百合子が病院に行く時は、せめて一緒に付き添ってやりたかった。仕事を休めるか駄目元で村川に聞いてみたところ、案の定駄目だと言われる。
もう店で従業員をするのは嫌とかそういう問題じゃない。
自分のやるべき仕事だけを済ませると、あとは店のパソコンを使い、『とれいん』の執筆作業に取り掛かる事にした。皮肉な事にメモリースティックを持っている。家に帰ったら、店で打った分を付け足せばいい。
どうせ客が来たって女の子は『ミミ』一人だけ。客なんてつく訳がない。
頭を切り替えよう。考えようによっちゃ、北方の『マロン』時代同様、仕事中に小説を好きなだけ書いていられるのだ。もうオープンしたし、それで金をもらえる。しかもあの東海林さんが絡んでいるのだから、何かあった時のアフターケアーも問題ない。北方のところよりはちょっとマシ。ちょっとはプラスな面を考えないとやってらいれない。
頭が空っぽの坂本は、店にある客用のソファーで漫画を読んでいる。この馬鹿のせいで…。いつか本当にぶっ殺してやりたい。
「あ、神威ちゃん」
「何すか……」
「誰か友達呼べない?」
「はあ? 何でですか?」
「『ミミ』ちゃんさ、今日で二日だけど、まだ誰もついていないのよ。二日いて給料ゼロね。このままじゃ、さすがに辞められちゃうでしょ?」
「しょうがないんじゃないですか」
あれじゃあ、客なんてつく訳ないだろうが。無駄銭ばかり使いやがって……。
「で、さっき村川さんに相談して、サクラをつけようって。だから友達呼んでよ」
オープンして初めての客がサクラかよ。金はうちの店が出すってか。さすが村川も認めるほどの馬鹿代表だ。だけど俺の知り合いを頼るな、ボケ。
「そんなの自分の知り合いをつければいいじゃないですか」
「いや、神威ちゃんなら結構友達この街にいるでしょ? 俺、結構嫌われ者なのよね、実は。だから一人、タダでいいから呼んでよ」
「坂本さん……。あんた、俺よりこの街にいる年数長いんでしょ? 一人ぐらい呼べるでしょ?」
「そんなのとっくに何人か電話したよ。だけど、誰も用事あって来れないんだよ」
大きくため息をつく。本当に早くこんな店潰れればいいんだ。もしくは本当に流行る店を作るしか道はない。
二択か…。いや、違う。こうなったら百合子が昼間働かなくてもいいぐらい稼ぐしか方法は残されていない。儲けさせるしかないのだ。流行らせる方法をゆっくり考えていくか。
俺は携帯電話のアドレス帳から大山の番号に掛けた。
「あ、神威さん。元気っすか?」
「おい、おまえ仕事中か?」
「ええ、どうしたんですか?」
「今から休憩時間取れる奴っているか?」
「う~ん、ちょっと待ってて下さい」
「ああ……」
こんな事しているなんて百合子が知ったら、本当に倒れてしまうだろうな……。
「あ、神威さん。うちの店長なら出れますけど?」
「じゃあよ、うちのビデオの系列だった『フィッシュ』ってあったろ? 東通りの角のとこにある」
「はい、すぐそばですよね」
「ああ、五分以内に店まで来るよう言ってくれ」
「え、うちの店長にすか?」
「ああ、タダで風俗遊ばしてやるから」
「あ、それなら多分すぐ行きますよ。うちの店長、年中風俗行ってますからね」
「頼むわ……」
電話を切ると、坂本を無視してまた『とれいん』の執筆に取り掛かる。
「さっすが神威ちゃん。顔広いねえ」
「……」
俺は無視して小説を書き続けた。
西武鉄道の件。あれを綺麗に片付ければ、まともな未来が開けるとばかり考えていた。ところが何なのだろう、この展開は……。
話がゴチャゴチャし過ぎている。いい展開の物語にするんじゃなかったのか? もう百合子は『とれいん』の存在を知っている。しかも完成するのを心待ちにしているんだ。
整理しよう。西武鉄道の一件から物語りは始まる。でも、そこに『ガールズコレクション』は絶対に登場させない。百合子にこんな腐った現状など、例え小説といえども関わらせちゃいけない。それにもう本川越駅駅長の村西さんには、小説を渡すと言ってしまったのだ。せめて坂本みたいなキャラクターは、馬鹿な会社員という設定で登場させようじゃないか。
当の坂本は相変わらずソファーで漫画本を読んでいる。
「坂本さん……」
「ん、何?」
「そんなところで漫画読んでんだったら、とっとと新しい女の子探してきて下さいよ」
絶対に切り離せない以上、坂本をうまく使いこなすしかない。
「あ、ああ。ちょっと待って。この漫画読み終わったらね」
そう言うと、坂本は鼻くそをほじりながら漫画をまだ見ていた。
「坂本さん!」
「わ、分かったよ。行けばいいんでしょ、行けば」
「ええ、行けばいいんですよ。お願いしますね。本当に可愛い子頼みますよ。裏本の時に出てくれた女の子とかその辺当たって下さいよ」
「別に構わないけどさ、高いよ?」
「いくらぐらい掛かるんですか?」
「そうだね……。一日うちで働いてもらうとしたら、七十万ぐらい必要かな?」
「はあ? あのさ、うちの料金って三十分で八千円なのね? しかもこの店ですぐおっぱじめる訳じゃなくて、わざわざ指定したレンタルルームまで行ってからの三十分。そんなんで、どうやって一日七十万も払えるんですか?」
「有名女優なんだから、料金を高く設定すれば簡単じゃん」
「高くって?」
「一人頭一時間十万円。七人集めたら、ペイできるでしょ?」
「そんな事できる訳ないでしょうが! 女の子がたくさんいて、うちがもっと流行っていて、たまにやるイベントで予約受付しての段階なら面白いアイデアかもしれませんよ。でもね、今のこの現状を考えて下さいよ? あの『ミミ』ちゃん一人でどうやって店が成り立つんですか」
「分かった、分かったから…。そんなにいつも怒鳴らないでよ」
「じゃあ、早くツテでも何でも使って行ってきて下さいよ!」
「はいはい」
坂本はふてくされたように店を出て行こうとした。
「あ、あの~……」
入口に客が立っていた。ヤバい。今の会話聞かれたか……。
「い、いらっしゃいませ。ようこそガールズコレクションへ」
「い、いえ…。違うんです」
「え?」
「あのー、大山のいるゲーム屋の店長なんですけど……。か、神威さんって方は?」
「あー、どうもどうも。俺が神威です。はじめまして。いつも大山がお世話になってます」
「は、はじめまして、権藤と言います」
妙にオドオドした奴だな。本当にこんな奴でゲーム屋の店長がよく勤まるもんだ。
「権藤さんね。よろしくです。今からすぐ入れます?」
「えっと…、ふ、風俗ですよね?」
「ええ、もちろんお金はいりません。今から大丈夫ですか? それとも仕事中だからさすがにマズいでしょうか?」
「だ、大丈夫です。ほ、本当にタダでいいんですか?」
「ええ、気にしないで下さい。この時間って本当にこの商売暇なんですよ。で、女の子ってお客さんつかないと金にならないじゃないですか」
「そ、そうですね」
「一つだけお願いがあるんですけど……」
「な、何でしょう?」
「つけられる子、ちょっと顔はいまいちと言うか……」
「あ、全然大丈夫ですよ。自分、ストライクゾーン結構広いですから」
「じゃあ、お願いできますか。今呼びますから……」
「ちょっと待った待った」
いきなり坂本が会話に割り込んでくる。
「は、はあ……」
「権藤君ね。どうも、私がこの店の店長の坂本です。私の顔でタダにするから。で、くれぐれも女の子にはサクラって事だけは秘密にしてよ」
一体何様のつもりだ、この馬鹿。俺は開いた口が塞がらなかった。自分じゃサクラ一人も呼べないくせに、実際に来ると何だこのえばりようは……。
「はあ……」
とりあえず『ミミ』に電話を掛けて、店に呼ぶ。この店から徒歩二分の場所に待機場所を借りてあるので、すぐ来れるだろう。
『ミミ』が到着するまでの間、坂本は偉そうな言い方で、いかに自分がすごいかを延々と権藤に自慢していた。
「お待たせしました~」
ようやく『ミミ』の到着。俺はレンタルルームの場所を再確認した上で、「三十分コースだけど、頑張って下さい」と声を掛ける。
「はい、頑張ります! じゃ、お客さん、行きましょう」
「は、はい!」
権藤は嬉しそうに『ミミ』と手を繋ぎながら花道通りの方向へ消えていく。本当にストライクゾーンが広い男なんだな……。
二人がいなくなると、俺は坂本に言った。
「坂本さん、何でサクラって言っちゃいけないんですか?」
「だって考えてみなよ。この店は営業努力しなくても、サクラをつけてくれるって知ったら、女の子、誰も努力しなくなるでしょ?」
通常、今のケースで計算すると、代金は八千円。別額でレンタルルーム代二千円。女の取り分はコース料金の半額だから、四千円しか手に入らないのだ。その程度の金で努力しなくなる風俗嬢なんている訳ねえだろ。
「……。坂本さん、もういいから早く女を探してきて下さい」
「いや、だってね、それをバラしちゃったらさ……」
「坂本さん!」
「分かったよ…。うるさいなぁ……」
やっと坂本は店から出て行った。
こんな調子じゃ、もうじきクリスマスだが、それさえも休ませてくれないだろう。
仕事の終わりの時間が来ると、百合子にメールを打ってから駅に向かった。
こんなんで一日一万円の日払いか……。
先が思いやられそうだ。
本当に嫌な事が色々あった一日だった。
店の実情を百合子に話す訳にもいかない。
帰り掛けに本川越駅のコージコーナーに寄って、チーズケーキとチョコレートケーキを購入する。百合子はチーズケーキが大好きだった。クリスマス前に別として買っても、嫌がられる事はないだろう。
改札を出ると駅のロータリーに百合子の車が停まって待っていた。思わず俺は走った。
「ただいま、結構待った?」
「おかえりなさい、お疲れさま。そんな事ないよ。五分も待ってないから。それより早く乗ってよ」
「ああ、ほれ。これ食うか?」
車に乗り込み、ケーキの入った箱を手渡す。箱を見るなり、百合子の表情は嬉しそうに変化する。買って本当に良かったと思えるような笑顔だった。
「わー、ありがとう。嬉しい。あ、そうそう、これ龍……」
百合子が手さげ袋を渡してくる。中を覗くと、いい匂いがしてくる。
「弁当作ってくれたのか? ありがとう。腹ペコペコだったんだ」
「でも、給料出てない状況なのにお金大丈夫?」
「あ、やっとさオープンになったから日払いで金が入るようになった」
「良かったね」
満面の笑みを見せる百合子。
「ああ……」
絶対に真実は言えないな。
「龍の部屋に行く?」
「そうだな」
俺の家に帰りスーツを脱いでいる間に、百合子は部屋を簡単に整理してくれた。パソコンを起動してメモリスティックを差し込む。小説『とれいん』を開き、『ガールズコレクション』で書いた部分を付け足した。
「へー、ここまで書いたんだ? すごいね」
「どうなんだかね。ただ書こうと思って書いているだからね」
「私、これ読んでるから、龍はお弁当食べてよ」
「ああ…、おっ。おいしそうだねー。いただきまーす」
百合子の作ってくれた料理はマーボ茄子、豚肉のしょうが焼き、卵焼きに唐揚げ。サラダに炊き込みご飯と豪華なものだった。一口食べてみる。
「うまい!」
思わず口に出てしまうほどおいしかった。百合子は笑顔で俺が弁当を食べる様子を見てくれている。以前も作ってくれてはいたが、今回はさらに気合の入ったものだった。
「今日、龍のとこ泊まってもいいかな?」
「全然構わないよ。でも明日は仕事だろ?」
「うん、だから朝七時ぐらいには出るようだけど」
「分かった。目覚まし掛けとくよ」
「ねえ、龍……」
「ん、どうした?」
「抱いてほしい……」
「だっておまえ…、体は大丈夫なのか?」
「うん、お願い」
その夜、俺たちは久しぶりにお互いを求め合い愛し合った。心の底が腐りそうなぐらい嫌な一日だったけど、最後の最後でまた百合子に救われた気がする。
携帯電話が鳴っているのが聞こえる。目を覚ますと、横で百合子が気持ち良さそうに俺の腕枕で眠っていた。以前なら当たり前の光景が今はとても新鮮に、そして感動的に映る。
「おーい、もう六時半だぞ。起きろよ、百合子」
「うーん…、おはよ」
まだ眠たそうな百合子。俺は唇を重ねる。
「目が覚めたか?」
「もっとしてくれなきゃ覚めない」
ようやくいつもの彼女らしさが出てきたみたいだ。百合子が出掛ける準備をしている間、俺は簡単な食事を作ってくる。
「おいしそー」
「時間ないんだから早く食っちゃえよ」
「いただきまーす」
朝食を食べ終え、七時になったので百合子を家の玄関先まで見送る。
「それじゃあ、行ってくるね」
「ああ、いってらっしゃい」
「龍が寝ている間、『とれいん』読んだけど、すごい面白いよ。早く続きが読みたい」
本当に良かった。『ガールズコレクション』という現実の設定は外しておいて……。
「へー、そっか。ならもっと頑張らないとな」
笑顔で百合子を見送ると、布団に入って横になる。少し疲れを感じていた。一体何なんだよ、昨日のありえない展開は。職業選択の自由の国じゃないのか? 東海林さんは何を考えているんだ。まあいい。どうせいくら考えたって、俺の現状が変わる訳じゃないんだからな。
冬場になって布団の中に入ると気持ち良くてずっとこのままでいたくなる。昔は違った。寒い時期だろうが何だろうが、とにかくトレーニングに没頭したもんだ。トレーニングウェアーを脱ぐと、全身から吹き出る汗で両肩から湯気が出ていたぐらいだもんな。
あの頃を懐かしく感じる。それに比べると今はずいぶんと情けなくなったものだ。
俺は布団から出て、上半身裸になる。寒い…、とても寒い。
その場でストレッチを始めだす。すっかり固くなった体。以前は股割りでペタッと地面につけられたが、今はとんでもなかった。
周りからはまだ体格がいいと言われるが、自分自身が衰えを一番感じていた。もうあの頃には戻れないのか? 何がパソコンだ。どんなにパソコンの腕が上がろうが、俺の心は全然満たされない。
できる事ならまたリングの上で戦いたい。だが現状を考えるとトレーニングする時間さえ、間々ならない。いや、そんなもんはただの甘えだ。時間はいつだって平等なのに、鍛錬を怠りすっかり怠け癖がついているのだ。前なんて寝る時間さえ惜しんでトレーニング漬けだったじゃねえか。
いつからこうなった? ひょっとしてこれが老いるというものなのか。
ずっと若いつもりでいたけど、もう若くないのかなあ……。
もうどこにも逃げられない現在の立ち位置。このままどこへ浮遊していくのだろう。
寒いので再び布団に入る。色々考えている内に俺は二度目の眠りについた。
夢を見た。若い頃の自分が汗だくになってトレーニングしている。
この場所は…、大和プロレスの道場だ。若い頃の俺が必死になってスクワットをしている。そう、こうやってひたすらトレーニングに明け暮れていたっけ。
「はい、次はねー。腹筋行くよ。とりあえず百回。終わったら腕立てね」
大地師匠がそばに立ち、俺は必死に回数をこなしている。肉体の疲労がピークになり崩れ落ちる俺。そうこうやって限界までいって、そこから先何回できたかが新たな力となる。
「僕が腕立てや腹筋の合間に、何で休憩をくれないのかって思ってるんでしょう?」
「ハァ、ハァ…、そ、そんな事…、ハァ、思って、ないです……」
大地さんの人の良さそうな笑顔。この人にずっと良く思われたいから頑張ったよな。
「ちゃんとね、僕は休憩時間をあげてるんだよ。今、腕立てをしてるけど現時点で腹筋とスクワットの時の筋肉が…、腹筋をしてる時は腕立てとスクワットの時の筋肉はちゃんと休んでいるんだよ」
一見ムチャクチャな理論に聞こえるが、これでいい。だって一般人として生活するんじゃなく、レスラーってそうやって強くなっていくもんなんだから。
あれ? 次第に目の前が薄暗くなってきた……。
景色が変わる。また懐かしい光景が目に映りだす。ここでちゃんこ鍋を食べて体を大きくしたっけなあ。テーブルの席にはヘラクレス大地さんとコーチ役の峰さんが座っている。ボーっとしている俺に先輩レスラーの夏川さんが促してくる。
「おい、今日おまえはお客さんだじゃら飯も最初に喰わせてやる。腹減ったろう? 頑張ったんだからガンガン喰ってけよ。ほら、そこの空いてるとこ座れよ」
「すいません」
目の前にあるバカでかい鍋。テーブルには常にコンロが設置され、周りには様々な料理が並ぶ。まるでプロレス時代の走馬灯を見ているようだった。
確かこのあと大河さんが……。
「いやー、いい汗掻いたー…。ちゃんこ鍋できた?」
ほら、来た来た。
「ほら、ボケッとしてないで、ガンガン喰えって」
夏川さんも俺より二つしか変わらないし、何だかこの頃は初々しいなあ。
夢なら覚めないでほしい……。
目を開けると、自分の部屋の天井が見える。やはり夢だったのか…。そりゃそうだ。あれが夢じゃなきゃ、俺は頭が狂ったとしか言いようがない。
若かりし頃の思い出が夢となって映る。懐かしいと思った。ノスタルジーを感じるなんて、やっぱり年を取ったのかもしれないな。
このタイミングで大和プロレス時代の夢を見たというのは何かの啓示だろうか? いや、考え過ぎだろう。
しばらくボーっとしていると、携帯電話が鳴る。オーナーの村川からだった。
「はい、もしもし。どうしたんですか?」
「馬鹿野郎。何時だと思ってんだ!」
いきなり村川の怒鳴り声が聞こえてくる。時計を見ると昼の一時半になっていた。どうみても完全に遅刻だ。
「すみません、寝坊しました。今すぐ向かいます」
「まったくよー。何時ぐらいになんだ?」
「えっと…、すぐに出ますが、どんなに急いでも三時前ぐらいには……」
「早くしろよ!」
「はい、すみません」
ヤバいヤバい…。電車の時刻表を見ると、一時五十八分の快速急行があるのを確認する。特急小江戸号の次に早い電車だった。これで行くのが一番早い行き方だろう。急いで風呂に入り、着替えをしてるところに、百合子からメールが届く。
《今日はありがとう。ケーキ買ってくれて嬉しかった。仕事終わったらケーキいただくね。でも、わざわざよかったのに…。さすがに昨日あんまり寝てないから、ちょっと眠いかな。龍もあんまり寝てないから仕事大変だろうけど頑張ってね。 百合子》
馬鹿、ゆっくり見ている場合か。電車に乗り遅れるぞ。すぐに返事を返す余裕がなかったので後回しにした。
駅まで走っても五分は掛かる。本川越駅まで到着し改札を通ったところで電車のベルが鳴る。
百メートルを全力で走り抜けるように猛ダッシュした。
まばらに駅構内の中にいる人々が驚いて道を空ける。発車間際。間に合うか? 周りの人たちには迷惑だが全力で走った。
「ひっ……」
真っ直ぐ直線な進路を突き進む私の目前に、一人の中年のサラリーマンが戸惑った顔で立ち塞がっていた。いや、逃げ遅れたというべきか。
このまま行ったらぶつかる。このスピードでぶつかったら相手は間違いなく大怪我をするだろう。だけど走る方向を極端に変えたら電車に間に合わない。
俺は転ぶのを覚悟で体のバランスを変えた。あまりにもスピードが出ていた為軸が崩れ、体が言う事を利かなくなる。もはや制御不能だ。俺の体はそのまま派手に転び、数回転したあと豪快に床を滑っていった。端のコージコーナーのウインドーガラスまで滑ってぶつかり、そこでようやくとまった。
体のあちこちが痛い。周りを見ると、みんなが物珍しそうに見ていた。
やせ我慢して何事もないように立ち上がる。痛い。何だか体がすごい痛いぞ。それでも表情には出さないよう堪える。十数人の野次馬はそんな俺を囲むように二メートルぐらいの距離を開け、半円を作っていた。
「見世物じゃねえぞ!」
とりあえず威嚇して左足を引きずりながら電車に向かったが、無常にも電車は発車してしまう。背後から笑い声が聞こえた。
「何がおかしいんだっ!」
俺が怒鳴りつけると、野次馬連中は蜘蛛の子を散らすように改札へ逃げていく。
あ、スーツのズボンが破けているじゃねえか。どうも左手の人差し指が痛いと思ったら、爪が割れて血が出ているぞ。まったく踏んだり蹴ったりだ。
朝からついてねえなあ……。
歌舞伎町にやっとの思いで着いた俺に対し、村川は昨日の今日という事もあり大袈裟に怒鳴りつけてきた。
「すみません…。明日からは真面目に来ます……」
いい訳は一切やめておこう。夢を見て遅刻して焦って走って転んで回転して滑って怒鳴って痛い思いしてスーツ破れて電車に乗り遅れたなんて、さらに怒られるだけだし。
「ん、神威、ズボンの膝のところ破れてんぞ?」
「ああ、さっき転んじゃいましてね」
「まあいい、これから頼むぞ」
「はーい」
昼の三時を過ぎているのに『ガールズコレクション』はまだシャッターが閉まっている。
「あれ、村川さん。何で店、開いてないんです?」
「坂本の野郎も遅刻なんだよ」
不機嫌そうに村川は言った。
急いでシャッターを開け、看板を外に出す。すべての明かりをつけると、パソコンの電源を押した。この店の開店準備なんてこんなもんだ。あ、『ミミ』は来ているのかな? 電話をしてみる。
「はい、おはようございます」
「おはよう。『ミミ』ちゃんさ、今日何時ぐらいに来ました?」
「えっと…、十一時半ぐらいですけど」
約四時間もただ待たせた事になる。
「本当にごめんね。ごめんなさい。俺、遅刻して今さっき来たばかりで……」
「あ、そうだったんですか。全然気付きませんでしたよ」
予想外の返答に拍子抜けした。「ふざけないで下さい!」って怒声が返ってくる覚悟していた。風俗嬢ってもっとわがままで、すぐに怒るものだと思っていたが……。
今日でこの子も三日目。ここ二日間で客はなし、サクラ一人だからもらえる給料はたった四千円。それでもめげずにこうして来る彼女に対し、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「本当にごめんなさい」
「あはは、大丈夫ですって」
「俺、頑張って客たくさんつけられるようにしますから」
「ありがとうございます」
逃げ出せないのなら、もっと真剣に仕事に取り組もう。どんな悪条件だってもうこうなったら腹を括ってやるしかないんだ。
店を開けたら客が来るまでひたすら待ちの商売。四坪ほどの狭い店内にはギュウギュウに詰めればようやく三人ほど座れるソファーがある。客が来たら女の子を選んでもらい、到着するまでそのソファーで待ってもらう。女の子が店に来たら、客と一緒にレンタルルームへ行くという流れ。まあ女の子を選ぶっていっても、現在はまだ『ミミ』一人だけだけど……。
店に村川が入ってくる。
「どうだ、調子は?」
「まったくですね。村川さん、一度全体的に今みんながどう動いているのか把握したいので、坂本と若松に召集掛けられませんか?」
「おう、いいぞ。やっとおまえもやる気出してくれたか」
「そういう風に強引にさせられただけです」
「け、可愛げのねえ野郎だ」
嫌味の一つぐらい言っても問題あるまい。こんな状況に追い込んだ村川を憎いと思う自分と、どこか彼の生き方に対し同情している自分がいた。
まずどの辺から手をつけていくべきかな。経費の無駄遣いを繰り返す坂本と若松。仕事もしないこの二人の癌細胞をどうやってうまく動かしていくかが鍵だ。手術して切り取れるならそれが一番なんだけどな。
それぞれの性格をしっかり把握しとかないといけない。
坂本の特徴は、いい加減、金遣いが荒く適当、ルーズ、そして馬鹿。あとは妙に格好つけたがる傾向がある。これじゃ欠点だけだな。いいところを探せ。いや、違う。いいところなんてある訳ないんだから、使える部分を考えろ。
あの馬鹿は一応裏本を作る仕事をしていた。つまり俺とはまるで違う職種の人間と繋がりがあるって事だ。あの手のタイプに強く言ってもサボるだけだろう。うまくおだててなだめすかして初めて図に乗って動くはず。それで女の子を集めさせないと……。
若松の特徴は、外見的に言うと顔が濃い。あの太い眉毛とギョロッとした剥き出しの目をを見ていると生理的にイライラするのは何故だろうか? いや、仕事とは関係ないか。坂本ほど顔を合わしている訳じゃないからいまいち把握しづらいが、現段階で分かっているのが、馬鹿という事。あとは弟がオーナーなのにその下で平気な面して働いているところから、坂本ほど変なプライドはないだろう。そのほかに知り合いに感化させやすい傾向にある。何かあるとすぐに「俺の知り合いが言うにはね……」と言うぐらいだ。つまり自分ってものがあまりない人間なのだろう。馬鹿は坂本の代名詞だから、若松は阿呆ってところか。
あの阿呆については、オーナーの兄貴ぐらいの情報しかない。あ、あと沖縄出身ってぐらい。だから濃い顔をしているのかもしれない。東海林さんのグループに弟も所属しているぐらいだから、前職は裏ビデオでもやっていたのだろう。今度聞いてみるか。おそらくパクられて現在執行猶予中だと思う。だからこうしてここで働くようになったのだろう。
阿呆をどうやって使いこなすか。あいつの役割は情報館とレンタルルームと最初に決めていたが、よくよく考えてみると何もしていないって事だ。情報館には毎月二十万の金を払えばうちの店のパネルや割引券を置いてくるし、レンタルルームに関しては女の子がそこへ客に行く場所なだけ。弟がオーナーだからという感覚があるだろうから、しばらくは使い物にならないな。とりあえず阿呆は戦力外として放置しておこう。プロ野球ならとっくに戦力外通知で自由契約にさせたいところだ。
これからは坂本を馬鹿、若松兄は阿呆と心の中で呼ぼう。
あとはあいつら二人の無駄遣いをやめさせるって部分が重要だ。
俺はパソコンの下にある金庫を見た。この中にいくら入っているのかさえ、今まで興味なかったが知っておかないといけないな。
現時点で分かっているのが準備段階でもう四百万の金を四人のオーナーが出している。今いくら残っているのか今日中に把握しておこう。
経費は俺が管理するしかない。それだけじゃない。全部を裏で俺が統括しないと、このはなっから穴の空いていた沈没船は本当にすぐ沈没する。
風俗という仕事の経験がまったくない俺は、思いつく限りのものを想定してみる。こんな時経験者が一人でもいたらいいんだけどなあ。まあしょうがないか。コマは馬鹿と阿呆。これしかないのだから。
パソコンのエクセルを使って、売り上げの収支表、女の子の出勤状況名簿、シフト表、女の子の客つき状況表を次々と型だけ作っていく。
あとは何をしなきゃ駄目だろう……。
一日でいきなりすべてなんて無理なんだから、様子を見て気付いたら即実行すればいいか。
そんな事を考えていると、やっと坂本が店に到着した。
「おはようございます」
「おはよー」
大遅刻さえまるで悪びれる様子のない坂本。落ち着け。この程度でイライラするな。こいつは馬鹿なんだ。脳みそなんて皺が十本ぐらいしかない低脳の持ち主なんだ。多くを期待するな。必死に自分へ言い聞かせる。
「どう、調子は?」
何だ、この野郎。偉そうにほざきやがって……。
「誰も客なんて来ませんよ」
「あっそう」
まるで他人事のような坂本。自分が店長だと偉そうにしているくせに。
先ほどこいつの欠点でいい加減、金遣いが荒く適当、ルーズ、馬鹿、格好つけたがりと捉えていたが肝心な部分を忘れていた。責任感の欠如。これも念頭に入れておかないとな。
「坂本さん、女の子の状況は?」
「ん、今日は『ミミ』ちゃんだけでしょ?」
「そうじゃなくて!」
落ち着けって。いちいちイライラするな。
「何だよ、いきなり怒りだして……」
「嫌だな、別に怒ってないですって。新しい女の子の事ですよ。坂本さん、そっち系統はすごい顔広いでしょ? 結構モテたんじゃないですか?」
自分の吐く台詞にジンマシンができそうだ。
「いやー、実はそうなんだよー。今まで何人女を抱いたっけなあ」
馬鹿はすぐ図に乗る。それにおまえが女にモテた話なんて聞いてねえよ、カス。まあちょっとだけ喋らせとくか。
「結構な数いるんでしょ?」
「両手両足の指じゃ足りないぐらいかな~」
ふん、どうせすべてが金で買っただけだろうが……。
「すごいっすね。じゃあ、坂本さん。とりあえず二人ぐらい今日中に入れられないですかね?」
「そういうのって結構難しいんだよ。個人で抱くレベルと店で他人のチンポコくわえさせるって違うでしょ?」
そんなの誰でも分かるよ、この馬鹿。それを見つけるのがテメーの仕事じゃねえか。
「でも、このまま『ミミ』だけじゃ店が成り立ちませんよ? だから一人でいいんで、坂本さんの顔の広さで何とか今日入れちゃいましょうよ。何とかなりません?」
「うーん、そこまで言うなら当たってみるかぁ~」
こいつ、本当に今まで何もしなかったんだ。殺意が沸き出てくる。
「お願いします。あと店の金庫にはいくら残ってんです?」
「ん、金?」
「ええ」
「ないよ」
「はあ?」
「もうないって」
「……」
呆れた。何という事だ。四百万、いや俺がパソコン代等で四十万引いたとして三百六十万をすべて使い果たしてこのザマか……。
「今度オーナー連中に言って補充してもらわないとなあ」
まったく反省の色がない坂本。
「坂本さん……。何に使ったんです?」
「だって情報館でしょ? サクラでしょ?」
「ちょっと待って下さいよ。まず情報館で二十万ですよね。あと昨日の権藤のサクラで『ミミ』ちゃんに四千円ですよね?」
俺は先ほど作った表に数字を打ち込む。
「ん、何してんの?」
坂本はパソコンの画面を不思議そうに覗き込んだ。
「ちゃんと収支をつけているんですよ。こういうのはキッチリつけておかないと、あとあと何でってなりますから」
「面倒だからいいよ」
何で東海林さんはこんな馬鹿のアイデアなんて採用しようと思ったんだ。不思議でしょうがない。この馬鹿、大ボスに尻尾を振るのだけはうまいんだろうな。
「よくないですよ。だって警察に捕まらない仕事をするんで、この風俗を選んだんですよね? だったらちゃんと収支ぐらいつけないと、警察じゃなくて国にやられますよ?」
「大袈裟だなあ」
「本当ですから」
「もうちょっとさ、神威ちゃんはラフさ加減ちゅうの? そういったもんをつけたほうがモテるよ」
「いえ、彼女いるんで、これ以上モテなくていいですから」
「一人の女に満足なんてつまらん人生だね~」
こいつのせいで俺は子供を……。
椅子から立ち上がりゆっくり坂本を見下ろした。
「な、何? どうしたんだよ?」
「坂本さん、早く女の子に電話でも何でもして、一人お願いしますよ」
「あ、ああ…、分かったよ」
そう言うと坂本は身の危険を感じたのか『ガールズコレクション』を出て行った。
誰もいなくなった店内。俺は壁に向かって思い切り拳を叩きつけた。
今は我慢しろ。怒ったところで何一つ生まれないのだ。
この日は夜七時頃になってようやく若松の兄が来る。
店の営業時間は昼十二時から夜の十二時まで。こいつ、たった五時間しか働かないつもりなのだろうか?
まず男サイドのシフトをちゃんと決めたほうがいいようだ。朝から晩までなんてとてもじゃないが俺は付き合えない。
坂本の馬鹿に女を探させて、店のほうは昼が俺、夜が若松の阿呆をいさせる方法しかないか。この阿呆でちゃんと客の相手をできるのか? それが悩みの種だ。そうだ、この阿呆がここに来る前に何をしていたか確認しとくか。
「若松さん」
「ん、何?」
「若松さんってここの前、何をしてたんですか?」
「俺?」
本当に阿呆だな。名前でちゃんと呼んで聞いているんだから、おまえしかいねえだろ。
「ええ」
「ほら、俺の弟が池袋でビデオ屋やってんじゃん」
やってんじゃんってそんなの知らねえよ、ボケ。
「そうなんですか」
「そこで名義人やってたんだけどさ。捕まっちゃって今執行猶予中なんだよね」
「大変なんですね」
「だって神威君だって同時期ぐらいに捕まってたでしょ?」
「俺は不起訴ですから、別に執行猶予なんてついてないですよ」
「え、何で?」
ギョロッとした目をさらに剥き出して若松は聞いてくる。本当にこいつの顔は生理的に嫌だ。
「名義張ってないし」
「え、どうして?」
しつこいなあこの馬鹿。
「まあ、おいおい今度時間ある時に話しますよ」
「ふーん」
「まあ、今日はどうせ暇でしょうから」
「女の子は?」
「『ミミ』だけですよ」
「何で女の子もっと入れないの?」
「だってそれは俺のせいじゃないじゃないですか。坂本さんにもっと強く言っといて下さいよ」
「知り合いとかさ、神威君いないの?」
「風俗に紹介するような女の子はいませんね」
「彼女は? 彼女確かいたでしょ?」
「それ…、俺の女にここで働けって意味でしょうか……」
自分の声が低くなっていくのが話していて分かる。こいつ、ぶっ殺してやろうか。
「べ、別にそういう意味で言ったんじゃないじゃん。やだなあ~」
「俺はとりあえず今日はもう帰りますよ」
「え、もう帰っちゃうの?」
「ええ、もう帰ります。店の財布から今日の日払い一万円抜きますよ?」
「あ、ああ、持ってって」
持っていくに決まっているだろ、阿呆。偉そうに抜かしやがって。
「あと今日『ミミ』にはサクラを二人つけましたから」
「そう」
「じゃ、また明日という事で」
俺は荷物をまとめ、『ガールズコレクション』をあとにした。本当にあんなゴミみたいな連中と一緒に店を流行らす事なんてできるのだろうか?
女の子がちゃんと入れば、色々戦略が立てられるのにな。
今日は百合子もゆっくり休んでいるだろうし、俺も帰ったら早めに寝よう。
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