天の門ーThe gate of heavenー

ここでは鄭明析先生のメッセージを紹介しています。

<霊の世界>は自分の主観と考えどおりに存在する世界ではない。

2015-10-14 14:10:53 | 明け方の箴言


<霊の世界>は自分の主観と考えどおりに存在する世界ではない。神様の考えどおりに存在する世界だ。

<肉の世界のこと>も、考えたことを確認して、行なって、行くことだ。<霊の世界のこと>も、考えたことを確認して、行なって、行くことだ。

確認しないで行なう人は、「夢でしばし見えた世界」を現実で探す人のように、虚しいものを追う人だ。

千里も離れている友達の家に電話もかけないで急に訪ねて行って、驚かせようとした。いざ行ってみたら、戸が閉まっていて、「旅行」という文字だけが玄関に張られていた。自分の考えを成就しようとばかりして、確認しないで行ったら、あれこれすべて水の泡になってしまったのだ。

<自分の目的>を実行しようとするが、自分が直接確認できない境遇の時がある。生活の中でこのような場合は確認が困難だけれども、それでも「他の方法」で、「他の人」を通して確認して、行ないなさい。

神様にも確認して行ないなさい。「私はこのようにしますから、このようにしてくださいますか?」と約束して、確認して行ないなさい。<自分の考え>と<神様の考え>とは異なる。

願い求めなさい。<神様の考え>はどうなのか、分からせてくださいと願い求めなさい。そうすればその都度、該当することを教えてくださる。御言葉で、感動で、万物で、夢で、人を通して教えてくださる。

<観念>と<実体>とは異なる。

2015-10-14 14:08:49 | 明け方の箴言


観念>と<実体>とは異なる。ある時は「東と西」のように異なり、ある時は「地と天」のように異なる。

そこが間違いないと思って行ったが、実際に行ってみたら砂漠だった。そこでさまよって生きていく。

<観念>は「考え」で楽しみ、喜ぶけれども、<実体>は「身」をもって体験して得るので、異なる。

<考え>では楽しいけれども、<実際>に行なったら、悲しく苦痛だ。

<自分の考え、錯覚>の中で人生を生きてから死んで、霊の世界に行ってみたら、違う世界だ。<霊の世界>は実体の世界だ。<自分が考えた世界>は根拠もなく、痕跡もない。

ある人は真昼に「あそこに家がある」と言って、走って行った。ついて行ってみたら、家に見えたけれども、実体は茨(いばら)の茂みだった。自分の錯覚で走って行った人は茨の茂みの中であえいで苦痛を受けていた。

偶像に仕えながら「死んだらよい世界に行く」と言って信じて生きていた人たちが実際に霊界に行ってみたら、よい世界で一坪も住む所がない。自分がそう考えただけだ。

よい世界、天国は、自分がこの世で肉を持って生きる時に、神様が願っていらっしゃるとおりに、神様の御言葉どおりに生きて、霊が変化を成し、その霊をもって行く世界だ。

偶像に仕える人たちは、自分が仕えていた人が行った所にそのままついて行く。

目的どおりに、「この世で自分が仕えていた偶像」について行く。

<好奇心>と<実体>とは異なる。

2015-10-14 14:05:29 | 明け方の箴言


<好奇心>と<実体>とは異なる。

異性の愛も<好奇心>と<実体>とは異なる。

子供が好きな人は、好奇心を充足してうれしいかもしれないが、子供によって得るものがない。(10代に性行為をする者たちを見て)

人間は大きく成長した分、生の香りがし、すてきだ。

<好奇心>は脳の刺激から来るけれども、<実体>は身をもって体験することだから、異なる。

<好奇心で行なったこと>と<身をもって体験すること>とは異なる。