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ブログ毎日書くのは参ります

2013-01-31 18:14:10 | 自由が無くなる
最近ブログ毎日書いていますが精神的に疲れます。書かないといけない、何時書くかで迷い疲れます。今私の住むの八十才以上の人達にの中のある産業が何時頃始まったのかと思い記録に残さないといけないと聞いて回っています。百三四十年続いた仕事です。十年程前から町内の全然関係ない人達が調べもしないで勝手な事を言ったいるので正確な記録を残して置こうと思い聞いていますからブログを書く時間を何時にするかで困っています。
私は今は市になっていますが八九年前は町でした。その町で町議三期しました。委員会は初めから最後まで建設厚生委員会にいました。よく政治の事書くのはそのためです。厚生関係も予算書だけ見ていたのと現在のように下から見るのでは全然違います。良く政治、建築関係のブログ書きますが一番下から見た感じを書いています。
パソコン買い変えてこのブログ始めて昨日で30000見てもらいましたから今後は気が向いた時書こうと思っています。一週間に一度くらい始めた時と同じくらいに書きます。一週間に一度あるか二度書くか、書かないか解りません。書こうと思った時書きます。これが私なのです。こんな生き方してきました。

十三年度予算公共事業最大だって

2013-01-30 13:57:47 | 日本の政治
今日の新聞に十三年度公共事業費最大とあった。この規模続くのかな。あまり続けると日本の金無くなりますよ。一二年だけでは効果出ないから効果期待するためにはコンクリート事業に金つぎ込まないといけない。そんなお金何処に有るのですか。万一給料少し上がっても国民は国に金無いと知っているから使いますか。何を餌にして釣りますか。今でも十分くらい時間短縮できる道路を少しづつ作っていますが何の為にですか。喜ぶのは土建屋と農地を高く買ってくれた農家だけでしょう。必要な基準をはっきりさせて国民に知らしてから公共投資するべきではないですか。
生活保護の事ですが私の近くで貰っている人達は質素な生活しています。都会では四人家族で二十八万円出ているとは知らなかった。働ける年代でうつになっても生活保護が貰えるとは知らなかったが生活保護もばら撒きすぎ、本当に働けず困っている人に出すべきです。高齢者とか本当の病人とかには必要です。必要でない人に生活保護費を出し過ぎ。

ネズミ家の中大繁殖

2013-01-29 14:37:11 | 故郷
最近家の中ネズミが我が物顔でふるまっている、母屋で食事中は匂いがするか真上の天井でガタがたと走りまくっているし、二間ばかり隣の部屋ではがたがたと音を立てている。
私食事はスーパーで弁当買い食べている。ネズミの食べ物置いて無いと思っていたが二か月くらい前から台所、風呂場に置いてある石鹸が無くなるので誰か人が入り持って行くのかと思っていたところ風呂の中に落ちている石鹸見つけ取り上げると半分になりかじった跡が一面に残っていた、ネズミかと思い石鹸箱に入れて風呂場に置いているがうまくかぶせている上蓋を開けて石鹸取り出し齧り半分くらいにして風呂の中に落としている。台所も同じ旨く上蓋を開けて齧り食べている。
同じころから焼き芋作るため薩摩芋買ってきて一メートルくらいの高さの台の上に置いとくと袋破り薩摩芋かじり人間が食べられなくなっている。捨てるより方法ない。つい二三か月前からの事、それまでは家中がたがたとやり、走りまくっていたが最近は手に負えなくなっている。五六年前までは白い廿日ネズミだけが家の中うろちょろしていたが今居るネズミは黒く十五センチから二十センチある奴が走っている、幅二センチも無い二メートルくらいの上の壁に打った板の上を平気で走りまくっているし、酷い奴は夜寝て居て目覚めると布団の中に居る。ネズミも寒いか一緒に寝ている。原因は納屋に野良猫が何時も子供産んでいたのを追い出したからかも知れない。二軒の家に天井、畳の上、床下と何処にでも居て何時もがたがた平気で音たてている。はつかネズミは可愛いかったがどす黒い大きいネズミは余り気持ち良くない。隣近所が空き家になりその家のネズミが来ているのかもしれないがどうすれば良いか。二軒の家の中はガラクタで一杯、ネズミの住むりに丁度良いからか。困るよ。

体罰は痛いか

2013-01-28 11:04:35 | 信心
体罰は中学、高校と野球やっていたが体罰は食らったこと無い。みな楽しみながら一生懸命に練習していた。体罰をよく食らったのは授業中、私の信念は予習、復習、宿題しない事だある。
小学生の時軍隊帰りの先生によく引っ叩かれた。理由は授業中に騒ぐから、五年生の時教室で騒いだ男子生徒三人前に呼び出され私は真ん中、端から顔引っ叩かれ彼は吹っ飛んで倒れた。次は私、倒れたの見て居るから先生の手が顔の側に来たときすくんだ、先生空振りして後ろの黒板に身体当てる。かんかんに怒り何発も頭叩かれたが手で頭覆いしゃがんでいた。大分殴られたが防御していたのであまり痛くなかった。可愛そうなのは三人目私への怒り溶けないで三人目の男の子を殴り倒した。小学生の時は何時も殴られていたが一番大きい体罰、中学では野球やっていたが殴られなかった。高校になり数学の先生に何時も宿題して行かないので前に呼び出され、出席簿の角で殴られコブが出来ていた。すこし痛いが何とも感じなかった、中学一年の時数学に因数分解出てきて途中から解らなくなり、数学捨てた。から高校でも殴られてもいいやと思い数学の宿題は絶対にしなかった。でも毎日小説は読んでいた。親父の持っている本は小学生の時全部読み、中学、高校は貸本屋で、小説、カストリ雑誌借りて読んでいた。困ったのが本返す時の金、家中探し親父の金くすねていた。親父の金くすねたのは高校までだが以後も両親は死ぬまで私が金くすねると思い続けていた。この事が一番しゃくにさわる。信用されなかった。

大東亜戦争の思いで

2013-01-27 11:13:36 | アメリカ
私は年齢は五十才と少しです。これでも大東亜戦争の思い出あります。戦争中はと言っても末期ですが毎日B29が編隊で高知の方から山の上を飛んで来て中国地方に飛んで行っていました。近くに居る幹候隊が林の中から高射砲撃っていましたが飛行機の下の方で爆発していただけ、怖かったのはグラマン、漁師が浜で網を引いていたとこを急降下して射撃した時一キロくらい離れた家の外に居たが急降下にビックリして木の下に隠れた事が有った。射撃の音がして震えあがった。終戦後人から聞いた話し、幹候隊も一二度グラマンにやられたと言って居た。
此処からが残さないといけない事、ある時小学校の運動場に全員集められた、間もなく戦闘機が一機飛んできて学校の上を二三回旋回して沖の方へと飛んで行った。学校の隣のの者、詫間の飛行場から飛び立ち故郷と学んだ小学校に別れを告げて特攻隊として散っていった。名前だけ憶えていたので十年くらい前戦死者の名簿見るとその隊員の名前あった。この事は誰も覚えて居ないし第一詫間に特攻基地が有ったなど知らない。私も詫間とは知らなかった。二三年前の新聞で特攻基地が有ったと新聞で読んだから知った。今から思うと学校に電話有ったかと思う、どうして学校に連絡きたか、そのには当時電話一台だけあった。そこから小学校に連絡したか。