「呻吟祈求」

信仰と教会をめぐる求道的エッセイ


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お薬師様もお不動様も、はたまたキリスト様もたじたじ?-新型コロナの衝撃とそのリトマス作用-(2)

2021年06月27日 | 教会

 

 

「お薬師様もお不動様も、はたまたキリスト様もたじたじ?」

—新型コロナの衝撃とそのリトマス作用—(2

 

((1)から→)

 このように、今回のコロナ騒動はキリスト教会にとっても、その内実の様々を可視化させる、すなわち目に見えて浮かび上がらせるものとなったように思われる。冒頭でも触れたように、新型コロナが衝撃をもって教会にそのリトマス作用を見せた、と言ったら言いすぎだろうか。そして、である。——これまで述べてきたいずれもが言ってみれば、そこと関連し、そこに集約される形で論ぜられるべきと思うのだが——事の本質的相違の理解としてそもそも問題なのは、集う礼拝とオンラインのそれとの違いに気づいているか、その違いを認識しているか、ということである。約言するなら、論点はすなわち、「生(なま)の臨場性」ということにでもなろうか。少々小難しい言い方にはなるが、生ける緊張がそこを支配し、生きた現実性と共在性がそこを満たしているか、と言い換えてもよかろう。それらの濃密さと希薄さとが、もしかするとそれにとどまらず、それらの有ると無しとが容易には超えがたい相違としてそこにあるとしたら、どうであろうか。今回は、以下、この点に的を絞って短く付言をし、このエッセイを閉じさせてもらいたいと思う。

 初めにひと言申し上げておきたいのは、このぼくとてもちろん、時代の恩恵に大いに浴しており、おそらくは人一倍それを享受しているということである。IT(情報技術)を核にした周辺環境の劇的発展はただただ驚くばかりで、今回のコロナ下で、注目度においても活用度においてもこれに一気に拍車が掛かった。既述のLINEZoomYouTubeのほかにも各種のテクノロジーが開発され、それこそグローバルに躍動し始めている。ぼくなんかも——年甲斐もなく浮かれてはしゃいで、と冷や水をかける連中もいないわけではないが——それはそれは重宝しており、仕事上のやり取りはもとより、資料探しや会議、講座の受講、はたまた芸能・芸術関係の鑑賞や友人・知人との交流・・・等々と、この年にしては臆することなく利用させてもらっている。とりわけありがたいのは、遥か離れた諸外国との間でもその遠さを感じさせない便利さである。今思い出したが、そうそう、角野(かどの)さんも——もうだいぶ前のことだが、『魔女の宅急便』で俄然時の人となった、あの栄子(えいこ)さんである。それまでにも楽しく優れた作品を幾つも出しておられたのだが、童話作家・絵本作家のあの角野さんで、2018年には晴れて国際アンデルセン賞作家賞も受賞された——出版社のデスクとのやり取りは専らZoomでしていると言っておられた。ぼくと同じで、若いねぇ——といっても、半分は仕事とあまり関係のない "おしゃべり" だそうだが——。要するに、こうしたリモート技術はこの先いよいよ進化し、しかも内容の洗練化・高度化を遂げつつ、加速度的にそうなっていくということ。そのことを、ぼくらは初めに認識しておくべきだろうと思うのである。それは不可避の必然だろうし、合理的でもあって、ぼくらに多大なメリットをもたらしてくれるにちがいない。ぼくは実際、どこか浮き浮きした気分で、年甲斐もなくそれを心待ちにしている。

 ではあるのだが だけれども、というのが、今回のこのエッセイの全体を締め括る中心の論点である。ITがもたらしてくれる恩恵は当然ながら、これを最大限に活用したいし、そうすべきでもあろう。けれども、顔と顔とを合わせて相対し、そこに共に在って、そこで何事か大切なことに共にあずかるという在り方にそれが "取って代わる" というような発想がどこかにあるとしたら・・・。本質的で重要ななにがしかがそこで後退し、そしてついには失われていくように思われてならない。事実、コロナ下のこの間、こんな声が一度ならずぼくの耳に聞こえてきた。曰く、「危機的な大事が起きると、歴史は繰り返し変化を余儀なくされ、転換点を迎えてきた。新型コロナのパンデミックに襲われた今回も同様で、そこで手にした技術やツールは画期的なもので、生活様式のこれからを大きく変えていくにちがいない。礼拝についてもまた、その場に来られなくてもリモートで参加できる道が開かれた。その他の集会だって、委員会だって総会だって、出向くことに支障のある人も広く出席できる可能性が広がった。教会にとっても画期的なことで、今後の姿・形を指し示していると言えよう」などと。ぼくが本能的(?)に違和感を感じ、どこかしっくりこないのは、技術の劇的進歩やその活用によってもたらされる多様な変化でないことはすでにご賢察いただいているものと思う。そうではなく、ぼくが危惧の念を持って引っかかりを憶えているのは、そうした画期的なツールの活用があたかも「集う」ということの意味を軽視させる方向に作用しているように感じられるからなのだ。実際、テクノロジーの採用について、事の全体を構造的に捉え、生の臨場性や共在性、現実性を補完・拡張するものとしてこれを語ってくれた人は本当に少ない。——残念ながら、そして失礼ながら、特に教会関係の方々は——むしろ、どこか浮かれるようにして、集うあれこれがリモートで "置き換えられる" かのような言い方さえしておられた。ぼくの誤解や理解力の不足から来ているとしたらお許し願いたいが、ぼくには少なくともそんな印象が拭えない。情報収集やビジネスの会議といった類いならたしかに、そうした置き換えが大幅に、そして極限まで可能になるのだろうと思う。けれども、ぼくらが今論じているのは、とりわけ教会の「礼拝」という事柄である。利便さや効率性だけで考えることはできまい。事はその本質において、いわば人の精神性に関わることである。教派によってはスピリチュアリティーと言うところもあるが——と言うと即「霊性、霊的・・・」などと訳して、日本的な手垢の付いた言い回しにされてしまうが——、これもそもそもはもっと広くて深い、幅と奥行きを持った言葉である——大江(健三郎)さんはよく「魂のこと」という言い方をされるが、これなどもかなり妥当な意味合いを持っているように思われる——。つまり、礼拝という行為において、生で共に集うことと電波を介してメディア越しにそうすることとが同列の横並びとして——それゆえ、容易に置換しうるものとして——あるのか、それとも構造的な立体として——それゆえ、容易には崩しえないものとして——あるのか、ということである。そう問うてみると、言わずもがなに分かるのではなかろうか。集うそれが教会の礼拝の柱として、核としてあって、そのうえでリモートのオンラインがこれを補完し拡張するものとしてある、ということが。——今年の流行語大賞の一角に食い込むや否や——ニューノーマルとかのキャッチで時流になど乗っていられない話である。だからこそ、ぼく(ら)の知る教会はコロナ下でも万策を尽くし万全を期して、集う礼拝を必死になって堅持しようとしたのだろうと思う。要としてそこにあるのは、生で臨場し、共に在って、リアルな現実を共有するということではないだろうか。キリスト教会が共同体だとか隣人性だとかと唱えるのであれば、その中心たる礼拝をそのような精神性と緊張感のもとに守るのはなおのこと当然のように思われるのだが、いかがなものだろうか。

 ここでも臨場感が大切だろうから、こうした問題に直接・間接に関係する言葉を幾つか、以下にご紹介してみよう。

 一つは俳優の渡辺(わたなべ)謙(けん)さんの言葉で、——逐語の再録ではないが——要旨、次のように言っておられた(ニュースインタビューで)。「やっと、実際の舞台でできるようになってね。リモートとかオンラインとかいうのは間にシールドがあるようで、なんか別の空間にいて違う空気を吸ってる感じなんだよね。その点、舞台はシールドがないだろ。だから、一つの同じ空間でその舞台を一緒に作れる気がするんだな。心の通い合いの違いかな?」

 また一つは——覚えてくださっているだろうか。これまた、先の酒席での説教談議に登場した女性だが——同人仲間の主婦作家のそれで、——リモート礼拝をされている信者の方々には申し訳ないが——こんなことを言っていた。「私の友だちなんですけど、ちなみに彼女はクリスチャンです。それが裏話というかなんというか、Zoomで礼拝参加をしているときなんか、チャット機能っていうのがあるでしょ、Zoomには。あれで、一緒にリモート参加している別の友だちと説教中にやり取りしてるんですって。聞いてる説教についてのコメントの交換だそうですが、冗談や軽口なんかも時々あるみたいで・・・。私的(わたしてき)には、ちょっと違うんじゃない、って感じなんですよね。説教でなくたって、人の話を聞くときにはやっぱり、誠実さというのがありますよね。リモートってどこか、それも薄くさせるんでしょうね」。そういえば、リモート経験のある知人たちの話によれば、リモート参加のときにはどうしても緩くなりがちなそうな。それで、朝の支度が遅くなって、パソコンの前に慌てて座ったりすることがあるとか言っていた。それに、例えばZoomなんかにはミュートやビデオ停止の機能が付いていて、こちらの音を他の人たちに聞こえなくすることもできるし、こちらの様子を映らなくすることもできるわけで、これも便利といえば便利かも、とも。これは主婦作家の彼女の言葉だが、彼女はわきまえのある人だから「便利」というふうに言っていたが、ということはしかし、皮肉に勘ぐれば、自分の都合に合わせて、パソコンの向こうで何をしていても分からないということでもあるわけで・・・。立ったり座ったり、誰かと話しをしたり、お茶を飲んだりしていても・・・ということになりはしないか。邪推が少々過ぎるかとも思うが、しかし、実際に耳にする話でもあるわけで・・・。

 一方、マルジナリア書店というのをご存知だろうか。今年の初め、東京の府中市に開店したばかりだが、人文書を核とした、なかなか個性的で面白い書店である。店名の「マルジナリア」とは「本の余白への書き込み」のこと。出版社「よはく舎」の経営になる書店で、店名もこれと関係している。また、オンラインの販売も行っており、そのショップの紹介文は「世界へ、美しい未来のための本を届ける」とのフレーズから始まる。こんなところからもご推察いただけるだろうが、哲学というか思想というか、それなりの理念を持った書店である。その代表者の女性の言葉である(要旨)。「オンラインで何でもこなす、いわゆるマス化されたショプだけで事がすべて済むなら、ただそれを増やせばいいことになりますが、はたしてそうなのでしょうか。小さくても、何らかの方向性を持って生の触れ合いを可能にするお店があったらいいなと思っています。バーチャルでリモートな時代には、そんな実感の感じられる、存在感のある場所がかえって大切になるのではないでしょうか。それぞれに指向性を持ったそういった書店があちこちに出来て、皆さんの少しばかり深い交流が広がるといいなと思っています」

 ついでながら、あと2つご紹介すると、一つは、あのIT開発のメッカ、アメリカのシリコンバレーで働く日本人JAL関係者の言である(ニュースインタビューより)。「このところ、コロナ騒動が少し落ち着いて、対面へ戻るところが多くなってきました。対面で会って働くことの大切さが、コロナで逆に認識されたのでしょう」。そして最後に、オンラインでの活動を余儀なくされてきた読書会メンバーの言。「今度、集まれるの、楽しみだよねー」

 いかがだろうか。いわゆるセキュラーな(世俗の)世界でもこうなのだから、(おそらくは)より深いところで精神性や隣人性、共同体性を問題にする宗教の世界が「生で集う」ということを軽視するとしたら、それはなんと皮相的で皮肉なことと言えようか。キリスト教の教会にはそんなことはないと信じたいが、これはリモートでも教育や訓練を重ねればどうにかなるといった類いの問題ではないから難儀なのである。生で集うことを止めるとき、本質的なものがそこで失われる。

 この点についていま一度、不良同人の呟きを借りて、今回のまとめとさせていただきたい。——彼には今回、借りがだいぶ出来てしまったが——彼はこんな言い方をした。「リモートって要するに、匂いがしないんだよな、匂いが」。これは事の本質を突いた、実に的確な表現なのだが、本能的嗅覚とも言える彼の感覚の鋭敏さがお分かりいただけるだろうか——比喩とか寓意、含意とかいうのは苦手で、象徴的な表現や文学的言い回しも分かりにくくて・・・などと、どうぞ言わないでいただきたい。それらが少しなりとも理解できなければ、どう考えたって、聖書が読めるようにはならないだろうから——。その場に共に在ることがなければ、人の匂いは当然ながら、感じられない。つまり、その場に生で共に臨場しなければ、本当のところは、隣人と共に在ることも共に事をなすことも、またそれを共有することもできまいと、彼はそう言いたかったのだ。

 リモートの利便さはこの先いよいよ大きくなり、計り知れないほどになるにちがいない。ぼく(ら)もそれに期待し、それを大いに活用したいと思っている。けれども、そこにもし、礼拝という行為でのその姿勢と関わり方において「傍観の距離」とでも呼ぶべき緩みが付きまとうとしたら、礼拝と聖書の説教が教会の基だと言われる方々はくれぐれも心しておかれた方がよいと思う。その緩みはまず間違いなく、教会の隣人性や共同体性にも及ぶだろうから。それよりなにより、そもそも、自分たちが信ずると言っておられるそのキリストや神への距離に、傍観のそれは必ずやなるはずだからである。リモートで間に距離があるということは本質的に、相互の緊張を低減させる作用を生む。それはどこか、安楽さに繋がるもので、ストレスの回避に繋がるものでもある。だからそれは、誰にとっても魅力的なものとなる。しかし、SNS等のIT技術がかくも進歩し、人類史上最も広範な繋がりが人々の間に生まれたにもかかわらず、皮肉にも、孤独に苛まれる人たちの数がこれまた人類史上最多となっているという事実。あるいは、絆や繋がりといった言葉が巷を席巻しているにもかかわらず、いつになっても孤独死が後を絶たないという事実。そうした現実の真実意味するところを、IT時代に突き進む今だからこそ、ぼくらは一度立ち止まって、よく考えねばならぬのではないかと思わされている。それはことのほか宗教という領域に問われることであり、その中心たる礼拝という行為に関わることでもあろう。でないと、かつて時の話題となりつつも、心ある人々からは批判と顰蹙(ひんしゅく)の対象ともなったあのエレクトリックチャーチ(テレビ教会)と似た道を辿ることにもなりかねない。

 宗教や信仰というのは本来的に、利便性や有用性や効率性といったものとは異なる特質を、その中心に有しているのではないだろうか。であれば、便利さや即物的効果ばかりに目を奪われるのは危うくもあろう。何がその核心に位置し、何がそれを補完・拡張するものなのか、事を構造的に捉えることは時に、その生死を決めるものともなる。「電波越しはもう十分。画面越しはもう結構。やっと生の舞台が見られる、生の演奏が聴ける」と、その時を待ちに待っていた人々の声。「あ〜ぁ、オンラインの味気なさってのは・・・」とこぼした不良同人のぼやき。ぼくも思わず「御意!」と言ってしまった。聖書のイエス流に言うなら、聞く耳のある者はその意味するところを聞き取るがよい、というふうにでもなろうか。

 終わりに、今回のタイトル「お薬師様もお不動様も、はたまたキリスト様もたじたじ?」について、ひと言。新型コロナの衝撃を前にして、ぼくが興味深くもあり考えさせられもしたのは、病の癒やしを売りにしてきたところが——寺社はもとより、教会もどこもかしこも、そうしてきたところが——総じて、感染防止に徹底対策をと、どこか落ち着かない様子でこれに対応したことだった。癒やしのご利益を売りにするなら、ここぞとばかりにコロナに大胆に向かい、これを完膚なきまでにやっつけるはずのところが、である。つまり、宗教というのはやはり、そして信仰というのもやはり、目に見える即物的なご利益にその本質があるのではないということであろう。タイトルの含意を正しく読み取っていただけるとうれしく思う。

 

 

 

©綿菅 道一、2021

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