石井に帰り道、付き合ってもらい、ベンチプレスを購入する。
それを部屋に設置する。鍛え方に関する本や、肉体に関する本を数冊、ついでに買っておく。
軽くめくって、パラパラ見てみると、ベンチプレスのような器具を使ったほうが、筋肉を太くするらしい。
早速五十キロの重さに調整してやり始める。横になってベンチプレスに寝る。両手をバーベルに添える。ゆっくり左右のバランスを取りながら上げてみる。
このぐらいの重さじゃ軽いもんだ。同じようにゆっくり下ろす。胸に付くかどうかぐらいまで下ろして、また持ち上げる。腕が小刻みに震えだし、持ち上げた状態で、しばらく持ち堪える。
さっき食べたものが胃袋の中で暴れ回る。吐きそうになるのを堪えながら、二十回ほど同じ運動をすると、筋肉が反応してくる。俺は気にせず、ひたすら同じ事を続けた。
繰り返し回数をこなすと、五十キロとはいえ、侮れなくなってくる。この現状から回数を関係なしにやり続け、限界が来たら、また持ち堪える。
限界から、何回こなせるかが、俺の力になるような気がする。バーベルを定位置に戻すと、汗がブワッと全身からほとばしる。筋肉が、また一歩、進化するのを感じる。
外に出て柔軟を始める。
昨日の筋肉痛が残っているせいか、伸ばすと気持ちいい。昨日よりも、出来る限り柔らかくなりたいので、息を大きく吐きながら、徐々に曲げていく。
一通りの柔軟を終わると、走り出す準備をする。途端に嫌な気持ちになる。あれだけの決意をしたつもりが、走る事に関しては、体が拒みだす。でも、走らなければいけない。拒絶する細胞全部に、ムチを打ち、走り出す。
ベンチプレスの時に掻く汗とは、また違う、別の汗が吹き出す。目に汗が入ろうとするのを手で拭いながら、昨日行った川原へ自然と向かう。
また再度、柔軟して、基礎トレーニングを開始する。
腕立て、腹筋、スクワットを黙々とこなしていく。筋肉が疲労しているので、すぐに細胞が悲鳴を上げる。構わずやり続けるが、途中崩れ落ちる。悔しいので、体勢をすぐに戻そうとする。
汚物が一気に逆流して、俺の口から溢れ出てくる。あまりにも苦しいので、喉に指を突っ込む。吐けるだけ、吐いてしまおう。少しは楽になった。しかし、今ので、どのぐらい体重が落ちてしまったのだろう…。
そんなもの、帰ったら、食い物を詰め込めばいい。また、トレーニングを開始する。少なくても昨日よりは、数をこなさなくてはならない。
トレーニングを終え、木のところへ行く。樹皮が、ほんの少しだけめくれながら、堂々と立っていた。
息を整え、構える。右腕に、ありったけの力を込めて、木にエルボーを放つ。
「グッ…。」
あまりの痛さに、呻き声が漏れた。昨日出来た傷のかさぶたがとれ、血が滴り落ちる。痛みを堪えながら、何発も打ち込む。樹木の樹皮がちょっとだけめくれ、俺の血が付着して、若干、赤く染まる。
エルボーを放つ肘も、始めは痛みで顔が歪んだが、その内、痛みに慣れてきたようだった。神経など、なければいいのに…。
今日で二日目…。これを一年間続けたら、俺はどのくらい強くなるのだろう。
自分でも分からない無限の可能性。そこから俺は、自己流で何をつかめるのだろうか。少なくても、今の俺のエルボーじゃ、伊達の放つ、鈍器のようなエルボーに、遠く及ばない…。
もっと強くなりたかった…。
思ったよりも、土木の仕事は大変だった。
道路を一度壊して、すべての破片を取り除き、高熱の真っ黒な石みたいなものを敷く。それからローラーなどで、平らにしていく作業。
筋肉痛の俺にとって、一つ一つの動作が辛い。でも、こういうきつさを望んでいたのかもしれない。すべては、肉体の為に…。
初めて扱うスコップも、なかなか慣れなかった。親方が言うには、コツというのもがあるみたいで、力任せにやっても、無駄に力を消費させるだけみたいだ。
昼飯の時間になり休憩所に行くと、親方の奥さんが、ご飯の用意をしていた。
「はじめまして。今日からお世話になります、神威龍一といいます。よろしくお願いします。」
奥さんが、俺の方を振り向く。なかなか綺麗な顔立ちの奥さんだった。
「あらー、結構いい男ねー。でも、仕事初日にしては目の下にクマ出来てるわよ。女の子と遊ぶのも、ほどほどにね。」
そう言って、奥さんは微笑んだ。予想外の事を言われ、顔が真っ赤になる。
「ち、違いますよー、誤解です…。これは、昨日トレーニングで…。」
「へー、体鍛えてるんだ。格好いいわねー。でも、何の為にやってるの?」
女性に対し、ハッキリとプロレスラーになると言うのが、照れ臭かった。でも、そんな事で、俺は、あのリングに立てる資格があるのだろうか…。
誰の前でも、堂々としていないと駄目だ。俺は真剣な表情で、奥さんを見て口を開いた。
「プロレスラーになる為です。」
「うそ…。でも、神威君。それにしては、体の線が細くない?そんな可愛い顔してんのに、神威君には、野蛮な事似合わないわよ。」
「……。」
綺麗な年上の女性にそう言われると、かなりショックだった。でも、俺の言葉と肉体がまだまだ比例してないのだから、仕方のない事だ。
それでも堂々としてやる。作業着の上着を脱いで、傷だらけの右腕を見せる。俺の腕を見て、奥さんはビックリしていた。
「ええ、まだ目指して、今日で三日目です。体が、細いのも承知しています…。だから、頑張っています。これが、その証です。」
「ごめんなさいね。何だか軽い言い方しちゃって…。」
「い、いえっ、全然、問題ないですよ。今の俺が、言葉の説得性に欠けているのですから、当たり前の話です。そんな謝らないで下さいよ。」
クスッと、奥さんは笑う。何か俺の台詞でおかしな点でもあったのだろうか。
奥さんはニッコリしたまま、食器を並べ始めた。慣れた手つきでみんなのご飯の支度をテキパキこなしていく。作業をしながら、話し始めた。
「いいわねー。あなたみたいに若くて、真っ直ぐに打ち込むものがあるって…。私はそういうのって、とっても素敵だと思うし、好きだなー。ぜひ、頑張って欲しいわ。」
そう言いながら、食事の支度を一時的にやめ、俺を見ながら優しく微笑んでくれた。
「ありがとうございます。元気が出ます。あ、俺も手伝いますよ。」
俺も奥さんにつられて、思わず笑顔になってしまう。
「あら、ありがと。気が利くわね。じゃーね、あそこに出てるお椀に、お味噌汁入れて、テーブルに出してもらえるかな。」
「はい、分かりました。」
ようやく食事の仕度が終わる頃、ドアが勢いよく開き、親方と他の作業員が、休憩室にドヤドヤ入ってきた。
「腹減ったよー。飯、飯。」
「おー、今日もうまそうだ。」
「いつもお疲れ様です、奥様。」
休憩室は、人の熱気や歓喜の声で一気に騒がしくなる。大きなテーブルに全員座ると、賑やかな食卓になった。
「いただきます。」
一斉にお辞儀をして、それぞれ好きな物を食べ始める。奥さんの作った料理は、抜群に旨かった。親方は、みんなががっつく姿を満足そうに頷きながら見渡す。俺も仕事で体を散々動かしたので、お腹がペコペコだった。胃袋に、奥さんの手料理をガンガン詰め込んだ。
「あ、あのー…、親方、食費一日五百円じゃ、申し訳ないんで…、千円払いますのでおかわりしていいですか?」
「バカ野郎。くだらない気を使うなって。そんなの気にせず、ガンガン喰えって。おい、神威のご飯よそってやれよ。」
奥さんが笑顔を俺の茶碗を受け取り、ご飯を盛りだす。結局、俺は苦しいのを我慢して四杯のご飯を食べた。動けないぐらい満腹だ。みんなも、俺の予想以上の食欲に目を丸くして見ていた。
「一体、その細い体のどこに、あれだけの飯が入るんだ?」
作業員のおやじが声を掛けてくる。細い体…、その言葉が神経に引っかかる。いちいち言われた事に対して反応するな。このおやじも悪気があって、言っている訳ではないのだ。俺が体を大きくすれば、問題ない事なのだ。
「無理してでも、体をでかくしなきゃ、いけないんですよ。」
遠くで奥さんが笑顔で、俺を見守ってくれるのが分かる。
「今ぐらいの方が、女にモテるだろう?そんな喰ってると、俺みたいに太っちゃうぞ。」
そう言いながら、おやじは、突き出した腹を見せる。手で、ピシャンと叩いた。
「おいおい、しげさん。あんたと彼を一緒にしちゃー、可愛そうだ。なんせ、顔の作りが違い過ぎる。」
みんな大爆笑だ。この雰囲気で、レスラーになると真面目に言うのは難しい。でも俺は自分の信念を真っ直ぐに通したい。軽く息を吸い込み、口を開いた。
「俺、レスラーになります。だからいっぱい食べて…、いっぱいトレーニングして、体でかくしないと駄目なんです。」
俺の台詞に、あれだけ騒がしかった休憩室が、一瞬にして静まりかえる。その部屋にいる全員が、俺を注目していた。
「おいおい、真面目な顔して、ギャグ言わないでくれよ。」
「やめときなって、そんな細い体じゃ、すぐに骨、折っちゃうぞ。」
「あんまりプロを舐めんなって。」
それぞれみんな勝手に好きな事を言い出す。一つ一つの言葉が俺の心を傷つけていく。こんな風に言われるのを分かっていながら、ハッキリと言ってしまう俺は、大馬鹿なんだろうか…。非常に悔しい、でも、今は耐えるしか方法はない。
「綺麗な顔が、俺みたいになっちまうぞ。」
その時、親方が険しい表情で立ち上がり、周りを一喝した。
「やめろ、おまえら。こいつなりに真剣に考えてんだ。それを茶化すんじゃねー。」
親方の一括で、騒がしかったみんなが静まりかえる。休憩室は、シーンとしていた。時計の針が動く音だけが、聞こえてくる。
親方の優しい心遣いが、嬉しかった。勇気を少し分けてもらったような気がした。目尻が熱くなる。こんなところで、泣く訳には絶対にいかない。天井を睨み、涙をこぼさないように努力した。
「おい、神威。俺に恥かかせんなよ。おまえはここで金を稼ぎ、ここで飯喰って、でかくなんだぞ。自分で納得したら、とっとと、こんな場所から飛び出していけよ。」
不覚にも一粒の涙がこぼれてしまった。自分の感情を抑えなれなくなり、涙が溢れ出す。親方は俺の肩を強く叩く。俺は懸命に涙を抑えて、親方を見つめた。
「そんなすぐ、涙流すような奴は駄目だ。でも今、流した涙を忘れるなよ。」
胸がいっぱいで言葉が出なかった。俺は感謝の気持ちをありったけ込め、親方に向かい深々と頭を下げた。下を向くと、さっき食べた物が胃袋から逆流しそうになるので、慌てて姿勢を元に戻す。親方は笑いながら俺に話す。
「午後は腹苦しいからって、容赦しねーからな。いいか?ガンガンこき使ってやるから、覚悟しろよ。」
家に帰って、体重計に乗ってみる。針は六十六キロを指す。
これからトレーニングする事を考えると、ゾッとした。あれだけ食べているのに、これだけしか体重が増えていない。また、トレーニングに行って帰ってきたら、一体、何キロ落ちてしまうのだろう…。
仕事で掻いた汗を流す為、風呂に入る。体をよく洗いながら右腕を見る。傷だらけなので、シャワーを掛けるだけでしみた。
鏡で上半身を見る。あれだけトレーニングをしたという自負があるのに、体は以前と変わらないぐらい細かった。
違う事といったら、この全身が気だるく感じる筋肉痛と、右腕の傷が残っているだけだった。鏡に写る細い体を見ていると、正直不安になってくる。
二日間のトレーニングと仕事初日の疲れで、体はクタクタになっていた。風呂を上がって、ベンチプレスに寝転がる。両手でバーベルを持ち上げる。
三十回も上下運動をやると、クタクタになる。さっき汗を流したばかりなのに、全身から汗が吹き出してくる。体の疲労の限界だった…。
体が汗で光った状態で、ベンチプレスに横たわり目を閉じる。
窓から強めの風が部屋に入ってきた。胸の上を一陣の風が撫でていく。疲労で疲れきった俺の体を一瞬だけ、癒してくれた。
こんなきつい思いしているのに、俺って幸せだな…。素直にそう感じる。一陣の風が、ささやかな幸せを届けてくれた。
「兄貴ー。またいいビデオ入ったぜ。」
勝手にドアを開けて、弟が部屋に入ってきた。俺を見て、困惑の表情をしている。
「兄貴、何、してんだよ、部屋に、バーベルなんか入れて…。すごい汗だくじゃん。」
「ちょっと、トレーニングしてたんだ。何だ、いいビデオって?」
弟は無言のまま、デッキにビデオを入れて、再生ボタンを押した。
「おっ、大和プロレスの試合じゃん。」
俺は慌てて体を起こし、テレビ画面に近付く。画面には、伊達が写っていた。
「青コーナー…、伊達光利ー…。」
すごい声援の中、伊達がゆっくり手を上げて観客に答える。見ていて、とても格好良かった。その中、赤コーナーにいる外人が、伊達に突然つっかかってくる。
「このでかい外人レスラー、ランディ、バイソンって言うんだ。こいつのラリアートを喰らって、返せたレスラーは、今まで誰一人いないんだぜ。」
弟が色々と横で解説してくる。確かに、このバイソンという外人レスラーの丸太のような太い腕でドカンと喰らったら、ひとたまりもなさそうだ。
伊達が奇襲を喰らってダウンした。バイソンの攻撃の手は止まらない。メチャクチャにやられる伊達…。場外に放り出されると、しばらく起き上がってこられない。
バイソンは様子をリングの上で見ていたが、我慢できずに、レフリーの制止を振り切り場外に下りた。
最前列の客は、バイソンが近付くと、悲鳴をあげながら逃げ出す。パイプ椅子を手に取るバイソン。倒れている伊達の背中に、パイプ椅子を叩きつけた。伊達は痛みで床をのたうち回っている。
「おい今、椅子の角で、思いっきり叩きつけなかったか?」
「このバイソンは、そういう事を平気でやるレスラーなんだよ。」
普通に見ていて、すごい光景だった。バイソンは、倒れている伊達の髪の毛をつかみ、強引にリングへ戻させる。
「現在バイソンがチャンピオンなんだけど、この試合は、ベルトが懸かってるんだ。伊達は以前に二度、このバイソンに挑戦したんだ。二回とも、ラリアートを喰らって負けているけどね。試合的には、いい試合で、ラリアートさえ、伊達が喰らわなければ、勝ててた試合なんだ。バイソンも、この間の試合で伊達の強さが分かったから、きっと焦っているんだと思うよ。」
試合を見ている限り、バイソンの強さだけが目立つ、片寄った展開だった。伊達は完全にグロッキー状態で、視線も虚ろになっている。
一発二発と、何とかエルボーを返すが、この間、ヘラクレス大地にお舞いしたような力強さがない。
バイソンが、リング中央でフラフラになっている伊達目掛けて、右腕を後ろに引きながら突進していく。
伊達の首元に、バイソンの丸太のような腕が衝突して、すごい衝撃音が聞こえた。よくテレビでやっている決定的瞬間で、車に人が跳ねられた映像がある。それと同じような感じで、伊達は吹っ飛んだ。
リングの上で、痙攣しながらダウンする伊達。
悲鳴と声援が入り混じり、テレビの中に写る観客全員が、総立ちで興奮している。
バイソンはゆっくりと近付き、フォールに移行した。
レフリーが、カウントを数えだす。
「ワンー…、ツー…、スッ…」
伊達が左肩を一瞬上げる。信じられない光景を見て鳥肌がたつ。何故そこまでして、フォールを返すのだろう。観客の興奮は更にでかくなる。伊達を見ていて悲壮感が漂う。
誰が見たって、ボロボロという表現が、ピッタリと当てはまるくらい、今の伊達は、ダメージがでかい。それでも片膝をつき、何とか立ち上がろうとしている。
バイソンは自らロープに飛んで、勢いをつけた。立ち上がる伊達に再度突進する。もう次を喰らったら、終わりだろう…。
「あっ!」
テレビを見ていて、つい、声を出してしまう。それぐらい驚いた…。
バイソンが、ラリアートにいこうとしたその右腕に向かって、エルボーを放つ。返す刀でという感じで、そのままエルボーをバイソンの顔面に叩き込んだ。バイソンの顔が一瞬ぶれて、前のめりに静かに倒れる。
伊達は両膝から崩れ落ち、両手をついて自分の体が倒れるのを懸命に阻止している。倒れたら、起き上がれないと、自分で分かっているように見えた。
土下座のような格好になっていたが、見ていて、まったく恥ずかしさを感じない。徐々に意識をなくしたバイソンのところへ行き、ようやくフォールにいく。
「ワンー…、ツー……、スリーッ!」
完全に、誰が見ても、納得の出来る勝ち方だった。フォールの体勢のまま、伊達もまったく動けないでいる。
会場は、興奮のるつぼになった。実況席のアナウンサーが絶叫する。
「新チャンピオン、ここに誕生!二十八代目王者、伊達光利…。時代の扉を開きました。おっと…、ヘラクレス大地がリングに上がり、伊達の元へ祝福しに行きます。どーですか、大場さん?」
社長のチョモランマ大場の顔が映し出される。目元が潤んでいる。身長二メートル十二センチ、世界に誇る日本の巨人が、静かに泣いていた…。
「チョモランマ大場が泣いているー。あのチョモランマ大場が泣いています。」
弟がプロレスの雑誌を俺に見せてくれた。
雑誌には、大和プロレス新時代到来…という見出しで、細かい記事が、何ページにも渡って、掲載されていた。
読んでみると、プロレス界は当時、大和プロレスと、新世界プロレスの二つの団体しかなかった。まあ、この辺は俺でも知っている。そこへ戦国時代顔負けの群雄割拠の時代へと移り変わっていく。
まず、新世界プロレスの若きエース候補だった幸田が、ロープに飛ばないリアルさを追求したプロレス団体、「K・W・F」を作り、三つ目の団体が出来る。
そこへ、カツラの一流メーカーであるネイランスがスポンサーとなり、各団体からレスラーを金で引き抜き、四つ目の団体、「A・N・W」が出来る。
その時の引き抜きで、大打撃を受けたのが、大和プロレスだったらしい。
チョモランマ大場が、年と共に体力の低下を感じると、自ら一線は退き、ヘラクレス大地に、メインの試合をまかせる。そこでふざけるなと対抗意識を持ち、立ち上がったが、サンダー君島だった。
ヘラクレス大地と、サンダー君島二人の過激な抗争は凄まじく、とにかく客が入った。どこへプロレスの巡業に行っても満員御礼だったらしい。
チョモランマ大場から、うまく世代交代がスムーズにいき、このまま大和プロレスも、安泰かと思われた矢先の事。
例の「A・N・W」の引き抜きによって、サンダー君島は移籍し、戦場を変えてしまった。そのサンダー君島を慕ったレスラーも数多くいて、一緒についていってしまう。
もちろん新世界プロレスからもそこまでのビックネームのレスラーは行かないにしろ、多数のレスラーを引き抜かれたので、そこそこの打撃はあった。
豊富な資金力を持つ「A・N・W」は、世界の一流レスラーを次々と日本へ呼び、大ブレークした。
二枚看板でもっていた大和プロレスは、観客動員数が一気に落ち、このまま崩壊かとまで、言われるようになった。
当時、若手だった伊達光利が、決起して軍団を作る。エルボーを武器に暴れる伊達の人気は、一気にブレークした。新鮮な対戦カードが、連日、目白押しだった。
伊達をリーダーに、山田、大河などの若手レスラーが、ヘラクレス大地の高き壁に、全力で向かっていく図式は、客に非常に受けた。若手レスラーが蹴散らされても向かっていく様子が、客に感情移入されたのかは、分からない。気付けば、伊達光利は大和の救世主となっていた。
必殺のエルボーを喰らったヘラクレス大地が怒り、伊達は半殺しの目に合わされ、鼻の骨まで折られた事があったらしい。それでも伊達は試合を休まず、次の日から、いつもと変わらない感じで、試合に出場し、ガンガンやり合ったようだ。
チョモランマ大場、ヘラクレス大地に続き、伊達光利という名を大和プロレスに、キッチリ刻んだレスラーだと、雑誌でも絶賛されていた。
テレビの画面には、タイトル戦で、初めてのベルトを手にした伊達が、笑顔で観客に答えている。狂喜乱舞の熱気に包まれた会場の中。伊達の腰に、ベルトが巻かれる。ずっと努力してきた伊達の姿を知っているからこそ、観客もグッとくるものがあったのだろう。
もし、俺がここに入れたら、とてつもない素晴らしい偉大な先輩を持った事になる。
先の事を考えると、全身に鳥肌がたった。少しだけチョモランマ大場が、泣いた意味を理解出来たような気がする。俺が目指す世界は、男として生きていく上で、誇りに思える場所だった。
この記事を通して、大和プロレスの過去や人間模様が垣間見え良かった。ますます俺は早く体を作って、あの世界に飛び込んでみたくなった。
「まさか兄貴…、ひょっとして…。」
弟は薄々感づいている。俺がレスラーを目指している事を…。部屋に、ベンチプレスをわざわざ入れて、上半身裸、体が汗で光るまでやっている現場を見ている。今の俺の体は情けない体だが、この精神まで恥じる事はない。
「ああ、大和プロレスに入るつもりだ。」
自信たっぷりの顔で、弟に話す。
「やめときなって、その体じゃ無理だよ。」
「誰が無理って決めたんだ?おまえが、大和の決定権でも持っているのか?」
「違うよ、そんな事を言ってるんじゃない。兄貴が喧嘩、メチャメチャ強いのだって分かるよ。でも、ちょっとプロレスは、違うだろ。」
「誰に、何、言われたって、俺は変わらない…。そりゃー、もちろん、すぐに大和いくなんて思ってない。一年掛けて、じっくり体を作る。一年後に、おまえは同じ事を俺に言えるか?」
「うちの家系は、太らない体質なんだぜ。」
「ああ、よく知っている。おかげで本当、苦労してるよ。」
「……。」
弟は黙ってしまった。自分の弟に、早く納得させるぐらいの肉体が欲しかった。
「心配してくれて、ありがとな。おまえに恥かかせないように頑張るよ。」
「分かった。もう止めないよ。兄貴、頑張れよ。」
「ああ…。」
本当は疲れていて、このまま眠りたかった。でも、そんな事をしてられない。またトレーニングに行かないと…。
人にきちんと言う事で、自分を後戻り出来なくさせる。俺はこのやり方が、一番自分を甘やかさないやり方だと思う。
筋肉痛の体を動かしながら、また、いつもの場所に行く準備をする。さっきのビデオを見たシーンが蘇ってきた。
バイソンのラリアートを喰らいながら、意地で返した伊達…。
あの時、感じた悲壮感。自分が大和プロレスを背負って立つという哀愁が、あったからこそ、会社が崩壊の危機に決起したんだ。物凄い攻撃を喰らっても、負けてはいけない強い心が、伊達を強くさせたような気がする。
外に出て走り始める。途中で小雨が降ってくる。伊達のああいう姿を見た後だったから、雨など全然気にならなかった。俺の心を読んで怒ったかのように、雨は段々激しくなる。この程度じゃ、俺の信念は挫けやしない。早くあの世界に行きたい…。その為に最低限でもいいから、体重が欲しかった。今、望むものはそれしかなかった。
ボロボロになって、トレーニングを終え、戻ってくる。
家に着いて、汗と雨でびちょびちょのトレーニングウェアーを脱ぎ捨て、洗濯機に放り込む。
鏡を見ると、肩辺りから、湯気が出ていた。戦う漫画で、よく主人公が出すオーラみたいな感じがして、嬉しくなる。
雨にも負けずとかってやつ、あったような…。確か、宮沢賢治だったっけ…。
体重計に乗ると、六十三キロまで落ちていた。前よりも二キロほど痩せてしまっている。ショックではあるが、仕方のない事だ。
冷蔵庫から一リットルの牛乳を二本取り出し、一気飲みした。一本は楽だが、二本目は、さすがに時間掛けて、ゆっくり飲み干す。
体重計に乗ると、六十五キロまで上がっていた。シンプルな理屈である。
確か寝る前に、飯喰うと、太るって誰かが、言っていたよな。俺はカマンベールチーズ一箱を口に詰めて、布団に入る。疲れていたので、いつの間にか寝てしまった。
こんな生活を一ヶ月近く続けると、気持ちと共に、自分の体に筋肉がついてきているのを感じるようになった。
今日は土木の仕事も休みで、たまにはゆっくりリフレッシュでもしようと、当てもなく街をブラブラする。最近、体をでかくする以外、考えてこなかった。
暇になると、何をしていいか、分からなくなる。商店街を歩いていると、腕を組んだカップルとすれ違う。つい、横目で仲良さそうにしているカップルを見てしまう。
俺の生き方に、自分で誇りには思っていたが、正直、寂しさもあった。トレーニングしていたほうが、良かったのかもしれない。街を歩いていると、孤独感が非常に湧き出てしまう。
「おっす。」
不意に肩を叩かれる。振り向くと石井だった。俺を街で偶然見つけ、ニコニコしている。
「おお、久しぶり。」
「仕事は慣れたか?」
「ああ、おまえが紹介してくれた親方が、すごい気を使ってくれてるから、非常にありがたいよ。石井にも、感謝してる。」
「飯でもどうだ。腹、減ってる?」
「さっき喰ったばかりだけど、付き合うよ。その分、体重、増えるしね。」
石井は俺の体をジロジロ眺めている。肩から首の辺りを触ってきた。
「一ヶ月前よりも、ちょっとは大きくなったんじゃん。まだまだ線の細さはあるけど…。さっき後ろ姿見て、一発で神威だって分かったよ。」
「何で…?」
「歩き方だよ。前と全然、変わらねーなって。」
「歩き方?」
「あの時の事、思い出すよ。神威が階段で、いきなり椅子で、殴られた時の事。」
「俺もおまえが、そんな事、言うから思い出しちゃったよ。」
「あの時は、ビックリしたぜ…。椅子で殴られているのに、そのまま殴った奴に振り向いて、痛ーなーって言いながら、平然としてんだもんな。」
「痛かったからそう言っただけだ。あの野郎、思い出すと今でもムカムカする。」
「でも、そのあとの神威、酷かったよ。そいつの髪の毛つかんで、そのまま階段から落としたじゃん。落ちてから、あいつ、ピクピクしてたもんな…。」
「そのぐらいされて当然だ。理由もなく、椅子で引っ叩きやがって…。」
今でも鮮明に覚えている。高校三年生の終わりだった。
石井と学校の階段を下っていると、階段の踊り場辺りで、後ろからいきなり殴られた。俺は頭が固かったので、コブが出来たぐらいで済んだが…。何だと思い、後ろを振り向くと別のクラスの奴が椅子を持ちながら、ビックリして俺を見ていた。
その面を見ていたら、ムカついた。髪の毛をつかんで下に向かってぶん投げてやった。そいつは、階段を転がり落ち、気絶していた。椅子で不意打ちするような馬鹿は、思い知らせたほうがいい。
あとで、そいつのクラスの担任が、文句を言いに来た。自分で不意打ちしといて、負けたら、先生にチクるなんて、最低の野郎だ。
俺は向こうから先に、手を出した事を説明した。理由もなく階段を歩いているところを椅子で不意打ちされた。だから、やり返しただけだと…。
自分は全然悪くないと、言い張った。石井もその時の証人になってくれたので、反対にそいつが怒られていた。先生がその馬鹿に、何故そんな事したんだと問い詰めると、高校生活の最後に、俺を倒して名を上げたかったと、馬鹿な事を抜かしていた。馬鹿につける薬はない。昔の人は、いい事を言うものだ。
椅子で叩かれた辺りを思い出したように触ってみると、当たり前の事だがコブがある。触ると、痛かった。
それ以来、左手は開いた状態で、右手だけは拳をギュッと握り締め、歩くようにした。何があっても右手ですぐ対応でき、ブン殴れるようにする為に…。その歩き方が、昔と変わってないと、石井は言いたかったのだろう。
石井に誘われて、さざん子ラーメンと書いてある一軒のラーメン屋に入る。
駅に向かう通り沿いにあるラーメン屋で、楕円形のカウンターがあり、中には気難しそうなマスターが、料理を忙しそうに作っている。昼時なので店の中は、混み合っていた。
「どうもー。」
「おう、いらっしゃい、毎度ー。今日は何にする。いつものかい?」
どうやら石井はここの常連客みたいで、気難しそうなマスターは笑顔で話し掛けてくる。石井が頼む、いつものメニューとは、何なのだろう。
「ここのガーリック丼はメチャメチャうまいんだ。おまえも喰ってみなよ。」
ガーリック丼…。ニンニクがいっぱい入っているドンブリなのだろうか。
「おう、初めまして。石井君の友達かい?」
「そうです。中学から一緒なんですよ。こいつプロレスラー目指してましてね。」
石井がマスターに俺を紹介する。マスターはニコニコしながら、俺を見ていた。
「そりゃーたいしたもんだ。いいねー。お名前は、何て言うんだい?」
「神威といいます。初めまして。」
「へー、いい名前だ。頑張って下さいよー。」
「じゃーマスター、とりあえずいつものガーリック丼二つと、餃子二人前もらえます。」
「あいよー。」
マスターが料理を作り出す。ガーリック丼…、一体、どんなものなんだろう。マスターが、手早く様々な料理をどんどん作りあげていく。俺たちの前に、ドンブリが出された。
「へい、お待ち。これがガーリック丼だよ。まあ、食べてくんねえ。餃子はもうちょっと待っててね。」
ネーミングの通り、ニンニクがという訳ではなかった。見た目は、普通の焼肉丼と遜色ない。
「いただきます。」
いい匂いがして食欲を誘う。一口食べると、あまりのうまさに、箸が止まらなくなる。さっき食べたばっかりだけど、あと、二杯は喰えそうだ。
「マスターすいません。ガーリック丼、あと、二つ頼んでもいいですか?」
「おお、喰うねー。いいよー、どんどん喰いねー。」
マスターは張り切って料理を作り出す。その時、小学生ぐらいの子供が二人、店に入ってきた。
「おう、坊や。いらっしゃい。今日は友達と一緒かい。うーん、いい子だ。おじさん、顔を見れば、すぐに分かっちまうんだ。今日は何にするんだい?」
「ラ、ラーメン二つ。」
「あいよー。」
マスターはノリノリだ。小学生二人は、俺の隣にチョコンと腰掛けた。テキパキ仕事をこなし、俺の前にガーリック丼二杯と、餃子が出てくる。石井は、ようやく一杯のガーリック丼を食べ終わるところだった。
「うまいだろ?」
「じゃなきゃ、同じ物、三杯も頼まないよ。このガーリック丼、最高だ。」
俺が全部食べ終わる頃、隣の小学生のところへ、ラーメンが出てきた。
「坊や、遅くなっちまってごめんよ。おじさん、ご飯サービスしてやるからな。」
「そんなに食べらんないよー。」
「いいから喰いな。」
迷惑そうな顔をする小学生の目の前に、構わずご飯を強引に置くマスター。小学生に、有無を言わせない頑固さが、見ていて楽しい。
どうやら俺は、一発でガーリック丼と、マスターを気に入ってしまったようだ。石井は隣で、笑い転げていた。
土木の仕事中の事だった。
親方が運転するユンボという機械がある。道路を崩した時に出る破片の中で、中途半端な岩があった。それをなかなかすくえず、困っていた。その破片の岩は、だいたい重さ百キロ程度あった。俺はいい案を思いついて、親方に言ってみる。
「親方、そこにユンボのそれ、置いて下さい。」
親方は不思議そうに、ユンボを俺の指示した場所に下ろす。俺はその破片に近付いて、両手でつかみ易い位置を探す。親方が怒鳴ってくる。
「バカッ!やめろっ。持ち上げる気か?腰、やっちまうぞ。」
俺は親方の方を振り向き、ニッコリと微笑んでみせる。
「大丈夫ですよ。」
腰を溜めて、両腕に力を込める。ビクともしない…。
これぐらい持ち上げられないで、何がプロレスだ。全ての力を指先に集中させる。ジワリジワリ岩のような破片が、持ち上がってくる。
片方の手を更に潜り込ませる。指先から手首に、力をうまく伝えるようにイメージする。周りで何か騒いでいるが、まったく耳に入らない。全ての意識を力のみに集中させろ…。
ようやく破片は持ち上がる。膝ぐらいの高さまで上げて、ユンボの物をすくう口の所まで、ゆっくり慎重に運ぶ。短い距離だが、とても長く感じた。
気合いを入れて破片を更に持ち上げる。腰以上の高さに破片を持ち上げ、ユンボの口の中に放り投げる。すごい音を立てて、破片は中に落ちた。
俺は全ての力を使い果たしたみたいで、自然とその場にへたり込む。目の前を白い虫のようなものが、グルグル飛んでいるのが見えた。誰かが俺の両脇に手を入れて、抱き起こしてくれる。まだフラフラしていた。
親方がユンボから降りて、俺の方へ近付いてくる。
「おまえのその凄い力は、うちらの技術に、匹敵するもんなんだな…。」
信じられないものを見たという感じで、俺をまじまじ見ている。
「ちょっとは、これでレスラーになるって言うのも、信憑性が出てきましたか?」
「ああ、体も前よりは出来てきたみたいだな。腰、大丈夫か。やってないか?」
「このぐらいで壊れちゃ、レスラーになれっこないですよ。」
他の作業員も集まってきて、みんなビックリしていた。
俺がレスラーになるっていう事に対し、百人中百人が笑っていた。でも、これで二人ぐらい、笑わなくなったかな…。
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