shimaの趣味的生活 -since2006- 人はパンのみに生きるにあらず

会津紀行

先日、久々の家族旅行で会津へ行ってきました。

東北道、磐越道を経由して会津若松に入り、初日は宿泊先の芦ノ牧温泉近辺の散策。

二日目は、大内宿を経て会津若松市内の旧跡を廻り東山温泉に宿泊。

以下、その概要です。


その昔、会津と日光を結ぶ会津西街道の宿場町として栄えた大内宿。
既に秋の気配でした。



うるち米を丸めて甘い味噌を塗り炭火で焼いた「しんごろう」。
旨かったですよ~。



会津若松市内の阿弥陀寺に建つ新撰組/斉藤一の墓。





鶴ヶ城に程近い、会津戦争終結の地。



鶴ヶ城天守閣。(1965年に再建されたものです。)



天守閣の最上階から見た会津若松市内。



見廻組、佐々木只三郎の墓。





天寧寺への参道。
鬱蒼とした森に蔽われ、人里離れたこの地に新撰組/近藤勇の墓(首塚)が在りました。



当時、会津に駐留していた新撰組副長土方歳三により建立されたとも云われています。
昨年のNHK/正月時代劇で斉藤一が容保公の命により近藤の首を奪いこの地に埋葬するシーンは、↓の逸話を題材にしたようですね。





函館で戦死した盟友土方歳三の慰霊碑が近藤を守るように建っていました。




飯盛山に在る白虎隊の墓にもお参りしてきましたが、悲惨な事実に圧倒されたせいかカメラのシャッターを切る事を忘れてしまっていました・・・。

二泊三日の短い旅程でしたが、会津の人々の節義の心に少しでも触れられたとしたら幸いです・・・。

コメント一覧

shima
http://angel.ap.teacup.com/shima/
☆杉さん

>会津の人々はさぞ辛かった事でしょう・・・

そうですね・・・。
京都守護といういわば天皇を守る仕事をしたにも拘わらずこの仕打ちですからね。

この処置は会津の人々の心底に新政府軍側諸藩(いわゆる薩長土など)に対する遺恨を残すことになったようです。

☆jun2さん

>西南戦争では逆に政府軍として

ある意味、西南戦争では多くの会津人が薩摩の巨魁である西郷隆盛への恨みを晴らす為に政府軍に志願したともいわれています。

さらに近年では以下のようなエピソードがあったようです。

昭和61年(1986年)に長州藩の城下町である萩市が会津若松市に対して、「もう120年も経ったので・・・」と会津戦争の和解と友好都市締結を申し入れましたが、会津若松市側は「”まだ”120年しか経っていない」とこれを拒絶したそうです。
jun2
この時の会津藩士は、下北半島の開拓を目指し(寒さの辛い地です)、西南戦争では逆に政府軍として、薩摩軍に勇猛果敢に戦ったそうです。
杉さん
http://sky.ap.teacup.com/sugisan/
>城の内外で倒れた二千余柱の遺体は・・・・

そんなことがあったんですね。
会津の人々はさぞ辛かった事でしょう・・・
いつかは行ってみたいです。
shima
http://angel.ap.teacup.com/shima/
話には聞いていましたが、戊辰戦争後の会津に対する薩長の処遇の理不尽さは、かなり酷かったようですね。

城の内外で倒れた二千余柱の遺体は、会津開城後も賊軍という汚名のもとに埋葬することも許されず、約2年間腐食するがままに放置されていたそうです。

古今東西、こんな事例は無いと思います。
死んだら敵も味方もないはずですが・・・。
jun2
武士の魂の地、会津、良い所ですね。
是非、一度訪れたいものです。
家族旅行も良いですね。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「outdoor」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事