深く暗い地獄のような森を抜け、ようやくベッドに戻ったはずだった。
血にまみれた己が両手を見た時、オレはまだ悪夢の中にいるのだと思った。
実際、意識はまだ半分眠りの淵を彷徨っている。
相変わらずリアルな夢だ。
肌にじっとりと張り付くパジャマの感触。
蒸れた熱気には様々な体液のニオイが入り混じり…、
必死に呼吸するオレの鼻腔を、瞬間、濃い血の「味」が一気に突き抜けた。
(……甘い……)
どういうわけか、オレはその血の甘さに、優しく揺り起こされていた。
「せとさま… 大丈夫ですか?」
「う、っ……」
オレの上にのしかかる、大きな何か。
堪らず射✕したオレの身体を、太い腕がしっかりと庇い込む。
そのはずみで眼前にかざされたオレの掌が、真っ赤に染まっている。
「!!? あ… あ……」
「お目覚めですか、せとさま」
頭上の影が喋った。古傷だらけの硬くひび割れた肌、盛り上がった筋肉を、あらわにして。
「…ぐ…。 貴様…、磯野か…?」
歴戦の風貌には不似合いな、淡く柔らかな血を、全身からしとしとと滴らせている。
その様がどこかいたいけに思え。未だ夢うつつのオレは、内側で熱が再び燻るのを感じた。
「部屋に入るなと言ったはずだ…。それに、これは…」
「あなたに傷だらけになってもらうわけにはいきません。それに本日は重要な会議です」
「何故血が…?オレの服がこんなに…? お前もどうして裸…」
「それは───…」
サングラスを外したコイツが、慎重に言葉を選びながら答える姿。…微笑ましい。
「オレは、魘されていたのか…」
「はい…。突然苦しみだして、ご自身の身体を掻きむしるようにされていました…。
それで、お怪我をなさいませんようにと…私は…」
「身を挺して止めてくれた、と?」
「はい…。ですが、手足を封じられると、余計に怖くなってしまうようで…」
「抵抗して、お前をそんなに引っ掻いてしまった?」
「ええ…、はい、その… そうです。
そうです、せとさまはずっとオレの腕がない、脚がないと、譫言に仰られておりましたので…」
(ああそうだ。言われてみれば)
いつ涯てるとも知れぬ死の世界のどこかに、そんな場面もあった気がする。
「お前がオレの身体を『元に戻して』くれたんだな…?」
「えっ…? あっ、はい…。もしかすると、そういう事、に……」
なるかも…知れません…。 消え入りそうなほど小さく、その男は答える。
オレは改めて、しげしげと自分の掌を眺めた。
この男の背を掻きむしり、血と汗に濡れて光る、オレの手。
「すまなかったな…。痛むか?」
「いえ…。この程度の怪我なら怪我のうちに入りませんから…」
ふと目を凝らせば、男の傍らには、ボロボロに割かれたシャツが丸めて置かれている。
よれたシーツにも、そのシャツにも、血の色がグラデーション状に滲んでいた。
ますますおかしな興奮を覚えてしまうオレは、やはりどうかしていた。
未だ夢が──その余韻が、抜けない。
今夜は特に酷い。
「あの……せとさま……」
指についた血を舐めると、やはり甘かった。
その中に微かに感じる錆びた鉄の味は、この男の体内にまだいくつも埋まっているという弾丸の冷たさや戦場の砂埃を想起させ、オレを夢中にさせた。
一通り舐め終えると、今度は男の喉元に残る血の跡へと、オレは舌を這わせる。
「はあ……」
「お、美味しい、ですか…?」
「バカか。貴様なぞ、美味いわけがない…」
「そ…、そうですか…」
乾きかけの血に、唾液と、伝い落ちる汗が混ざり合う。
味覚が麻痺していくのとは逆に、舌先の触覚が鋭敏になっていく。
ごわごわとしたザラつく肌が、濡れて、ぬるぬるとよく滑る。
そこに、…あれほどやめろと言ったのに…煙草の臭いが、瞬間鼻の奥を刺激した。
「…・・・ッ… また、出そうだ……」
「……はい……」
ヤツの胸元に顔を埋めながら、オレは両脚をピンと伸ばして、再び射✕した。
「………っっっ………!!」
そういえばオレもコイツも、下は履いたままだ。
辺り一帯ぐちゃぐちゃに汚れた、ケモノ同然の情けない姿で、オレはなおも昂りを抑えられない。
目の前の男も同じらしかった。…布地越しにはっきりと伝わる。強く押し付けられて。
そのくせ慇懃無礼な態度で忠臣ぶって、あくまで自己犠牲精神を装う、そのふてぶてしさ。
少し弱っているオレならば欺けるだろうと考える浅はかさと、みえみえの小狡さが、憎たらしい。
一層堪らなくなるではないか。
「はぁ…はぁ…はぁ……」
オレが解放の余韻に浸る間は、抱きしめられ、背中や髪を撫でられた。
オレからキスをしても、決して驚いたり躊躇う事なく、ヤツはそれをあっさりと受け入れた。
血の味のするキスを存分に堪能する。 貪り、貪られた。
「ん………」
ちゅ、ちゅ、と傷痕を舐めては、また口づける。
興奮が高まれば高まるほど、意識が現実からあの闇へと引き戻されるようだ。
全身のどこもかしこも、触れられるだけで感じてしまう。
落ちていく。繰り返される死の絶頂の、あの闇へ───…。
「ほら。腕も脚も、それ以外も…ありますから…」
「……ん、…はあぁ……」
「せとさま。ほら…ちゃんと全部ありますから…。安心して…」
「…うるさい…! もういい、それは分かった…!」
中途半端に調子に乗った態度が、一番勘に障る。コイツは元来そういう男なのだ。
噂に聞いた大層なコードネームからは程通い卑小さ、いい加減さこそが、壊滅的な戦況においても常にコイツを奇跡的に生き残らせたのだろう…。
腹いせに新たな傷をつけて、その血を掬った指を吸う。
そのオレの指をヤツも吸い、更に続けてオレの唇を吸った。
「美味しいですか……?」
「しつこいぞ。不味いに決まっている…。貴様のような死に損ないなど…」
そこまで口にして、オレは今夜の夢の中で、何回、何十回、何百回死んだだろうかと思い返した。
同時に下腹部に強い疼きを覚え、布地の下にそろそろと手を忍ばせてみる。
…べしゃ。大量の粘っこい液体がまとわりついてきた。
恐る恐る取り出したオレの手は、悪夢の光景そのもので──、
まさしく人の腐敗と堕落の象徴のようで。或いは文字通りこの手を汚した、オレ自身のようで。
(解かっていた事だ。 なのに、何故オレは不愉快に思うのだ?)
(コイツを汚すのはこんなに気持ちいいのに、オレは…)
今は何も考えられない。 オレがただそれを眺めていたところ…、
男はそのオレの手を強引に引き寄せては、ベロリと一舐めしてみせた。
唖然とするオレの目の前で、こちらをじっと窺いながら、おずおずと──、
ついさっきオレがしたように、指を1本1本丁寧にしゃぶって。それからゆっくりと、きれいに舐めとった汚れを嚥下した。
「…おい貴様… 何を…」
「美味しい、ですよ……?」
何を勝手な真似を、と腹が立ったが、声にはならなかった。
身体が熱い…。頭の奥まで、痺れるように熱い。
次第に霞んでいく意識。
男の口髭についた残滓を、オレの指がからかうようになぞって。その指にしつこくキスされて。
そのまま唇を塞がれて、捻じ込まれた舌から、口いっぱいに形用しがたい味が広がる。
…下僕のナマイキに対する腹立たしい気持ちも、一緒に溶けて、オレの喉奥へと滑り落ちていった。
血溜まりに──闇に、あの悪夢に、再び落ちていく。
深く。沈んでいく……。
「キス…、お好きなんですね…」
「…… ああ…… ぁ……ぁ」
「それとも、…この髭の方がお好きでしたか…?」
「………う、うっ…、は あ……」
「こうして触れると感じちゃったり…、します…?」
「……いやだ…、いや…… あ… …」
「せとさま…… ……」
『せと』────。
夢の続きに落ちたオレは、その時初めて、一番欲しかったものを手に入れた。
1✕歳の最初の夜から、これまでに何度、悪夢が訪れた事だろう。
いくら望んでも得られなかったものをようやく得たオレは、その歓喜に泣き、喚き、喉が潰れるまでひたすらに声をあげた。
・・・
当たり前のように、白い朝の光がそこにあった。
衣服もシーツも、全て綺麗なものに取り換えられていたため。オレが昨夜の悪夢…出来事を思い出すまでには、少し時間を要する事となった。
「喉の調子が悪い…」
「今日の会議はリモートにして、AIにでも任せましょう」
「簡単に言ってくれる。オレを守るよりオレのAIを守る方が難しいのだぞ」
「……私が お傍にいないからでしょうか」
「図に乗るな。…我が社は昔から、ネットには悉く運がない」
「そうでしたね……」
「おい、笑うな」
「いえ…笑ってなど…」
いつもならば身支度を整え準備を済ませているはずのヤツが、Tシャツを着てのんびりと過ごしている。
それを見てすっかり脱力したオレは、提案通り会議の予定を変更する事にした。
オレの身体を洗い、着替えとベッドメイクまで済ませたのは、当然コイツだろう。
文句は言いたい、しかし礼の一言も言いたくもないオレは、居心地の悪さから、その事には一切触れなかった。
「……………………」
肌にさらさらと心地いい、清潔なシーツ。
だが、何度も撫でているうちに、うっかりその下に染み込んだ熱が蘇りそうになる。
そしてふと男の方に目をやれば…、
Tシャツから覗く腕には、市販品の絆創膏がべたべたと貼られている他、小さな引っ掻き傷がそこかしこに無数に刻まれているのだった…。
最後に見た時よりも増えているかも知れない。
あの後も、オレは更にやってしまったのだろうか。
(いけない。これ以上思い出すべきではない…)
(折角こうして朝が来て、目覚めたのだから)
オレがそうしてもじもじしていると、男が急にこちらに近付いてきた。
何事も他人に先んじてペースを握られたくないオレは、───何故か咄嗟に、こう口走っていた。
「次にオレが悪夢に襲われそうな時は、オレを縛っておいてくれ」
…まだ呑気にサングラスを外したままなのが癪に障る…男は、存外小さくつぶらな目を更に丸くして、驚いた表情を見せた。
が、すぐにまたいつもの取り繕ったハンパなポーカーフェイスに戻って。 こう返してきた。
「…承知いたしました」
やけに清々しい。これだけで、何をどう分かったつもりでいるやら。
オレは縄がいいとも手錠がいいとも、全く言っていないというのに。
ツメが甘いからミスも多い。無駄に落ち込む割に、反省も改善もしない。
しかしそんな男を不思議と気に入って、ずっと一番近くに置いているのは、このオレだ。
そんな男が、オレに妙な質問をしてきた。
「あの…、お聞きしていいですか」
「なんだ」
「せとさまの、その悪夢とやらなのですが……」
その悪夢は、徐々に悪化してきているのでしょうか? と。
直接被害に遭っているこの男には、さすがに少しは説明してやる義務もあると思い、オレは少しずつ語る事にした。
…夢を思い返す、言語化するというのは、完全にムダな作業だろう。
だから特にこれまで、しようと思った事もなかった。
いざ試みて見ると、やはりどうにも曖昧で手ごたえに乏しく───、思いの外、難しかった。
「悪化はしていない…。むしろ、以前より薄らいでいっているようだ」
「薄らぐ……?」
「遠くなっている、というのだろうか。夢を見る回数自体が減ったし、内容も昔ほど強烈ではない。
夢に現れる全てのものが、少しずつ、遠く、薄く…、なっている気がする」
恐怖も痛みも。孤独も。屈辱も。…快感も。
「それはつまり、軽快に向かっていると考えていいんでしょうか?」
「恐らくな…。だが、何故か目覚めてからの虚無感は、年々耐え難いものになっている」
「過去のトラウマを克服しつつあるのに、ですか?」
「……もうちょっと気を利かせて物を言え。 まあいい」
確かに、オレの精神状態は健全な方向に向かっている。
悪夢に魘される頻度は下がり、以前のような魔物共に玩ばれて無限とも思える時間、延々死の絶頂を繰り返す…
などという地獄以下の地獄体験は、目に見えて減った。
ところがその事が逆に、オレにとって新たな負担となっているのも、また事実のようだ。
「お前を傷つけてしまってすまなかった…。こういうのは、今回が初めてだった」
「いえ、こんな私なんかはどうでもいいんですが…」
「夢の中で、何かを捕まえようとしていたのだ。それはどんどんオレを置いて、遠くに行ってしまう。
あれほど無限と思えた苦痛も苦悩も…、オレはあらゆる実感すらも、失って……」
「……………………」
男には何か心あたりでもあったのだろうか。
意味深に黙りこくったが、それ以上何も言う様子がないので、オレは続けた。
「オレはそれをどうしても留めておきたくて、必死にもがいていた。
せめてこの指先だけでも掠ればいいと。 …それで、ベッドではお前を引っ掻いていたというのだから…笑えないだろう?笑うか?」
「笑う気はありません…」
「笑っているではないか」
「!? ちっ違います…!これは──」
涙が出そうになったので、堪えていただけです…、
などとは、男は言いはしなかったが。瞳が潤んでいるように見えたので、オレはからかうのをやめた。
更に引っ掻いてやる… のは、流石に何にせよ、やりすぎであっただろうし。
この男、やはりあの後で、何かを知ったのだろう。
オレが譫言で発した何かの言葉を、聞いたとか…。
(どうだろう?コイツは悪夢の真相を理解しただろうか?)
それは確実にないだろうと思えるから、オレも別に追及はしない。
オレ自身にだって分からない事なのだ。こんなヤツの見解など毛頭必要がない。
──その瞬間、ふわりと漂った、微かな血のニオイ。
そんな嗜好はないはずなのに奇妙に昂る鼓動と余韻が、不意にオレに問いかける。
そしてオレは「もしかして」と考える。 勿論、意識の片隅で。
(オレはそういえば、『血』を、ちゃんと見ただろうか?)
どんな血だった?どう流れた? 少なかった?それとも多かっただろうか?
オレは『死』を見ただろうか? ちゃんとこの目で、その時、その場所で。
(全然思い出せない…)
オレが見たのは、ただの『勝利』と『敗北』だったのではないか?……
「…もしかしたら、もう悪夢は見ないかも知れない」
「そうなのですか? あの…せとさまが楽になるほうで、私はいいです」
「分からない。見るかも知れないが、今回のような事はもう起きない気がする」
夢の中で、オレは確かに、ずっと欲しかった『何か』を手に入れたのだ。
ただ、それが何だったのかは分からないが…。
「では、縛る必要はないのでは?」
「いや…、起きないからこそ、だ。 もうオレには、消えていく何かを掴もうともがく必要がないのだから」
「成程。 いえ、すみません、実はイマイチよく分かっていませんが……」
磯野はオレからの頼みを、快諾した。
自分の中で、大きな区切りがついたように思い、安堵したオレだった。
磯野がオレのベッド…枕元へと、更に歩み寄る。 間近で見上げる腕や首筋が、想像以上に痛々しい。
「お前も今日は休め。そんな応急処置じゃなく、社のドクターに診てもらえ」
「ですが……、折角せとさまとこうして2人で過ごしているのに……」
一瞬、ヤツの台詞に違和感を覚えたオレだった。
勘違いだろうとその顔をまじまじと見つめると、明らかに調子に乗った… ─夜の思い出に惚けてユルんだ、どうにもしまらない表情で、オレをじっとりと見つているではないか。
それだけならばオレも我慢するつもりだったが───、
すっかりゆるみきったまま、吐息混じりに、ヤツがオレにこう訊ねてくるのだ。
何故今ここで?という、ヤツお得意のタイミングの悪さが、一層オレの怒りを買う事となった。
「あの、ところでせとさま……」
「なんだ。早く言え」
「その…… 縛るというお話ですけども…、具体的にはどういった器具…いや、方向性で縛ればいいのかと……」
なけなしの理性で手加減したオレは、枕を男に思い切り投げつけた。
(…確かに情事でついたとしか思えない傷だ…)頑なに医者に診せる事を拒んだ磯野を部屋に放置して、
オレは隣室でリモート会議に参加した。 専用のボイスチェンジャーで、声がれは完璧に隠せた。
・・・
こうした他愛ない日常の繰り返しの中で、過去の傷は癒え、あの悪夢もいずれは消えてなくなるのだろう。
その際には痛みや戸惑いを伴う事もあるかも知れないが、ただ人は未来へ向かって生きていくしかない。
そしてそれは、夢の中を出口を求めて彷徨い続けるのと、実はよく似ている気がしなくもないのだ
一方あの男… 磯野が、オレを「縛る」道具をアレコレと調べ、集めに集めて、着々と準備を進めているともいう。
これではますます未来が楽しみになってしまうではないか。
流石、常に地獄の戦場で生き残ってきた男は違う。 オレも、この超のつくポジティブさを見習いたいものだ。
…勿論半分以上はイヤミであるが。
多分恐らく、オレたちはこれからも、現実という「悪夢」を生きていく。
(終)