「呻吟祈求」

信仰と教会をめぐる求道的エッセイ


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お薬師様もお不動様も、はたまたキリスト様もたじたじ?-新型コロナの衝撃とそのリトマス作用-(1)

2021年06月27日 | 教会

 

 

「お薬師様もお不動様も、はたまたキリスト様もたじたじ?」

—新型コロナの衝撃とそのリトマス作用—(1

 

 ぼくらがその何やら妙な気配を感じ始めたのはいつのことだったろうか。たしか、2019年も年の瀬に向かう頃ではなかったか。とすれば、それからもう1年半余が経ったことになる。それはどこからともなく——巷では、中国の武漢からというのが大方の推測のようだが?——やってきて、あれよあれよという間に世界中に広がってしまった。WHO(世界保健機関)はこれを "COVID-19(新型コロナウイルス感染症)" と命名したが、パンデミック(世界的大流行)となったこの感染症により、あまりに多くの命が失われた。しかも、それが過去形でなく、今もって続いている。そこにある哀惜や悔恨の涙はどれほどのものかと思わされる。憤怒の歯軋りさえ、そこにはあるやもしれない。心ならず逝かれた命の一つひとつに、二つとないかけがえのない生があったのだから。初動の重要時になんとも不可解な言動を繰り返した、WHOの事務局長。経済や政局や日程を人命以上のものとした、そこかしこの行政人たち。先々同じ轍を踏まぬためにも、反省材料の一々に目を向ける必要があろう。かく言うぼくなんかも立派な高齢者なのに、ほんの数日前、ワクチン接種の1回目の "予約" がやっと取れたという状態。実際の接種は一月ほど後になるそうな。

 こうした置き場のない思いに心を乱しつつも、しかし、ぼくは今ここにこうして筆を執り始めた(キーボードを叩き始めた?)のだから、ここでの趣旨に添って筆を進めねばなるまい。ここでの趣旨とはつまり、このブログのタイトルが物語るように、「信仰と教会をめぐる求道的エッセイ」としてこれを書き進めるということである。というわけで「新型コロナの衝撃とそのリトマス作用」という今回の副題になったのだが、要は、新型コロナの感染拡大によって教会のいかなる姿が、また信仰のどんな様相が現出したのか——今流行りの言い方をすれば、可視化されたのか——ということになろうか。それを求道的な視点で、なおかつ事の本質に触れるような洞察を持って探ることができたら、と思っている。

 ただ、その前に一つ、おり入ってのお願いがある。ぼくらのような物書きが結構出くわす現象なのだが、言葉づかいや文言等の表現様式をどうか、狭く閉じられた読み方で即物的、教条的に理解しないでいただきたいのである。そこでは言語というものが本来的に享受すべき含意や膨らみや余白や遊びが失われ、なんとも貧弱なものに終始してしまうからである。今回のタイトルも、人によっては、宗教や信徒・信者に対して失礼で不謹慎と感じられるかもしれない。がしかし、修辞的というか詩的というか、幅と奥行きとを持ったそうした文学的表現様式にはそれなりの趣意があり、それらは時に問題の本質に迫るための呼び水ともなる。なので、今回もそのように、書き手の意図や文脈に即した適切で的確な読み取りをお願いしたい。

 それにしても、実際、色々あるものである。今回のコロナ下での教会の対応が、である。2019年末からの一年半余、ぼくは折あって、少なからぬ教会に触れることができた。地域も教派も一様ではないが——といっても、教派的にはプロテスタントだけだが——、けれども、コロナへの対応が総じて様々というのが予想以上で、いかにも興味深く思われた。いまだに信者未満で、であれば当然、どこの教会にも属していないぼくのような者にとっては、礼拝への出席が教会の実に触れる主たる機会となる。コロナ下の今回、そこで目にしたのがその「様々」である。

 例えば、コロナへの対応開始の時期とその後の推移である。ある教会は、新型コロナの感染拡大云々がテレビ報道等で流れ始めてさして経たないうちに——2020年が明けて間もなく、緊急事態宣言も蔓延防止等重点措置もまだ出ていなかったときでなかったか?——、それこそ素早くこれに反応。対面で集う礼拝の休止を決めた。かと思うと、この間、その集う礼拝を一度も休止せず、今もなお守り続けている教会もある。対照的とも言える両者だが、諸所の教会はいわば、こうした二つの在り方の間で大いに揺れ動いたと言えはしまいか。細かな一々は別にして、集う礼拝をただちに休止したところ、宣言や措置が出るたびにそうしたところ、あるいはそれらが出ても時に休止・時には実施といった臨機の対応をしたところ、そしてまた休止せずにそれをずっと守り続けたところ・・・と、実に色々だった。今現在はというと、それなりに落ち着きを取り戻したのか、それとも昨今の状況に慣れが進んだのか、これまでほどにはバタバタしていないように見受けられる。事はウイルス感染の拡散であり、どこの教会にとってもおそらく、初めて遭遇したリスク状況かと思う。教会には高齢者をはじめ、病を抱えた人々も集うし、地域間の差異というのもそこにはある。一律に論じられないのは言うまでもない。

 ただ、それにしてもこの間の様々は、と思わされるのである。対応の策についても、これまた色とりどり。LINE(ライン)、Zoom(ズーム)、YouTube(ユーチューブ)といったリモート配信の活用がかなりの広がりを見せてきたが、教会によってはこれ(ら)をもって対面の礼拝にそのまま置き換えた——すなわち、横並びの平行置換をした——ところもあれば、教会堂での礼拝を維持したまま、これにリモート配信を加えた——すなわち、立体型の追補加算をした——ところもあった。配信の形式もまた同様で、誰でもいつでも見られる仕方から、視聴参加者を限定したものまで多彩である。こうした手法は緒に就いたばかりで、技術的にも運用的にも今後発展を遂げ、有意なツールとなるにちがいないが、教会間での対処の多様さはこれだけでない。対面礼拝を行ったところで言えば、出席者の検温、手指の消毒、マスクの着用といったことから、椅子やベンチのレイアウト、使用座席の指定とその案内、説教者のマスクやフェイスシールド、説教者の前のアクリル板や会衆席最前列までの距離、はたまた出席者同士の会話の自粛指導・・・等々と涙ぐましいまでの努力が見られた一方で、しかしまた、こうした取り組みの具体的な内容や厳格さについてはやはり、教会間でかなりの相違が見て取れた。

 こうしたなか、なかでも特に興味深く思わされたのが礼拝のプログラムに関してである。どういうことかというと、どこの教会もコロナの影響でほぼ例外なく礼拝プログラムの変更を余儀なくされたのだが、ただしその変更の仕方がこれまた一様でなく、しかもここでの違いに当該教会の特質がとりわけ顕著に滲み出ているように感じられたのである。事の相違というのにはしばしばその裏に本質的なものの違いが横たわっているものだが、礼拝がそれこそ教会の中心であり基盤であると言うのであれば——ぼくの周りの友人信者たちは大体そう言っている——、他の事柄以上にそこにそれぞれの教会の内実としての有り様が現れ出るのはいたって自然のように思われる。実例でもって見たほうが分かりやすいだろう。ぼくが実地に経験したケースであり、また友人仲間から聞き知ったケースである。それぞれ両極とも言える例に絞って紹介すると、例えば時間枠の変更である。どこも当然ながら礼拝時間を短縮したわけだが、その幅は(聖餐式なしの通常の場合)1時間15分だったそれを1時間にしたところから、1時間のそれを30分にしたところまで様々。また会衆讃美についても、曲数減では共通しているものの、一節だけを声に出して歌うところもあれば、全節を、ただし声に出さずに歌詞を追って心の内でそうするところもあった。さらにまた献金についても、従来どおり礼拝の中で献金を集めて祈りをするところもあれば、受け付けで事前に献金を済ませ、礼拝ではその祈りだけをするというところも見られた。はたまた面白く感じさせられたのは報告の時間で、教会によっては、一方で礼拝時間を縮減しつつも、しかし報告の時間はそれまでどおりにしっかり確保。週報に記載済みの事柄まで読み上げていた。もちろん、これとは逆に、口頭での報告を極力省くという仕方で時間配分を行っていた教会もある。上記の事前献金と相通ずる在り方と言えようか。この他にも細かな点を挙げればまだ幾つかあるが、しかしここでぼくの心中をよぎったのは、こうした相違の背後に何やら本質的な問題が横たわっているように感じられたことである。背後にというか、表現が少々きつく響くかもしれないが、相違の「根」にと言ったほうがより正確かもしれない。つまり、これは実に象徴的で、それゆえ興味深く、そしてなんとも皮肉な現実なのだが、献金や報告(や時には紹介や挨拶)といった部分を従前どおりそのまま続けた教会は一体、プログラムのどこを削って礼拝時間の短縮を行ったかということである。他のどの部分にも増して手を入れたのはほかでもない、説教の時間枠だった。これは例外なくそうであり、礼拝時間の短縮幅が大きいところほど、その度合いもまた著しい。礼拝を30分に短縮した前述の教会では、説教に当てがわれたのはわずか10分だけだった。礼拝で一番長い部分が説教となれば、そこを削るのが何より手っ取り早く容易だから、ということなのだろうか。けれども、他の部分をギリギリまで簡略化してでも、説教の時間だけは最大限確保しようと努めた教会もあった。実際、1時間15分の礼拝を1時間に縮めた上記の教会では、様々な工夫をして、なおも35分の説教枠を堅持していた。こうした相違は、知恵や工夫といった単なる手法上の違いだけではないように思われる。そこにははたして、本質的な事柄として、どのような問題が横たわっているのか。それはぼくらにとっても決して小さなことではない。ぼくらはぼくらでそれぞれに、真面目に求道したいと思っているのだから。

 ぼくはこう思っている。それは、教会というところに心を向ける人たちはまずもって何を探し求めてそうしているのか、また人々を招き迎える教会というところはまずもって何を基にして何を分かち合いたいと願ってそうしているのか、ということである。そして、ぼくはこう考えている。ぼくらは——覚えてくださっているだろうか。2年近く前に酒席での説教談議をこのブログに載せたが、そこにいたぼくの同人仲間を。そのぼくらは皆——ほかのどこでもなく「教会」というところを選んでそこに出かけているのだから、ぼくらは他の何にも増して、そこでしか見つけられないもの・手にしえないものが欲しいのだ。そして、教会が他の団体・組織としてではなく「教会」として自らをそこに建てている以上、その教会もまたそうであろうと思っているし、そうあってほしいと願っている。もちろん、いわゆるお交わりやお楽しみのプログラムもあったらいいし、受肉した信仰のしるしとしてそれらが教会生活を豊かにするという言い方も分からないわけではない。しかし、だからといって、それが礼拝や説教の中心性を減殺する理由にはなるまい。ぼくらは生き方の指針を求め、そのための価値観や人生観を探り、そして願わくはすべての根っことなる精神性の基盤を得られればと願って、期待して、教会という場を訪ねているのである。その教会がよりによって、自身の中心にあるはずの礼拝とそこでの説教をいかにも実務的に重くなく扱うとしたら——今回の措置はコロナ下での苦渋の決断で致し方なくそうしたのであって、決して安易にしたのではないとお叱りを受けるかもしれないが、それにしても、二義的・三義的部分をそのままにしておいて一義的な説教を10分に簡略化した教会というのは一体、何をどう考えてそうしたのだろうか——、それはその教会の何が可視化されたものと言えるだろうか。説教の重さの後退が聖書の重みのそれへと繋がり、さらにはイエス・キリストの存在感の弱化へと繋がらねばいいが、と信者未満の者ながら懸念している。説教は短いほうがいいなどという俗説がまことしやかに信奉されているとしたら、それは——結婚式の祝辞ではあるまいし——文学や読書の類いに縁遠い人間のそれと言えよう。説教が聴く者の心や魂に語りかけるものだとしたら、それは箇条的な説明や「100de名著」のような要約の解説では済まない。また、ワンポイント説教のような手軽な方法で聖書が読み解けるようになるとも思えない。いみじくも、ぼくらの仲間の一人が次のように言っていた。同人仲間に一人、少しばかり不良っぽいのがいたのを覚えておられるかと思うが、その彼である。不良っぽい奴ほど正直なもの、とはよく言われるところだが、彼は全くそのとおりで——なので、そこに悪意はないので、その点はご理解願いたいのだが——、その彼曰くである。「俺たち、飯食いに教会に行くわけじゃないし、お茶しに行くんでもないんだよな。なのに、なんだって? 説教をザックリ短縮? 俺は行かんさ、そんなとこ。聖書の話を聴きに行くんだろ、教会ってところは」

 ついでながらもう一つ付け加えると、これまた皮肉なことに、——ぼくの知る範囲でのことだが——感染リスクの小さな教会のほうが——つまり、礼拝出席者の少ない教会のほうが——対面での礼拝を休止したり、説教の時間を大幅に短縮したりするところが多かったように見受けられる。逆に、リスクが相対的に大きな教会のほうが——つまり、礼拝出席者の多い教会のほうが——むしろ、集う礼拝を維持し、説教の時間枠も確保しようとしたように思われる。リスク対策は当然ながら、少人数で過密度が低く、いわゆるソーシャルディスタンスを確保しやすいところのほうがその実施も容易なはずなのだが、なんとも予想外の現象だった。それもこれも、ぼくにはやはり、礼拝や説教に対する、すなわち聖書と信仰のリアリティーに対する姿勢の相違から来ているように思われたのだが、そこまで言うと失礼に過ぎるだろうか。もしそうであったらその無礼をお許しいただきたいのだが、それにしてもこれら両者の対比と相違は皮肉な現実で、そこに少なからず大切なメッセージが隠されているように思われてならない。はたしていかがだろうか。ここでも不良同人のひと言を記しておくと、彼はこの点については、今度はこんなふうに呟いていた——呟くというのは彼にはちょっと可愛すぎるが——。「俺だったらさ、出席者を3グループぐらいに分けて、礼拝を一日3回でもやるけどね。部屋の方々に分散して座ってもらってね。ソーシャルディスタンスは文句ないし、それこそ静かで、かえって落ち着いて礼拝できるじゃん? 牧師さんは大変かもしれないけど・・・。でもさ、牧師さんも信者さんも日頃、聖書だ、礼拝だ、信仰だ、教会だと言ってるんだろ。それが本気なら、それくらいのことするんじゃないの? 格好いい言い方をさせてもらえればさ、そこに真剣な実存がかかってるなら、ということかな。それくらいの気概、信仰ってのには付いてくるん・・・だろ?」 まぁ、だいぶ生意気な言い草に聞こえるかもしれないが、彼の真面目さの裏返しであることはこのぼくが保証する。実際、ぼくらの同人仲間は個性的ではあるが、誰もが皆、それなりに真摯な求道者なのである。そして、求道者は教会のことをよく見ている。それも、教会の内実としての本質的な実態を。それは確かである。そういえば、現に、地区別の分割をして集う礼拝を続けていた教会もあったっけ。

 いま一度ついでながら——と言ったら、語弊もあろうが——、聖餐式(主の晩餐式と呼ぶところも)の持ち方も色々だった。式自体を休止したところも少なくなかったが、これまた両極の対照的なケースを挙げれば、片や(パンも葡萄酒も用意せずに)形だけ式を行い、パンと葡萄酒については取ったつもりで心の内でそれらを頂くという仕方をしていたところがあるかと思えば、その一方で——これは教団全体としての推進があって可能になったことかと思われるが——、パン(実際にはクラッカー)と葡萄酒(実際には葡萄ジュース)をそれぞれ別個に個包装し、それらをセットごとにさらに二重に個別包装して実施するという、実に大変な準備をして式を行っていたところもあった。取ったつもりで心の内で・・・というのは象徴とかシンボルとかいうことの意味合いをいかにも軽々に考えた結果だろうが——それらの意味合いを本当に理解していたら、式を行わないことの方がむしろ適切かつ的確な判断となることもありうる——、礼典と呼ばれる重要事にしてこのような具合である。そこには言うまでもなく教派間・教会間の神学的相違というのもあるが、しかし、事柄の受け止め方や事柄への向かい方に違いがあることはやはり否めまい。だとしたら、それらの違いははたして何を意味しているのか、そのことが問題と言えよう。いずれにせよ、説教時間を削り、礼拝を短縮しておきながら、なのに礼拝後の活動は止めず、会議や委員会も以前のように続けるといった教会があるとしたら——実際、あったわけで・・・——、心ある方々はいかに思われるだろうか。教会が神への礼拝に立つと言うのであれば、このぼくには論外に思えてならない。

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©綿菅 道一、2021

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