月刊オダサガ増刊号

2024年創刊予定の「月刊オダサガ」の増刊号です。
「月刊オダサガ」編集長が好き勝手に書いているブログです。

1 僕と彼女とご主人のクレープ

2018-06-05 09:30:05 | 不思議の国の住人


新しいご主人のところへやってきて、1か月が経った。

ご主人は自宅の軒先でクレープ屋を営んでいて、僕はそのお手伝いをしている。

家族はご主人ひとりだが、家事を任されることはない。この家には家事の習慣がないからだ。

食事はスーパーの弁当が多く、洗濯はクリーニング屋に丸投げ、掃除は全くしない。なので、家の中のことはやらなくていい。

今日も僕はいつものように商店街から駅前まで、屋台を引きながらご主人の店のクレープを売って歩いた。朝の10時に家を出て、夕方の6時に帰るのが日課だ。

1時におじいさんがチョコレート味を買ってくれた。4時におばさんがイチゴ味を買ってくれた。6時になったので残ったクレープと売上金を持って家に向かって歩いていた。

今は6月なので、6時になっても外は明るい。僕はちょうど正面に見える西日をぼんやりと見ながら屋台を引いていた。人とは1分に10人ほどの割り合いですれ違うのだが、それが多いのか少ないのかは、よくわからない。

和菓子屋の手前の路地に女の人が座っていた。ここいらは物乞いもいないので、僕の目線より低い位置に人がいるのはちょっと珍しい。

お尻を地面について膝を抱えてうつむいている。具合でも悪いのだろうか。僕は声をかけた。「あの、大丈夫ですか?」

返事がない。僕は屋台と一緒に立ち止った。

「大丈夫ですか?」

まったくリアクションがない。僕は屋台を置いて、女の人の正面まで近づいた。

「大丈夫ですか?」

下から顔を覗きこんだ。目は半分、開いている。寝ているわけではないらしい。グレーの作業着は上下ともに小奇麗で、怪我をしているようには見えない。長い髪をうしろでひとつに束ねているが清潔で、道端に座りこむのが習慣になっている人にも見えない。

「大丈夫ですか?」僕は繰り返し、尋ねた。彼女はゆっくりと左手を動かした。結んだ手から人差し指だけがまっすぐに伸びている。

その指の先に、なにか金属のようなものが転がっている。どうやら、この丸い輪っかを指しているらしい。

僕はそれを拾った。ボルトナットのナットみたいだ。部品かなにかだろうか。

僕は彼女にそれを手渡した。彼女はナットを握ると、その手を首にあてた。

「ありがとう」

彼女はゆっくり立ち上がった。僕は彼女を見上げた。