今日十一時二十分に観音寺市の農業委員会と話した。電話に出た職員の名前は石井さんだった。昭和四十年に又契約更新していた。西原さんの嫁のしていた事は認められないと言ったし、出来る事ではないと言っていた。電話終わって西原の嫁さんに電話して話伝えた。
前にも書いた事あるが今清正公のお宮どうなっているのかと思っている、小学、中学頃は大きな銀杏の木がお宮迄生えていて露店が何台も来ていてにぎやかだった。竹本さんが施設に入る前にも清正公どうなっていると聞かれたが今は一尺ばかりの道が有るだけでの人は行っているのかな、たぶんお宮の後ろは埋め立てで少し広がっていると思うが今のの人達はお宮が有るとは知らないと思う。熊本の加藤清正を祭ったお宮とはもうのひとは 知らないと思う。
山福が明治三十六年創業とあるのはちと変だ、福やんが家を建てたのは昭和十年代。明治三十六年創業なら綿は儲かるからもっと早く家を建てたと思うしされと明治の合資会社に名前が有るはずだが何処の合資会社にも福やんの名前無い。多分山福が操業したとは大正から昭和の初めと考える。関谷に二階建ての家が出来たのは昭和十年代からである。ちょっと誇大妄想過ぎるよ。山下一族は合資会社には名前無い。
山福が明治三十六年創業とあるのはちと変だ、福やんが家を建てたのは昭和十年代。明治三十六年創業なら綿は儲かるからもっと早く家を建てたと思うしされと明治の合資会社に名前が有るはずだが何処の合資会社にも福やんの名前無い。多分山福が操業したとは大正から昭和の初めと考える。関谷に二階建ての家が出来たのは昭和十年代からである。ちょっと誇大妄想過ぎるよ。山下一族は合資会社には名前無い。
民生委員の山地尋ねて行った家で聞いた事を調べもせずに人に話している。一番の誤りは四国製綿株式会社が有ったことも知らずにいる。四国製綿は昭和十四年に家から引っ越して土地借りて関谷で一番大きな綿工場になった。その工場の入り口で知り合いが魚屋をやっていたと言いまくっている.サトウキビを谷が七福神社の砂の中に入れて保管していたと言いまくっているが楠の木の近くと聞いて現在の楠の木の根元と思い金神を藤田屋が置いて有る裏と思って人に言いふらしているが実は今のちょうさ会館の下の砂の中に入れて冬を越させていた。それと田中の事も十日ほど前と教えてくれたが一月以上前の事だった。