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ニッポンのゆる~い日常

密約にスターリンは狂喜した 米ソのパワーゲームに翻弄された千島列島

2016-11-26 12:57:09 | 歴史
【北方領土 屈辱の交渉史(3)】


密約にスターリンは狂喜した 米ソのパワーゲームに翻弄された千島列島


http://www.sankei.com/premium/news/161126/prm1611260028-n1.html


1945(昭和20)年2月、クリミア半島の保養地ヤルタに米英ソ首脳が集まり、第二次世界大戦後の世界の割譲を決めた。戦後の世界になお暗い影を落とす「ヤルタの密約」である。


 ソ連の独裁者であるヨシフ・スターリンはユスポフ宮殿に宿舎を構えた。2月8日朝、スターリンは書斎を子供のようにぐるぐる回り、何度も快哉(かいさい)を叫んだ。

 「ハラショー(いいぞ)、オーチン(すごいぞ)、ハラショー!」。握りしめていたのは米大統領、フランクリン・ルーズベルトからの手紙だった。「米政府は日本の占領下にある南樺太と千島列島についてソ連の領有権を承認する」と記されていた。



 米ソ両首脳による対日参戦に関する非公式会談でも千島列島の扱いはあっさり了承された。


 スターリン「ソ連の対日参戦の条件について討議したい」


 ルーズベルト「南樺太と千島列島がソ連に引き渡されることについては、何ら問題はない」



 これには伏線があった。

 43(昭和18)年10月5日、ルーズベルトは、国務長官のコーデル・ハルら政府高官をホワイトハウスに招集した。


「ソ連の対日参戦と引き換えに千島列島はソ連に引き渡されるべきである」

 ルーズベルトが提起したプランに高官たちは驚愕(きょうがく)し、一部高官はソ連の参戦に反対したが、ルーズベルトは聞く耳を持たなかった。日本軍の徹底抗戦により、米軍の犠牲者が増えることを恐れていたのだ。

  

 
× × ×



 だが、日本側はソ連の対日参戦など想定さえしていなかった。41(昭和16)年4月13日に締結した日ソ中立条約を固く信じていたからだ。

 日ソ両政府が条約締結交渉入りしたのは40(昭和15)年。日本側代表は外相、松岡洋右、ソ連側は外相のビャチェスラフ・モロトフだったが、スターリンも顔を見せた。


 スターリンは、「南樺太と千島列島を返してもらいたい」と松岡に迫った。松岡は頑として応じなかったが、ソ連は、迫りくるドイツ軍に焦りを強め、この要求を引っ込めた。

 米国は日ソの条約交渉を暗号解読で把握していた。つまりルーズベルトは、スターリンが千島列島を虎視眈々(たんたん)と狙っていることを当時から知っていたのだ。


 米政府内でも一部の高官は千島列島の戦略的重要性に気付いていた。


ヤルタ会談を約2カ月後に控えた44(昭和19)年12月6日、米国務省領土調査課はルーズベルトに極秘文書(ブレークスリー文書)を提出した。

 「南部千島列島は日本によって保持されるべきである」「ソ連の南部諸島に対する要求を正当化する要因はほとんどない」

 文書はこう警告していたが、ルーズベルトは見向きもしなかった。千島列島が太平洋の覇権をめぐる要衝であることを全く理解していなかったのだ。

   


× × ×



 ヤルタ会談から2カ月後の45(昭和20)年4月12日、ルーズベルトは急死し、ハリー・トルーマンが大統領に就任した。

 トルーマンは筋金入りの反共主義者であり、「米国にとって利益となるのは、ドイツとロシアが互いに殺し合うことだ」と公言してはばからない人物だった。ヤルタ密約の存在を知り、驚愕したトルーマンは、ソ連の対日参戦を封じ込めに動いた。

 くしくも45(昭和20)年7月16日、米国はニューメキシコ州で原爆実験を成功させた。もはやソ連の力は不要となった。トルーマンは日本を早期降伏させ、スターリンの野望を打ち砕こうと動いた。

 8月6日、広島市にウラン型原爆「リトルボーイ」を投下。日本の即座の降伏を恐れたスターリンは予定を早めて8月8日に日本に宣戦布告、翌9日に満州などに軍を一斉侵攻させた。



 昭和天皇の聖断により、日本政府は14日深夜、ポツダム宣言を受諾した。翌15日、トルーマンは「一般命令第1号」と呼ばれる書簡をスターリンに送った。

 文書には日本が明け渡すべき地域が列挙されていたが、ソ連が求めた千島列島は含まれていなかった。


 スターリンは修正を求める密書を送った。それには千島列島全島に加え、北海道の北半分の割譲も要求していたが、トルーマンは千島列島の軍事使用権を要求して切り返した。

 結局、スターリンは北海道上陸作戦を中止した。唯一の核保有国である米国とこれ以上関係が悪化するのは得策ではないと考えたからだった。

   


× × ×



 敗戦当日から日本はなすすべなく、千島列島は米ソのはざまで漂流する「浮遊物」のように扱われた。

 スターリンはトルーマンとの交渉をやめ、占領を既成事実化する手段に出た。ソ連第2極東方面軍は8月18日、カムチャツカ半島を南下、千島列島北端のシュムシュ(占守)島に侵攻。8月28日に択捉島、9月1~5日までに国後島、色丹島、歯舞群島の北方領土全てを占領した。



日本が米戦艦ミズーリ号で降伏文書に調印したのは9月2日。北方領土への侵攻は明らかに国際法を踏みにじる行為だった。それでもスターリンは国民向けの演説でこううそぶいた。

 「南樺太と千島列島がソ連に移り、これらの地域がソ連を大洋と直接に結びつける手段として、またわが国を日本の侵略から防衛する基地として役立つようになるのだ。今世界の諸国民にとって待ち焦がれた平和がやってきたのだ」









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樺太千島交換条約を主導したのは「太陽の沈まない国」だった…

2016-11-26 12:51:09 | 歴史
【北方領土 屈辱の交渉史(2)】


樺太千島交換条約を主導したのは「太陽の沈まない国」だった…


http://www.sankei.com/premium/news/161125/prm1611250007-n1.html


 明治8(1875)年3月8日、ロシアの首都サンクトペテルブルク(当時)。駐露特命全権公使を拝命した榎本武揚(たけあき)は露外務省アジア局長のピョートル・スツレモーホフと向き合った。

 榎本「千島全島を譲るべきだ」

 スツレモーホフ「それは大島たる幌筵(パラムシル)島までも望むのか?」

 榎本「幌筵島のみならずカムチャツカまで連なる島々をすべて譲っていただきたい」

 スツレモーホフとの協議は延々と続いたが、榎本は粘りに粘り、ついに樺太を放棄する代わりに、カムチャツカ半島まで延びる千島列島全島の譲渡を勝ち取った。榎本がロシア側全権のアレクサンドル・ゴルチャコフと樺太千島交換条約の調印を交わしたのは5月7日だった。

 旧幕府海軍の指揮官だった榎本は、箱館戦争(五稜郭の戦い)で敗北し、投獄されたが、その命を救ったのは、オランダ留学中に手に入れた「海の国際法と外交」の写本2巻だった。

 明治政府は発足したばかりで外交や国際条約は門外漢ばかり。榎本が所蔵する写本の存在を知った黒田清隆が、知人の福沢諭吉に翻訳を頼むと、福沢は一読してこう言った。

 「この万国公法は海軍にとって非常に重要だ。これを訳すことができるのは講義を直接聴いた榎本以外にない。榎本に頼めないようでは邦家のため残念だ…」


黒田は榎本の助命嘆願に駆け回り、榎本は明治政府の要人としてその後活躍する。ロシアとの領土交渉はその大きな成果の一つだ。




× × ×



 北海道の北東洋上に浮かぶ択捉(えとろふ)島、国後(くなしり)島、色丹(しこたん)島、歯舞(はぼまい)群島からなる北方領土(計5千平方キロ)は、ただの一度も外国の領土になったことはない。その先にはカムチャツカ半島まで占守(しゅむしゅ)島を最北端に千島列島が延びる。オホーツク海と太平洋を隔てる地政学上の要衝だといえるが、なぜ明治政府が樺太と千島を交換しようと考えたのか。

 安政2(1855)年2月、江戸幕府はロシアと日魯(ろ)(露)通好条約を締結。国境を択捉島と得撫(うるっぷ)島の間に引き、樺太を「日露両国民の混住の地」と決めた。

 ところが、ロシアは明治2(1869)年に樺太を「流刑地」に一方的に指定した。以後、樺太へのロシア人の流入が急増し、暴行や窃盗が頻発、殺人事件も起きた。樺太の日本人居留地を守るため国境線策定は喫緊の課題だったのだ。

 そこで白羽の矢が立ったのが、北海道開拓使を務めていた榎本だった。北海道事情に詳しく国際法にも強い。榎本は渋ったが、黒田は太政官(中央政府)に人事案を提起して榎本を無理やり帰京させ、天皇臨席による閣議で駐露全権特命公使(海軍中将)に任命してしまった。


榎本は明治7(1874)年3月10日に横浜港を出帆し、スエズ運河経由でイタリアに上陸。サンクトペテルブルクに到着したのは6月10日だった。

 樺太を全て領有したいロシア。日本も樺太放棄に異存はない。合致点は見えていたにもかかわらず、交渉は難航した。

 ロシア側は、樺太で起きた殺人事件の処分など細々とした懸案を次々と取り上げて引き延ばしを図り、本交渉が始まったのは11月14日だった。その後、日本側の交渉方針がぶれたこともあり、交渉は難航し、日露両国では「弱腰外交」という批判が渦巻いた。




× × ×



 ロシアから見ると、広大な樺太を捨て、碁石が並んだような千島列島を欲しがる日本の姿は奇異に映ったかもしれない。

 確かに当時の明治政府は脆弱(ぜいじゃく)で、樺太を統治する財政的・軍事的な余裕はなかった。だが、それ以上に英国の入れ知恵が大きい。

 「日本の国力では樺太開発は無理だ。防衛もできない。千島列島ならば周囲が海なので防衛しやすい」「樺太をこのまま放置すれば、むしろロシアの南下は北海道に及ぶ」「ロシアが侵攻してきても千島列島ならば英海軍が援軍に送ることができる」-。


 英国は、明治政府の要人にこのようなアドバイスを送り続けた。その元締は駐日英公使のハリー・パークス。「維新の三傑」といわれる大久保利通にも直接働きかけたとみられる。



 当時の英国は「太陽の沈まない国」と称される世界一の海軍国家だ。海洋戦略に長けた英国は、ロシア海軍が将来太平洋に進出することを懸念し、千島列島を日本に領有させることでオホーツク海に封じ込めようと考えたのだ。

 ロシアは幕末の万延元(1860)年、北京条約で中国から沿海州を奪い、ウラジオストクを軍港にした。翌文久元(1861)年には露軍艦ポサドニック号が対馬・浅茅湾に侵入し、島の中心部を占拠。艦長のニコライ・ビリリョフは幕府に「対馬の租借」「兵営施設建設」「食料」「遊女」を要求した。

 結局、英国の仲裁を受け、ポサドニック号は退去したが、英国はこの頃からロシアの太平洋進出に神経をとがらせるようになる。千島列島と日本列島による露海軍の封じ込めは英国の国家戦略だったのだ。


 ロシア側で千島列島の重要性に気づいたのは、旧ソ連の独裁者であるヨシフ・スターリンだった。


 ロシアは千島列島だけでなく、日露戦争後のポーツマス条約で南樺太までも日本に割譲していた。露海軍が北太平洋に進出しようとしても、この海域を通過する露艦艇は全て監視され、標的とされてしまう。米国に対抗する海軍国家建設をもくろんでいたスターリンにとって千島列島と南樺太の割譲は絶対に譲れぬ「戦利品」だったのだ。

 樺太千島交換条約から70年後の昭和20(1945)年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、降伏した。8月9日に日ソ中立条約を一方的に破棄して満州に侵攻したソ連軍は一向に戦闘をやめず、領土拡張を続けた。占守島への侵攻は8月18日、北方領土を占領したのは日本が米艦ミズーリ号で降伏文書を調印した9月2日以降だった。








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12・15長門会談で歴史的決着なるか? その前に幾重もの罠が… 合意阻むプーチン「取り巻き」

2016-11-26 12:46:25 | 歴史
【北方領土 屈辱の交渉史(1)】


12・15長門会談で歴史的決着なるか? その前に幾重もの罠が… 合意阻むプーチン「取り巻き」


http://www.sankei.com/premium/news/161124/prm1611240005-n1.html


 択捉(えとろふ)島、国後(くなしり)島、色丹(しこたん)島、歯舞(はぼまい)群島の島々からなる北方領土は、日本固有の領土でありながら、旧ソ連時代を含め、戦後71年間にわたり、ロシアの実効支配を許してきた。

 「領土問題を解決し、戦後71年を経ても平和条約のない異常な状態に終止符を打ち、日露協力の大きな可能性を開花させる。首脳同士のリーダーシップで交渉を前進させます」

 北方領土問題の解決を「政治家の使命」と公言する首相、安倍晋三は、9月26日の所信表明演説で強い意気込みを示した。

 領土問題は首脳間で解決するしかない。それならば、大統領のウラジーミル・プーチンが強大な政治権力を掌握する今は最大のチャンスだといえる。しかも原油安でロシア経済は低迷しており、ウクライナ問題などで悪化した欧米との関係に改善の兆しは見えない。安倍の目には「千載一遇の好機」だと映った。

 十分なアメは用意した。資源・エネルギー開発、原子力、IT、生産技術-。日本政府が示す8項目の協力プランは、極東開発をロシア発展の中核に据えるプーチンの国家戦略に配慮した豪華なメニューが並ぶ。

 安倍は12月15日に予定される山口県長門市での日露首脳会談で一気に事態を打開したい考えだが、ロシアは一筋縄でいく相手ではない。北方領土をめぐる日露交渉史は、幾度も裏切られ、煮え湯を飲まされてきた歴史でもある。今回の交渉の裏には幾重もの罠(わな)が仕掛けられている。

 ペルーの首都リマで開かれたアジア太平洋経済協力会議(APEC)に合わせて、11月19日に行われた15回目は、国際会議中の会談としては異例の1時間10分に及んだ。このうち35分間は安倍、プーチンだけで部屋に籠もった。会談後、安倍は「2人きりで平和条約について腹蔵ない意見交換を行うことができた」と胸を張った。

 ところが、翌20日にいきなり冷や水を浴びせられた。リマで記者会見したプーチンは「北方領土で共同の経済・人道面の活動ができるか、日本側と協議した」と説明した。ロシアの管轄下で共同経済活動を行えば、ロシアの主権を認めることになり、領土問題は棚上げになる。とても日本側がのめる話ではない。

 それだけではない。色丹島、歯舞群島の2島引き渡しを明記した昭和31(1956)年の日ソ共同宣言についても、プーチンは「どのような根拠で、誰の主権の下に置かれ、どのような条件で引き渡すか書かれていない」と言い放った。

 22日にはインタファクス通信が、択捉島と国後島に露軍が地対艦ミサイル「バル」と「バスチオン」を配備したことを報じた。


このような動きは、プーチンの背後に「決して領土問題で妥協しない」という強硬な勢力がいることを物語る。安倍は自分に言い聞かせるようにこう語った。

 「平和条約は70年間できなかった。そう簡単な課題ではない。道筋は見えてきているが、一歩一歩山を越えていかねばならない。着実に一歩一歩…」

 安倍がなお北方領土問題解決を諦めていないのは、会談を重ねる中で「プーチンには問題を解決したいという思いがある」と確信しているからだ。

 その契機となったのは、5月6日に露ソチで開かれた13回目の首脳会談だった。当時、欧州連合(EU)はウクライナ問題をめぐる対露経済制裁延長を検討しており、安倍の訪露は、欧米の意向に背く行為だった。安倍の誠意と熱意を感じ取ったプーチンは大いに喜び、会談は夕食会を含めると3時間を超えた。

 「領土問題については今までの交渉の停滞を打破し、2人で解決しよう。2国間の視点だけではなく、グローバルな視点を考慮に入れた新しいアプローチが必要ではないか。ぜひこの後は2人きりで話をしようじゃないですか」

 領土問題について安倍がこう切り出すと、プーチンの表情がにわかに険しくなった。日露の同席者は一斉に退席しようと立ち上がった。露外相のセルゲイ・ラブロフだけは強引に居座ろうとしたが、プーチンが手を払い、引き下がらせた。



安倍、プーチンの膝詰めの会談は35分間。その中身は明かされていないが、会談を終えた2人の表情は晴れやかだった。

 会談に際し、安倍はプーチンに日本製双眼鏡を贈った。「お互いに日露の遠い将来を見渡そう」という思いを込めた。プーチンは「次に会うときは、これでシンゾーを見つけよう」と笑顔で応じた。

 ロシアには領土問題で一切の妥協を許さぬ勢力が少なからずある。外務省と軍はその代表格だといえる。

 中でも外務省は、旧ソ連の独裁者、ヨシフ・スターリンの下で薫陶を受け、30年近く外相を務めたアンドレイ・グロムイコが育て上げた機関だ。国連で拒否権を連発し、「ミスター・ニエット(=NO)」の異名をはせたグロムイコは「領土問題を提案するなら日本に行かない」と言い放ち、北方領土問題でも拒否権を発動し続けた。

 12年にわたり、露外相を務めるラブロフは「グロムイコ学校」の最後の門下生。12月の長門会談についても、ラブロフ率いる露外務省は、領土問題で安倍に主導権を握られぬようさまざまな策謀を巡らしてきた。

 まず、12月16日に都内で開かれる経済フォーラムへのプーチンの出席を早々と決めた。首脳会談は東京で仕切り直し、経済協力を主要テーマに差し替える算段だという。

 これらの日程は日露間で調整中だったにもかかわらず、駐米大使も務めた外務省出身の露大統領補佐官、ユーリー・ウシャコフが11月17日に一方的に発表した。何としても長門での決着を避けたいようだ。


15日には、経済協力に関するロシア側窓口を務める経済発展相、アレクセイ・ウリュカエフが露当局に巨額収賄容疑で刑事訴追された。プーチンは即座に「信頼の喪失」を理由にウリュカエフを解任した。

 プーチン政権では、対外強硬派のシロビキ(軍や治安・特務機関の出身者など武闘派)がなお主導権を握っており、既得権益を手放すまいと抵抗している。前大統領で現首相のドミートリー・メドベージェフとプーチンの確執も取り沙汰される。これらの権力闘争が複雑に絡み合い、交渉を揺さぶっているのだ。

 プーチンの言葉のブレがこれを如実に物語る。10月27日、プーチンはソチで開かれた国際会議で北方領土交渉について質問を受けるとこう語った。

 「平和条約締結に期限を設けてはならない。それは不可能であり、有害ですらある」

 続けて中国との国境確定に40年を要した例を挙げ、「それは露中が特権的な戦略パートナーと呼べる水準の協力関係を築けたからだ。日露はそのような域に達していない」と語った。

 額面通り受け取れば、長門会談のゼロ回答を事前通告したに等しい。日本側の期待値を下げようとしたのか。それともこちらが本音なのか-。




北方領土返還交渉は、日露トップ間の合意をロシア側の「取り巻き」に妨害された歴史でもある。

 「あの時、大統領報道官のセルゲイ・ヤストルジェムスキーが隣にいなかったら、あるいは違った展開になっていたのではないか、と今でも思うことがある。惜しい瞬間であった」

 元駐露大使の丹波実(10月7日死去)は、平成10年4月に静岡県伊東市の川奈ホテルで行われた首相(当時)の橋本龍太郎と露初代大統領、ボリス・エリツィンの会談について著書「日露外交秘話」にこう記した。

 会談で橋本は「もし日露の国境線がウルップ島と択捉島の中間線にあることを平和条約に明記するならば、別途合意するまでの当面の間、ロシアの四島支配を認める」と提案した。エリツィンは「おもしろい提案だ」と半ば身を乗り出したが、ここでヤストルジェムスキーが何やら耳打ちするとエリツィンは「持ち帰って検討する」と押し黙ってしまい、その後、提案を拒否してしまった。


 同じようなエピソードは枚挙に暇(いとま)がない。


 平成12年4月29日、首相(当時)の森喜朗は、露サンクトペテルブルクのロシア美術館で、次期大統領への就任を決めていたプーチンと2人きりで会談した。予定の30分を超えると、側近が「時間です」と伝えにきたが、プーチンは「いいと言うまで入ってくるな」と追い返した。


 森の訪露はプーチンの来日を決めることが主眼だったが、続く全体会談でも日程調整は不調に終わった。

 ロシア側は、森が帰国するまでに回答すると約束したが、その後の共同記者会見でプーチンは「訪日時期は両国外務省で決める」と語った。直前に差し出された露外務省のメモをそのまま読み上げたのだ。

 その夜、森とプーチンはアイスホッケーの世界選手権を一緒に観戦した。森は試合の休憩中にプーチンをつかまえ、来日日程を確約させようとしたが、その度に誰かが割り込み、動きを封じられた。

 「どいてくれ、僕はウラジーミルと話があるんだ」。森は見知らぬロシア人を半ば恫喝(どうかつ)してプーチンに近づき、こう言った。

 「あなたは本当は日本に来たいんだけど周りが許さないんだろう。それじゃあ昔のソ連のやり方だ。今はロシアじゃないか。それではいけない」

 森の直談判を受け、プーチンは、9月の訪米前後に訪日したいという考えを明かし、「それでは失礼にならないか」と逆に尋ねてきた。森は「それは一向に構わない」と笑顔で応じた。

 果たしてプーチンは9月3日、大統領専用機で羽田空港に降り立ち、出迎えた森と握手を交わした。その後もプーチンと親交を深めてきた森はこう断じる。

 「プーチンは昔かたぎの日本人のようだ。柔道をやっているからなのかな。気難しいところもあるが、約束を守る男だ」(敬称略)







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