【北方領土 屈辱の交渉史(4)】
「歯舞、色丹の2島返す」揺さぶるソ連 窮地の重光葵を待っていたのは… 米国の恫喝「4島返還でないと沖縄返さない」
http://www.sankei.com/politics/news/161128/plt1611280003-n1.html
昭和30(1955)年1月25日早朝、首相、鳩山一郎の邸宅に向かう東京・音羽の坂道を小太りの男が上っていた。よほど人目を気にしたのか、表玄関を避けて勝手口に回ると、秘書の石橋義夫が出迎えた。
◇署名・日付なき書簡
小太りの訪問者は駐日ソ連代表部首席代理、アンドレイ・ドムニツキーだった。2階の応接間で鳩山が出迎えると、ドムニツキーは「ソ連政府からの文書をお渡ししたい」と緊張した表情で切り出したが、鳩山は言い放った。
「ご承知だと思うが、僕は共産主義は大嫌いだ。国交回復して日本に共産主義を宣伝しようということなら同意できない」
ドムニツキーは「よく分かっている。イデオロギーを押しつけようとは全く考えていない」と語り、書簡を手渡した。
ソ連に国交回復交渉を開始する用意があることを伝える内容だった。しかし発信者の氏名も日付も記載されていない。鳩山がその点を尋ねてもドムニツキーは「この文書は本国からの命令によるものだ」と返答するばかりだった。書簡がソ連政府の公式文書だったことは、国連大使、沢田廉三が確認を取った。
◇握りつぶされた機密
日本は昭和27(1952)年4月28日に発効したサンフランシスコ講和条約により主権を回復し、国際社会への復帰を果たしたが、調印を拒んだソ連とは国交回復していなかった。
日本が国連に加盟するにはソ連の同意が不可欠。しかもシベリアには「戦犯」とされた日本兵ら2千人ほどが抑留され強制労働に従事していた。鳩山にとってソ連との国交回復は喫緊の課題だったのだ。
一方、ソ連では政変が起きていた。独裁者のヨシフ・スターリンが1953(昭和28)年3月に死去し、共産党第1書記に就任したニキータ・フルシチョフが権力を掌握しつつあった。フルシチョフは米ソ対決路線と決別し、平和共存路線に転換、日本との関係改善にも前向きだった。ドムニツキー書簡はその意思表示だった。
鳩山はソ連との国交回復交渉に踏み切った。
交渉は昭和30(1955)年6月3日、ロンドンのソ連大使館で始まった。日本側全権は外務次官や駐英大使を務めた衆院議員の松本俊一。ソ連側全権は元駐日大使のヤコブ・マリクだった。
交渉は北方領土問題をめぐって難航したものの、まもなく転機が訪れた。
「歯舞、色丹を日本側に引き渡してもよい」
8月5日の公式会談後、在英日本大使館の庭内でお茶を飲みながらマリクは松本に唐突にこう打診した。9日の公式会談でソ連側は正式に歯舞群島と色丹島の2島返還を提示した。
松本は直ちに機密電報を東京に打ったが、鳩山に届くことはなかった。外相、重光葵が握りつぶしたのだ。重光は親米派の外務省幹部と協議し、あくまでも択捉島と国後島を含めた4島返還を要求すべきだと意思統一した。
「2島返還で妥協してはならない。4島返還を主張すべきだ」
8月27日、外務省の訓令が松本に打電された。これにより交渉は暗礁に乗り上げ、昭和31(1956)年3月20日、決裂した。
◇米「沖縄戻らないぞ」
交渉決裂を受け、ソ連は翌21日、北洋水域に一方的な漁業規制区域を設け、日本のサケ・マス漁船を締め出した。明らかに交渉決裂への報復措置だった。ソ連首相、ニコライ・ブルガーニンの名から「ブルガーニン・ライン」と呼ばれる。
やむなく日本政府はソ連に漁業交渉を申し入れた。鳩山は交渉役に自民党の実力者で農相の河野一郎を任命した。河野はすぐにモスクワに飛んだが、漁業相、アレクサンドル・イシコフ相手ではらちが明かない。河野はブルガーニンとの直接交渉を要請した。
会談は5月9日に実現した。河野は通訳もいれずにブルガーニンと直談判し、日ソ漁業条約をまとめ上げ、国交回復交渉の再開も決めた。
電光石火の早業だった。ただ、これが後に「河野-ブルガーニンの密約」として問題視される。河野が会談で「制限区域内の漁業を認める代わりに択捉、国後の返還要求を取り下げる」という条件をのんだという内容だが、真相はやぶの中だ。
日ソ交渉は7月31日、モスクワを舞台に再開した。日本側全権代表は重光、ソ連側は外相、ドミトリー・シェピーロフだった。
重光が択捉、国後を含む4島返還を求めても、ソ連に譲歩する気はない。さすがの重光も「刀折れ、矢尽きた」と漏らし、2島返還を鳩山に打診したが、鳩山は同意しなかった。
8月中旬、重光は交渉を中断して国際会議出席のためロンドンに向かった。待ち受けていたのは米国務長官のジョン・フォスター・ダレスの恫喝だった。
「もし国後、択捉をソ連に渡せば、沖縄は永久に戻ってこないぞ」
ダレスは、米ソ冷戦下で日ソが和解することは米国の不利益になると考えていたからだ。日ソ国交回復交渉はまたも中断した。もはや事態を打開するには、鳩山自らがモスクワに乗り込むしかなかった。
「歯舞、色丹の2島返す」揺さぶるソ連 窮地の重光葵を待っていたのは… 米国の恫喝「4島返還でないと沖縄返さない」
http://www.sankei.com/politics/news/161128/plt1611280003-n1.html
昭和30(1955)年1月25日早朝、首相、鳩山一郎の邸宅に向かう東京・音羽の坂道を小太りの男が上っていた。よほど人目を気にしたのか、表玄関を避けて勝手口に回ると、秘書の石橋義夫が出迎えた。
◇署名・日付なき書簡
小太りの訪問者は駐日ソ連代表部首席代理、アンドレイ・ドムニツキーだった。2階の応接間で鳩山が出迎えると、ドムニツキーは「ソ連政府からの文書をお渡ししたい」と緊張した表情で切り出したが、鳩山は言い放った。
「ご承知だと思うが、僕は共産主義は大嫌いだ。国交回復して日本に共産主義を宣伝しようということなら同意できない」
ドムニツキーは「よく分かっている。イデオロギーを押しつけようとは全く考えていない」と語り、書簡を手渡した。
ソ連に国交回復交渉を開始する用意があることを伝える内容だった。しかし発信者の氏名も日付も記載されていない。鳩山がその点を尋ねてもドムニツキーは「この文書は本国からの命令によるものだ」と返答するばかりだった。書簡がソ連政府の公式文書だったことは、国連大使、沢田廉三が確認を取った。
◇握りつぶされた機密
日本は昭和27(1952)年4月28日に発効したサンフランシスコ講和条約により主権を回復し、国際社会への復帰を果たしたが、調印を拒んだソ連とは国交回復していなかった。
日本が国連に加盟するにはソ連の同意が不可欠。しかもシベリアには「戦犯」とされた日本兵ら2千人ほどが抑留され強制労働に従事していた。鳩山にとってソ連との国交回復は喫緊の課題だったのだ。
一方、ソ連では政変が起きていた。独裁者のヨシフ・スターリンが1953(昭和28)年3月に死去し、共産党第1書記に就任したニキータ・フルシチョフが権力を掌握しつつあった。フルシチョフは米ソ対決路線と決別し、平和共存路線に転換、日本との関係改善にも前向きだった。ドムニツキー書簡はその意思表示だった。
鳩山はソ連との国交回復交渉に踏み切った。
交渉は昭和30(1955)年6月3日、ロンドンのソ連大使館で始まった。日本側全権は外務次官や駐英大使を務めた衆院議員の松本俊一。ソ連側全権は元駐日大使のヤコブ・マリクだった。
交渉は北方領土問題をめぐって難航したものの、まもなく転機が訪れた。
「歯舞、色丹を日本側に引き渡してもよい」
8月5日の公式会談後、在英日本大使館の庭内でお茶を飲みながらマリクは松本に唐突にこう打診した。9日の公式会談でソ連側は正式に歯舞群島と色丹島の2島返還を提示した。
松本は直ちに機密電報を東京に打ったが、鳩山に届くことはなかった。外相、重光葵が握りつぶしたのだ。重光は親米派の外務省幹部と協議し、あくまでも択捉島と国後島を含めた4島返還を要求すべきだと意思統一した。
「2島返還で妥協してはならない。4島返還を主張すべきだ」
8月27日、外務省の訓令が松本に打電された。これにより交渉は暗礁に乗り上げ、昭和31(1956)年3月20日、決裂した。
◇米「沖縄戻らないぞ」
交渉決裂を受け、ソ連は翌21日、北洋水域に一方的な漁業規制区域を設け、日本のサケ・マス漁船を締め出した。明らかに交渉決裂への報復措置だった。ソ連首相、ニコライ・ブルガーニンの名から「ブルガーニン・ライン」と呼ばれる。
やむなく日本政府はソ連に漁業交渉を申し入れた。鳩山は交渉役に自民党の実力者で農相の河野一郎を任命した。河野はすぐにモスクワに飛んだが、漁業相、アレクサンドル・イシコフ相手ではらちが明かない。河野はブルガーニンとの直接交渉を要請した。
会談は5月9日に実現した。河野は通訳もいれずにブルガーニンと直談判し、日ソ漁業条約をまとめ上げ、国交回復交渉の再開も決めた。
電光石火の早業だった。ただ、これが後に「河野-ブルガーニンの密約」として問題視される。河野が会談で「制限区域内の漁業を認める代わりに択捉、国後の返還要求を取り下げる」という条件をのんだという内容だが、真相はやぶの中だ。
日ソ交渉は7月31日、モスクワを舞台に再開した。日本側全権代表は重光、ソ連側は外相、ドミトリー・シェピーロフだった。
重光が択捉、国後を含む4島返還を求めても、ソ連に譲歩する気はない。さすがの重光も「刀折れ、矢尽きた」と漏らし、2島返還を鳩山に打診したが、鳩山は同意しなかった。
8月中旬、重光は交渉を中断して国際会議出席のためロンドンに向かった。待ち受けていたのは米国務長官のジョン・フォスター・ダレスの恫喝だった。
「もし国後、択捉をソ連に渡せば、沖縄は永久に戻ってこないぞ」
ダレスは、米ソ冷戦下で日ソが和解することは米国の不利益になると考えていたからだ。日ソ国交回復交渉はまたも中断した。もはや事態を打開するには、鳩山自らがモスクワに乗り込むしかなかった。