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西原達水曜に集まり豊浜の何を研究していて電気代使っているのか

2019-11-24 18:13:32 | 綿

西原達コットン会とかなんとか名前付けて毎週水曜日にちょうさ会館に集まり何を研究しているのか解らない、豊浜の綿なら江戸時代の藤村家を調べるのが常識だろ。藤村家は江戸時代讃岐の西の方から綿集めて繰り綿にして大阪の生野会所に出荷してた豊浜一番の金持ちである、昔の金持ちは俳句を作り藤村家の人達は何人も江戸時代の俳人として名前が残っているが綿を研究するのなら豊浜の藤村家の事を調べるのが一番最初の仕事だと思うよ、和田村の綿の資料として孝子新造のことも調べないで毎週水曜にちょうさ会館に集まり電気代使い、高松のおばはんが書いた綿はたのしを綿の資料館に来た人にあげているかこの本は半分以上は間違いである。この本を書いた高松のおばはんに間違いを指摘して手紙書いたが何の返事も来ない、たかか二年ちょうさ会館に通い書いた本と中に書いてある。


昭和三十年頃から豊浜の幼稚園児は綿を育てていた

2019-06-18 18:38:18 | 綿

昭和三十年頃豊浜の幼稚園では園児が綿を育てていた、理由は道溝の田中さんが幼稚園に綿の種を渡して育てて見てくださいと言っ渡したから園児達が育てていた、当時田中さんは保険の外交していた人、園児が綿植えて居ると聞いたのは高校生の時、二十年位前のころ道溝に行くと良く道溝の中を歩いて居たので喫茶店で田中さんは何処に綿植て居たのと聞くとあの角の所、世話はお爺さんがしていたと教えてくれた。和田村が綿植えていたとの江戸時代の資料は孝子新造の話にある、これが随一の資料であり、和田中学校の庭園に大正時代に建てた大きな碑があり、どこかの大学教授が漢文で書いている。孝子新造の墓は梶谷の川を渡った墓地に有るらしいが資料が出てきたので建てたとのことである。豊浜の綿を研究している人達知らないかな。


綿の資料館見学者になぜ綿は楽しいの小冊子渡すのか

2019-06-17 18:32:40 | 綿

綿の資料館見学者に三分の二出鱈目書いている高松のおばはんが書いた小冊子渡しているがおかしな子とする職員たちの集まりだ、もしかしたら綿打ち弓を西原がすごい発明して綿打ち弓の木を竹で作っている写真載せて居るので竹でも木の代わりの綿打ち弓こしらえて居るからかとも思う、そして終わりの方に祖父、親が働いていたので小さい頃は工場の中走りまくっていたとあるが西原は太平木で生まれていて西原の小さい頃の西原の綿屋は母屋の裏に小さい綿工場だったし、工場の中走れたのは明治時代の綿打ち弓の時代である、昭和に入り機械化された子供は入れないし、危なくて走ることなど親がさせないことを平気で書いている綿はたのしいょ配っている、西原が本買取職員に本渡すようにと言って職員に本預けているらしい。コットン何とかクラブ作っている会長が嘘の宣伝していてはだめだ。


今日中村さんとこの綿工場つぶっていたみたい

2019-06-13 18:43:16 | 綿

今日音がするので窓から見ると中村さんとこの綿工場を潰していたみたい、昭和三十年代はこの狭い家十軒無い地域に中村さん、菊市さん、福やん,源さん、竜はん、政一の工場六軒有ったが今残っているのは竜はんとこだけ、面積の半分以上空き地が占めている。一番初めに潰れたのか゛都の親の政一の工場、抵当物件である山、畑を売ってやると騙して金貰って一番最初に昭和五十七年に会社倒産して自分も死んでしまった。人に頭下げるのが嫌いで仕事せず,嫁はんは何時も見えを張り、会社傾いているのに贅沢三昧していたのがこたえて何処かの病院で亡くなった。彼らが数太郎が作った家屋敷無くした。


田植東に行く程今から準備するか

2019-06-10 19:59:13 | 綿

今日陶に行ったが和田村の農免沿いは殆ど田植終わっていて山代だけが又苗床作っているだけでほとんどの田圃は田植終わっていた、山本町に入ると水張った田圃が少しづつ見え出した、帰りは陶から府中街道に出ると国分寺に入ると今から準備するみたいな田圃ばかり見えて田植している田圃は殆ど見なかった、私は若い時から田植は東から始まると信じていたが今年は何時もと違う田植だった、そんな田圃の風景が丸亀に入るまで続いていた、約二十年間陶病院に通っているが今年みたいな風景を見るのは初めてである、小学校時代に経験した農繁期の休みとは一週間あって小学生も家の手伝いしなさいで学校が休みにしたと思われる、中学からは農繁期休みは無くなったが箕浦小学校はあまり足しにも成らない小学生を田植を手伝いなさいとしたのか今になっては解らない。今井先生にでも電話して聞いてみるかな、今年九十六歳になる先制で箕浦小学校でも先生していたから知っているかも知れない。