがとうな、さおり。」
「へへ…。」
「おいしい。すごいおいしいよ。」
「そう?良かった。」
「作るの大変だったろ?」
「それは昨日の龍だって一緒でしょ?」
「まあ、そりゃそうだけど…。」
「仕事忙しかったんでしょ。どんどん食べてよ。」
「でもこんなに一人じゃ食べられないよ。さおりも一緒に食べようよ。」
「その前にこれ、はい。」
さおりは黒い手さげ袋を渡してくる。
「何だよ、これ?」
「開けてみてよ。クリスマスプレゼント。」
「俺、何も用意出来てないのに、そんな気を使わないでくれよ。」
「早く開けてよ。」
「ああ。」
中を見ると綺麗に包装された箱が二つあった。中身は黒い財布と名刺入れだった。ちょうど私自身の財布が傷んでたので、そろそろ新しいのを買おうかと思っていたところだ。横でちゃんと細かいところまでチェックしててくれたんだ。何から何まで…、言葉が見つからない。無意識にさおりを抱き寄せる。力加減をしながらギュッと抱き締めた。
「龍…。」
クリスマスの聖夜は刻々と時間を刻んでいく。
朝、目を覚ますとさおりがいなかった。何時だろう。時計の針は九時を指していた。パソコンのキーボードの上に一枚の書き置きがあった。
お先に仕事行ってきまーす。龍、いくら起こしても起きなかったから、一応書き置きしときます。最近、仕事も休みなしで疲れも溜まってたんだね。時間の許す限り、ゆっくり休んでね。それでは…。
見送りぐらいしてあげればよかったがと、ちょっとした自己嫌悪に陥る。昨日というか今日の夜中にプレゼントされた財布が目に入る。早速、使おう。今使っている財布の中身を出して、さおりにもらった財布に移し変える。仕事上、受け取る名刺も財布にしまっていたが、プレゼントで貰った名刺入れにキチンとしまう。今度、時間作ってさおりに何かちゃんと買ってやらないとな。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「もうちょいしたら仕事に行って来ます。今日、さおりが出て行くの、気付けなくてごめんよ。もう今年も一週間ないんだな。どっちにしろ今までうやみやになってた西武の件もそろそろケリをつけないとな。仕事頑張ってな。」
さおりにメールを打って送信すると、風呂に入る事にした。寝起きで体が冷え切っている。湯船に豪快に入ると、体中ジンジンきた。西武新宿の一件から色々な事があった。整理して考えてみる。西武の件は駅長の峰にキチンと頭を下げてもらえれば、それで納得がいく。近々時間を作って駅に乗り込もう。その間に私たちのおろした子の事を考えると、胸がとても痛い。あの子が私とさおりの仲を戻してくれたようなものだ。自分たちの子供を犠牲に可哀相な事をしてしまった。情けない真似はもう二度と出来ない。いや、したくない。あんな想いはもう沢山だ。最近、妙に出てくる大和プロレス時代の夢。師匠大地さんの言葉。あれは思い上がった現実の私に対しての叱咤激励だと思いたい。今は形的に何の繋がりも無くなってしまったが、例え夢という形であれ、そう感じていたかった。結局、大地さんには何の恩も返せないまま、先に逝かれてしまった。その悔いはずっと今でも残っている。どれだけ考えても、一生この悔いは消えないのであろう。焦っても仕方のない事なのは理解しているが、考えているだけじゃ駄目だ。行動、口で言うだけでなく、言ったからには行動も伴わないといけない。天国から微笑んで私を見てくれるように、今後もまだまだ頑張らないとならない。あの子も遠くで私の生き様を見ていてほしい…。しかしこれは非常に都合のいい考え方だ。私はどれだけの罪を重ねて生きてきたのだろう。それでもまだ私は生きようとしている。それならずっと十字架を背負って生きていくしかないのだ。今は周りにいる身近な人しか大事に出来ない。でもそれを続ける事によって人と人の輪は広がり、いい人間関係を築いていけるような気がした。
仕事の時間中、プリンターのライトマゼンダのインクがきれた。補充用に買っておいたつもりが、たまたま無かったのでビックカメラに私自身が買いに行く事になった。ちょうどいい、さおりのクリスマスプレゼントもついでに買える。
「オーナー、ちょっとプリンターのインク買ってきます。」
「何だ、そんなの他のやつに行かせればいいだろ。」
「いえ、プリンターの機種も様々ですし、自分で行った方が間違いないです。」
「今、忙しいだろ。」
本当は機種の型番を見れば、誰でも分る事だが、外に出る口実が欲しかった。もう少しプリンターの説明や、パソコンの細かい事などを適当に並べたてればオーナーも面倒臭がって分かったと言うだろう。
「それは分りますけど、今、使っている機種はエプソンのPM970Cです。全部のプリンターのインクが同じなら問題ないですけど、これは各一色ずつの七色で構成され、端から順に言うと、イエロー、マゼンダ、シアン、ブラック、ライトシアン、ライトマゼンダ、最後にダークイエローとなっています。誰か一色なくなっても印刷は出来ません。書類は黒しか使わないだろうと、みんな思いますが、通常の書類を印刷してるのも、実はブラック以外に他の色も少しずつ混ぜながら、黒の色を出しているんです。」
「はあ?」
「それにそろそろ今、使っているパソコンもメンテナンスした方がいい時期です。ローカルディスクの最適化やディスクのクリーンアップ。それにエラーチェックからウイルススキャンもしておいた方がいいと思うんです。」
本当はこんな事は頻繁に行っていたので、今すぐやらなくてはならないものではなかった。でもどうせオーナーや周りには分かるまい。オーナーは困惑の表情を浮かべている。
「だから何だよ?」
「ただし、これらの動作にはどうしても時間が掛かるので、その間、私が買い物に行けば無駄な時間も無くなるかなと思ったんです。どうですか?」
「分からねーよ。相変わらずおまえの言う事は…。とりあえずクリーンエラーとか何とかっていうのやって、サッサと買い物行って来いよ。」
クリーンエラー…、また訳分からない事を言ってるが、気にしないでおこう。
「了解です。」
勝った。私は心の中で呟き、笑いを堪えるのに苦労した。一時間くらいはメンテナンスで掛かるから、それだけ外にいても問題ないという事だ。
私はインクを素早く購入したあと、ルイヴィトンの店に入った。クリスマスだけあってカップルが山ほどいた。ブランド物には疎いが、女だったらヴィトンのバックを貰って嫌がる女はいまい。財布の中を確認すると十二万入っていたので、適当に店内を見て歩いた。こんな柄の入った茶色のバック一つで十何万もするのには驚いた。彼氏に彼女がベタベタ甘えて男は財布の紐をほどいていく。その結果、女は茶色のバックを手に入れ、それと引き換えに男は金を吐き出していく。女は心から笑い、男は心で泣き堪える。こんな物に大金をかけてまで欲しいなんて、女という生き物は理解不能な生き物だ。私は男に生まれて本当に良かったと思う。でもさおりがこの茶色のバック一つで喜ぶなら、まあいいかなと思った。私は売り場の店員に近付き声を掛けた。
「おねーさん、これちょうだい。」
「はい。」
店員は私の指したバックについて細かい事をペラペラ話しているが、何を言ってるのか全然理解出来なかった。きっとオーナーにパソコンの件で言った時の反応と同じ気持ちなのだろう。
「よく分からないけど、これ自分の女にプレゼントしたら喜ぶのかな?」
「ええ、きっとお喜びになられますよ。」
「もし、おねーさんがこれプレゼントされたら?」
「すごく嬉しいです。」
「思わず抱きついちゃうかもしれないぐらい?」
「さ、さあ…、それは個人差があるかと思われますが…。」
「ふーん、まあいいや。じゃ、それちょうだい。いくら?」
「はい、税込みで十一万と三千二百円になります。」
「げっ…。」
「あのー、どうかなされましたか?」
「いや、何でもない。」
私は黙って十二万円を払った。値段もろくに見ないで買ったので、手持ち金ギリギリだったから少し焦ってしまった。これで私の財布はほとんどお金が無くなってしまった。
買い物を終えて靖国通りまで行く。信号が変わるのを待ってゆっくり歩く。人が多いので、せっかく買ったヴィトンのバックの入った手さげ袋を大事に気遣いながら横断歩道を渡る。さくら通りに差し掛かる時に、背後から走ってきた男が私の手さげにぶつかった。
「どけよ、オラッ。」
その男の行動に対し、一瞬で苛立ちが募る。その男は見向きもせずに、そのまま行こうとしたので人混みも構わず怒鳴りつけた。
「おい、このガキ。勝手にぶつかっといて一言の礼も無しか?」
私の言葉に男は立ち止まり、偉そうにこちらを向く。見るとまだ二十歳そこそこのガキンチョだった。一丁前にこっちを睨み返している。
「あ?」
最近の若いやつは礼儀を知らない。謝る事も出来ない。お仕置きが必要だ。
「ちゃんと謝れよ。おまえが勝手にぶつかったんだから。」
「うるせーよ。」
自分の目つきが鋭くなっていく。こんなガキンチョにこのような台詞を言われるなんて、私も随分と穏やかになったんだな。無言で相手に近付く。
「何だよ、やんのかよ?」
「この身の程知らずが…。少しは相手見て粋がれ。」
「あ?」
「国語も成績悪かったろ?口の利き方もしらない。」
「てめえ。」
ガキが掴み掛かってきたので、その手首を掴み斜めに関節を捻る。そのまま骨の連動で肘を極め、続いて肩まで極める。ガキの顔が苦痛に歪む。
「人を壊すのは簡単だ。だけど壊したって何にもならなねんだよ。でも謝れないなら、お仕置き代わりに壊すだけだ。」
「すいません。すいません。」
謝ったので自由にしてやってから口を開く。
「出来りゃーよ、こっちは穏便にいきてんだよ。ただ、テメーみてーなガキに舐められたら、俺の今までやってきた事が無意味になっちまうんだよ。これからは謝るぐれーなら、最後まで粋がれよ。それが出来ないなら大人しくしとけ。」
「は、はい…。」
これも教育だ。このままほっとけば、あの小江戸号で揉めたメガネの女みたいになるだけだ。逆ギレすれば何とかなる。そんな風に生きてきたから、そんな対応しか出来なくなるのだ。礼儀を口で教えても分からないなら、脅してでも分からせればいい。散々、説教をした。頭を下げてキチンと謝ったので、ガキを許してやった。これでこいつの傍若無人な振る舞いが以後、直ればいいが…。
仕事を終えて家に帰る。とりあえずさおりに電話を掛けてみる。
「今、家に戻ったとこだけど、これからおまえの家に向かうよ。」
「え、大変でしょ?私がそっちに行こうか?」
「いいから、いいから。三日連続で俺の家に来てたら、さおりも親に怒られるぞ。俺が行くからいいよ。」
「じゃあ待ってるね。」
急いで車に飛び乗ると、アクセル全快でさおりの元へ向かった。助手席にはルイヴィトンの入った手さげ袋がある。少しはビックリして喜んでくれるだろうか
子供をおろしてからさおりの家族とは挨拶の一つもしてなかった。礼儀の問題として親に、ちゃんと挨拶ぐらいはした方がいいだろう。ただ仕事帰りなので時間も遅い。またの機会にした方がいい。十五分ほどで彼女の家に到着すると、さおりは外で私を待っていてくれた。
「寒いんだから家の中で待っていればいいのに。」
「もうそろそろ着くかなって思ったの。」
「ほれ、これ。」
手さげ袋を手渡す。さおりの顔が輝きだす。
「もう、こんな無理して買わなくたっていいのに…。でもありがとう。」
「とりあえずギリギリでクリスマスには間に合ったな。」
「嬉しい…。」
もっと喜ばしてあげないと、心の中で固く誓った。
十二月二十六日 日曜日
第四十九回有馬記念(GⅠ)。言わずと知れた競馬の年末最後のGⅠレースである。会社に着いて、日刊スポーツ新聞を読んでいても一面にデカデカと扱われている。三十三歳になってから、今までいい事があまりなかった。さおりとの仲が最近ようやく以前に戻りつつある。運気が少しは上昇してきたのかもしれない。私はギャンブルはやらないが、新聞を見ている内に有馬記念をやってみようかなと思った。いい気分転換になるだろう。ドカッと賭けられれば気持ちいいだろうが、そんな金があるならさおりに使ってやりたい。あくまでも運試し程度でいいのだ。
「あれ、龍さんが競馬の出馬表見るなんて珍しいですね。」
後輩の田中が声を掛けてくる。
「まーね。俺、ギャンブルなんてしないじゃん。」
「急にやるなんてどうしたんですか?」
「最近、ちょこっとだけ運気がいい方向に向いてきたのかなと思ってね。ちょっとした運試しだよ。」
「はぁ…。」
「そうだ、田中。」
「はい?」
「おまえ、俺の選んだ馬券買ってきてくれよ。俺が外出ると、オーナーがうるさいじゃん。ちゃんとお駄賃もあげるからさー。」
「別に構わないですよ。俺も有馬には勝負賭けてますから。買う馬券、早いとこ用紙に記入して下さいよ。」
「分かった。」
新聞に目を通すと、様々なデータが記載してある。一番人気は一枠一番、ゼンノロブロイ。二番人気は三枠四番、コスモバルク。三番人気は五枠九番、タップダンスシチー。まあこの三頭で決まる事は無いと思って予想をする。個人的に気になった馬は三枠五番、ハーツクライ。四枠六番、シルクフェイマス。七枠十三番、ツルマルボーイの三頭だった。やるとしても予算は一万円までしかやらないようにしよう。
馬連の一‐六、一‐十三、九‐十三の三点。
枠連で一‐|四、一‐七、四‐七の三点。
三連複で一‐五‐六、一‐九‐十三、一‐六‐九の三点を各千円ずつ買う事にした。
「田中、これ全部で九千円だろ?一万渡すから、お釣りの千円あげるよ。」
「いえ、いいですよ。」
「悪いじゃん。少ないけどとっといてよ。」
「じゃあ、この千円で適当に何か買っときますよ。」
「好きにしていいからさ、馬券頼むよ。」
「分かりました。」
人気と気になった馬を適当に数字を組み合わせただけの馬券。運が良ければ当たるだろう。
オーナーに今年は三十一日まで仕事をやると言われ、少々落ち込んでいた。これじゃ休みの計画も何も立てられたもんじゃない。とりあえず元旦から三日までは会社自体が休みなので、さおりと一緒にいられる。
最近、毎日が忙しい状況ですっかり西武新宿の件が疎かになっていた。自分から動かないと何も片付かない。今日辺り、帰りに新宿駅へ寄ってみるか。それにしてもあれ以来、向こうから何も言って来ないというのはどういう事だ。助役の朝比奈には、この間、私の言い分をちゃんと伝えたはずだ。駅長の峰は何を考えているのだ。そろそろケリをつけたいのに…。
パソコンのデータを終わらせ、小説「とれいん」の続きを書き始める。さおりとの事とかで、あれ以来、全然進んでいなかった。一度読み直すと、結構誤字脱字が目立つ。手直ししながら、再度チェックした。小江戸号でのメガネの女とのトラブルの部分を読んでいる内に、再び怒りが沸いてくる。あの女、あれから小江戸号で見ないが、今度見つけたらメチャクチャ苛めてやる。早く完成させる為にも、いい終わり方をさせなければ…。
「龍さん、やりましたね。」
「え、何が?」
「有馬ですよ。有馬…。」
「何が来たの?」
「馬連が一‐九で、枠が一‐四。そして三連複が一‐六‐九です。」
「なんだ。当たってねーじゃん。」
「何、言ってんですか?龍さんの馬券をよく見て下さいよ。」
見直してみると、先程自分の書いた予想の三連複のところに一‐六‐九と一点追加で記入してあった。田中が気を利かせて、お釣りの千円でこの三連複を追加してくれてたのだ。
「これじゃ、俺が当てたって訳じゃないじゃん。悪いから、この馬券あげるよ。」
「いいですよ。」
「よくないよ。田中がこの数字を記入しなければ当たってないんだから。」
「大丈夫なんですよ、俺は…。」
田中はそう言ってニヤニヤしている。
「は?」
「自分もその三連複、一万買ってあったんです。」
「そうなんだ。何倍ついたの?」
「えーと五千八百六十円だから、五十八・六倍です。」
「え?じゃあ五十八万六千円になったの?」
「そうなんですよ。だから気にしないで下さい。龍さんの買い目見て、この数字抜けてるなと思って、自分の馬券も慌てて付け足したんです。」
「そうは言っても、やっぱ悪いからいいよ。」
「じゃあ今度、飯でも奢って下さいよ。」
「わ、分かったよ。ありがとな。」
「いえいえ。」
棚からぼた餅とはこの事だ。私自身もたったの千円が五万八千六百円になった。今日はさおりに焼肉でも喰わせてやろう。田中の寝る方向には当分、足を向けて寝れないな。こういうのを本当に運がいいと言うのだろう。さおりに誘いのメールを打った。
「久々に競馬やったら、今日の有馬記念当たったぞ。あぶく銭だから焼肉でも行こうよ。おまえにおいしいもの喰わせたい。」
本川越駅に到着すると、いつものようにさおりが出迎えてくれる。今日は本当に仕事の時間が終わるのが待ち遠しかった。久しぶりにウキウキしていた。さおりからもメールの返事がすぐあり、真っ直ぐ帰ってきたのだった。今日ぐらいは西武新宿の件や嫌な事を忘れたかった。競馬が偶然的に当たった事で今後、風向きが変わってくれればいいが…。
さおりに道を説明しながら焼肉の松坂という店に行く。ここは以前食べに行った時、肉がおいしいのはもちろん、店長の対応も大変丁寧で感じが良かったので、また食べに行きたいと思っていた店だった。まださおりを一度もここに連れてきた事がなかったので、ちょうどいいタイミングだったと思う。
「おいしい。」
「当たり前だろ。だからおまえをここに連れてきたんだから。」
すごいおいしそうに食べる焼肉を食べるさおりは、終始笑顔で機嫌が良かった。職場の後輩である田中に感謝しないといけない。明日にでもまたお礼を言っておこう。
私の家に着くと、夜の十時半になっていた。さおりに家の歩道側へ車を止めさせ、部屋に戻った。
「また今度あそこに行きたいなー。」
「そうだな。頑張って稼いでくるよ。」
「でも無理しないでね。」
「ちょっとぐらいの無理はするのが男ってもんだ。」
十二月二十七日 月曜日
目を覚ますと横にさおりがいる。それだけで私は幸せ者だ。時計に目をやると朝の七時。そろそろさおりを起こさないと会社に遅刻してしまう。
「おい、起きな。もう七時だぞ。」
「うーん…。」
「ほら、起きなって。」
「眠いよー…。」
「仕事行く準備しないと遅刻だぞ。」
ガバッと起き上がるさおり。だがすぐに私を睨んでくる。
「今日、月曜日だから私、お休みでしょ?飛び起きて損しちゃったよー…。」
「何が損なんだか。温かい缶コーヒーでも買ってきてやるよ。」
「ありがとー。」
外に出て家の前にある自動販売機まで行くと、地面にチョークで何か書いた跡がある。よく見るとさおりの車のタイヤにチョークは続いていた。嫌な予感が…。案の定、見事に駐車禁止のワッカがさおりの車のバンパーについていた。血液が上昇してくる。私はすぐに部屋に戻った。さおりはまた二度寝していたので叩き起こす。
「あ、龍。昨日の焼肉おいしかったね。」
「何、寝ぼけてんだ。とにかく起きろ。」
「なーに、どうしたの?」
「おまえの車が駐禁になってる。」
「えー。」
「車の通る車道じゃなくて、自分の家の前の歩道内だぜ?しかも夜に停めて…。しかも誰が見たって歩行者の妨げにならないだろうし、近所で文句を言ってくる奴も絶対いない場所だぜ?ふざけやがって…。」
「……。」
「川越の本署まで来いってご丁寧に張り紙までしてあるから、早速行こう。」
「う、うん。」
「そんな心配そうな顔すんなって。俺が罰金も点数も全部被るから。とりあえず川越警察署に行くぞ。」
理不尽な警察の行為に怒っていた。車が違反をとられた時間、夜の十一時半。家の前に停めて僅か一時間ちょいで駐禁をとられたって事だ。狙い撃ちされてやられたようなものだ。全身がイライラしてくる。わざわざ私の家の前に停めてあるさおりの車を夜中に目ざとく見つけて、駐車禁止のワッカをつける。もっと迷惑な駐車をしている車なんていくらでもあるのに、何故狙ったように…。やった奴を絶対に許せなかった。
向かう途中で、巣鴨警察署に電話をかける。知り合いの刑事、元口さんを呼び出してもらう。数分して元口さんが電話に出た。
「おう、神威か。久しぶりだな。元気で真面目にやってるか?」
「お久しぶりです。真面目にやってるに決まってるじゃないですか。」
「どうしたこんな早い時間に?」
「実は自分の家の前に車を停めていたら駐禁をきられたんですよ。しかも夜中にですよ。」
「駐禁か…。」
「元口さんの顔で何とかなりません?」
「そりゃ無茶だよ。課だって違うし…。」
「冗談ですよ。どうにかして駐禁を覆すって出来ますかね?」
「うーん…、難しいな…。」
「ですよね…。分かりました。」
「大丈夫なのか?」
「大丈夫も何もワッカ外さないとしょうがないでしょ。素直に受け入れますよ。」
「そうか、でも神威。」
「はい?」
「あんまり警察官、困らせるなよ。」
「分かってますよ。じゃあ、また時間ある時でも連絡させてもらいますよ。」
「おう、じゃあな。」
「すいませんでした。」
電話を切ると、さおりが不安そうな表情で私の様子を伺っている。
「何、そんな顔してんだよ。知り合いの刑事に聞いたけど、覆すの難しいみたいだな。とりあえずこういう理不尽な駐禁に対してはどう対処するか、俺が実際に目の前で見せてやるよ。さおり、スキッとさせてやるよ。」
そう言って、私は不敵に微笑んでやった。
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