朝活!いこかの鉄道遺産群を巡るウォーク「加太駅界隈」編 その③

2022-11-18 18:10:28 | いこかの鉄道遺産群を巡る朝活ウォーク
煉瓦造りの素晴らしいアーチ型ミニトンネル(私的に呼ばせていただく)から、
一路「加太駅」方面に戻ります。

※「加太越奈良道『加太宿」について詳しいイラスト案内図をリンクしておきます。

前回「板屋の🚥」とご案内した辺り、街道沿いに「板屋地区」で、
江戸時代には『本陣』のあったところだとか。
 ※江戸時代以降の宿場の事で、大名や旗本、幕末役人、勅使などの宿泊所として
 指定された家の事。原則として一般の者を泊める事は許されていなかった、とか。

街道沿いに長い地区ですが、昔から加太の中心地だったようで、
郵便局、小学校・保育園、交番、林業センターなど公共機関が多いです。
また、加太駅界隈は「市場(イチバ)地区」といい、問屋場(トイヤバ)高札場(コウサツバ)などあったそうです。

板屋からの帰り道、素朴な石仏様にも出会います。
 
帰って調べたら『加太神武地蔵尊』でした。
街道を往来する人々の安全を祈ってくれているのだと思いました。

ほどなくしてココ
  
三角地帯のようになっていますが、そのまま左へ進むと国道25号線、
右は「旧大和街道」(=伊賀・大和街道、正式には加太越奈良道でしょうか)。

「旧道の大和街道」を通る【亀山森林公園やまびこ
  
(駐車場もあります)
 ≪市内の加太梶ヶ坂地内にある市有林約4.2haを、
 地元加太コミュニティの方々やかめやま市民大学院第1ゼミ生とともに作成した
 「亀山森林公園環境整備構想」に基づき、平成20年度から3ヵ年かけて、
 加太の自然がそのまま活かされるように整備を行いました≫

 ≪森林公園「やまびこ」は『歴史ある街道「大和街道』に接しています。
 関の西の追分で東海道から分岐し、加太峠を越えて奈良に至ります。
 壬申の乱の際大海人皇子平安末期には源義経が、
 本能寺の変では徳川家康が通ったとされている街道です≫

そうそう、「壬申の乱古戦場跡」「風の杜」「徳永寺」(柘植地区)や
「和銅の道/補陀落の滝」「射手神社」など伊賀でもご縁は多いです。

左側の山裾の道が本来の「峠道」へ続きます、


ウォーキングでは「やまびこ公園内の八つ橋」を渡っていきますが、
いずれ先ほどの「峠道」へ合流します。
 

梶ヶ坂峠』(カジガサカトウゲ)
 ≪市場の集落から西に抜ける峠道は、(写真撮らず、残念)
 周辺では唯一地道が残っており、往時の面影を残している部分≫とのこと。

なんか、大海人皇子や源義経や芭蕉さんになって気分で歩いていましたよ(笑)。
 
こんな感じで山の中を歩き、里へ出てきたと思ったら、

「マンホール」見っけ!

 ※ 旧関町時代のものですが、シャクナゲ、キジ、シカ、周りはスギ。
この先に続く道の先には「沈下橋」…
この沈下橋の真ん中で見る風景、どこかで見た「こいのぼり」が見えます。
再掲写真→「こいのぼり」(猪之元橋)
渡り終えて本来の国道に出ます、もうそこは「加太駅」(9時10分ごろ到着)。
 
加太駅発車時刻は、9時23分。(まだそんな時間だったのね )
何せ、説明を聞きつつ、列車の時刻に間に合わせつつ、トイレ休憩も入れつつ、です。
ガイドさんの時間配分に感服いたします、素晴らしい案内をして頂き感謝です。
実は、まだまだその先も同行していただけるのです、うれしいこと

発車時刻まで駅界隈を
  
「加太宿説明」、手書きの「錫杖ヶ岳(シャクジョウガダケ)案内図」など。

では、向こうのホームでは「亀山行」、
ワタシは再び「柘植駅」に戻ります、何度乗ってもあの揺れ感サイコーです(笑)。
どんな坂、こんな坂にも負けずに走るディーゼル車スゴイです!


柘植駅到着、9時38分。
草津線の発車(10時)まで「柘植駅の鉄道遺産」の説明をしていただきます、
これがまた面白い

ではつづく
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「(略)柘植の郷ウォーキング」その2、三重県初柘植駅、レンガ塀、積殖の山口

2022-05-10 18:17:58 | 松尾芭蕉と横光利一のふるさとを訪ねるウォークイベント
「柘植の郷」を歩いて、その歴史に触れます。

(今回のウォーキングの正式名称は「松尾芭蕉と横光利一のふるさとを訪ねるウォークイベント」ですが、
スミマセン長いので「標題」ちょっと省略させていただきました)

先ず集合場所である「柘植駅」、実は「鉄道遺産」でもあり、
*①三重県内で最初に開業した駅」なのです。

ウォーキング前に説明をして頂きましたが、おおむねこんな感じ
・明治5年 新橋ー横浜間 鉄道走る
・当時、官営は東海道線ルートのみ
・開運拠点の四日市港と東海道線を結ぶためのルートが必要
・東海道線の名古屋へのルートには「木曽三川(サンセン)」の鉄橋工事が必要
・草津ルートが優先されるも「加太トンネル掘削」の難工事あり
幾多の難工事を経て(以下「柘植の昔ばなし」(柘植地区まちづくり協議会作成冊子)より)
・明治22/12/5 草津ー三雲間
明治23/2/19 三雲ー柘植間(=草津線全通)
・明治23/12/25 柘植ー四日市間
・明治28/11/7 草津ー名古屋間全通
・明治30/1/15 柘植ー上野間 

幼いころ乗っていた蒸気機関車で駆け抜けたその先の「加太トンネル」には、
想像を絶するスゴイ歴史が刻まれていたわけです。
 (再掲)
柘植の鉄道遺産
 ≪(前略)加太トンネルに使われたのと同じレンガフランス積みのホームや油庫(アブラコ)として現存。
  また俗称「マンボ」と呼ばれている線路下にある隧道や加太トンネルの旧排煙塔、
  大和街道沿いの旧柘植医院の塀などにも残っている※。≫

そして、
 ≪鉄道唱歌(関西・参宮・南海篇)→「汽笛一声 新橋を~~」のメロディーでどうぞ
  伊賀焼いずる佐那具の地 芭蕉うまれし柘植の駅
 線路左にわかるれば 迷わぬ道は草津まで  ≫

では、「柘植駅」を出発して、方角的には「名阪国道」もしくは「霊山」を目指す感じで進みます。
その途中に、
 「煉瓦塀」の名残と池

「旧大和街道」に入ると、いかにも街道らしい雰囲気が残る静かな通り。
(この道は🚙で通る場合「東方面への一方通行」です)
🚙で来ると行き過ぎてしまってじっくり見ることのできなかった「煉瓦塀」に出会う。
 
*②「加太トンネルの煉瓦」と同じ窯で焼かれた煉瓦です。
不良品ではあるけれど、それを上手に生かした昔の人たちの知恵と工夫をじっくり見せていただきました。
ここは、「旧柘植医院」前
 

この「刻印」は、教えてもらわないと気付くことが出来ません、
ほんとに小さな「刻印」ですが、「関西鉄道」の歴史を刻んだ証拠でもあるわけです。
 

さて、旧大和街道を途中で南へ曲がり、民家の中の細い道を進んで行き、
次なる目的地「積殖の山口?」を目指します。
この時、ワタシは何も理解していなかった…
  
道順を覚えるために撮った「橋」ですが、さて「平〇橋」としか読めない…

「あそこに見える山は何山ですか?」
 
旗山(ハタヤマ)』ですって、
そういえば、柘植駅前の看板には
 ≪標高649m> 山頂まで(柘植駅から)徒歩60分。油日岳へ続く稜線上にある北打山からの眺めは最高。
大阪のコメ相場をで伝えていたという≫
(さて、ワタシに登れるのだろうか??)

そのまま進むと三差路の「広場」のようなところに出ます、
*③積殖の山口】(ツミエ or ツムエ) 説明版、
壬申の乱 (672年)の際、大海人皇子(オオアマノオウジ後の天武天皇)が息子・高市皇子(タケチミコ)と逢った場所。
 日本書紀に記載されており、積殖は柘植を指す古い表記

内容を転記しておきます 
 ≪壬申の乱において、吉野で挙兵した大海人皇子は
  吉野から兵力を集めながら伊賀国を縦断し伊勢美濃へと進軍した。
  その様子を日本書紀は「会明(アケボノ)に莿萩野(タラノ・現在の荒木※1)に至る。
  暫く駕(ミユキ)を停(トド)めて進食(ミオシ)す。積殖(ツミエ)の山口に到りて、
  高市皇子鹿深(カフカ※2)山より越えて以て遇(マミア)ふへり」 と記している。
  「積殖の山口」の「積殖」とは古来から 近江・伊勢の交通の要所であった
  伊賀市柘植町のことであり、「積殖の山口」とはこの地にあたるといわれている。
    伊賀市教育委員会 ≫
 ※1「莿萩野(タラノ)とはどこですか?」と尋ねた方がおられ、
  「おそらく、現在の『荒木』のことだと思われます」とのことでした。)
 ※2「鹿深(カフカ)」は甲賀の古語、とのこと。

余野公園から奥余野公園への道には「壬申の乱古戦場」(you tube)もあります、
歴史ドラマを見ている気分になってきます、凄いな柘植!

急に視界が広がり目の前に「名阪国道の遮音壁」?
ここまで来たか! という驚きです(笑)。
「名阪国道」をくぐります、歩いて通るのは流石に初体験です。
  

どこかで見たことのあるような建物…
俳聖殿」を思い起こしたのはワタシだけか?
いや、「忍者」もいました。
 

「道の駅 いが」到着、いわゆるトイレ休憩ですね。
ここは「名阪国道下り伊賀SS」になります。
 
おっ、「赤福」、安場さんちの🍓、なんだか急に親しみが湧いてきました、
しかし、ここでお土産を買うわけにも行かず、日を改めて来ようと思います(笑)。
さぁここからスリルある道を行きます、
 
すぐ横で「名阪国道を走る🚙🚛」ビュンビュン飛ばしてます。
まさかこの道を歩けるの?という驚きと、この次はどこだっけ?

名阪国道の高架橋をくぐり「芭蕉公園&福地城跡」らしい、、、

スリリング道は、まだまだつづく
(2022/5/11 順路にミスあり修正しました)
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「余野公園」と「モッコ山」とその伝説。

2022-04-27 18:12:53 | 花や風景など
 
知っているようで何も知らずに、
「ツツジが綺麗に咲き出したらしい」とか、
 
ここには「デゴイチ(D51)があるから子どもたちは喜ぶだろうなぁ」とか、
 
何度も来ている、又は通っている伊賀と滋賀の県境の地。
草津線より北東方面や土山方面へ行くときによく通ります。
 余野公園案内図(パンフレットより)

余野公園(余野公園パンフレットより)
昭和43年(1968) 鈴鹿国定公園特別地域指定。
この公園は明治30年ごろから漸次整えられ、約8ha の面積がある。
園内には根元から多幹状に伸びるアカマツの大木や、
ヤマツツジ・モチツツジ・ミヤコツツジなどに代表される約1万5千本のツツジが
自生または植栽されており関西随一のツツジの名勝地。
 
また園内には前モッコ山・後モッコ山があり山を覆うように咲くツツジは見事です。
また桜をはじめ多数の花や樹木など四季折々が楽しめる自然公園である。
古代から余野公園は周辺の人々にとって「歌垣」の場所だったと云われてきた。
 空は広く、飛行機雲通る

余野公園のある場所は、
100万年前に隆起してできた「油日岳」(アブラヒダケ)を南端とした鈴鹿山脈
その三重県側の麓に位置しています。
 (再掲)
この余野公園から東へ林道を進むと奥余野公園へ。
林道途中には「壬申の乱古戦場跡」があり、
奥余野公園駐車場から鈴鹿山脈最南端の山々への登山ルートがあります。
「ゾロゾロ峠」を通るルートは「源義経木曽義仲追討の道」と言われています。

余野公園」の「巨人伝説/二つの『もっこ山』(余野公園パンフレットより)
(「風土記」 (8世紀) に書かれ、 他の地域にも各種伝説が残っているようです)
余野公園内にはほとんど似た形をした小山が50メートル程隔てて二つ並んでいる。
これが 「巨人伝説」 が伝わる「もっこ山」である。
昔、ダダボーシと呼ばれる無双の巨人がいて、毎日近江の地を掘って「もっこ」 に担い
駿河の地まで運んだが(これが琵琶湖と富士山の由来と云われる)、
最後の日あまり欲張って担ったため途中で休み 「もっこ」の網の目からこぼれたのが
この二つの小山だと云われている。
「もっこ山」の土質は周囲の黒土と異なり、
いかにも他所から運ばれたようであるのが不思議である。

  
写真は、上り道・頂上・下り道の順です…
前モッコ山へのツツジ道、頂上には「碑」が建立されています。
山全体ツツジ一色です。
※伝説とは別に、100万年前に噴火した溶岩や岩石が
 この「モッコ山」だったと思われ、一面に火山性軽石層が出来たのでは…と。
 ツツジ科は酸性の土を好むらしいので、この山の土壌と相性が良かった、とも言われています。

余野公園と松(余野公園パンフレットより)
余野公園の松は、 直幹性多行松で笠松状の樹冠など見事な様相は
近在になく、平成7年3月20日、 市指定天然記念物 (旧伊賀町) に指定。
また「みえの樹木100選『余野公園のアカマツ』」 (平成10年3月、 県農林水産部) にも選定 された。
しかし、当初は50本ほどの大木があったが年々減少。
公園 内では「後もっこ山」にあった松の根っ子を掘り出し、 保存している。
  
3本の松の根っこが絡み合って1本に見える

「モッコ山」、壮大な伝説なので読んでいて楽しいです、夢があります、
原文のまま掲載させていただきます~~
   **********
【モッコ山】のおはなし
むかしむかし、ずーっとむかしのことでした。 まだまだ
日本の国が生まれるか、生まれないかというせとぎわのときでした。
なんでもこのころは 、晴れた日が少なく、雨の日ばかりがつづいていました。
ある日のこと、日本の中ほどに大きな穴をほって、雨の水をためて、
大きな畑を作ってやろうという大男があらわれました。
伊賀の国をひとまたぎするほどの大男で、たいへん力持ちでした。
名をダダポーシといいました。
「ひとつ、日本のまん中に大きな湖をほって、雨の水をたくわえてやるぞ」
といいながらどんどん湖をほりだしました。
みるみるうちに大きな穴があいていきます。
ところがその土をどうしまつするか、はたとやり場にこまってしまいました。
そのとき、駿河の国から、美しいお姫さまがあらわれました。
「ダダボーシさん、ダダボーシさん、いったいこの土をどうしなさるのじゃ」
「うむ、土のやり場にこまっているのじゃ」
「それならば、わたしの国に小さい湖がたくさんあるので、
ひとつうめてくれませんか」
「ようし、 ようし」
とダダボーシは、大きなモッコ (土をいれて運ぶあみ)に土を入れ、
天びんぼうでかついで駿河の国へ運んでいきました。
毎日毎日、モッコで土を運んで行ったので、
駿河の国には大きな山ができあがりました。
駿河の国にできた山が富士の山で、富士山へ土を運ぶ途中、
モッコのあみの目からこぼれ落ちた土のかたまりが、
大きなモッコ山となりました。
また、ほったあなは琵琶湖になりました。

余野公園のモッコ山についての伝説です。とにかくモッコのあみの目からこぼれ落ちた土のかたまりが、あんなに大きな山を作ったのですから、ダダボーシはさぞ大きな男だった のでしょう。
   **********


最後にこの巨樹も「余野公園の歴史」を見守ってきたと思います。
エノキとツツジ。
 

2022/4/26現在、まだまだ蕾は多いです、
これからどんどん咲いてくると思います、是非どうぞ
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義仲追討途中、義経が駆け抜けた「伊賀の道」。

2022-04-25 16:29:50 | 神社仏閣など
「大河ドラマ」では絶対に出てこないシーン、
でも、昔の地図が一瞬映り「伊賀・大和」は確かに出てました…
4/24、夜放映のNHK大河「鎌倉殿の13人」を食い入るように見ていて、
「義仲追討の加太越えの道」の場面は出てこなかったけど、
きっと義経が「伊賀の山を越えた証の地図」だと勝手に合点
一人ニヤニヤ笑っていたのです…ここまでは昨夜の話。

では、時間を戻しまして、
伊賀の事を知るための研修を受けており、昨日は柘植地区へ。
柘植倉部(クラベ)地区に風の森社跡があることを知りました。
柘植の歴史などを知るために訪れたわけです。
義経が伊賀を通っていた」という「逸話」か「伝説」なりが
伊賀の三カ所に残っているということに驚きました。

では、そのお話の一つ…「柘植の場合」
源義経が木曽義仲追討の途中、戦勝祈願したと「源平盛衰記」に記されているそうです。
 源平争乱時代の寿永3年(元暦元年) 1184 年、伊勢平氏平定のため伊勢にいた義経は
 木曾義仲討伐の勅命をうけほとんど平定を終えていた伊勢から加太峠を越えました。≫
 (※参考登山ガイド図:余野公園・油日岳・ゾロゾロ峠・旗山

その加太越えの道の案内が「奥余野公園にありますので、
今日(4/25)訪問してきました。
 
余野公園」に🚙を駐車して、健康管理のため徒歩で
  

途中、「壬申の乱古戦場」があります。(詳しくは過去ログで
  下の河原辺りかと…
ここはあっさりと進みます。
余野公園を出発して約25分くらい、正面の視界が広がります。

少し先にトイレがあり、その前に
  
『源義経平氏討伐の道 1184年』(東海自然歩道にもなっていますが)と。
少しだけ覗いてみた山道、こんなもんではないはずですが、
ワタシは登れません、あしからず。


険しい「現・鈴鹿国定公園」の山の中、
加太から「ゾロゾロ峠」を経て柘植へ下りてきたと思われます。
山を下りてきた義経さんを癒したかもしれない風景です
  ウワミズザクラ

余野公園に戻って
 ツツジ咲き出しています…

そして、倉部川支流の「風の森橋」の辺りにある森で休んだと言われます。

それが風の森社跡(カゼノモリヤシロアト/柘植倉部)
民家の間を入らせていただきます(静かに~~)
  

 
遠い昔は「竹藪」ではなかったようです、
石碑には「風森神社」とありますので「社」があったはず。
この石碑のあるところに、実は立派な巨樹があったそうです。
言い伝えとして
「その昔、ここにあった大木を、お城の材にすると切り出そうとした役人に、
 鎮守の森の木を切ると祟りがあると年寄りが言ったそう。
 しかし、木は切られお城は建てられた。
 ところが、完成間近に台風(暴風雨)で倒壊したというお話がある」、、、とか。

「風の森社跡」を出て、北側に行ってみました。
 
「社」の後ろ側です、向こうを見れば高い山々はここからは見えません。
琵琶湖辺りから吹く風が大きな山に邪魔されることなく、
この地域を通るので、冬場は特に「伊賀の北海道」と言われる由縁かと。
「風の森」とは地形からきたのか、素敵な名前だと思いました。

さて、その先義経は、、、「新居の場合」
 ≪この地から南宮山を拝し新居まで来た時、 里の人に京へ向かう道を聞くと
 「首落滝」※から御斎峠を越えるのが一番近いと聞いたが、
 これから戦いに行くのに名前が縁起が悪いとして他の 道を聞くと、
 長田の射手神社の前から笠置に向かう道があると聞き、
 それは縁起が良い名前だ として射手神社に戦勝祈願をして笠置に向かったといわれる。
 伊賀平氏はこの時ほとんど源平合戦に参加せず、
 平氏一丸となった義仲追討軍十万の大軍の北陸の合戦にも参加せず、
 義経が加太越えて通過した時も傍観した。≫ 

(参考※「首落滝」のお話は過去ログをご参考に)       

そして、「長田の場合」、【射手神社】で
 ≪木曾義仲を討つため、宇治へ向かっていた源義経の一行が、
 戦いに勝つようにとお祈りをし、かぶら矢を奉納しています。≫(「観光三重」より
 

お勉強会だった4/24は雨でした、よって翌日再訪問してきましたので、
綺麗な明るい空気の中で写真が撮れました、ツツジも綺麗でした。
余野公園はまた改めて~~

ではまた
(間違いなどありましたら即、修正いたします)

2022/4/26追記
【ゆっくり解説】『源平盛衰記』より源義経と伊賀


情報をいただきました、分かり易くまとめられておりました…
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大山田歴史探索そこかしこ、合間の田園風景、そして「(鳳凰寺の)薬師寺」

2020-09-02 10:49:23 | つれづれ思うまま
皆さん
「ここは、タイヘンですよ!」
あれも見たい、これも見たいと欲を出すと、一日では終わりません。
ポイントを決めて行かないとダメです。
ワタシは欲深いおばさんなので、結局失敗します(勉強が浅すぎて) 、、、

取り急ぎは、秋の収穫シーズンになってしまったので、田んぼを追いかけるつもりが………

(振り返ると)「気になるところ行ってみた!」報告です(笑)。

以前 8/2 (奥余野公園・壬申の乱古戦場跡訪問記)にこんなことを書いてました、再掲しますが、
『(大山田の)【鳴塚古墳】の説明にそんな文言が書いてあったような…
壬申の乱の後、伊賀采女宅子は郷里の大山田へ帰り、
わが子・大友皇子の冥福を祈って鳳凰寺を建立したといわれ、
大友皇子は「植木神社」の祭神でもあるとか…
   』

鳳凰寺】と書いて、「ぼうじ」 と読みます。
気になってました…(ある意味、政治の道具でもあった悲しい女性のハナシ)
地元の方の説明では、鳳凰寺そのものは今は存在していないけれど、その昔
≪約1200年前、白鳳時代に鳳凰寺と称する大刹(たいさつ=大きなお寺)があった≫と。
そして、「日本書紀」に記されているのが上記の「宅子(やかこ)」さんのお話。
そこで【薬師寺】(所在地区名:鳳凰寺、ここがややこしいところ…)へ行きます。
   龍さんが居てくれました、嬉しい

   
≪当寺の伽藍が相当の規模であったことが礎石の配置によって想像される。
鳳凰寺はその後、天正伊賀の乱の兵火に焼き尽くされたが、慶長3年(1598年)、
清存法師が再興し、轟山薬師寺と改号、鳳凰寺は郷土名として今に残っている≫とのことでした。

薬師寺(鳳凰寺廃寺跡)
薬師寺の中に鳳凰寺の遺構がある…そして鳳凰寺は地区名でもある…謎が解けた気がする
   回転式「般若心経」
これがあれば、ワタシ タドタドシクテモ 唱エラレルカモ…
 薬師寺前に「とどろき館」

  鳳凰寺の里の田園風景

大山田地区は服部川沿い=伊賀街道=ほぼ現国道163号線に各集落が成り立っているところで、
それぞれに歴史の証拠たるものが残っている…ということを再確認しました。
翌日、出直しドライブです、本当は歩いて回りたいところですが、それは別の機会にとっておきます(笑)。

次は、三つ目の偉大なる古墳「辻堂古墳」(中村地区)へ~~
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余野公園~奥余野公園滝川沿いの【壬申の乱古戦場跡】など

2020-08-02 11:20:37 | つれづれ思うまま
春のツツジの季節に「余野公園」を訪れました。
その折に、この公園の奥にまだ公園があるらしい、と案内があったので後日調べていたら…
「伊賀の語り部」さんの記事を見つけ、
≪672年壬申の乱で積殖(つみえ・現在の伊賀町柘植)で大海人皇子の長男・高市(たけち)皇子と合流し
加太(かぶと)越えで鈴鹿の関付近に入り、その後、関が原で戦い、大津に押し寄せました。
そして落ちてきた大津勢が伊賀で天武天皇勢とぶつかり戦った。
その待ち伏せしたであろう川淵が「壬申の乱古戦場」≫がある、そしてその奥に「奥余野公園」があるとのこと。
 
それが、どうもココらへんらしい……と、下書きを綴ったまま2か月余も過ぎてしまった、その古い記憶を呼び起こし書いています。
(いろんな資料を見ていると、おおよそこんなコースだったのか?と思われます…)
Google mapでは余野公園から先の道は心細い限り、こういう道は大概「林道」ですね
   ←車は止められます

川沿いなのでココも綺麗な渓流で、きっと見た目涼しかろうと思います…

200524 【壬申の乱古戦場址】の清流

足元が不安定だったのでちょっとおどおどしてますけど、そこはご愛敬で(笑)
  古戦場跡らしき…

確か、歴史で習った記憶があるのですが、(日本史は苦手という先入観から)あまり詳しく覚えていない。
「壬申の乱」??と伊賀が関係していたのか??という流れも知らなかったのです。
(たまたま、余野公園の奥にこんなところがあると知ってしまったので、深みにはまってしまった感じ…)

【奥余野公園】

駐車場です、「stay home」真っ最中の時期でしたが、この車でした、ワタシもそのうちの一台
    トイレも完備

  源義経も通っていたのか…

 山登りの案内
ここら辺の山はかなり険しそうです、登山帰りの人にお尋ねすると…
「霊山」は初歩やね、ここらの山はそれなりの覚悟で登った方がいい!と言われました

話は戻りますが、
壬申の乱登場人物として、「中大兄皇子(=天智天皇)」がいて、
その弟が「大海人皇子(=天武天皇)」。

そこに、「大友皇子(=弘文天皇)」の名前が出て来て…
いろいろWeb情報を読んでいると、
天智天皇の采女(うねめ=日本の朝廷で、天皇や皇后に近侍し、食事など身の回りの庶事を専門に行う女官のこと)。
=「伊賀采女宅子(いがのうねめ やかこ)」であった…
そして、その二人の間にできた子が「大友皇子(=引文天皇)」である…(彼は壬申の乱後25歳で自害)


「伊賀の宅子」、どっかで聞いたことがあるなぁ~~と、
振り返ると(大山田の)【鳴塚古墳】の説明にそんな文言が書いてあったような…
壬申の乱の後、伊賀采女宅子は郷里の大山田へ帰り、
わが子・大友皇子の冥福を祈って鳳凰寺を建立したといわれ、
大友皇子は「植木神社」の祭神でもあるとか…
  

そして、この戦に勝利した「中大兄皇子」は天皇主権のための新しい都・飛鳥に【藤原京】の建設準備を進める…
(なんと、春に「菜の花と桜」を見に行ったところ!)
   
(季節外れになっちゃいましたが、来年のために~~)
今頃なんなんですが、歴史は繋がっていたんだぁ~~という一人感動(笑)。

但しこの時代、誰も生きてませんし、見たこともないことなので、
何が正しくて何が間違いなのかは測り知れません、あしからず、、、
ただわかるのは、伊賀の歴史は古いなということと、
山々に囲まれた秘境の地なので、どこへ行くにも峠越えなくしては…ということでしょうか。

長くなってしまいました…
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