大山田の知人宅に所用があって出かけた、
そうだ、ここら辺りきっと田植えも始まってるよね…
炊村の「寺音字古墳」(ジオンジコフン)の傍の水田が気になりました。
少し風が強かったのでさざ波に漂う稲の苗、
まだ儚げに見えるけどこの子らがお盆頃には立派な稲になるんだろうねぇ、
なんてことを思いながら風が止むのをしばらく待ってました。
いい感じに風もおさまってきたので…
クローバーと「寺音寺古墳」
スイバが手を差し伸べてるように見えました。
何か物思いにふけるような古墳と山並み
麦もここまで育っているんだ…早いねぇ
そういえば、
3年前には「菜の花と古墳」だったなぁと…
思い出にふけるワタシ。
同窓会まであと1週間切りました…
ではまた
そうだ、ここら辺りきっと田植えも始まってるよね…
炊村の「寺音字古墳」(ジオンジコフン)の傍の水田が気になりました。
少し風が強かったのでさざ波に漂う稲の苗、
まだ儚げに見えるけどこの子らがお盆頃には立派な稲になるんだろうねぇ、
なんてことを思いながら風が止むのをしばらく待ってました。
いい感じに風もおさまってきたので…
クローバーと「寺音寺古墳」
スイバが手を差し伸べてるように見えました。
何か物思いにふけるような古墳と山並み
麦もここまで育っているんだ…早いねぇ
そういえば、
3年前には「菜の花と古墳」だったなぁと…
思い出にふけるワタシ。
同窓会まであと1週間切りました…
ではまた
「紀伊」という列車に乗ったことはないのですが、ひょっとしたらあの機関車の音は聞いていたかもしれません。
寝台車の「大和」に乗って東京へ連れて行ってもらった記憶も蘇りました、確か三段ベッドだった…
ハハの妹に連れられ、東京オリンピック後の各会場を巡る「はとバス」で東京見物してました(笑)。
そして、オバが「東京(確か小金井辺りだった記憶)は畑で稲を作るんだよ」って、意味も分からず「ふ~ん」って答えたワタシでした。
それ以降は、名古屋まで出て「新幹線」または🚙。
未だに一人で東京へは行けません💦
新幹線が出来てからも、近年でいう名阪と東名経由の夜行高速バスのようなニーズがあったのではと思います。
伊賀上野経由の夜行列車は、急行「紀伊」号 東京行が1972(昭和47)年の札幌オリンピックの翌月まで、
亀山経由では、いわゆるブルートレインの寝台特急「紀伊」が1984(昭和59)年2月まででした。
就職して間もない頃の友人が東京出張の際に亀山から乗ったそうです。
その写真を見て思い出しました。
昔、父の実家は亀山の下庄というところで、本屋の裏の数メートル先には紀勢本線が通っていて、蒸気機関車はしょっちゅう走っていました。
汽笛の音、ガッタンゴットンと聞きなれない音、
おまけに周りは田んぼだらけ、当然かえるの合掌は蒸気機関車のバックミュージックでした。
なんと賑やかなことだったか、それでも寝ていた記憶が蘇りました。
昭和30年代の話、夜行列車もあったんでしょうか?
危うい記憶です…
当家の隣にも田ぁがあり、🐸かえるの大合唱🐸で寝付けない日々が続いていまして。
(阿波の「あわてんぼう(阿波展望)」さんのお弁当を時々頼んでいるので、知人宅まで取りに行ってます)
昔は、知人宅からも良く見えていた古墳だそうですが、今はもう見えなくなったとか…
その代わりに、ワタシが四季折々見に行ってます(笑)。
大山田も歴史の宝庫です、大好きなんです。
dawnさん、いつもありがとうございます。
同窓会が終わったらゆっくりblog訪問いたしますね、今は駆け足訪問でごめんなさい。
弘文天皇の母、伊賀采女宅子娘の出身地である大山田ですから、豪族が多くいて、いくつも古墳が作られたのでしょうね。