「呻吟祈求」

信仰と教会をめぐる求道的エッセイ


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教会に足が向かない男たち--エッセイの問いかけになにがしかの真理が?

2017年05月01日 | 教会

 

「教会に足が向かない男たち

--エッセイの問いかけになにがしかの真理が?」

 


 もう6年ばかり前になる。アメリカの雑誌だが、興味深いエッセイを目にした。雑誌の名は The Christian Century(ザ・クリスチャン・センチュリー)、エッセイのタイトルは "Why do men stay away?" で、事象として興味を惹かれただけでなく、信仰論や教会論の点からも大いに考えさせられた。日本語にしたら、「男たちはどうして寄付(よりつ)かないのか?」とでもなろうか。2011年10月20日号の The Christian Century で、Thomas G. Long(トマス・G. ロング)の筆になる。内容的には当然、米国での出来事を扱ったものだが、よくよく考えてみると、日本の教会も無縁とは言えない状況にあるのではないか。ひょっとすると、エッセイで論じられている問題はアメリカ以上に日本の現状に当てはまるかもしれない。そんなふうにも思わされた。

 

 ちなみに、The Christian Century はアメリカを代表するキリスト教誌(隔週刊)で、超教派の穏健な進歩的雑誌として知られている。教会に忠実でありつつ、同時に世界に開かれていることを旨とする正統派の雑誌と言えよう。かつて、Reinhold Niebuhr(ラインホルド・ニーバー)も寄稿者の一人に名を連ね、Martin Luther King, Jr.(マーティン・ルーサー・キング・ジュニア)の獄中書簡をいち速く掲載してもいる。一方、Thomas G. Long は米国キャンドラー神学校の名誉教授で、説教学と礼拝学を専門にしている。キャンドラー神学校は、アメリカ南部の名門私大・エモリー大学の神学校である。加えて、Long は米国長老教会の受按牧師でもあり、かような雑誌のかような執筆者の文章ということで、エッセイの指摘にそれなりの重みをおぼえさせられた。




 その内容はといえば、次のようなものである。Long は言う。日曜の礼拝に連なる男性たち。が、讃美歌を歌う女性たちの傍らで、ある者たちはどうしているか。立ったまま息を潜め、押黙って虚空(こくう)を見詰めている、と。そして、問いかけるのである。男性と教会というのはどういうものなのか、と。実際、最近の調査によれば、と Long は続けている。我々男性は数的に圧倒されている、確実に。礼拝出席者の39パーセントしか占めないのが通常の教会である。男は早死にするので、より頑強な性別の方が席を埋めるようになるといった、単にそういうようなことではない。そもそも調査研究のたびに明らかになるのは、自らをクリスチャンと言う者たちですら、その多くが実は教会に退屈し、気持ちが離れて、教会から疎遠になっているという事実である。そんな我々男性が(重い足を引きずって)教会に行くのは、自分自身のためにではなく、息子としての、夫としての、また父親としての(あるいはまた牧師としての)役割義務を果たすためなのかも・・・。研究者はそう語っていると、Long は記してもいる。

 

 ならば、翻ってぼくらの日本はどうであるのか、ということになろう。エッセイは異国のことで、日本の教会事情は同じではなく、アメリカの実情分析がそのままぼくらの国に当てはまるとはかぎらないといったふうな、そんな声が聞こえてくるようでもある。たしかに、国が違って、歴史も文化も違うのだから、それはそうだろうと思う。けれども、Long の書留める米国教会の現状は、(もちろん、このぼくの知る範囲での限られた観察と知見からのことではあるが)その一つ一つを日本のそれと照し合せるとき、はたしてそう言って一言(いちげん)のもとに切捨ててよいものかどうか。信仰と教会の事柄を真面目に求道的に考えたいと思っている人間にとっては、信仰論から言っても教会論から言っても、それらは逆に、大切な課題を考える良い契機を与えてくれるように思う。そう思われないだろうか。そう思って、Long のそれらを日本の教会の様子と突合せてみると、そこにはやはり、国境を越えたものが少なからずあるように思わされる。例えば、礼拝での讃美中、押黙ってあらぬ方を見詰めている・・・と言われる男性たち。また、あまり気乗りがしないようで、教会から距離を置きがちな・・・と記される男性たち。どちらもアメリカの専売特許で、日本の教会には関係ないと、はたしてそう言切れるだろうか。言うまでもなく一般論としての話で、そうでない所ももちろんあるだろうが、ぼくの出入りする諸教会ではそれなりに目にする光景である。とにもかくにも、元気で活発な女性たちに比べ、おとなしくて押され気味の男性たちという図柄はそこそこ的を得たものという感じがする。

 

 そうした「印象」というものが「事実」に肉迫して出てくるのが「統計」と呼ばれるものなのだろう。数字というのは恐いものである。礼拝の参加者に男性が占める割合は、(一般的な数字として)アメリカでは一教会当り39パーセント(2011年)というが、ならば日本の場合はどうだろう。ぼくの手元には、残念ながら、日本のキリスト教界全体を見渡せる詳細な数字はない。したがって、統計的数字に基づく正確な物言いはできないが、日常の観察から受ける印象としては、その割合は米国よりさらに低いのではないか・・・と思っている。大まかに言って、「1対2」くらいの割合で、男らは女性に凌駕(りょうが)されているように感じられる。ちなみに、このブログのリンク先の「BFC」との関連で言えば、日本バプテスト連盟の2010年度の数字がたまたま、書付けのメモとしてファイルに残っていた。それによれば、「礼拝出席数の男女比≑1:1.7」とある。同連盟を構成する全国の教会・伝道所全体の平均値と考えられるが、ぼくの印象よりは若干いいようである。それでも、男性の割合は、(パーセントに直して)37パーセントほどに留まる。やはり、日本の教会における男性の占有率はアメリカのそれ以上に小さいようである。日本の教会は元々、女性の多い所と言われてきたが、2010年からさらに7年を経た現在、男たちの数字ははたしてどんなになっているだろうか。減少の度を増していなければいいのだが・・・? いずれにせよ、こうした点からも、Longの問題提起は当らずといえども遠からずと言えるのではなかろうか。



 

 だとしたら、次の問いはまさに「男たちはどうして(教会に)寄付かないのか?」ということになろう。Longのエッセイタイトルそのものである。Longはこれを "Why are men and the church often at odds?"(男たちと教会とはなぜに、しっくりこないことが多いのか?)と文中で言葉を換えて繰返しているが、要するに、男性が教会に惹きつけられないその理由である。実際、どうして、教会という所に男たちの足は向かないのだろうか。

 

 日本的な言い方をするなら、男は仕事が忙しいので、というようにでもなるのだろう。毎日、仕事仕事で追いかけられてるんだから、週に一度の日曜ぐらい、昼までゆっくり休みたいよ・・・といった具合に。ぼくも同じ男として、そんなふうに言うことがないわけではないし、たしかに忙しい(70を越した今となっては、正確には忙しかっだろうが、多少、言い訳がましい後ろめたさを引きずりつつも、たしかにそう言える)。しかし、これまたよく言われるように、経済の高度成長期からバブル期前後のあの頃はこんなものでなかったのを覚えている。今よりはるかに大車輪だったのを。なのに、にもかかわらず、教会の男性は現在より明らかに多かったことを思い出す。それに、以前との比較で言うなら、考え様によっては、女性の方がずっと忙しくなっているとも言えよう。仕事に追われてというのは、やはり、ぼくら・男たちの自己弁護の臭いがしなくもない。他方、Longも諸説をいくつか紹介しており、なかには、(アメリカという社会の歴史的・政治的背景が特に滲出たものと言えるだろうか)男性による教会の支配が長きにわたって続いた結果、その不可避の所産として「女性化」という力学が逆に働いたという説もあるという。かの国における女性解放の歴史的展開に照らすとそれも理のないことではないように感じられるが、ならば、それを日本の教会という土壌と歴史に重ねてみたら一体どんな様相を呈するのか。そして、それはどこまで妥当性を有するのか(日本の教会はそもそも外の社会とは少しく違って、女性たちが比較的早い時期から意外と実権を握っていたと語る人たちもいたりするわけで?)。そんなふうに考えさせられ、またまた探究の虫を刺激された。

 

 話を本題に戻そう。問いの中心は、男たちはどうして教会に寄付かないのか、ということだった。男たちの足はどうして教会に向かないのか、ということである。なぜならば、そこには何か、信仰とか教会とか宣教とかいった事柄に関係した重要な洞察が隠されているように思われるからである。もしそうだとしたら、誠実な求道者はそれを脇にやって、不問のままにやり過すことはすまい。自身の求道の質を左右することになるからである。そんななか、Longがエッセイで紹介する事例は事の本質に触れていて、少なからず示唆に富むように思われる。すなわち、Longは次のように語るのである。原因が複雑なのは分り切っている。しかし、人数で見るかぎり、男性をも女性をもほぼ等しく惹きつけているグループが一つある。おそらくは、そこいらに手掛りを見出しうるのではないか。と言って、Longは統計的に一つの教派を紹介するのだが、それが(ぼくらの意表を衝くような?)「東方正教会」だというのである。ラテン文化をその特質とした西方のローマカトリック教会に対し、ギリシア文化を特質としたという意味で「ギリシア正教会」とも称されるグループである(大枠としてのこの呼称のもと、自治自立組織としてのロシア正教会やブルガリア正教会等が、また大枠とは別のギリシア正教会等々がそれぞれに存在することは周知のとおりである)。ぼくらの国では、日本ハリストス(キリストの意)正教会とも呼ばれている。そのようにして、Longは言う。なかには、正教会は保守的で、聖職者が全員男であって、おまけにスポーツ選手のような格好いい髭(ひげ)を生やしてるのが多いからな、とそんな皮肉を言う人もいるかもしれない。けれども、宗教ジャーナリスト(Frederica Mathewes-Green)の調査結果が出ており、そちらの方がむしろ、より真実に近いと言えよう。成人男性の信者たちを調査した結果、そこで明らかになったのは、彼らにとって正教会の最大の魅力は、それが "challenging"(チャレンジング)だということだった(つまり、そこにはより良くて高い、より困難なことに向かわせるものがある。そうした意欲を引き起こすものがある、ということだろう)。ジャーナリストの調査結果を、Longはそのように紹介している。そして、その中に記されている彼ら・正教会信者の次のような言葉を引用している。"Orthodoxy is serious.  It is difficult.  It is demanding.  It is about mercy, but it is also about overcoming myself."(正教は真面目である。安易でない。求めるところが多い。正教は慈しみを本質とするが、同時に、克己も旨としている)"(I am sick of) bourgeois, feel-good American Christianity."(小市民的で、気持ちをよくさせるだけのアメリカのキリスト教なんぞ[うんざりだ])事を少しばかり描写的に言表すなら、(もちろん、全部が全部、そうというわけではないが)アメリカの教会は日曜日の朝、コーヒーとドーナツが必須アイテムで、さらには、何かにつけてご馳走とソーシャル(楽しいお交わり)。加えて、礼拝の説教も聞く者たちにやたらな要求はしない、優しくて物分りのいいお話ばかり、ということか。要するに、ソフトでスウィートな、人当りのいいムード教会ばかりをつくろうとしている。だが、自分たちはそんなところには心惹かれない、ということなのだろう。



 

 これが Longのエッセイの概要である。エッセイはそもそも、海の向うの国のお話。なおかつ、東方正教会というのは、当の米国においてもトップ10に入らない、いわば必ずしもメジャーでない教派である。2001年の時点で、645,000人前後の信徒数と推定されている(American Religious Identification Survey, 2001, conducted by The Graduate Center of the City University of New York)。アメリカにあっては決して大きくないと言えよう。日本の統計を見ても、状況は同様である。日本ハリストス正教会の信徒数は、おおよそ10,000人と報告されている(2014年)。宗教年鑑によれば、日本バプテスト連盟の信徒数が約35,000人となっている(2012年)から、この三分の一以下ということになる。しかしながら、だからといって、参考にする価値のない取るに足らぬものと、Longの問題提起を無下(むげ)に捨去ってよいものかどうか。ぼくなんぞは、自分がいまだ求道者で、しかも真面目なそれたらんとしていることもあって、正教会の信徒たちの思いに共感する部分が小さくない。実際、こうした問題に対する向い方は少なからず、教会のあり方や信仰の質に関ってくるように思われる。何しろ人数を獲得せんとして、スウィートなムードで教会を覆い、あらゆる敷居を消去るのか。そのようにして、チャレンジングな要素を極力なくすことで、いわゆる宣教の成果を確保しようとするのか。それとも・・・と、それこそ教会の立ち方を左右する、そんな本質的問題を内包しているように考えられるからである。ちなみに、ぼくなんかは、ため口が闊歩し、世間話のおしゃべりばかりが耳に響く、曰くソフトで親しみやすいと言われるような所には、何となく居づらさを感じてしまう。そうした "unchallenging"(アンチャレンジング)な路線の裏で代償として失われるものもあるのではないかと、そう思うからである。まぁ、そんな考え方こそ、まさしく化石世代の証拠だ、お堅い男性の印だと、そう言われてしまえば身も蓋もないが。たしかに、Long先生も言っている。女性たちはおそらく、男たちよりも忍耐強いのだろう。あるいは、より深い所で十字架を負うということを洞察しているのかもしれない、と。う〜ん、そうなんだろうかと、ぼくはまた頭を悩ませている。いずれにせよ、ぼくにとって問題なのは、その時そこで読まれる聖書の読取りとは一体、どんな読取りなのか、ということである。そこでなされる宣教の中身とは一体、どんな中身なのか。そこで進められる教会の形成とは一体、どんな形成なのか。そして、そのようにして培われる信仰の内実とは一体、どんな内実なのか、ということなのである。

 

 アメリカの教会の「今」を論じたLongのエッセイは、はたして、日本の教会の「今」にどれほどの妥当性を有しているのだろう。日本の諸教会に似た所があるのか否か。共通する症状のようなものがそこに見て取れるのか否か。論じられた問題が教会という存在にとって決して周辺的な事柄ではないが故に、大事なことを考えるきっかけを提供してくれたことだけは間違いあるまい。

 Longのエッセイは、次のような言葉で閉じられている。そして、それに、このぼくは少なからず心を惹かれている。人の精神性に関る言葉だからである。

 

 教会の出席者の中には、たしかに、いい気持ちのキリスト教で満足している人たちもいる。しかし、クリスチャンの多くは--女性も男性も--本当は、そこに自分をもっと懸けて生きられる、自分にもっと課するものの多い、そして自分の人生に何らかの変革をもたらすような生き方を求めていると思う。

 自分を超えたものに生きようとすること、それがそれなりにあるなら(たとえ、そこに多少の齟齬があろうとも)、その欠けらもないよりはましである(Near transcendence is preferable to no transcendence at all)。

 

 

©綿菅 道一、2017

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(本ページは、読者の投稿受付けを行っていません)

 




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