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慶応ボーイの植木屋修行

ランドスケープアーキテクト福川成一のエッセイとオーベルジュ・スミの庭の記録

水の風景 Ⅲ

2010-02-08 12:27:00 | エッセイ
  水は風景の中の音楽だ。水には我々を魅了する何かがある。
我々が水に惹かれる一因はおそらく、水が自然と人間の関係を取り持ってくれることにあるのだろう。水は万物の源であり、今も変わりなく豊穣と無垢、誕生と死、時間と永遠性を象徴しつづけている。

 水は純粋である。すべてを潤し、洗い、新しくし、再生の活力を与えてくれる。水は人の世の岸辺を清めつづけるものだ。

 水は心をそそる何かがある。水はいつまで見ていても飽きない。水の本当の魅力はとらえどころのない、幻であるからかも知れない。

 水の魅力は尽きない、魅力を知ればそれを表現したい。私は水が好きだ。鎌倉の由比ガ浜で育ったせいかもしれない。私は一貫して水に拘わってきた。

 会田雄亮の事務所では新宿三井ビルの広場の滝や山梨の小瀬スポーツセンターの滝など大規模な滝を作った。その頃はハルプリンのラブジョイプラザやロバート・ザイオンのペーリーパークなどにあこがれていた時代で、日本には前例もなく、クボタの工場に原寸のモックアップを作って流水テストまでしていた。

 水というものは本当に嘘をついてくれないので、施工誤差も施工ミスも許してはくれない。何度も最初の流水テストで期待どうりの景色が出ず、進退きわまったことがある。そんな時、もしかしたらうまく行かないかもしれないと、念のために打ってあった水の落ち口を加工出来るようにした余裕部分が私を救ってくれた。

 昔はランドスケープで水といえば池、流れ、滝、噴水と相場がきまっていたが、温暖化の脅威、エコロジーの時代、2050年までにはアジアでは10億人が水不足で苦しむされている中、電気エネルギーを大量に消費するポンプ仕掛けの演出は考え直さざるを得なくなっている。。同じ水量を使うにしても小さなポンプで時間を掛けて水層に上げ、一気に流すような方法で省エネルギーを図ったり、生物ろ過システムを採用したりバイオスウェール(水の中の栄養を吸着させる水生植物を植え込んだ湿地帯)を作ったり、なるべく自然な浄化作用を工夫する時代となった。

 もっとも堺の現場で建物の雨水を地下に貯留して補給水としたところ一般に0.1程度の窒素が6.0程度あり、あわてて雨水を計測すると6.0の雨が降っていて、隣に窒素肥料の工場でもあるような、肥料入りの雨が降っている状態だった。多分中国の黄砂に肥料が混じっていると想像したが、こうなるともう湿地をいくら作っても池の水の富栄養化は防げず、上水に切り替えて、何とかアオコを抑えるのがやっととなってしまった。もう雨が肥料を撒いてくれるなら、無農薬栽培は益々うまくいくだろう。水を霧状に噴霧するドライミストによる冷却を計るアイディアなどは、水の性質を上手に利用していて面白い。

 水は私達にとって不可欠の存在であり、温暖化の脅威の前に大量に電気を使う設備は控えねばならないだろう。自然の流れや水車、自然の浄化作用の利用などそもそも地球が持っていた自然な能力の顕在化がとそれを知る能力がランドスケープアーキテクトに求められるだろう。

 私達は自然の幻想を作るのではなく、地球の異常の現実を知らせる努力をするべきだろう。水、この脅威の物質に深い感心を持ち、その特質を表現することが大切だろう。

 今考えているのは写りこみだ、水のすばらしさは地上の風景を空を写しこむ水鏡にある。それを際立たせるために、池の框を見せない工夫をする。滝もすばらしい、白濁させることがコツだが一番の効果は水音と思っている。
 岩城仙太郎は庭に水がないと動きがなくてつまらないと言っていた。ランドスケープでは水は常に面白い、いっぱい使えば華やかだ、だがコスト削減で動かなくなった噴水や滝は寂しい。私達はもう一度水を考えてみよう。雨の日だけ流れる流れや五ミリ程度の水膜で水鏡を作ったり、微細な水の不思議でも人間は水を感じ、心を動かされることを。
 何しろ人間は水生のさるだったのだから。



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