「おばあちゃんがのっていたよ」
車椅子とか電車とかではない。新聞の投書欄に、である。
91歳、けっこう元気で耳も口も頭もなんでもない。少々、足がおぼつかないくらいか。
我が家の裏の方にある老人ホーム「そよ風」でお世話になっている。
気にはなるが、なかなか顔を出せずにいる。たまには家に帰っているみたいだ。1ヶ月に一度くらいしか顔をみない親不孝者である。
昔は俳句をやったり、雑文をかいたり、それを本にして知り合いに配ったり。そう、市立中央小学校の校歌も採用された。これは自慢であった。
こんなことを書いていた。
弟の長女が軽井沢で結婚式をした。そのときの軽井沢の光景や結婚式の感想がうまく書かれていた。「まだまだしっかりした文が書けるのだ」と感心したが、それ以上に「育ててくれた母親にもっと何かをしてあげないと」と思わせられる文があった。
『・・歩くときは長男(私)の手に支えられ、
久しぶりに息子の手に触れたことも感激でした・・』
そういわれてみると、彼女には世話になったことばかりで、特に選挙ではよろこびも悲しみもいっしょになってくれた。
投稿した文をみて、「お袋の手に触れたこともなかった」これにはいささか参った。その通りで、近くに住んでいながら行事のときくらいに言葉を交わすくらいになっている。ちょっと寄って声をかけてやればいいのに、と思いながら「そよ風」の前を通り抜けてしまうのだ。
そんなに大きな農家ではなかったが、米、麦づくりみんな彼女の仕事だった。もちろん祖父が音頭をとっていたが。私も大学に通うまでは田んぼを手伝った。親父は教員であったから、田んぼでいっしょだった記憶はうすい。
「勉強をしなきゃあ」とはいわれたことはないが、小言はよくいわれた。父親へのぼやきを聞くことも多かった。仕事もけっこういいつけられた。あれをやれ、これをやれという具合である。
でも、彼女は私の欲しがるものはそれなりに満たしてくれた。裁縫の名人であったから、あまり物で何でもつくった。
小さなころから野球がすきだった。投げたり打ったりが大好きで、小学校のころは三角ベースで野球に興じた。バットは竹の棒、ボールはぼろきれ(布)で縫い合わせてくれた。グラブは木綿の強めな端材を使った。
みんな彼女が用意してくれた。
そんな彼女の手を支えてあげただけで『感激』というのは、私に足らないものがたくさんあった、ということ。
もう、91歳。
いくら生きても限りがある。「順番を狂わせないで」といつもいっている彼女に恩返しをしないとバチがあたる。そう思いながら読ませてもらった。
この暮れにはお世話になった「そよ風」を退去して、家に帰るという。
今までが今まで、そんなに期待はしていないと思うが、できることはやってあげようと思っている。あたりまえのことだが。